異世界に行ってみたら、思いがけず恋に落ちかけた話

ほしわた

第1話 異世界に行ってみたら、思いがけず恋に落ちかけた話

チャイムが鳴り終わって、教室のざわめきが薄くなる。

窓の外はオレンジ色。ちょっと泣きそうなくらい綺麗な夕焼け。


「で? なんで既読スルーなんですか遥斗くん?」


カバンを肩にかけながら、あえて軽い声で言う。

実際は軽くなんかない。二時間くらいモヤモヤしてる。

てか二時間って普通に期末の勉強一コマ分なんだけど。なんで彼氏の返信待ちで授業一個分メンタル使ってんの私。


「スルーしてねーし。返したつもりだったんだよ」


「“つもり”は通知来ないの。知ってる?」


「はいはい、また始まった」


その気遣いゼロの返し。ほんと腹立つ。

でも、ちょっとだけ安心してる自分がいるのがもっと腹立つ。


昇降口へ向かう階段は混んでいて、

運動部の掛け声やビニール袋の音が、放課後の雑音になっていた。


その中でも、遥斗の声だけはすぐわかる。聞き慣れてるから。……ムカつくけど。

こういうときだけ探知能力みたいなの発動するのほんと意味不明。便利でも嬉しくもないのに。


「てかお前の方こそさ、昼休みなんで俺避けてた?」


「避けてないし」


「机ごと移動してたじゃん」


「たまたま」


「たまたまが毎日続くわけねーだろ」


言い返そうとした瞬間、夕陽が差し込んだ横顔が目に入った。


……ずるくない?

オレンジの光で髪がふわっと光ってて、いつもより少し大人っぽい。


胸の奥がきゅっとして、余計に口が尖る。

なんで今日に限って光源の味方してんの。ドラマ撮影か何かなの?


「ほんとさ、そういうとこ無神経なんだよ」


「は? どのへんが」


「全部!」


階段を降りながら、つい後ろを振り返る。

一段か二段上にいる遥斗が、頭のすぐ上から見下ろす位置にいた。


「……映画のこと、まだ怒ってんの?」


さっきより低い、真剣な声。


「怒ってないけど?」


「じゃあその眉間のシワはなんなんだよ」


「これは……疲れ顔!」


「嘘つけ」


ため息をついた遥斗が、私のすぐ後ろまで降りてくる。

そのとき、額にふっと何かが触れた。


「え?」


「髪、はねてんぞ。ほら」


指先があたたかい。心臓が、一段踏み外したみたいに跳ねた。

いや、これ絶対バランス崩したんじゃなくて心臓が勝手に落ちたよね。やめてほしい。


「な、何勝手に触ってんの?」


「気になったからに決まってんだろ。……お前、すぐ赤くなるよな」


「は!? 赤くないし! 触るな!」


「いや、もう触ってねーし」


ムカつく。ムカつくのに、その距離の近さがどこか嬉しい自分がもっとムカつく。


「……ったく。お前ってほんと扱いづらいよな」


「それこっちのセリフ!」


カバンを持ち直して、一段飛ばしで階段を降りようとして──


足が、空を踏んだ。


「あ──」


ふわっと体が浮く感覚。

視界がぐるんと回って、音が遠ざかっていく。


……冷たい。


頬に触れてるのは、さっきのコンクリじゃない。湿った土の感触。


まつげが震え、木の葉の隙間から白っぽい光が揺れるのが見えた。


「……綾乃? 聞こえる?」


柔らかい声。耳の奥をなでるみたいに落ち着いた響きで、なぜか安心する。


「……え、颯真……?」


目がはっきりした瞬間、呼吸が止まった。


そこにいたのは、クラスメイトの颯真。

体育祭の応援団で女子に人気だった、あの爽やか男子。


その颯真が、私の横でしゃがみ込んで、心配そうに覗き込んでいた。


「よかった。気がついた。……すっごく危なかったんだよ?」


ほっと息をついて微笑む。

まつ毛長いし、笑うと雰囲気が柔らかくなる。ずるい。

なんで男子って急に優しいモード入ると顔面偏差値三割増しになるの。反則。


「な、なんで……ここ……?」


ここってどこ、の前に「ここ」が分からない。

周りは見たことのない森。薄い霧が揺れてて、空気の匂いすら違う。


「説明したいんだけど……まず、立てる?」


差し出された手の指が、少しだけ震えていた。


「え……あ、うん……」


掴んだ瞬間、温度が伝わって胸がぎゅっとなる。

この人、こんなに優しく触る人だったっけ。


起き上がると、肩をそっと支えてくれる。


「ごめん。怖かったよね。大丈夫、俺がいるから」


その「俺がいるから」が、ずるい。心臓がばくっと跳ねた。

こっちはまだ状況理解してないのに心臓だけ先に落ち着こうとしてるの何?


