肉が食べたい女の話

猫村みどり

肉が食べたい女の話

地元猟師が営むジビエ料理の隠れ家的名店。2週間前から楽しみにしていたそこが、本当に山賊の隠れ家みたいな店構えだとは思わなかった。一緒に行く約束をしていた友人が急用で来られず一人で訪れたのだが、まさか帰り道で迷子になるなんて。夕暮れ時で視界が悪くなりかけていたせいだと思う。来た道を戻るだけなのに、気付いた時には覚えのない草むらを掻き分けていた。舗装路を探してやっとの思いで辿り着いた無人駅は、無情にも終電が通過した後だった。


夏は過ぎても、夜は思ったより冷え込まない。それだけが救いだ。鞄に入れていたカーディガンを羽織って改札脇のベンチに腰掛け、SNSで「お腹いっぱいで幸せだったのに最悪」と一言呟いた。山奥の、文字通り無人駅の中をぼんやりとした蛍光灯がじりじりと唸りながら頼りなく照らす。柵から先は真っ黒な闇。ほんの数メートル先のホームも見えない。昼間来た時の木々のさざめきと小鳥のさえずりが嘘のように、今では不気味なほど静まり返っている。虫の声ひとつ聞こえない。あるのは取り残された私と蛍光灯のおぼろげな存在感だけ。このまま始発を待つしかないが、静かすぎて落ち着かない。


数分ごとに先程の呟きに「いいね」が増える。何がいいねだ。なんとなく腹が立ってその呟きを削除した。


昔の人はこんな夜をどう過ごしていたんだろう。動画サイトで時間を潰しながらいっそのこと寝てしまおうかと考えたが、こんな場所で意識を手放してはダメだと目を見開いた。ジビエ料理屋のおじさんは仏頂面で、若い女が一人でこんなところに、と文句とも心配ともつかない言葉を訥々と漏らしていた。帰りには駅まで送ろうかと言ってくれたのだが、“若い女”としては会ったばかりの男性の世話にはなれない。丁寧に断るとやはり心配してくれていたのか、暗くなる前に帰りなさいと念押しされた。次はぜひともお世話になりたい。


選択ミスを後悔している最中、視界の端で何かが動いた。ふと顔を上げると柵の辺りに人とも動物ともつかない影が見えた。こんな時間に人がいたらそれだけで怖い。猪?鹿?なんでもいいから山へお帰り。影と目を合わせないようただひたすらに身を縮めてスマホを凝視した。そうこうしているうちに、SNSにメッセージの通知が届いた。八つ当たりで削除した呟きに対する返信のようだ。それについてはログの不具合だろうと気に留めなかったが、送り主が知らない人だ。喉の奥がきゅっと締まる。


「お一人ですね。私はお腹が空いています。」


どうして一人だなんて。それに、添付されている画像。地図に位置情報のピンが立っている。この駅だ。なんで——誰のお腹が空いてるって?顔が強張るのがわかる。困惑していると、程なくして二通目が届いた。


「もう遅いですし、一人でも大丈夫です。」


一瞬にして全身の毛が逆立つような感じがした。指先が冷たい。なにが、だれが、大丈夫なんだ?


「いました。こちらへどうぞ。」


立て続けに届いた三通目を開いた瞬間、文面と同じ「こちらへどうぞ」という声が耳に流れ込んできた。低く湿ったその声は耳の奥にべっとり貼り付いて離れない。何度も、何度も。こちらへ、こちらへ。恐る恐る視線だけを左右に巡らせる。さっきよりもずっとはっきり、それでいて陽炎のようにゆらゆらと揺れる人の影が改札の向こうで手招きしていた。


スマホを持つ手に力が入り思わず声が出そうになったその時、「おい!」と聞き覚えのある声がした。はっと顔を上げると、駅の入口に猟師が立っていた。肩で息をしながら足早にベンチへと近づいてくる。ジビエ料理屋のおじさんだ。


「あんた、まだいたのか!何かあったのか!?」


必死の様子で私の肩を揺らすおじさんに、こくこくと頷いてみせる。目線はおじさんと改札とを行ったり来たりしていた。耳の奥の声はもうない。おじさんが改札を睨みつける。激しい不快感を跳ね返すように微かに舌打ちしたかと思うと私を立たせ、自身の軽トラックへと誘導した。最早断るという選択肢は無い。抱えた鞄を握りしめて振り返る。影は改札を越えようとしては見えない壁にぶつかるように、波打つ体をいっそう大きく揺らしていた。揺れるたび、獣のような、何かが腐ったような、強烈なにおいが鼻を衝く。ぶつかって、揺れて、人じゃない。なのに。どろどろの歪みから腕だけが変わらず手招きしている。細く、白い、おんなの。腕が。ゆれる。吐きそうだ。足がすくむ。しかし、おじさんの「急げ」という一言が恐怖から自由にしてくれる。開けてもらった助手席に転がるように乗り込む。おじさんの踏み込むアクセルとエンジンの音が、今は何よりも心地好い。


街まで送ると言ってくれたおじさんは道中、何も訊こうとしなかった。私にはたくさん訊きたいことがある。

「どうして駅に……」

どうして駅に来たんですか。唇がふるえて言葉が続かない。

「いちばん嫌な感じがしたからだ」

少しの間を置いて、最後まで言えなかった質問の答えが返ってきた。それからこの辺には妙な噂があること、日が暮れた後胸騒ぎがしたこと、居ても立ってもいられず駅に来てみたことを話してくれた。もっと詳しい話をしていたはずだが、疲労と恐怖で頭の中が散らかっていて、ほとんど何も残っていない。間違いなく覚えているのは「よかった」と何度も繰り返されたことだけだ。おじさんは灯りの連なる街中、24時間営業のファミレス前で私を降ろしてくれた。おじさんの言葉に首を縦か横に振るだけだった私に、夜にはもう来ちゃいかんよ、と言い残して。


よたよたとファミレスに入り、注文したホットコーヒーが来るまでまたスマホを見ていた。あのメッセージは既に消えていて、確かにあった通知も残っていない。あれは一体何だったのか。おじさんが来てくれなかったら今頃どうしていただろう。いや、もう考えなくていい。答えに辿り着いた途端に”あれ”が改札を越えてくる気がする。


落ち着いたら急にお腹が空いてきた。コーヒーだけ注文したままのタブレットで肉料理のページを開く。しかしどれも昼間のジビエ料理と比べると今ひとつに思えてならない。あんな所に行かなければ怖い思いをせずに済んだのだが、あんな絶妙な焼き加減の野性味あふれる肉を体験することもなかっただろう。

「夜には、か」

別れ際のおじさんの言葉を思い出し、知らずに口から漏れていた。またの時はお礼の品でも持って行こう。何となくだけど、あの顔はたぶん焼酎なんかが好きだ。肉に合う焼酎って何かあるかな。不意に鼻をかすめた匂いにつられてハンバーグを注文した後、隠れ家的名店には星を5つつけておいた。

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