最強の師匠、最後の授業 ~「強くなれ」と教えた弟子が暴君になったので、責任を取って殺しに行きます~

トウガイ(灯亥)

第1話 弟子からの死刑宣告

俺の手はまきを割る動作を覚えている。


斧を振り上げる。頂点で一瞬の静止。息を吐きながら振り下ろす。刃が薪の中心を捉え、乾いた音を立てて真っ二つに割れる。左右に転がった薪を足で寄せ、次の一本を台に乗せる。また振り上げる。また振り下ろす。


この動作を、俺は何千回、何万回と繰り返してきた。


二十年前から、毎日。


夏の日差しが照りつける日も、冬の吹雪が山を覆う日も、春の雨が地面を打つ日も。変わらず、ただ薪を割り続けてきた。


積み上がった薪の山を見る。小屋の裏手に、人の背丈の三倍ほどもある山が三つ。冬が来るたびに燃やしても、また春になれば積み直す。もう三年分はある。いや、五年分かもしれない。一人で暮らすには、明らかに多すぎる量だ。


意味のない作業だと、頭では分かっている。


だが、手を止めるわけにはいかなかった。


手を止めれば、頭が勝手に過去を掘り返し始める。記憶の底に沈めたはずのものが、次々と浮かび上がってくる。それだけは避けたかった。どうしても、避けなければならなかった。


斧を地面に突き立て、額の汗を手の甲で拭う。五月の風が山肌を這い上がってくる。木々の葉が揺れ、さざ波のような音を立てる。遠くで鳥が鳴いている。谷の方から、川の流れる音が微かに聞こえる。


誰の声も届かない。


誰の顔も見えない。


それでいい。それがいい。


俺はそう自分に言い聞かせて、再び斧を握った。


「ユーシさん、いるかい?」


老婆の声が、小屋の前から聞こえた。


手が止まる。斧の柄を握ったまま、俺は小さく息を吐いた。


月に二度、ふもとの村から食料を届けてくれる婆さんだ。名前はミツ。七十を過ぎているはずだが、この険しい山道を登ってくる足取りは、若者よりもずっと確かだった。村の誰もが「あの婆さんは山羊の生まれ変わりだ」と冗談めかして言うほどに。


「いる」


短く答えて、斧を薪の山に立てかける。小屋の前に回ると、ミツが大きな籠を地面に下ろしているところだった。籠の中には干し肉、塩漬けの野菜、黒パンが数個、それに小さな布袋—おそらく塩か薬草だろう—が入っている。


「相変わらず愛想のない返事だねえ」


ミツはしわだらけの顔で笑った。目尻の皺が深く刻まれ、その奥の瞳は濁っているが、妙に鋭い光を宿している。人を見抜く目だ、と俺は何度も思った。


俺は黙って籠を受け取る。礼を言うべきなのは分かっている。だが言葉が喉の奥で引っかかって、出てこない。ミツは気にした様子もなく、腰に手を当てて山の景色を眺めている。


「いい天気だねえ。こんな日は、麓まで景色が見えるよ」


婆さんが指差す方を見る。確かに、霞がかった遠くに、村の屋根が小さく見えた。畑の緑、教会の尖塔、街道を行く荷馬車らしき点。人々の営みが、遠い世界の出来事のように見える。