「ここ……どこ……? あたし階段から落ちて……」


「うん。そこまでは俺も見てたけど……」


視線を落として、ためらうように続ける。


「気づいたら、こうなってた。夢……なのかな。

でも、夢にしては痛みも匂いもリアルすぎるだろ?」


そう言って、私の手をそっと包み込む。


「ほら、転んだとき擦りむいたとこ。しみるでしょ?」


「……っ、ちょ、冷たい……」


じん、と痛みが広がる。夢なら、こんな細かい痛みはない。


こわい──のに、颯真に触られていると、不安が一瞬だけ緩む。


「無理しなくていいよ。綾乃は強いけど、強がらなくても大丈夫」


「……そんな、強くなんかないし」


「俺は知ってるよ」


また心臓が跳ねた。なんなの、この優しさ。

遥斗とは、ぜんっぜん違う。


そのとき、足元の草がざわ、と揺れた。


「……今の音、なに?」


「……気づいた? やっぱり綾乃、感覚いいね」


颯真が立ち上がり、腰に下げていた細身の刃を抜く。

見慣れない銀色の武器が光った。


「綾乃、後ろに」


声が低くなる。さっきまでの柔らかさとは違う、“戦う人”の声。


霧の中から、影が複数にじみ出てきた。

黒い小さなシルエット。揺れる赤い目。


──なにあれ。人じゃない。


影小鬼スケルトレットだ。来るよ」


「ちょ、ちょっと待って!? スケ……何!?」


「大丈夫。ここは俺が守るから」


ぐいっと腕で庇うように引き寄せられる。

その腕の中に入った瞬間、胸の奥で何かがカチッと外れた。


怖いのに、ドキっとする。

現実感のなさより、彼の近さの方が強く感じるなんて、おかしいのに。


「綾乃、目を離さないで。絶対に守るから」


その声が、胸に焼きつく。

なんで“守る”って単語だけ異様に破壊力あるの。女子高生フィルターに刺さりすぎなんだけど。


颯真が一歩前へ出る。

学校で見るのとまるで違う横顔。目が鋭くて、呼吸は静かで、剣を構える姿が様になっている。


スケルトレットが一斉に飛びかかってきた。


次の瞬間──


「っ速……!」


風みたいに颯真が動く。

銀の刃が霧の中で光り、小鬼たちを次々に弾き飛ばす。


舞うみたいに滑らかで、一撃一撃が本気で重い。

いや待って、こんな戦闘シーン現実で見た記憶ないけど? 私どこでこの映像見せられてんの?


映画とかゲームの世界みたいなのに、土の感触も空気の匂いも全部リアルで──


「綾乃!」


「ひっ──!」


背後から回り込んだスケルトレットが爪を振りかざす。

反射的に腕を上げたけど、防げないって思った瞬間。


腰をぐいっと引き寄せられた。


「危ない!」


颯真の胸に抱き寄せられる形になって、息が止まる。


距離、近──っ。


耳元で聞こえる息が熱くて、心臓が破裂しそう。

ちょっと待って、物理的距離が近いと語彙力まで死ぬのなんで?


「綾乃、怪我してるんだから無茶しちゃダメ」


「む、無茶とか……今の反射だし……!」


「反射でも危ないよ。綾乃が傷つくの、見たくないんだ」


その言い方、優しすぎる。胸の奥をくすぐるみたいに響く。


ずるい。こういうとこ、ほんとずるい。


全部のスケルトレットを倒し終えると、森の霧が嘘みたいに静かになった。


颯真は剣を収め、静かに息を吐く。


「綾乃、大丈夫?」


「だ、大丈夫……」


本当は膝が笑っているのに、心配そうに覗き込まれると、つい意地を張ってしまう。

いや膝、今めちゃくちゃブルブル言ってるからね。黙って耐えてるだけだからね私。


「よかった……ほんとに、よかった……」


安堵の声が胸にしみた。


こんなふうに“心配される”の、久しぶりかもしれない。


遥斗は心配してくれても、すぐ怒鳴るし、素直に優しくなんてしない。


でも、颯真は──こんなに落ち着いてて、こんなに優しくて、こんなに“安心できる”。


心が揺れないわけ、ないじゃん。


霧の奥で、どすん、と空気の振動が走った。


「……今の、なに?」


「わからない。でも──」


颯真が、私の手首をそっと掴む。

あたたかくて、少しだけ震えていて──胸がきゅっとなる。


「綾乃のことは、絶対に俺が守るから」


「ま、守るとか……そんな、漫画じゃあるまいし……」


「漫画じゃないよ。ここは──現実だと、思う」


本当に現実なのか。夢に逃げたいのに、五感は全部“本物”で。


そして私は、颯真とのこの距離に、ほんの少し安心してしまっている。

いやいや落ち着け私。秒速で他男子に安心感じてる場合じゃないんだよ本当は。


「綾乃。行こう。安全な場所を探す」


そう言って、颯真は私の手を離さなかった。


その温度は、遥斗の荒っぽい手つきとはまったく違っていて──

胸の奥で、不安とトキメキが同時に揺れた。


「また……来るの?」


「いや、これはさっきとは違う。もっと重い気配だ」


颯真がそっと私を背中に隠した。

緊張しているはずなのに、不思議と落ち着いた横顔。


「綾乃。どんな相手でも、俺が守るから」


「ちょ、ちょっと……そういうの急に言わないでよ……心臓バクバクなんだけど……」


「それは、俺のせい?」


「知らないってば!」


本当は、少しだけ──颯真のせいだ。


地面を揺らす足音が近づく。

さっきの小鬼とは桁違いの重さ。


「っ……颯真、今の……人じゃないよね?」


「うん。もっと大きい。綾乃、後ろに」


霧が割れた。


黒い毛並み、岩みたいな甲殻、むき出しの牙。

巨大な獣──牙獣グラヴァル


「ムリムリムリ!! あれ絶対ムリなやつ!!」


「大丈夫。綾乃、落ち着いて。俺がついてる」


怖いのに、颯真の声だけはすっと胸に入ってくる。

いや声に鎮静効果あるのおかしいでしょ。保健室に常備したいレベルなんだけど。


「行くよ──!」


颯真が風みたいに跳ぶ。

銀色の刃が閃き、大きな前足が弾かれ、グラヴァルの体がぐらついた。


「速っ……!」


戦う姿は、思わず見惚れるくらい滑らかだった。


「綾乃! 離れて!」


「う、うん……!」


後ずさりしながらも目は離せない。

颯真は物語の主人公みたいで──胸がちくっと痛む。


……遥斗だったら、こんなふうに戦えるんだろうか。

いやいや比較するな私。今は命がかかってるんだけど? でも勝手に比較してしまう自分がいるんだよ…。


比較したくないのに、頭に浮かんでしまう。


「ぐっ……!」


「颯真!?」


颯真が弾かれ、地面に膝をつく。

心臓がどくん、と跳ねた。


「待って……大丈夫!?」


「平気。綾乃は──俺が守る」


立ち上がる目が静かに燃えている。

その視線だけで呼吸が熱くなった。


もう一度剣を握り直し、颯真は正面から飛び込む。

刃が流れるように走り、グラヴァルの身体が重たい音を立てて倒れた。


霧が揺れ、静寂が落ちる。


「……綾乃。怖かったね」


「……うん。怖かった」


本当は膝が震えているのに、必死に平気なふりをしていた。

やば、声がちょっと裏返りそうになった。強がり割れかけてる。


「大丈夫。全部俺がどうにかするから」


「な……なんで、そんな……」


「綾乃のこと……守りたいから」


胸の奥に何かが落ちて、じんわり広がる。


そのとき、森の奥からさらに大きな地響き。


「まだ終わらない。綾乃、歩ける?」


腕に触れられると、膝が震えてても立てる気がした。


「だ、大丈夫……たぶん」


「無理すんなよ。……本当に、怖かったよな」


その声に、胸が熱くなる。


「……颯真ってさ」


「ん?」


「なんか……今日、ずっと優しくない?」


「今日“も”優しいけど?」


「は!?」


「綾乃が気づいてなかっただけで、俺はいつも優しいよ?」


女子高生のメンタルにこれは反則だ。胸がキューッてなる。

ちょっと待って、今日だけで心のHPが何回ゼロになりかけたんだろ。恋愛イベント密度おかしい。


霧が少しずつ薄くなり、空が深い青色へ変わっていく。


「綾乃、傷まだ痛む?」


「少し……でも平気。颯真が手当てしてくれたし」


「よかった」


歩幅を合わせながら、そっと見下ろしてくる。


「……綾乃ってさ。強いようで、時々すごく不安そうな顔するよね」


「してないし!」


「してるよ。俺は、見てるから」


その“見てるから”が甘すぎて、息が詰まりそう。


「だから……綾乃のそういう顔、俺が守りたい」


「……颯真」


頬が熱くなる。距離が近づき、触れられそうな空気──


その瞬間。


大気が震えた。


バキィィィッ!


