後編
時は遡り、天音現人が起きる前。
「山本先生。現人の病状は……」
「昨日も一昨日も同じような状態でしたよ」
「そうですか」
ストレスから白髪が目立ち、頬も痩せこけている女性が四十半ばの男性医師に話を聞いている。
男性医師はカルテを読み、机へ置いて腕を組み目をつぶる。
「ある意味で状態は安定しているんですよ」
「あれで安定しているんですか?」
「ええ。少なくとも以前よりはずっと」
女性は溜息をつき、膝の上で拳を握りしめた。
現人が病院に入院してから既に一週間以上は経っている。その間毎日ひとりでお見舞いに来ているが、寝ている日もあれば起きている日もある。
元気だった頃の現人を思い出しては目に涙が浮かび、零さないようにすることに必死だった。
「あまり思い詰めないでください。あなたが悪いわけではないのですから」
「分かっています。分かって居ますが、私がもう少しちゃんと現人を見てあげられていたらと思うと」
「現人くんの味方は血のつながった貴方だけなんですよ」
「はい……はい……」
山本の優しい言葉に涙のダムが決壊し、嗚咽を上げからボロボロと思いを零す。
そのような人を何人も見てきた山本だったが、何度経験してもこの状況には慣れないし、慣れてはいけないと思っている。正常な判断を下すことができなければ医者として大義を果たせない。
精神的に辛い患者に寄り添うことが医者としての使命なのだ。
「現人くんは後頭部の痛みを誰かから殴られたと言っています」
「私も聞きました。犯人を捜してほしいと。血相を変えて何かにおびえるように」
女性は自身の手首をさする。そこには誰かに爪を立てられたような跡と、強く握られたときに出来たであろう内出血の跡。その傷は現人が女性の手を掴んだときに付けたものだった。
「その話は現人くんの前でしないようにしてください」
「その、真相を伝えなくてもいいのですか?」
「今伝えても信じてもらえないでしょう」
現人の様子を毎日見ている山本は、現人に真相を伝えても信じてもらえるとは思えなかった。
山本が女性を宥めていると、現人の病室から呼び出しの合図が鳴った。
「現人くんが起きたようです。私は薬を準備してから行きますので、
「分かりました」
彼女の名前は天音京子。天音現人と同じ家に二人きりで住んでいる血の繋がった母親。
しゃがれた声で肯定を示す京子はとても四十代には見えない。ストレスで荒れた肌、毛髪、その全てが彼女の苦労を物語っていた。
・
京子は見舞いの品として、小さな果物の詰め合わせを持っていく。奇跡が起こり、現人が食べられるようになったら食べさせてあげようという親心だった。
現人の病室に近づくに連れて話し声が聞こえる。その音は現人の部屋の前から響いており、京子の顔が引きつる。現人の部屋には電話もなければ訪れる人もいない。そのはずなのに、現人は今日も喋っている。
意を決して病室の扉を開けて部屋に入ると、ベッドの上にいる現人の姿があった。
「現人、起きているのね」
「おはよう、京子さん」
現人は実の母親のことを京子さんと呼ぶようになった。病院に入ってから変化したもので、ほんの数週間前までは京子の事をお母さんと呼んでいたのだ。
「お母さんって、呼んでくれないのね」
京子がポツリと呟くと、
「ほら、こいつらの目もあるからさ」
京子が現人の自室から持ってきて椅子においていた猫のぬいぐるみと、窓の外にある大木を止まり木にしていた鳥を見て、現人はそう言っていた。
猫のぬいぐるみは現人が幼き頃に京子が買ってあげたもの。それ以来、現人はぬいぐるみを大切にしていた。ホラー映画を強がって見ていた時も、猫のぬいぐるみをギュッと抱きしめて震えながら見ていた記憶が今日この脳裏に浮かび上がってくる。
「え、ああ。そうね」
ここで現人の言う事を否定してはいけないと、言葉を流す。近くにあるテーブルに持ってきた果物を置いてから、布団を直し、ベットの足元にあったゴミ箱を片付ける。
些事を片付けていると、現人はテーブルに置かれた果物に対して話し始めた。その姿を見ないようにして、京子は片付けを終えた。
ベッドの横に置かれた椅子に腰掛け、現人の手を握り、自分はここにいると証明する京子。
「現人。調子はどう?」
良い訳が無いのだが、いつも通りを振る舞うために京子は問いかける。
「大丈夫だよ。少し頭は痛いけどね。みんなも心配してくれてるし」
「そう。いつも通りなのね」
それに対しての現人の答えはいつも通りだった。京子には見ることのできない『みんな』からの心配を受けて笑っている。
その表情が、京子にとっては堪らなく不気味で悲しかった。
「気にしないでよ。すぐに退院するからさ。それよりも」
現人が語り出そうとしたことは後頭部の痛みについて。自分を殴った犯人のことだろうと京子は思いつき、誤魔化しの言葉を考えているところで山本が部屋に入ってきた。
「天音さん。起きられたのですね」
山本は低く優しい声で、現人を刺激しないように声をかける。
「えっと、先生。先生は――愛子先生ですね」
「山本です」
「愛子先生と呼ばせてくださいよ」
「……好きなように呼んでください」
山本の下の名前は
その後、現人にしか見えない存在を山本に説明した。
その頃には木にとまっていた鳥は何処かへと飛び立っていた。
現人は何かを思い出したように、震えながら自分が誰かに殴られたのだと必死に伝えようとする。犯人を捕まえてくれと。様子の変化を見た山本はすぐに、精神安定剤と睡眠薬をビタミン剤と伝えて現人に飲ませた。即効性のある薬のため数分で意識が無くなるだろう。