「ユーシさん」


ミツが唐突に言った。


「また夜中に叫んでたろう?」


俺の手が、籠の取っ手を握ったまま硬直する。


「……聞こえるはずがない。ここは村から三里は離れている」


「聞こえなくても分かるのさ」


婆さんは俺の顔をじっと見た。


「目の下の隈がひどいよ。いつもより、ね。それに、あんたの手、震えてるじゃないか」


言われて、自分の手を見る。確かに、微かに震えていた。籠の取っ手が、小さく揺れている。


俺は無言で籠を地面に置いた。


「これを飲んで、少しは休みな」


ミツは懐から小瓶を取り出した。蜜蝋で封がされた、親指ほどの大きさの瓶だ。中には褐色の液体が入っている。


「薬草を煎じた安眠薬だよ。村の薬師が作ったやつだ。よく効くからね」


「必要ない」


「頑固だねえ。昔っからそうだ」


ミツは小瓶を俺の手に無理やり押し付けた。節くれだった指が、妙に温かかった。

「あんたがどんな夢を見てるか、私は知らない。知りたいとも思わない。でもね、ユーシさん。眠れない夜が続けば、人は壊れるんだよ」


婆さんの声は静かだったが、どこか諭すような響きがあった。


「あんたはまだ若い。四十そこそこだろう? まだやり直せる歳だ。こんな山に引きこもって、薪ばかり割ってる場合じゃないよ」


「……余計な心配だ」


「そうかい」


ミツは肩をすくめた。それから籠を指差す。


「取っ手が壊れかけてるね。直してくれるかい?」


見ると、確かに籠の取っ手の片方が、編み目から外れかけていた。このまま使えば、次に山を登る途中で壊れるだろう。


俺は無言で小屋に入り、蔦の束を持ってきた。それから籠を手に取り、壊れかけた部分を蔦で巻き直す。指が勝手に動く。こういう作業は、体が覚えていた。


「ありがとうね」


ミツが言った。


「こういうの、あんたは上手だねえ。昔、誰かに教わったのかい?」


「……覚えていない」


嘘だった。覚えている。教えたのは、俺の最初の弟子—リアだった。あの子は手先が器用で、壊れた道具を直すのが得意だった。「先生、こうやるんですよ」と笑いながら、俺に編み方を教えてくれた。