大木が折れるような轟音。

黒霧の奥で、何か巨大な影が立ち上がる。


「……颯真」


「来る。綾乃、絶対離れるな」


ぎゅっと手を握られた。

その温度が心強いのに──胸の奥がひりつく。


本当に“来るべき人”が、ここにもう一人いる気がして。


大木がへし折れる音が胸の奥に響いた。空気ごと押しつぶされるような圧が迫る。


「颯真……ほんとにヤバいやつじゃん……」


「わかってる。でも守れる。大丈夫だ」


颯真は剣を構え、息を呑む私を背に立つ。

その横顔が綺麗で、余計に怖さが混ざる。


「綾乃。絶対、俺の後ろにいて」


必死な声に胸が絞られた。


霧の奥で影がうごめく。地面が低く唸る。


「来る……!」


腕を強く引かれ、心臓が跳ねた。


「怖いなら目を閉じてもいい。でも離れるな」


「こ、怖いよ……でも……颯真の後ろなら……」


振り返った彼の目が揺れる。その優しさに胸が痛くなる。

こういう時に限って“安心しそうになる自分”が本当に面倒くさい。心よ、もう少し落ち着いて。


霧が裂け、黒い牙と赤い目の巨体が現れた。さっきより明らかに強い。


「嘘でしょ……」


「俺が時間を稼ぐ。逃げ道を──」


「無理! ひとりじゃ!」


「綾乃を守れるなら俺は──」


そのとき。


「──綾乃ーーっ!!」


胸を貫く声が森に響いた。


……毎日聞いてた声。


「今の……」「誰か来る?」


霧を割り、荒い息の影が駆けてくる。


「綾乃っ……どこだ……!」


制服の色。泥。片方ない靴。


この世界にそぐわない“現実”の少年。


「……はると……?」


膝が震える。


「遥斗、なんで……!?」


頭が追いつかず、胸が一気に混乱する。

待って状況情報量多すぎ。森・化け物・クラスメイト・彼氏って何この混載シーン。


「綾乃……! どこ行ってたんだよ……!」


息を切らし、汗だらけで、必死すぎる顔。


「……綾乃。この人って……」


「え、その……あの……」


言葉が詰まる。


「なんで“待ってろ”ができねぇのは、お前なんだよ……!」


泣きそうで怒っていて、でも一番は“怖かった”が混じっている。


「家でじっとしてられるわけねぇだろ……!」


胸に刺さる声だった。


颯真は静かに問う。


「この人は……君の“何”?」


空気が張りつめる。


「彼氏、です」


遥斗が先に答えた。


「だから迎えに来たんだよ」


声が震えていた。


説明しようとした瞬間、颯真が柔らかく笑った。


「……そっか。綾乃、大事にされてるんだね」


優しすぎて苦しい。

なんでこの状況で爽やかに譲ってくるの。こっちのメンタルがバグるんだけど。


「謝らなくていいよ。綾乃は悪くない」


その優しさが逆に痛い。


「お前……誰だよ」


遥斗が颯真に向き直る。


「綾乃を……なんでお前がいる」


「守ってたんだよ」


「勝手に言うな!」


「勝手じゃない。危なかったから」


「綾乃を守るのは……俺だろ……!」


その叫びが森に響く。


「遥斗……」


名前を呼ぶと、彼は涙をこらえたように顔を歪めた。


「遅れて……ごめん……」


「なんでそんな泥だらけで来るのよ……!」


「心配したに決まってんだろ……!」


