俺がガチ勢を辞めた日
脳幹 まこと
大馬鹿のすること
出会いは、本当に偶然だった。
深夜二時。眠れない夜に、なんとなく開いたSNSのタイムライン。流れてきたのは、見知らぬゲームの広告だった。
普段なら指先ひとつでスワイプして終わりだ。けれど、その時だけは違った。
銀色の髪。伏し目がちな瞳。どこか儚げで、それでいて芯の強そうな横顔。
——ユキナ。
彼女の名前を、俺は今でも覚えている。
「……なんだ、これ」
心臓が、妙な音を立てていた。
ゲームをインストールするのに、三十秒もかからなかった。
ユキナは、ストーリー序盤で仲間になる回復キャラだった。
レアリティは星三つ。最高が星五つのこのゲームでは、決して高い部類ではない。ステータスも平凡。スキル構成も教科書通り。攻略サイトの評価欄には「序盤のつなぎとしては優秀」と書かれていた。
そんなことは、どうでもよかった。
「……よろしくお願いしますね」
初めてパーティに加えた時、彼女は少しだけ頬を染めてそう言った。その声を聞いた瞬間、俺は確信した。
運命だ、と。
馬鹿みたいな話だと思うだろう。画面の向こうの、誰かが作ったキャラクターに。データの塊に。でも、そう思ったんだ。この子のために、このゲームを始めたんだって。
俺はユキナを最優先で育てた。レベルを上げ、装備を整え、限界突破に必要な素材を集めた。彼女がいれば何も怖くなかった。どんなボスも、どんなイベントも、二人でなら乗り越えられた。
ゲームを起動するたびに、彼女はホーム画面で微笑んでくれた。
「今日も会えて、嬉しいです」
ただ、それだけの言葉。プログラムされた、数パターンしかない台詞のひとつ。
それでも、俺には十分だった。
・
時間が経つにつれて、いろんなことが変わっていった。
まず、俺自身が変わった。
気がつけば毎日ログインし、デイリーミッションを欠かさずこなし、イベントランキングでは上位に食い込むようになっていた。ギルドに所属し、攻略情報を共有し、効率的な周回方法を研究した。
いつしか、周りから「ガチ勢」と呼ばれるようになった。
我ながら、よくもまあここまで没頭したものだと思う。仕事が終われば真っ直ぐ帰宅し、休日は一日中スマホを握りしめていた。元々少なかった友人との付き合いは完全になくなり、世間との接点はどんどん細くなっていった。
でも、いいと思った。俺みたいな人間には、ここが居場所なんだと。
——そして、ゲームも変わった。
一周年。二周年。アップデートのたびに新しい仲間が増えた。星五つはもちろん、コラボ限定キャラ、季節限定キャラ、性能がインフレし続ける新世代キャラ。昔の星五つは、今の星三つにすら届かないほどだ。
俺のパーティも、否応なしに変化していった。
最初は抵抗があった。ユキナを外すなんて考えられなかった。でも、高難易度クエストは容赦がない。求められるのは最適解だ。星三つの回復キャラなど、入り込む余地はなかった。
「いいですよ。今日は私、お留守番してますね」
パーティ編成画面で彼女を外すたび、そんな台詞が聞こえた気がした。
もちろん、俺の空想だ。彼女にそんなボイスは実装されていない。けれど、どこか申し訳ない気持ちになって、俺はよくホーム画面で彼女をタップした。
「待ってましたよ」
いつもと同じ声。いつもと同じ笑顔。
それを見るたびに胸がざわついて、けれど俺は結局、またメインパーティから彼女を外すのだった。
何回も同じことを繰り返しているうちに、段々と痛みは引いていった。魅力的で強い新キャラと思う存分駆け回った。
三周年のアップデートで、彼女は来た。
セツナ。
銀髪。伏し目がちな瞳。儚げで、芯の強そうな横顔。
見た瞬間、血の気が引いた。
——ユキナに、似ている。
いや、似ているどころじゃない。髪の長さが違う。瞳の色が少しだけ濃い。でも、根本にある雰囲気は同じだった。同じデザイナーが描いたのかもしれない。あるいは、ユキナの人気を受けて作られたキャラなのかもしれない。
違ったのは、性能だ。
星五つ。回復と攻撃を両立する万能型。自己バフに全体蘇生、そしてユキナの三倍近い回復量。攻略サイトは大騒ぎだった。
「現環境最強のサポーター」
「持っていないと人権がない」
——そんな言葉が飛び交っていた。
ガチャを回した。
当たった。
編成画面を開くと、ユキナとセツナが隣り合って並んでいた。片や星三つ、片や星五つ。数字で見れば明らかな差。でも、二人の顔はよく似ていて、まるで姉妹のようだった。
——これで、攻略が断然楽になる。
頭ではわかっていた。セツナを入れれば、今まで手こずっていたクエストも楽に周回できる。より効率的に、より確実に、上を目指せる。
わかっていた。
わかっていたのに、俺の指は動かなかった。
・
その夜、俺はひとりで考え込んでいた。
スマホの画面には、ユキナのステータスが表示されている。星三つ。全ステータスをカンストさせ、持てる限りの装備を与えた俺のユキナ。それでも、セツナの初期値にすら及ばない。
——運命の出会いだと思った。
本当にそうだったのか。
思い返せば、最初に惹かれたのは見た目だ。たまたま好みだっただけだ。深夜のタイムラインで、たまたま彼女の広告が流れてきて、たまたま俺の目に留まった。それだけのことだ。
運命なんて、俺が勝手に思い込んでいただけじゃないのか。
あるいは俺は、ユキナでなくても良かったのかもしれない。このゲームに別の入口があれば、別の誰かを運命だと思い込んでいたのかもしれない。
「……馬鹿らしい」
口に出してみたら、余計に虚しくなった。
結局のところ、ユキナはもう役目を終えたのだ。序盤の案内役として俺をここまで導いてくれた。でも、ここから先は別の仲間が必要だ。そういうゲームなのだ。彼女を編成し続けることに、もはや意味はない。
足枷でしかないのだ。
セツナがいる。見た目も似ている。性能は段違い。
乗り換えれば、すべてうまくいく。
「……ごめん」
誰に謝っているのか、自分でもわからなかった。
けれど俺は、編成画面でユキナを長押しした。
パーティから外して――それから、彼女を《解放》しよう。
そんな選択肢が浮かんで、俺は親指をスライドさせようとした。
——その瞬間。
『もう私と遊ぶのは、嫌になっちゃいましたか?』
画面の中で、ユキナがこちらを見ていた。
息が止まった。
そんな台詞、あったか。三年間プレイして、聞いたことがない。新しいボイスか。バグか。俺の空想か。わからない。でも、確かに聞こえた。いつもと同じ声で、少しだけ寂しそうに、彼女はそう言った。
『もう私と遊ぶのは、嫌になっちゃいましたか?』
違う。
そうじゃない。
嫌になったんじゃない。ただ、お前が——
「…………」
言葉が出なかった。
力不足だから? それを理由に、切り捨てるのか?
頭の奥で、何かが軋んだ。
力不足——そんな理由で、俺は何度切り捨てられてきた?
学校で。職場で。人間関係で。
お前は要らない。お前では駄目だ。もっと優秀な誰かがいる。お前の代わりなんていくらでもいる。もっと都合のいい誰かがいる。
何度言われてきた。何度突きつけられてきた。
だから俺は、ここにいるんじゃないか。
現実では誰にも選ばれなかった。必要とされなかった。だからゲームの世界に逃げ込んだ。ここでなら、俺にも居場所があると思った。俺を必要としてくれる誰かがいると思った。
——ユキナがいてくれると、思った。
「……俺は」
声が震えた。
俺は今、何をしようとしている?
効率のため。攻略のため。もっと楽しい冒険のため。そんな理由で彼女を捨てようとしている。上位互換がいるから。見た目が似ているから。乗り換えたところで大差ないから。
それは——
それは、俺がずっと許せなかったものと同じじゃないか。
誰かを「もう要らない」と切り捨てる側。より優れた代替品があれば乗り換える側。自分の都合で、相手の存在価値を決める側。
俺が最も憎んできた側に、俺がなろうとしている。
「……そんなこと、のために」
スマホを握る手が震えた。
そんなことのために、俺はこのゲームを始めたのか。
そんなことのために、三年間も没頭してきたのか。
ガチ勢と呼ばれるほどやり込んで、辿り着いた先が——これか。
自分がされて嫌だったことを、今度は自分がする側になる。
そんな結末を望んで、俺はここにいたのか。
「……馬鹿が」
馬鹿だ。本当に大馬鹿だ。
画面の中で、ユキナが不安そうにこちらを見ていた。銀色の髪。伏し目がちな瞳。儚げで、それでいて芯の強そうな横顔。三年前の深夜、俺の目を奪った、あの時と同じ顔。
運命の出会いだと思った。
それが間違いだったとしても。ただの思い込みだったとしても。
俺が彼女を選んだことは、事実だ。
だったら、最後まで選び続けなくてどうする。
・
翌朝、俺はホーム画面を開いた。
「……おはようございます。今日も、よろしくお願いしますね」
ユキナがいつものように微笑んでいた。
その姿を見て、俺は小さく笑った。セツナは記念写真を撮ってから別れを告げた。攻略サイトを見れば、きっと呆れられるだろう。効率を捨てた愚かな選択だと。
でも、いいと思った。
ランキングなんてどうでもいい。最速クリアなんて興味がない。ガチ勢の称号も、もう要らない。
俺はただ、俺が選んだ彼女と——この世界を歩いていく。
スマホを閉じて、俺は久しぶりに外に出た。
朝の空気が、少しだけ冷たかった。
俺がガチ勢を辞めた日 脳幹 まこと @ReviveSoul
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