籠をミツに返す。婆さんは嬉しそうに受け取り、何度か揺すって確かめた。


「しっかりしてるね。これなら当分持つよ」


それから、ミツは帰り支度を始めた。腰の袋を整え、杖を手に取る。


「ああ、そうそう」


婆さんは何でもないように、背中を向けたまま言った。


「麓で変な噂があってね」


俺の背筋が、わずかに硬くなる。


「勇者マルクが追われてるんだって」


マルク。


その名前を聞いた瞬間、記憶が一気に溢れ出そうになった。俺は奥歯を噛みしめて、それを押さえ込む。


「国王陛下の命令らしいよ。裏切り者だって話だ。可哀想にねえ、あんなに国のために戦ったのに」


ミツの声は同情に満ちていた。だが俺には、その言葉が妙に遠く聞こえた。


マルク。


貴族の三男坊で、真面目で、いつも唇を噛みながら剣を振っていた少年。俺が教えた五人の弟子の中で、最も優しい心を持っていた。


「村の連中は噂してるよ。『勇者が裏切るなんて、よっぽどのことがあったんだろう』ってね。まあ、私らには分からない話だけどさ」


婆さんは一度、俺を振り返った。


「ユーシさんは、どう思う?」


俺は何も答えなかった。答えられなかった。


「…俺には関係ない」


ようやく絞り出した言葉は、自分でも嘘だと分かるほど空虚だった。


「そうかい」


ミツは俺の顔をじっと見た。その目は、もう笑っていなかった。


「あんたがそう言うなら、そうなんだろうね」


婆さんは踵を返し、山道を下り始めた。杖をつく音が、規則正しく響く。その背中を見送りながら、俺は小瓶を握りしめていた。


関係ない。


そう自分に言い聞かせた。


だが、心臓は早鐘を打っていた。


夕暮れが山を染める頃、俺は小屋の中で一人、木を削っていた。


暖炉の前に座り込み、膝の上にナイフと木片を置く。ナイフの刃を木肌に当て、薄く削ぐ。白い削りくずが、ひらひらと膝の上に落ちる。


手の中にあるのは、少女の形をした人形だった。


頭部、胴体、手足。大まかな形は出来ている。だが顔の部分は、まだ荒削りのままだ。目も鼻も口も、ぼんやりとした線でしかない。


何年、削り続けているだろう。


五年か。十年か。もっとか。


数えるのをやめて久しい。


完成させるつもりはない。完成させたら、それで終わってしまう気がした。この人形を完成させることは、彼女の死を認めることだ。それだけは、できなかった。


暖炉の火が小さく揺れている。薪が爆ぜる音が、静寂を破る。


ナイフを動かす手が止まる。


人形の顔を見つめる。まだ何も刻まれていない、のっぺらぼうの顔。


だが俺には見える。そこに浮かぶはずだった笑顔が。明るくて、無邪気で、どこまでも純粋な笑顔が。


『先生! 見てください! 今日は一人で魔物を倒しました!』


リアの声が、耳の奥で蘇る。


『私、強くなったでしょう? 先生みたいに、強く!』


俺は目を閉じた。


違う。


お前に教えるべきだったのは、強さじゃなかった。


剣の振り方じゃなかった。


敵の倒し方じゃなかった。


教えるべきだったのは—


ナイフを置き、人形を棚に戻す。その隣には、同じように削りかけの人形が五つ並んでいる。どれも未完成だ。どれも同じ少女の形をしている。


俺は床に寝転がり、目を閉じた。


眠るべきではない。夢を見るから。あの夢を。


だが疲労は容赦なく、意識を暗闇の底へと引きずり込んでいく。


雨が降っている。


激しい雨だ。視界が霞んでいる。


足元は泥だ。泥と血が混ざり合い、ぬかるんでいる。一歩踏み出すたびに、足が沈む。


周囲には魔物の死骸が転がっている。巨大な狼。三つ首の蛇。翼の折れた竜。そして、人間の死骸も。鎧を着た兵士たちが、無造作に地面に横たわっている。


戦場だ。


地獄のような戦場だ。


その中心に、少女が立っていた。


「先生!」


リアだ。


十五歳の、俺の最初の弟子だ。


泥まみれの顔で、剣を振り上げている。刃には血が滴っている。彼女の体中が、返り血で赤く染まっている。


「私、やりました! 魔物を倒しました!」


彼女は笑っていた。


誇らしげに。


まるで褒められるのを待つ子供のように。


俺は叫ぼうとする。


「リア、そこを動くな—」


だが声が出ない。


喉が締め付けられたように、空気が漏れるだけだ。


少女の背後から、影が迫る。


巨大な爪が、雨の中から現れる。


リアの背中を、貫く。


音がした。


鈍い、肉を裂く音。


骨が砕ける音。


少女の目が、見開かれる。


口が開く。だが声は出ない。


剣が、手から滑り落ちる。


彼女の体が宙を舞う。まるで人形のように、軽々と。


そして、泥の中に落ちる。


雨が血を洗い流していく。


彼女の目は、まだ俺を見ていた。


まだ笑っていた。


「先生……」


掠れた声が、雨音の中で聞こえる。


「私……強く……なれました……か……?」


俺は叫ぶ。


叫び続ける。


だが声は届かない。


リアの目から光が消えていく。


笑顔が、ゆっくりと消えていく。


そして—


目が覚めた。


暗闇の中、自分の荒い呼吸だけが聞こえる。


心臓が激しく打っている。シャツが汗で張り付いている。手が震えている。


窓の外を見る。まだ暗い。夜明けまで、まだ時間がある。


俺は起き上がり、暖炉の前に座った。火は消えかけている。灰の中で、最後の薪が赤く燻っている。


薪をくべようとして、手が止まる。


リアの声が、まだ耳に残っている。


「強くなれましたか」


強く。


俺が教えたのは、強さだった。


剣の振り方。魔物の倒し方。敵を殺す技術。


それだけを教えた。


生き残る方法を教えなかった。


逃げる勇気を教えなかった。


弱さを認める強さを教えなかった。


それが間違いだったと気づいたのは、彼女が死んでからだった。


遅すぎた。


何もかも、遅すぎた。


俺は顔を両手で覆った。


泣くことすらできなかった。涙は、二十年前に枯れ果てていた。


翌日の午後、客が来た。


俺は薪割りを再開していた。昨夜の悪夢を振り払うように、何度も何度も斧を振り下ろした。


一本。また一本。さらに一本。


汗が流れる。筋肉が悲鳴を上げる。だが手を止めない。止められない。


リアの顔が、脳裏をよぎる。


フェリクスの顔が、よぎる。


マルクの顔が、よぎる。


他の弟子たちの顔が、次々と—


「ユーシ殿」


背後から、声がかかった。


男の声だ。低く、抑揚がない。感情の読めない声。


俺は斧を振り下ろす動作を止め、ゆっくりと振り返った。


そこに立っていたのは、黒いローブを纏った男だった。


フードで顔の半分が隠れている。だが、その立ち姿から多くのことが読み取れた。訓練を積んだ兵士だ。それも、相当な手練だ。足の運び、重心の置き方、腰に下げた剣の位置。全てが、実戦を経験した者特有の構えを示していた。