その瞬間、大地が震えた。巨大な気配が近づく。


「綾乃、下がって!」「俺の後ろ!」


左右から同時に引かれ、身体が揺れる。


「二人とも引っ張らないでぇぇ!?」


最悪の状況なのに、胸の奥は温かくなる。

私のためにこんなにも必死になる人が二人もいるなんて。


──でも、避けられない。


森の影が裂け、焔竜バル=ドラウスが姿を現す。

黒い翼。赤く光る鱗。吐息だけで空気が焼ける。


「な……にあれ……!」


膝が震える。


二人は前に立ち、私を庇った。


「綾乃は俺が守る」「違う、“俺たち”で守る!」


「そんな冷静でいられるかよ!」


火花のような視線が交錯する。


「伏せて!!」


颯真の叫びより早く、遥斗が私を抱きしめた。


「綾乃!!」


その直後──轟炎が世界を焼いた。


「苦しい……!」


「離せねぇ……!」


震える腕が恐怖を伝えてくる。


颯真は炎の隙を抜け、叫ぶ。


「二手に分かれる! 今だ!」


「無茶言うな!」


「考える間に死ぬよ!」


「綾乃! 俺の声だけ信じて!」


「う、うん!」


「バケモン! こっちだぁぁ!」


遥斗が投げた石が竜の目に命中。


颯真が滑り込み、剣を突き立てる。


でも──二人の攻撃はまだ噛み合わない。


「そんなバラバラじゃ……!」


「二人とも──合わせて!!」


私の叫びに、二人の目が変わった。


「いくぞ」「合わせる!」


二人は息をひとつにし、同時に竜へ飛び込んだ。


巨体が倒れ、森に地響きが広がる。


「なんで……二人とも……そんな……」


──好きになっちゃうじゃん。

いやほんとに、こんな状況で恋愛感情の容量オーバーする私の脳みそどうなってるの。


竜が倒れたあと、森の熱だけが残った。

息がうまく吸えない。足が震えるのに、まだ立っていた。


「綾乃っ!」


誰より早く駆け寄ってきた遥斗が、肩を掴む。

汗と泥まみれで、息も荒くて、それでも必死だ。


「怪我ねぇよな……? ほんと……心臓止まるかと思った……!」


怒っているのか泣きそうなのか分からない声。

その手の震えを感じた瞬間、胸の奥が揺れた。

ああもう、その震え方やめて。なんか一気に涙腺持っていかれる。


そこへ、静かな気配が近づく。


「綾乃、大丈夫?」


颯真だった。

焦げた風の中に立っているのに、震えていない。

ただ、私の無事だけを確認するように、穏やかな目で見つめてきた。


「……よかった。生きてて」


短い言葉なのに、胸に深く刺さる。


遥斗の荒い体温と、颯真の落ち着いた温度。

そのどちらも、私を揺らし続ける。


──でも。


さっき感じた“怖さ”と“安心”が、同時に心の中でかち合って、どうしようもなくなる。

なんで恋愛って物理戦闘より難易度高いんだろ。攻略本ほしい。


そんな私の迷いを、颯真は一瞬見ただけで理解したようだった。


「綾乃」


名を呼ばれて振り向くと、颯真が静かに微笑む。


「気づいてるよね……君が向かう場所は、最初から決まってた」


「……っ、え……?」


何を言われたのか理解できなくて、思わず問い返す。


「今の……どういう──」


言い終える前に。


ピシャァァァァンッ!!!!


