第2話 蛇尾の残響

街道を歩き始めて三日が過ぎた。


俺の足は南へ向かっていた。マルクがいるという東の村へ直行するつもりはない。二十年ぶりに人の世に戻った俺は、まずこの国がどう歪んだのかを、自分の目で確かめる必要があった。


街道沿いの景色は記憶と似て非なるものだった。麦畑は広がっているが、働く人影は少ない。村の入り口には見慣れない黒い旗が掲げられ、その中央には銀の剣と王冠が交差した紋章。フェリクスの紋章もんしょうだ。


検問所では兵士が通行人の荷物を漁り、顔を確かめている。その横には木の板が立てられ、フェリクスの肖像画が飾られている。村人たちは通るたびに頭を下げていた。

違和感が喉に引っかかった。


この国は、いつからこんな顔になったのか。


昼過ぎ、俺は街道脇の古びた井戸で休息を取った。革袋に水を汲み、乾いた黒パンを齧る。味などない。ただ腹を満たすための作業だ。


遠くから、金属音が聞こえてきた。


剣と剣がぶつかる音だ。


俺は顔を上げた。音は森の方角から響いている。


立ち上がる。足が勝手に動いていた。


森の入り口で、俺は足を止めた。


木々の隙間から、小さな空き地が見える。


そこに、一人の少女と三人の盗賊がいた。


少女は短剣を握っていた。刃は震えている。彼女自身も震えている。だが、その構えを見た瞬間、俺の息が止まった。


あの構えは——


《蛇尾の型》。


俺がリアに教えた、初歩の防御術だ。


少女の足の置き方は滅茶苦茶だった。剣の角度も間違っている。それでも、確かにあの型の残滓があった。誰かから聞いた話を、必死に再現しようとしている。


「おとなしく金を出せ、お嬢ちゃん」


盗賊の一人が笑いながら言った。


「その短剣で俺たちと戦うつもりか?」


「黙れ」


少女の声は掠れていた。だが、そこには確かな意志があった。

「私は……負けない」


盗賊が剣を振り上げた。


少女が《蛇尾の型》で防ごうとする。


駄目だ。あの角度では弾けない。


俺の指が動いた。


地面の小石を拾い、親指で弾く。


石は風を切り、盗賊の剣の刀身に命中した。


キィン、という澄んだ音。


剣が真ん中から折れた。


刃の部分だけが宙を舞い、地面に突き刺さる。


盗賊は呆然と柄だけになった剣を見つめた。


「……何だ?」


俺は木陰から姿を現した。


「その構え」


俺の声は低かった。


「誰から習った」


少女が俺を見た。目を見開いている。


盗賊たちが一斉に俺の方を向いた。


「何だ、ただのおっさんじゃねえか」


「余計な真似しやがって」


一人が斬りかかってきた。


遅い。


剣の軌道が手に取るように見える。筋肉の動き、体重移動、呼吸のタイミング。すべてが読める。


俺は半歩だけ体を引いた。剣が鼻先を掠める。


そして、男の懐に踏み込む。


掌底を、みぞおちに。鈍い音。男の目が白目を剥く。口から胃液が逆流し、膝から崩れ落ちる。


残りの二人が同時に襲いかかってきた。


右から横薙ぎ、左から突き。


俺は二歩後退する。


二本の剣が空を切る。


その瞬間、俺は地面を蹴った。


左の男の足を払う。男が倒れかける。


右の男が振り向く。


その顎に、肘を。男の体が宙を舞い、木の幹に叩きつけられる。


三人とも、地面に転がった。


俺は剣を抜かなかった。抜く必要がなかった。


盗賊たちは呻きながら這いずり、森の奥へ逃げていった。


俺は少女の方を向いた。


彼女は短剣を握ったまま、呆然と俺を見ていた。


「その構え」


俺は繰り返した。


「誰から習った」


少女は震える声で答えた。


「村で……昔、勇者マルクが教えてくれたって、聞きました。でも、私は直接教わってません。ただ、村の人たちの話を聞いて……」


マルク。


あいつは、村人に剣を教えていたのか。


俺が教えた型を。


「……そうか」


俺は踵を返した。


「待って!」


少女が叫んだ。


俺は振り返らなかった。だが、足は止めた。


「お願いします。私を……弟子にしてください」


俺の背中が強張った。


「断る」


「でも、あなたは強い! あの構えのこと、知ってる! だったら——」


「帰れ。……ここは子供の遊び場じゃない」