「何の用だ」


俺は短く尋ねた。斧は握ったままだ。


「国王陛下からの使いだ」


男は懐から巻物を取り出した。封蝋には、王家の紋章が刻まれている。金色の獅子と剣。フェリクスの紋章だ。


「国王陛下より、ユーシ殿に命令がある」


男の声は事務的だった。


「勇者マルクを始末せよ、と」


俺は斧を地面に突き立てた。刃が土に深く食い込む。


「断る」


「即答か」


男は笑った。嘲るような、それでいてどこか感心したような笑いだった。


「陛下は言っておられた。『師は強さを教えてくれた。その教えに背く者は、師自らが正すべきだ』とな」


フェリクス。


あの少年の顔が浮かぶ。


痩せていて、目だけがぎらぎらと光っていた孤児の少年。拾った時、彼は飢えて倒れかけていた。それでも、差し出したパンを受け取る前に、「強くなれますか?」と尋ねてきた。


「フェリクスが……そう言ったのか」


「陛下は、師の教えを実践しておられる。弱者を守るために、強者が支配する。それこそが秩序だと。そして、その秩序を乱す者—たとえそれが勇者であろうとも—粛清されるべきだと」


男の言葉が、一つ一つ胸に突き刺さる。


「違う」


俺は呟いた。


「何が違う?」


「俺が教えたのは……そんなことじゃない」


「では何を教えた?」


男が一歩、前に出る。その動きに、俺の体が反応する。二十年のブランクなど、ないかのように。


「強さだろう? 力だろう? 『弱者を守るには、強くなければならない』—陛下から何度も聞いた言葉だ。陛下はそれを体現している。師の理想を、な」


男の手が、剣の柄にかかる。


その瞬間—


俺の手が、斧の柄を掴んだまま、わずかに動いた。


それだけだった。


ただ、ほんの数センチ、斧を引いただけ。


だが次の瞬間、男の足元にあった薪が、真っ二つに割れて転がった。


いや、割れたのではない。


切れたのだ。


まるで見えない刃が走ったかのように、断面は滑らかだった。


男の頬に、一筋の赤い線が現れる。


血が、一滴、地面に落ちる。


男は動かない。いや、動けない。


俺は斧を握ったまま、男を見てもいなかった。視線は地面に向けられたままだ。


それなのに。


それなのに、男の頬は切れていた。


飛んできた木片が、かすめたのだ。音速を超える速度で放たれた、ただの木片が。


「……っ」


男の額に、冷や汗が浮かぶ。


今の一瞬で、理解したのだろう。


目の前にいる男が、どれほどの化物か。


どれほどの、人間離れした存在か。


男は一歩、後ずさった。それから、もう一歩。


「……陛下に、お伝えする」


声が震えていた。


「ユーシ殿は、命令を拒否されたと」


男は踵を返し、森の中へと走り去った。足音が、どんどん遠ざかっていく。


俺は一人、その場に立ち尽くした。


風が吹く。木々が揺れる。鳥が鳴く。


地面に落ちた巻物を拾い上げる。


封を切り、中を読む。


『元師ユーシへ。勇者マルクは国家反逆罪により、死刑を宣告された。貴殿には、かつての弟子として、自らの手で始末する名誉を与える。期日は十日後。王城にて首を献上せよ。国王フェリクス』


文面は簡潔で、冷たい。


だが、その行間に、あの少年の声が聞こえる気がした。


『先生、見ていてください。僕は強くなりました』


『僕は、先生の教えを守っています』


『だから、認めてください』


俺は巻物を握りつぶした。


紙が皺になり、インクが手に染みる。


小屋に戻る。


壁にかけてあった剣帯を手に取る。


二十年、触れていなかった。


革は乾いてひび割れ、金具は錆びていた。だが、剣そのものは—


布を解く。


一枚、また一枚。


最後の布を取り去ると、剣が現れた。


刃は、輝きを失っていない。


刃こぼれ一つない。


俺が封印した日と同じ、完璧な切れ味を保っている。


鞘から抜く。


剣が、月明かりを反射する。


白銀の輝き。冷たく、美しく、そして残酷な輝き。


この刃で、俺は何人殺してきた?


魔物か? 百か? 二百か?


人間は?


数えるのをやめた数。


この刃で、俺は何人守れた?


弟子たちか?


