第15話

 頭のほんの隅っこで、予感がしていた。言うなれば、雨の日に傘を忘れるような、そんな程度のもの。翌日になると、雨が小さくなっていて、北千住は心地の良い暗がりに包まれていた。水たまりの反射の雨雲を、ニューバランスの靴が踏むわけだが、それからすぐにジョニーの端末に通知が一件届いた。スマホを取りだすと、大翔からラインが入っていた。未読件数が、三件。おそらく、昨日とその前のものが一件ずつ。申し訳なさからメッセージを開いた。『今日出勤? 今から行こうと思ったんだけど』に対して、ジョニーは傘を片手に「休み。いまは行かないほうがいいよ」とだけ送った。どうやらそういう気がしたらしい、ということを送ってからやはり自覚を持った。とにかく、喫茶店に着いたジョニーだったが、マリーゴールドとムギワラギクの花が消えていた。出迎えてくれたのはドアベルで、カランカランの音に合わせてジョニーはおはようございます、とだけ口にした。

「おはよう。ジョニー君」

 ユミの呼び方が、少しばかりいつもと違った。精巧な飴細工のように繊細で、それでいて実体のない呼び方だった。他人行儀とも言えない、法則のない無秩序な感じを受けた。いつも通り着替えるために、ジョニーはカウンターと、『霧雨と片時雨』、あるいは『紙細工の月だけが知っている』を通り過ぎようとした。その直前で、ユミから声をかけられた。

「今日は少し話があるの」

 ユミは笑顔で言った。

「カウンター席に座ってくれるかな」

 その笑顔を見て、なぜだろう、ああ、今日なのだと思った。確定されていないことではあるが、サンセット的な日没を思わせた。時計は、十時四十五分を示している。日没にはまだ、早い。とにかくジョニーはユミの様子をうかがいながらカウンター席の端っこの椅子を引いて、腰かけた。ジョニーは落ち着かない。これからなにかが起こることは確かで、なにもないのにユミはこんなことを言わないのは当然わかっている、つもりだ。

 珈琲のカップをゆるりと用意するユミの仕草、動作、一つ一つを見逃せない。少し背伸びして取ったカップは、濃い青色とも苔色ともとれるものだった。まるで霧雨と片時雨だった。

「あの、ユミさん俺、出勤時間超えちゃいますよ」

 ユミはいいの、とだけ答える。さっぱりだ。わからない。魔女の、彼女の横顔が陰りはじめたのは、それからだった。ジョニーは動けなくなっていた。少しでも動けば、なにかがかわってしまうのではないかという恐怖があった。それこそ予感、だ。ユミは静かにお湯をサイフォンに注ぎ、焙煎された豆たちがジュウ、と音を立てる。珈琲を淹れる瞬間の音に、耳を澄ませたこともなかった。魔女の魔法なのだと思うことにした。

「珈琲ってね、香りもそうだけれど、色も凄いと思わない? まるでコールタールみたい」

 ジョニーはわずかに首を垂れる。知恵の輪は、絡まってはいなかった。ユミは続けた。

「琥珀色って表現はちょっとオシャレすぎて、私には似合わないかなって思うのよね」

 ユミはカウンターとキッチンの間の部分から、薬のゴミを静かに取りながら静かな口調を保って言った。珈琲ができあがるまでの間、どうするのかと思っていると、ユミはおもむろにポケットに手を入れ、セブンスターの箱を取りだす。

「タバコ、吸っていいかな」

 いいですよ。そう答えることがやっとだった。セブンスターの箱のドット絵が、チカチカした。ユミはありがと、とほほ笑んで、親指と人差し指で握られたセッターを咥え、ジッポで火を点けた。ユミはタバコをくゆらせて、そっと換気扇に向けて煙を呼吸と共に吐き出した。タバコを喫っている姿なんて見たことがない。しかし、彼女のたたずまいすべてが様になっていて、ジョニーの予感にますます近づいてゆく。タバコを片手にユミはシンクに腰を預け、ジョニーにそっと視線を向けてきた。ジョニーはドキリとする。視線だけで、彼女の言い分がわかった気になって、すぐにそれを頭の中でかき消した。

 それから、数拍後、彼女は、魔女は、ユミは、おもむろに切りだした。

「お店、閉めることになったの。だから、この一杯が最後」

 ジョニーは目を開きつつも、やっぱりそういう類のことなのか、と問題を切り分ける。裏切られたような気持ちになったのを、すぐに止めた。今回は、きっと、違う。そう思いたいだけだと思えば思うほど、ジョニーはなにも言えなくなってきて、視線が目の前の珈琲カップに落ちてゆく。ジョニーの心が、ひどく傷んだ。

「最後はね、ジョニー君が飲んでくれたらいいなって、思ってて」

 苔色の陶器のカップは、静かに青い。ただ、青い。ユミが珈琲を淹れ終わる頃には、なんだかすべての出来事が他人事になっていた。もっとどうしてですか、とか、なんでなんですか、とか、給料はどうするんですか、とか、聞くべきことがあっただろう。しかしそのどれも、ジョニーは聞けなかった。聞いたところで、彼女はなにも答えない。本当の彼女の顔も表情も知らないジョニーには、術がない。

「また、ラインするからさ」

 今度はユミのその言葉にすがりはじめる。

「今日の分も、つけておくから。大丈夫、きっと大丈夫。ジョニー君は、大丈夫」

 大丈夫、その言葉はまるで当てつけのように感じたのだが、彼女の言葉はきっと正解で。耳を傾けるに値するもので。ジョニーは注がれたコールタールを静かに飲んで、琥珀色の瞳の彼女の顔を最後まで見ることができなかった。彼女が再びセブンスターを手にとってじっくり吸い終わるのと、珈琲がなくなる速度は、比例していた。彼女のラメの輝きを、せめて見たいと思った。それでも、やはり、顔だけは見ることができなくって。

「ありがとうね」

 その言葉を最後に、ユミとは出会えていない。彼女のラインアカウントが消えたことに気づくまで、本当に彼女のなにかを信じていたと思う。

 魔女はこうして、梅雨明け直前に、雨雲と共にどこかにいってしまった。六月二十六日のことだった。誕生日前日、十一年前にジョージが現れたその日、彼女はなにも語らずに。



「立つ鳥跡を濁さず! 愛を感じ、愛に泣き、愛に生きろ!」


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さらばジョージ、おかえりジョニー 日高 章 @hidakashou

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