俺の声は冷たかった。


「両親を……戦争で失ったんです」


少女の声が震えた。


「国王の命令で、村が焼かれて。兵士たちは笑ってました。『勇者マルクの裏切りのせいだ』って。だから、だから私は……復讐を」


「復讐のための剣は教えない」


俺は言い切った。


少女が息を呑む音が聞こえた。


「復讐じゃ、ない」


少女が叫んだ。


「守りたいんです。もう、誰も失いたくない。だから、強くならなきゃいけないんです!」


その言葉を聞いた瞬間、俺の胸に何かが突き刺さった。


マルクも、同じことを言っていた。


リアも、同じことを言っていた。


そして、二人とも——


「……弟子は取らない」


俺の声は掠れていた。


「どうして?」


「……」


答えられなかった。言葉にできなかった。


俺は歩き出した。


「待ってください!」


少女の足音が追いかけてくる。


俺は振り返らなかった。


ただ、歩き続けた。


夕暮れ時、俺は森の外れで焚火を起こしていた。


背後で気配がする。


振り返ると、あの少女が立っていた。息を切らしている。


「……しつこいな」


「先生が教えてくれなくても、後をついて行きます」


「先生ではない」


「じゃあ、名前を教えてください」


俺は長い間、黙っていた。


それから、ぽつりと言った。


「……優師ユージ


「ユージ先生」


俺は溜息をついた。


「……勝手に呼べ」


少女は小さく笑った。初めて見る笑顔だった。


「私の名前はエリナです」


エリナ。


俺はその名を心の中で繰り返した。忘れないように。いや、忘れてはいけないように。


もし、また弟子を死なせるようなことがあれば、せめてその名前を覚えておかなければならない。


「……勝手にしろ」


エリナの顔が明るくなった。


俺は焚火に薪を放り込んだ。


火が燃える。静かに、だが確実に。


俺は荷物から黒パンを取り出し、二つに割った。一つをエリナに渡す。


エリナはそれを受け取り、齧った。


すぐに顔をしかめた。


「……先生、このパン、石みたいに硬いです」


俺は無言で自分のパンを齧った。


「昔の弟子にも、こんなの食べさせてたんですか?」


「文句があるなら食うな」


「食べますよ!」


エリナは意地になって齧りついた。歯が軋む音が聞こえる。


「……でも、やっぱり硬いです」


俺は小さく笑った。


リアも、同じことを言っていた。


翌朝、俺たちは街道に戻った。


エリナは黙って後をついてきた。昨夜から、彼女は多くを語らなくなった。ただ、時折俺の背中を見つめているのが分かる。


午前中、街道を歩き続けた。


しばらくして、エリナが息を切らし始めた。


「先生……もう少し、ゆっくり歩けませんか」


俺は眉をひそめた。


「先生と呼ぶな。……それと、お前が遅いだけだ」


「だって私、まだ十七歳なんですよ。先生は……何歳ですか?」


「……四十二だ」


「おじいちゃんじゃないですか」


俺は立ち止まった。


エリナが慌てて口を押さえる。


「あ、ごめんなさい! 言い過ぎました!」


俺は溜息をついた。


「……さっさと歩け」


エリナが小走りで追いついてくる。


昼過ぎ、小さな村に着いた。


村の入り口には、やはり検問所があった。そして、その横には大きな木の板。フェリクスの肖像画が飾られている。


村人が通るたびに頭を下げている。


俺は無言でそれを見つめた。


検問所の兵士が近づいてくる。


「通行証は?」


「持っていない」


「では、目的を述べろ」


「通りすがりだ」


兵士は疑わしげに俺を見た。それからエリナを見た。


「この子供は?」


「……道連れだ」


エリナが不満そうに俺を見上げたが、何も言わなかった。


兵士はしばらく俺たちを観察してから、ため息をついた。


「まあいい。だが、日没までには出て行け。陛下の御命令だ」


俺は頷き、村に入った。


村は静まり返っていた。市場はあるが、商品は少ない。人々の表情には疲れが滲んでいる。


そして、村の中心部には——


木の柱が立っていた。


その柱に、一枚の紙が釘で打ち付けられている。


手配書だ。


