第4話
李昰は、歓喜した。
密偵の調べで、眞国の使者として歓待される中、例の韓に通じていると思われる官吏と密談し、また、自国へ
韓非は、韓の公子である。
通常のものの見方であれば、密使として使わされ、眞の身中に害を為さんとしているとしか思われぬ行為ではあった。
しかし――同輩として、韓非を
そのように直感が否定しているにも、かかわらず……李昰は、安堵していた。喜んでしまっていた。
これで、韓非は、眞に仕えることができない。眞の法家は、自分一人だ。凌政の傍らに立つものは、自分だけなのだ――
その喜びを、以って否定しながらも、彼はもはやその理屈を捨てようとは思わなかった。なぜならば、敵の密偵と通じ、敵国へ情報を流すこと、それ自体は罪に他ならず、そのときは戦時であったからである。
彼は、
朝議の席であった。百官が聞くなかで、彼は主君に告げた。それは、一つ、命懸けの行為ではあった――
「韓非は、韓の密偵にございます。
それは、いつか、凌政が「おまえの思うようにやってみろ」と炙り出しを命じていた、韓と通じた官吏たちであった……
冷徹な表情で上奏しながらも、李昰は内心の震えを抑えられなかった。
(――もしも、王が、それでも韓非を得たいと望めば……そのときは、
それが、彼の生きている世界であった。対立を露わにしてしまえば、いずれかが滅びるしかない。それを決めるのは、凌政その人の胸三寸なのだ。
凌政は、果たして自分を選ぶだろうか――それとも、交われるならば命も惜しくないとまで言った、韓非を、やはり取るだろうか。しかし、李昰は言葉を止めなかった。自分か、もしくは同輩の生命を絶つための言を、冷たい空気に白く息を吐きながら、彼は
「姦人は以って市内引回しの上腰斬、死罪の重刑。しかし、韓非は貴人です。毒を勧め自害を選ばせるのがよろしいかと――」
「
するどく、凌政がそう呼んだので、おもわず李昰は語を切った。二人だけのときにしか口にしないその名を、彼は百官の前で喚んだ。
そうでなくとも、異例であった。王たる身であっても、平時、上奏を妨げることなどない。少なくとも凌政はそれをした試しがなかった。
王が半ば立ち上がると、その腰の玉が触れ合って澄んだ音を立てた。しかし彼の声は低く、押しひしがれていた。
「分かった。おまえの言いたいことは分かった。韓非は採らぬ。だから、あの男を殺すな――」
李昰の呼吸は、口中で途切れた。
凌政の、大きな強い
自分の醜悪な喜び、自らに対する失望、韓非に相対する時の浅ましい劣等感……そして、凌政の隣にいられなくなるのではないかという愚かしい恐れ。それら全てを、決して知られたくない、知られるまいと、そう思っていたというのに、彼の悪すべては、とうから彼の王に、見透されていたのだった。彼は平伏し、必死に袖のなかに己の表情を隠した。
「この件はこれで終いだ。いいな」
凌政は、そう言い切った。
*
しかし、その件はそれで終わらなかった。
韓非はともかく、内通者として名指しした官吏三人は斬らざるを得ず、その事実は韓非に伝わった。韓非は、己の運命を悟った。
彼は、囚われるのを待つことなく自害したのだった。
毒を
(韓非が、死んだ――)
それは、彼が
手にある文は、ただ一枚の木簡だった。それは、几帳面な韓非らしく、きつく縄で巻かれ、泥封されていた。李昰は、一人居室でそれを開いた。
ただ二行のみ、そこには記されていた。
「韓非白李昰
唯観重臣之章」
(韓非、李昰ニ
重臣の章――と聞いて、思い当たるのは、一つしかなかった。わざわざ当るまでもなく、彼はそれを暗記していた。他ならぬ彼が、凌政に献上した韓非の書の一文――
重き権力を
正しく法を説かんとする者に対し
罪過有れば公法をもってこれを誅し、
罪過無くば私剣をもってこれを窮す。
それは、糾弾であった。
たった二行の木簡によって、韓非は李昰を問い詰め、断罪してみせたのである。
自分は法家だ。正しく法を説いてみせた。
もはや、おまえは法家ではない。
吐く息が震え、李昰は瞑目した。
もはや亡き同輩の鋭い舌鋒に、彼は返す言葉を持たなかった。
*
凌政は独り、舌打ちをした。
当然ながら、彼は見抜いているべきだったのだ――李昰の韓非に対する鬱屈を、妬心を、その葛藤を理解してやるべきだったのだ。
新たに目前にもたらされた清新な知性への憧れが、僅かの間、王のつねの心配りを疎かにした。結果、韓非は死に、李昰は罪を得た。もはや李昰自身の他、誰にも裁かれることのない罪である。
韓非の才を痛ましく惜しみながら、しかし、凌政の胸中には、驚きと、決して言葉にすることができない喜びがあった……
(そこまでか)と、彼は思った――
(朋輩の生命に代え、自らの法家としての心に背いて、なお――おれの隣に立ちたいのか)
自分の存在が、李昰という法家を殺した。そう分かっていてなお、その喜びは否定すべくもなかった……
(いずれにせよ、おれもおまえも、もはや逃げられないのだ……)
王の眼は静かだった。たとえ、行く道が修羅だとしても、いずれそれが覇道になると信じて進むしかない。
王は、李昰が奉じた「韓非子」の表面を、そっと撫でた。
冬の日は冷たく暮れようとしていた。暗闇でおぼつかなげに触れてくる手の感触が蘇る。次に
数年後、眞王凌政は、広大な中華大陸を統一し、帝の名を
凌政の死後、李昰は政敵趙高の讒訴を受け、敵国内通の罪で五刑腰斬の極刑に処せられた。その胸中に何があったのか、史書には残されてはいない。
―了―
讒訴 静谷悠 @jollyappleflow
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます