膝の上に猫がきます

ono

膝の上に猫がきます

 冬の午後、窓から射し込む日差しはか細く弱々しい。古びたフローリングの上に光の帯が舞い散る埃を照らし出していた。

 私の生活を支えてくれる静かな居間だ。長く使っている置き時計のリズミカルな音と、遠くを走る車の走行音だけが微かに聞こえる、心地よい静寂。

 私は愛用の安楽椅子に深く体を沈めて、読みかけの文庫本を開いていた。どこからともなくチリンと軽やかな鈴の音が鳴る。聞き慣れたその音はこの部屋の空気を壊すことなく耳に馴染む。

「ああ、来たんだね」


 視線を落とすと、飼い猫のミイが私の足元に座ってこちらを見上げていた。真っ白な毛並みに琥珀色の瞳。ぱたぱたと揺れる尻尾が、揃えた前足を隠すように巻きつく。

 ミイは「なぁ」と短く何かを訴えかけ、すぐに私の膝へと飛び乗ってきた。

 ほとんど分からないほどの密かな着地の感触と、ずしりとした確かなミイの重みが太ももにかかる。

 ミイは私の膝の上でくるくると回ってから、彼女にとって一番収まりの良い場所を見つけて座り込んだ。満足そうに喉をぐうぐうと鳴らして目を閉じる。


 猫を飼っている人間にとっては至福の瞬間だった。温かくて、柔らかくて、少しだけ重い。この重みこそが愛されている証なのだ。

「よしよし、今日は甘えん坊だねえ。今日も、かな」

 ミイは気持ちよさそうに目を細めて私の腹に前足を押しつける。子猫の頃のようにふみふみとリズミカルに足踏みをして、私の腹の匂いを嗅いでいる。爪がセーター越しに食い込むけれど、それさえも愛おしい痛みだった。

 私の腹部に顔を埋めるように、ミイは寛いでいる。


 しばらく好きなようにさせていたら、だんだんと足が痺れてくるような気がした。

 猫飼いの間ではよくあることだ。「猫が膝に乗っているから動けない」というのは、世界で最も幸せな怠惰の言い訳だった。

 痺れを解消するために少し体勢を変えようとしたが、ミイの不満げな「ウゥン」という唸り声を聞いて諦める。

「分かった、分かったよ。動きませんよ」

 私の行動の是非を取り決めるのは、私ではなく彼女なのだ。


 本を読むのをやめ、ただ膝の上の温もりを感じることに集中する。

 窓の外では瞬く間に日が傾き、部屋の中が茜色に染まっていく。今の時期はすぐに暗くなるのだろう。その前に明かりを強くしなければと思い、そもそも昨夜の時点で消し忘れていたことに気づいた。

 立ち上がらずとも部屋が明るいならば、忘れて得をした。そう考えるのが年寄りの知恵だ。


 それにしても、今日のミイはいつもより重く感じる。冬になって脂肪を蓄えたせいか、それともただ私が歳をとって足腰が弱ったせいか。まるで鉛の塊でも乗せているかのように、もはや足の感覚は完全に麻痺してしまった。

「なあ、ミイ。そろそろ降りてくれないかい。あるいはちょっとダイエットをしなさい」

 冗談めかして言ってたが、ミイは気を悪くした様子もなかった。いつもなら私の言うことを理解して怒ってみせるのに。むしろ、さらに体重を預けてくるようだった。

 喉を鳴らすぐうぐうという音も、何やら普段と違って低く、腹の底に響くような振動に変わっていた。


「なんだか喉が渇いたなあ」

 気づかぬうちに眠っていたのかもしれない。お茶でも淹れようか。そう思ってミイを抱き上げようと手を伸ばす。

 しかし、手が動かない。痺れた足どころか、指先までぴくりともしなかった。あれ、と首を傾げたくても、首すら動かせない。

 ただ視線は動かすことができた。いや、実際には動いていなかったのだろうか。ただそこにあるものが映っているような気がしていただけで。

 私の膝の上で丸くなる白い猫。世界で一番愛らしい、私のミイ。長年連れ添った彼女の姿。

 その下にある私の足は、奇妙な緑に変色して異様に膨れ上がり、口から流れ出した血液と思しき赤がどす黒く乾いていた。


 ああ、そうだ。思い出した。


 一週間前の朝、顔を洗うために自室を出た私は階段を踏み外して転落した。立ち上がることができずに這ってここまで辿り着き、やっとの思いでこの安楽椅子に深く腰かけたのだ。そしてそのまま動かなくなった。

 背骨をやったのか、内臓をやったのかは分からない。ただ全身をひきちぎろうとするような痛みを上書きする強烈な眠気が襲ってきて、そのまま意識が消え失せたのだった。

 足を痺れさせる膝の重み。それはミイの体重などではなかった。壊死して感覚を失った私の下半身に、腐敗によるガスで膨張した腹部が鉛のように重くのしかかっていたのだ。

 では膝の上にあるこの温かさは何だ? この心地よくも腹に響く低い音は?


 ミイと目が合った。琥珀色の瞳が確かに私を見つめている。

 彼女は私の膝の上に乗って、私の膨れ上がった太ももの肉に爪を立て、肉食の獣の鋭い牙で私の腐肉を貪っていたのだ。

 ぐうぐうという音は彼女が喉を鳴らす音ではなく、その喉の奥へと私の肉を嚥下する音、肉を噛みちぎりながら満足げにあげる低い唸り声だった。

「なぁー」

 口の周りを真っ赤に染めて満足そうに一鳴きする。その声はかつて私に向けられた声と同じ甘やかな響きを持っていた。


 温かい。私の体はもう冷え切っているのに、膝の上だけが生々しい熱を持っている。己の体が咀嚼されている光景は私に安堵をもたらした。

 よかった。この肉のおかげで猫が餓えずに済む。猫を飼っている人間にとっては至福の瞬間だった。

 この重みこそが愛している証なのだ。

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