月面基地デメテル 〜無重力の恋〜

不思議乃九

 月面基地〈デメテル〉の窓には、

 いつも地球の青が無音で浮かんでいた。

 換気循環装置の「コォ……」という低い駆動音だけが、

 夜勤の静けさをゆっくりと満たしている。


 アヤは無重力区画の片隅で、足を床から離し、

 体をゆるやかに漂わせた。

 金属とわずかなオゾンの匂い──

 ここは、宇宙でいちばん“無臭に近い場所”のはずなのに、

 なぜかほっとする香りがあった。


 「またここにいるんですね」


 振り返ると、レンが手すりにつかまっていた。

 重力区画の技士なのに、休憩のたび必ずここに来る。

 作業服が空気をこする「しゅ…」という小さな音が、

 無重力区画では妙に大きく聞こえた。


 ふたりは空中で向かい合い、

 触れていないのに呼吸だけがふわりと重なる。

 音も重力も薄い空間で、

 心だけがやけに鮮明に揺れた。


 「重力がないと、人との距離もわからなくなるんですね」


 レンのかすかな笑い声は、

 機械音に吸い込まれて淡く響いた。

 アヤは胸が温かくなるのを、ごまかすように目をそらす。


 「でも、ひとつだけわかったことがあります」


 レンの指先が空気を切る。

 ほとんど無音なのに、その仕草だけははっきり伝わった。


 「ここだと……誰かを好きになるスピードまで

  軽くなるみたいです」


 無重力は、心の落下だけは止めてくれない。

 アヤはその事実に初めて気づいた。


 アラートが鳴り、

 金属が震える乾いた音が区画に反射した。

 勤務に戻る時間だ。


 レンは手すりに触れて重力区画へ戻ろうとし、

 ふと振り返って言った。


 「アヤさん。地球に帰ったら……

  重力のある場所で、もう一度会えますか?」


 その瞬間、アヤの体は小さく回転し、

 窓の外の地球が視界をゆっくり流れた。

 胸の奥で、何かが静かに“落ちた”。


 涙だけは、ちゃんと下へ落ちる。

 無重力なのに。


 「……うん。会いに行くよ。

  そのときは……ちゃんと歩けるように頑張る」


 光の粒が漂い、

 オゾンを含んだ冷たい空気がふたりの間をすり抜ける。


 月と地球の間に、

 小さな約束がひとつ、無重力でゆっくり浮かんだ。

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月面基地デメテル 〜無重力の恋〜 不思議乃九 @chill_mana

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