月面基地デメテル 〜無重力の恋〜
不思議乃九
*
月面基地〈デメテル〉の窓には、
いつも地球の青が無音で浮かんでいた。
換気循環装置の「コォ……」という低い駆動音だけが、
夜勤の静けさをゆっくりと満たしている。
アヤは無重力区画の片隅で、足を床から離し、
体をゆるやかに漂わせた。
金属とわずかなオゾンの匂い──
ここは、宇宙でいちばん“無臭に近い場所”のはずなのに、
なぜかほっとする香りがあった。
「またここにいるんですね」
振り返ると、レンが手すりにつかまっていた。
重力区画の技士なのに、休憩のたび必ずここに来る。
作業服が空気をこする「しゅ…」という小さな音が、
無重力区画では妙に大きく聞こえた。
ふたりは空中で向かい合い、
触れていないのに呼吸だけがふわりと重なる。
音も重力も薄い空間で、
心だけがやけに鮮明に揺れた。
「重力がないと、人との距離もわからなくなるんですね」
レンのかすかな笑い声は、
機械音に吸い込まれて淡く響いた。
アヤは胸が温かくなるのを、ごまかすように目をそらす。
「でも、ひとつだけわかったことがあります」
レンの指先が空気を切る。
ほとんど無音なのに、その仕草だけははっきり伝わった。
「ここだと……誰かを好きになるスピードまで
軽くなるみたいです」
無重力は、心の落下だけは止めてくれない。
アヤはその事実に初めて気づいた。
アラートが鳴り、
金属が震える乾いた音が区画に反射した。
勤務に戻る時間だ。
レンは手すりに触れて重力区画へ戻ろうとし、
ふと振り返って言った。
「アヤさん。地球に帰ったら……
重力のある場所で、もう一度会えますか?」
その瞬間、アヤの体は小さく回転し、
窓の外の地球が視界をゆっくり流れた。
胸の奥で、何かが静かに“落ちた”。
涙だけは、ちゃんと下へ落ちる。
無重力なのに。
「……うん。会いに行くよ。
そのときは……ちゃんと歩けるように頑張る」
光の粒が漂い、
オゾンを含んだ冷たい空気がふたりの間をすり抜ける。
月と地球の間に、
小さな約束がひとつ、無重力でゆっくり浮かんだ。
月面基地デメテル 〜無重力の恋〜 不思議乃九 @chill_mana
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