いや。


守れなかった。


リアは死んだ。


フェリクスは狂った。


マルクは逃げた。


他の弟子たちも、それぞれの道で迷っている。


剣を構える。


体が覚えている。


二十年のブランクなど、ないかのように。


筋肉が、骨が、神経が、全てが剣を握る形を記憶している。


だが、手が震えている。


この剣を、もう一度握ることの意味。


この剣を、もう一度帯びることの重さ。


それが、今になって分かる。


剣を鞘に収め、腰に帯びる。


革帯を締める。


嫌な馴染み方をする。


二十年経っても、体が人殺しの道具の重さを覚えていた。


小屋の中を見回す。


二十年暮らした場所だ。


だが、何一つ愛着のあるものはない。


暖炉も、寝床も、棚に並んだ未完成の人形たちも。


ただ一つ、手に取ったのは、昨日削っていた人形だけだった。


それを懐に入れる。


扉に手をかける。


鍵はかけない。


戻らない覚悟だった。


いや、戻る資格がない。


扉を開け、外に出る。


夜明け前の空が、少しずつ白んでいく。


東の空に、赤い光が滲み始めている。


新しい一日の始まりだ。


だが俺にとっては、終わりの始まりかもしれない。


山道を下り始める。


足音だけが、静寂を破る。


どこへ行くのか、まだ分からない。


マルクを殺すためか。


フェリクスを止めるためか。


それとも、ただ自分が何を教えたのか、確かめるためか。


答えは出ない。


ただ、一つだけ分かっていることがある。


もう、山には戻れない。


戻る場所は、どこにもない。


風が吹く。


木々が揺れる。


鳥が鳴く。


世界は、俺がいなくても回り続ける。


それでいい。


俺はただ、歩き続けるだけだ。


贖罪のために。


それとも、破滅のために。


どちらでもいい。


山道の途中で、俺は一度だけ振り返った。


小屋が見える。


煙突から煙は上がっていない。


窓は閉ざされている。


まるで、最初から誰もいなかったかのように。


俺は再び前を向き、歩き出した。


足を進めるたびに、小屋が遠ざかっていく。


二十年の隠遁が、一歩ずつ過去になっていく。


どれだけ歩いただろう。


空が完全に明るくなった頃、麓の村が見えてきた。


朝靄の中、煙突から煙が上がり始めている。鶏の鳴き声が聞こえる。子供の笑い声が、風に乗って届く。


人々の営みが始まる音だ。


生きている音だ。


村の入口で、ミツが立っていた。


まるで俺が来ることを、最初から知っていたかのように。


「やっぱり降りてきたね」


婆さんは笑った。


「行くのかい? マルクのところへ」


「……分からない」


正直に答えた。


「あんたらしい答えだ」


ミツは懐から、小さな布包みを取り出した。


「旅の支度はしてないだろう。これを持っていきな」


中には干し肉とパン、それに水筒が入っていた。


「……なぜ」


「あんたが山を降りる日が来るって、ずっと思ってたのさ」


婆さんは俺の手に包みを押し付けた。


「人間は、そう簡単には死ねないもんだよ。生きてる限り、どこかで足掻こうとする。それが人間ってもんさ」


ミツは俺の目をまっすぐ見た。


「ユーシさん。あんたがどんな過去を背負ってるか、私は知らない。知りたいとも思わない。でもね、一つだけ言わせておくれ」


婆さんの声は、どこまでも優しかった。


「生きてる限り、やり直せるんだよ。……たとえ、泥にまみれてもね。何度でもね。たとえどんな過ちを犯しても、生きてさえいれば、もう一度やり直せる」


俺は何も言えなかった。


言葉が、喉の奥で詰まっていた。


ミツは手を振り、村へと戻っていった。


その背中を見送る。


小さくて、曲がっていて、それでも力強い背中だった。


俺は包みを背嚢に入れ、村を抜けた。


街道に出る。


久しぶりに見る、平らな道だ。


太陽が昇り始める。


影が長く伸びる。


俺の影が、地面に黒く落ちる。


二十年ぶりに見る、自分の影だった。


俺は歩き続ける。


どこへ向かうのか、まだ分からない。


ただ、足は勝手に前に進む。


まるで、何かに引き寄せられるように。


まるで、運命に導かれるように。


街道の先に、小さな町が見える。


人の声が聞こえる。


笑い声、怒鳴り声、物売りの声、馬のいななき。


生きている音だ。


俺は、その音の中へと踏み込んでいく。


二十年ぶりに。


人の世界へ。


そこで何が待っているのか、分からない。


だが、もう引き返せない。


引き返す場所は、どこにもない。


前に進むしかない。


たとえその先に何が待っていようとも。


たとえそれが、地獄であろうとも。


俺は歩き続ける。


優しい師と呼ばれた男の、贖罪の旅が始まる。

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