世界が割れた。

眩しい光が森を飲み込み、足元が一瞬で消える。


伸ばした手が光に溶ける。

最後に見えたのは、驚いたように私へ手を伸ばす颯真の姿。


そして──視界が真っ白になった。


……息が苦しい。

硬い床。冷たい空気。


「綾乃っ……綾乃!!」


耳元に響く声。

涙をこらえたような、震えた声。


「はる……と……?」


階段の踊り場だった。

遥斗が、ほとんど泣きそうな顔で覗き込んでいた。


「……よかった……戻ってきた……!」


抱き寄せられた胸の温度で、やっと“帰った”と理解した。


涙が滲む。

でも今度は、迷いじゃなくて──答えの涙だった。

あ、これ泣くなって言われても無理なやつ。情緒ぐちゃぐちゃすぎる。


まぶしい光のあと、目を開けたら──保健室の白い天井だった。


現実だ。戻ってきた。


右手があたたかい。

見ると、椅子にもたれて眠っている遥斗が、私の手をぎゅっと握ったままだった。


「……はると……」


声が漏れた瞬間、遥斗のまつげが震えた。


「……綾乃っ……!」


目を開けた遥斗は、泣きそうな顔で私の手をさらに強く握る。


「マジで……よかった……! ほんとに、戻ってきた……!」


「ちょ、泣きそうじゃん」


「泣くわけねーだろ……バカ……!」


強がってるくせに、声は震えていた。


その温度に触れただけで、胸がきゅっとなる。


「ねぇ……はると」


「なんだよ」


「……手、あったかい。落ち着く」


言った瞬間、遥斗が少し目を見開く。


「お前……どしたんだよ。素直じゃん……かわいいだろそれ……!」


「ち、ちがうし! いまだけだから!」


「へいへい。そういうことにしといてやるよ」


なんなのその顔。

腹立つけど──嬉しい。


「はると……あたしね」


「ん?」


「異世界で怖かったとき、一番怖かったのは……“はるとがいないこと”だった」


遥斗が息をのむ。


「……綾乃」


「帰ってきたら、はるとが手握ってて……全部わかったんだ。

 あたし、やっぱり……はるとのそばが一番落ち着く」


遥斗は、壊れ物みたいに優しく私の手を包んだ。


「……当たり前だろ。俺はお前の彼氏なんだよ」


その言葉に胸が熱くなる。


でも胸の奥が少しだけ痛む。

──颯真。


(ありがとう、ちゃんと言えてない)


胸の中に風みたいに名前が浮かぶ。


「おい、綾乃」


「なに」


「……俺がいる。ちゃんとここにいる」


「……うん」


その言葉で、涙がひとつこぼれた。

なんか…安心しすぎて逆に疲れてきた。嬉しいのに息がふって軽くなる感じ。


「……悪かった」


遥斗が小さく言う。


「LINE返さなかったのも、ドタキャンも……全部。

 好きなのに、ちゃんと言えなかった」


「……はると」


「もうやだ。お前の前では強がりたくねぇ」


胸の奥が温かくなる。


「……あたしも。ほんとは寂しかったし、もっと話したかったし……」


「綾乃」


「離れて気づいた。

 一番そばにいたいのは、はるとなの」


遥斗はゆっくり額を寄せてきた。

息が触れる距離で、低い声が落ちる。


「……もう一回言って」


「え、やだ。恥ずかしい」


「言えよ。聞きてぇから」


「……す……好きです……!」


顔が熱い。枕に埋まりたい。


でも遥斗は少し笑って、静かに言った。


「……俺も。綾乃のこと、ずっと好きだった」


胸の奥がじんわり熱くなる。


そのとき、保健室の扉が小さく揺れた。

廊下の向こう、夕日を背に──颯真が立っていた。


気づいたように軽く微笑み、

「よかったね」と言うように片手を上げる。


声はない。でも、十分だった。


「……颯真……ありがとう」


小さく呟くと、胸の痛みがすっと消えていく。


今、握ってくれている手の温度が、全部を埋めた。


「帰るか」


「うん」


二人で廊下に出ると、夕焼けが差しこんだ。


階段の踊り場で、遥斗が立ち止まる。


「綾乃。……もう二度と離す気ねぇから」


まっすぐな声が胸に響く。


「……あたしも。ちゃんと隣にいるよ」


差し出された手を握る。

その瞬間、異世界の霧の冷たさがぜんぶ溶けた。

ああ、帰ってきたってこういうことなんだ。なんか胸の奥がじーんとする。


二人で歩き出す。

少しぎこちないけれど、確かに“恋人”の歩幅で。


こうして──

あの日転んだ階段から、

新しい物語が静かに始まった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

異世界に行ってみたら、思いがけず恋に落ちかけた話 ほしわた @hoshiwata_novel

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画