誰からも怒られない素晴らしい世界

ツキシロ

誰からも怒られない素晴らしい世界

「このクズ野郎!こんなこともできねえのか!」


スーツの男は怒鳴り散らした。VRゴーグルのような機械を装着した男に向かって。科学者も、彼に声をかけた。


「……今、彼は何と言っていましたか?」


VRゴーグルをかけた男は、きょとんとした声色で返答した。


「え、相手の人って今何か言っていましたか?」


「あなたは、怒られたことに気づかなかったのですか?」


「はい」


科学者の口元に笑みがこぼれた。


「……実験成功だ!」


こうして、他人の「怒り」を見えなくするデバイスが誕生した。


デバイスを通して見える外の世界は、一見すると何ら変わりない映像と音声だが、他者が怒りをあらわにした時だけ、言葉や声色、表情などが自動的に調整される。


こうすることで、どれだけ怒鳴られようと、コンピュータが遮断してくれるので、「人から怒られる」という経験を一切せずに済むようになる。


瞬く間にデバイスは普及し、「怒りのない世界」が実現した。誰だって怒られるのは嫌なのだ。


職場でも学校でも、時には家でもVRゴーグルをつけている様子は異様だったが、時が過ぎれば案外慣れるものだった。


アマミヤもまた、職場でこのデバイスを着用していた。


「いやあ、ホントすみません」


「次からは気をつけてくださいね」


上司は、穏やかな表情でそう語った。


「分かりました、気をつけます!」


「……」


「……どうなさいましたか?」


「……。……プロジェクトのこともありますし。……。あなたの将来のことも心配しているんです。本当、頼みますね」


上司の発言には、ときおり不自然な間があった。それに、この指摘が最近だんだん長引いてきていた。上司が、アマミヤの同僚を呼んだ。


「イマイくん、アマミヤくんのこと頼みます」


「え~、……。しょうがないですね」


「そこを何とか、隣の席なんですし」


「……。わかりました」


ある日突然、事件は起こった。


アマミヤがいつものように上司に呼ばれ、立ち上がった。


上司は穏やかな顔のまま、アマミヤの顔を全力で殴りつけた。


「うわっ!」


殴られたはずみでアマミヤは吹っ飛び、デバイスが外れる。ひびの入ったデバイスは、カシャンと音を立てて壊れてしまった。


上司はアマミヤの胸ぐらにつかみかかった。


「アマミヤこの野郎!お前どんだけ俺に迷惑かければ気が済むんだ!!」


アマミヤは目をぱちくりさせて、状況が飲み込めていないようだった。


「お前がやらかしてくれたおかげで、プロジェクトは全部パーだ!俺の出世はどうしてくれるんだよ!!いくら殴っても気が済まねえ!!」


「うぐっ……!」


アマミヤに二発目、三発目が飛び、蹴りも何度か入れられた。周囲がようやく異変に気づき、上司は取り押さえられた。


その日から、アマミヤは上司の激怒がトラウマとなり、職場に顔を見せなくなった。上司は左遷された。


この暴行事件が公にされると、世の人々はある気づきを得た。


「言葉で言っても伝わらないなら、殴った方が早い」


その日から、人々は殴り合うようになった。職場でも学校でも、時には家でも殴り合う様子は異様そのものだった。




ある日。政府の役人たちが、殴り合いで腫らした顔を突き合わせて会議を始めた。


「暴力の横行に対する、緊急対策会議を始める」


様々な案が出た。


デバイスを改良する。


アンガーマネジメント教育を行う。


刑罰の強化。


いっそ、デバイスを撤廃する。


議論は紛糾し、しばしば殴り合いになった。


会議が煮詰まり始めた終盤、ひとりの高官が立ち上がった。


「実は、最終手段だと思って、とっておいた案がある」


いっせいに会議室の視線が集まる。高官は続ける。


「そもそも、体があるから暴力が生まれるのではないか?」


周囲がざわついた。


「確かにそうだ」


「でも、だから何だっていうんだ?」


高官が、プロジェクターで資料を投影した。


そこには、水槽に浮かぶ脳みその絵が描かれていた。


「人間が脳だけになれば、そもそも殴り合いは起きない。我々に手足があるからいけないのだ」


一瞬の沈黙ののち、様々な反応が起こった。


「体を捨てろっていうのか?」


「でも、確かにこうするしかない……のか?」


「意外と悪くないのかもしれない」




数十年後。アマミヤや上司の脳みそは、静かに水槽に浮いていた。もはや殴り合いは起きないし、誰かから向けられる怒りに震えることもないのだ。

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誰からも怒られない素晴らしい世界 ツキシロ @tsuki902

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