その間も現人は「殺される」とか「狙われている」とか、ありもしない虚像に囚われていた。
・
現人が眠りにつき、病室には京子と山本しかいない。
「いつも、どおりでしたね」
「天音さん――現人くんは京子さんがいない時に私に語ってくれました」
山本は寝息を立てて眠る現人の手を握り、願うように目を瞑っている京子に話しかけた。
「猫のぬいぐるみを指して幼なじみだと。木にとまりに来る鳥を見て学校の先輩だと。京子さんが持ってきた果物を見て後輩だと。そして、自分は外に出たときに誰かに襲われて後頭部を殴られたと」
滔々と山本は語る。
その状況を見ている京子は否定の言葉が出てこない。現人は生きていないものを見て、自分に関係する人間だと思い込んでいるのだ。京子の事をお母さんと呼ばないのは京子の事が、現人にとって都合のいい別人に見えているからだと、京子は気付いている。
「現人くんが外に出て、人に襲われるなんてことありえますか?」
「ありえません。現人は高校一年のころに虐められてから家に引きこもっていました。部屋からも殆ど出ていません。外に出ようとすれば過呼吸になるほどの状態だったんです」
「ええ。私も長らく彼の様子を見ていたから知っています」
山本は現人との付き合いが短くはなかった。現人に異変が現れてから毎月一回診察をしていた。それにも関わらず、月一回会って話している医師の顔を忘れ、まったく別の名前で呼んでいたのだ。
「連絡をしてくれたのは京子さんでしたね」
「はい。いつも通り部屋にいる現人に声をかけたら返答がなかったんです。その日はなんだか嫌な予感がして、無理やり部屋を開けたら倒れている現人がいまして」
「後頭部を強く打ち付けており、適切な医療を施した後、ここ。精神病棟に運ばれてきた。誰も言及しませんでしたが、彼は自殺をしようとして失敗し、後頭部を強く打った。その事を忘れて誰かに狙われていると強く思い込んでしまっているんですよ」
京子が発見した時には現人の意識がなく、すぐに救急車を呼び運ばれていった。治療を終え、命に別状はなかったものの、支離滅裂な発言や強迫観念に苛まれ、通常の医療機関では手に負えないと判断されこの病棟に移されてきた。
そして目を覚ますたびに、無機物を人扱いし、一人で会話をしているのだ。
「恐らくですが、現人くんは自分を漫画やアニメの中の主人公のように思っているのではないでしょうか。可愛らしい女の子に囲まれ、自分だけの美少女たちに心配される、そんな主人公に」
「現人にしか見えていない世界がある、ということですか」
「彼が妄想に囚われている間は安定していると言っていいかもしれません。正しくない状態ではありますが、変に刺激しては悪化する可能性があります」
「現人の妄想は現人にしか見えていないんですよ。肯定も否定も見て見ぬふりをするしかないってことですか」
「それだけが今の彼を救える方法なのかもしれません」
寝息を立てている現人が目を覚ませば、現人だけの物語が始まってしまう。自分を傷つけるものなど一切ない楽園のような世界。
自分だけを見てくれる存在たちが、自分のことだけを思ってくれる幸福な妄想。
さめざめとなく京子の涙はベットに跡を作る。山本はそんな今日この姿を見て、遣る瀬無さから厳重に閉ざされた窓を見る。その窓には鍵はなく、開くこともない。
窓の外には飛び立ったはずの鳥が、いつの間にか病室を見つめていた。
・
いつの間にか俺は眠っていたみたいだ。
朦朧としている意識を頑張って覚醒させ、重いまぶたを開く。
「起きたわね、現人」
「起きましたか、現人くん」
「寝坊しすぎだぞ、現人」
俺が寝ている間に猫村と鳥丸先輩と果実が部屋に入ってきたみたいだ。京子さんが入れてくれたのだろうが、本人の姿は見えない。
「悪い、みんな。なんか寝ちゃってたみたいだ」
「早く退院してまた一緒に暮らしましょう?」
「は?猫村さんと?現人は私と一緒にいるんだけど。もちろん家族として」
「私は幼馴染ですー。ぽっと出の後輩になんて渡しません」
「あら?それなら先輩である私には渡してくれるのですか?良かったですね現人くん。貴方は私のものみたいですよ」
「そんなこと言ってない。現人は私のもの」
みんなが俺を挟んで喧嘩しだす。
いつからか日常になったこの光景に俺は頬を綻ばせる。
「俺はモノじゃないっての」
三人の美少女が俺のことを心配して毎日のように病室を訪れてくれているが、その御蔭で気が滅入ることはない。後は犯人が見つかってくれれば――犯人?
「なあ。俺の後頭部を殴った犯人って三人とも覚えはないか?」
一応三人に犯人のことを知らないか聞くが、みんな首を横に振るばかり。
「そうか。まあ、そうだよな。因みにさ」
俺はベッドの足元に経っているおかっぱ頭をした古風な服装をした女の子に話しかける。
彼女の名前は
「塵芥は犯人に心当たりはあるか?」
「わたくしにも犯人と呼ばれる者に心当たりはありません。それよりも現人さま。体調はよろしいのですか?もし、その、悪いようでしたら、わたくしが膝枕でも……」
「なにあんた。抜け駆けする気?」
「それなら私も戦うけど」
「物騒ですね」
「喧嘩はやめてくれ。ここは病院だからさ」
塵芥も加わって姦しいどころではなくなる病室。
やっぱり俺の周りの美少女が心配性すぎるんだが?
俺だけの美少女たちが心配性すぎるんだが?―騙り部― 人鳥迂回 @shinsuke0625
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