俺は近づいた。


紙には、マルクの似顔絵が描かれていた。


その下には、こう書かれている。


『裏切り者 勇者マルク 賞金一万ゴールド 生死問わず』


似顔絵には、無数のナイフの跡があった。唾の跡もある。


俺の拳が、無意識に握られた。


「先生……」


エリナが俺の袖を引いた。


俺は深呼吸をした。それから、手配書から視線を外した。


「酒場に行く」


俺は歩き出した。


酒場は薄暗く、酒の匂いが充満していた。


カウンターに座り、酒を注文する。エリナは隣に座り、水を注文した。


酒場の奥では、数人の男たちが卓を囲んでいる。


「マルクなんて、もう終わりだろ」


「英雄が聞いて呆れるぜ」


「国王陛下の方が正しいに決まってる。あの裏切り者め」


男たちの声が響く。


俺は酒を口に含んだ。苦い。


エリナの拳が震えている。


「あいつ、昔は偉そうに『人を守る』とか言ってたんだぜ」


「今じゃ逃げ回ってるだけだ。臆病者め」


エリナが立ち上がろうとした。


俺は彼女の肩に手を置いた。


エリナが俺を見上げる。


俺は首を横に振った。


「でも……」


「座れ」


俺の声は静かだった。だが、そこには有無を言わせぬ何かがあった。


エリナは唇を噛み、座った。


男たちの声は続く。


「マルクの首を取れば一万ゴールドだぜ。俺でも取れるんじゃないか?」


「お前には無理だ。あいつ、一応勇者だったんだぞ」


「今は違うだろ。ただの腰抜けだ」


俺の手が、酒杯を握った。


ミシリ、と木が軋む音がした。


杯に亀裂が走る。


俺は息を吐き、手を離した。


カウンターの主人が心配そうに俺を見ている。


「……大丈夫ですか?」


「ああ」


俺は酒を飲み干した。


それから、立ち上がった。


「部屋はあるか」


「二階に一部屋だけ。ですが、日没までに——」


「構わない」


主人は肩をすくめた。


「……勝手にどうぞ」


夜、宿の部屋で俺は窓辺に座っていた。


月が昇っている。冷たい光が部屋を照らしている。


膝の上には、あの木彫りの人形があった。未完成のリアの姿。俺は指で人形の輪郭をなぞった。


廊下から、微かな音が聞こえてきた。


金属音だ。


剣を振る音。


俺は窓を開け、外を見下ろした。


中庭に、エリナがいた。


月明かりの下で、彼女は短剣を握り、素振りをしていた。


その動きは拙かった。力が入りすぎている。バランスも悪い。


だが、確かに《蛇尾の型》を再現しようとしていた。


一振り、また一振り。


エリナは転びそうになりながらも、何度も繰り返していた。


俺はそれを、ただ見つめていた。


リアも、こうしていた。


夜中にこっそり抜け出して、一人で練習していた。


俺が見つけると、恥ずかしそうに笑っていた。


「先生、もっと上手くなりたいんです」


あの声が、耳に蘇る。


俺は窓を閉めた。


だが、金属音は聞こえ続けた。


俺は人形を握りしめた。


リア。


お前は、俺に何を求めていたんだ。


強さか。それとも、ただ生きる道を示してほしかっただけなのか。


俺には分からなかった。今でも分からない。


ただ、お前が死んだという事実だけが残っている。


そして、俺はまた新しい少女と旅をしている。


これは、繰り返しなのか。


それとも、やり直しなのか。


答えは出なかった。


金属音が止んだ。


俺は再び窓を開けた。


中庭に、エリナが座り込んでいた。肩で息をしている。


だが、短剣はまだ握られていた。


俺は窓を閉め、壁に背を預けた。


長い夜が、過ぎていく。


翌朝、俺たちは村を出た。


街道は東へ続いている。マルクがいるという村へ。


エリナは相変わらず黙って後をついてきた。だが、今朝の彼女は少し様子が違った。


歩き方が、どこか決意に満ちている。


昼過ぎ、街道で休憩を取った。


エリナが水筒を差し出してきた。


「どうぞ」


「……ありがとう」


俺はそれを受け取り、一口飲んだ。


エリナは少し嬉しそうに微笑んだ。


その笑顔を見て、俺は胸が痛んだ。


リアも、こんな風に笑っていた。


俺は水筒を返し、立ち上がった。


「行くぞ」


「はい」


街道を歩き続ける。


遠くに、次の村の屋根が見えてきた。


その時、背後から殺気を感じた。


俺は足を止めた。


エリナも気づいたのか、不安そうに周囲を見回している。


「先生……?」


「静かに」


俺は街道の脇、森の方を見た。


木々の影に、何かがいる。


人の気配だ。だが、普通の旅人ではない。


訓練された殺気。


兵士、いや——


暗殺者か。


気配は二つ。いや、三つ。


俺たちを追っているのか。


それとも、マルクを追っているのか。


どちらにせよ、厄介なことになりそうだ。


「エリナ」


「はい」


「俺の背中から離れるな」


エリナが息を呑む音が聞こえた。


俺は腰の剣に手をかけた。


二十年ぶりに。


鞘から、刃が僅かに覗く。


月光を反射して、鋭い輝きを放つ。


森の中から、黒い影が動いた。


三人の男が姿を現す。


全員、黒装束。顔は仮面で隠されている。


その胸には、フェリクスの紋章。


——国王直属の暗殺部隊。


俺は小さく息を吐いた。


「……来たか」


男たちは無言で剣を抜いた。


俺も、剣を——


抜こうとして、止めた。


いや、まだだ。


まだ、この刃を抜くわけにはいかない。


俺は剣から手を離した。


男たちが動いた。


同時に、三方向から。


速い。さっきの盗賊とは次元が違う。


だが——


遅い。


俺には、すべてが見えていた。


右からの斬撃。左からの突き。正面からの斬り上げ。


俺は一歩も動かなかった。


ただ、体を僅かに捻る。


三本の剣が、俺の服を掠めて空を切る。


そして、俺は動いた。


右の男の喉に、指先を。


左の男の膝に、蹴りを。


正面の男の顔面に、掌底を。


三人は同時に倒れた。


仮面が割れ、地面に転がる。


男たちは呻きながら立ち上がろうとするが、体が動かない。


俺は彼らを見下ろした。


「フェリクスは……俺がここを通ることを知っていて、お前たちを差し向けたのか?」


男たちは震えていた。


一人が、小さく頷いた。


俺は溜息をついた。


やはり、そうか。


フェリクスは俺の動きを読んでいる。


「……行け」


俺は言った。


男たちは顔を上げた。


「二度と、俺の前に現れるな」


男たちは這うようにして立ち上がり、森の中へ消えていった。


俺は深呼吸をした。


エリナが俺の背中に手を当てていた。震えている。


「大丈夫か」


「……怖かった、です」


エリナは正直に言った。


「あの人たち、本気で殺しに来てましたよね」


「ああ」


「私、何もできませんでした」


エリナの拳が震えている。


「先生が守ってくれなかったら、私は……」


俺は彼女の頭に手を置いた。


「怖いのは当たり前だ」


エリナが顔を上げる。目には涙が浮かんでいた。


「先生……あの人たちは?」


「追ってきた。これからも、追ってくるだろう」


「じゃあ……」


「だからこそ、お前は強くならなければならない」


俺は言った。


「自分の身は、自分で守れ。俺はいつまでも側にいられるわけではない」


エリナは俺を見つめた。


それから、短剣を握りしめた。手が白くなるほど、強く。


「……でも、次は違います」


彼女の声は小さかった。だが、そこには確かな決意があった。


「先生の背中は……私が守ります」


俺は驚いて彼女を見た。


エリナは俯いていた。だが、その拳は震えていなかった。


俺は小さく笑った。


「……頼んだぞ」


エリナが顔を上げる。目を見開いている。


俺は手を離し、歩き出した。


エリナが後をついてくる。


街道を歩き続ける。


太陽は西に傾き始めている。


遠くに、次の村の屋根が見えてきた。


そこで、何が待っているのか。


俺には分からなかった。


だが、もう立ち止まることはできない。


フェリクスが動いた。


マルクが追われている。


そして、俺は——


もう一度、弟子たちと向き合わなければならない。


それが、俺に残された唯一の道だった。

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