三章
第14話
ジョニーの元に、エマでもメリッサでもない冴子からラインが届いたのは昨日の二十二時頃で、気づいたのは朝の十時半だった。惰性で契約を続けているネットフリックスのモニター画面が自動オフになってしばらく、遮光カーテンの隙間から雨音と車の横切る音だけが聞こえる、昼とも朝とも言えぬ時間に、という意味だ。『最近は元気にしてるの? 久しぶりにラインしてみたよ(ピースサインの絵文字)』に対して、スタンプでしか応じられないのは冷たいのだろうか。ジョニーは起きあがり、ベッドを後にする。廊下のキッチンを横切ってトイレに向かうとき、姿見があった。鏡の上のほうはタオルがかけられており、ジョニーの首から上がしっかりと隠れている。
さて、十二時からバイト先のあの、喫茶店に向かったジョニーだったがなにやら胸騒ぎがした。一週間が経過してもなお、なんの根拠もなく、物事は必然であると言わんばかりに、心臓の鼓動がやたらともたつきながら、強く、跳ねる。あの彼女の事件をきっかけに、マリーゴールドと丸い花――ムギワラギクだとわかった――は、こぢんまりとした笑顔で出迎えてくれるわけだが、どうやら、その胸騒ぎとやらは勘違いだったのかもしれないと思う。
「ジョニー君おはよう」
ユミのラメが、輝いていた。梅雨が、明けたと思った。喫茶店に晴れ間が戻ってきたのだ。おはようございます、とだけ返すのもいつも通りであって、ジョニーは一直線に更衣室へ向かった。店内の電話が鳴ったのはそのときで、扉越しに平板な着信音が鳴った。しかし、その音はすぐに何者かによって切られた。ユミが電話に出ている気配はない。次にファックスの受信のアナウンスが鳴って、妙な気配を感じた。普段、電話はおろか、ファックスなんて届くことはない。発注ミスの連絡だとかで時おり連絡があるくらいだ。商店街で噂になっているらしい〈魔女の占い〉とやら以外で、この店に電話をしてくる人は少ない。
ジョニーが準備を終えた頃にはユミがカウンター内で椅子に座っていた。スマホを片手に外の雨を眺めつづける横顔。なにやらただ事ではない気がした。しかし、ジョニーはやはりこういうときになにかうまい言葉がかけられる人間ではなくって。よろしくお願いします、のいつも通りの言葉に、ユミは「よろしくね、今日も暇だけど」と答えた。近頃、客足が明らかに遠のいている気がする。もともと繁盛店ではなかったが、それにしてもタバコが喫える珈琲店というのは、都内では絶滅危惧種な気がする。利用者が増えてもおかしくないはずだ。雨のせいだろうか。梅雨は明けたというのに、空が晴れきっていない。ユミのラメの輝きも、一時的なものだったと気づいたのは、勤務開始から十五分後で。
「一つ、予約席とっておいて。どうせ誰も来ないだろうけど、一応」
「わかり、ました」
いつになく、言葉尻が他人事だった。すぐに子機が着信を知らせた。ジョニーが出ようとした寸前、切れた。そうかと思えば再び、電話が鳴って、今度こそ逃すまいとボタンに指を伸ばす。その直前、「出ないで」と強く言うわけでもないユミの制止があった。どちらかといえば、疲れた、といった雰囲気だ。不意にカランカラン、と、ドアベルが鳴った。
「こんにちは。遅くなりました」
物腰が柔らかくも、引き締まった物言いをする男性で、ジョニーと同様、短い髪に丸眼鏡、オーバーシルエットのパーカーにジーンズを身にまとっている。それを覆うようにカーキ色のレインコートを羽織った、ジョニーより年上の男性だった。彼の足元は、白と黒のオールスターのコンバースが淀みなく合わせられている。履きなれてはいるが、手入れはされているようだ。ユミはその男性が入ってくるなり両手を払って姿勢を正し、柔らかな笑みで出迎えて言った。
「時間はあくまで予定ですからぜんぜん。それに、見ての通りですし、どこでも自由に座ってください」
ありがとうございます、といったやりとりのあと、カウンター席を引く仕草もどこか大人の男性を思わせた。上品とも違う、余裕のある、ジョニーとは違った、たたずまいだ。コートを脱いで丸めて、椅子に腰かけたとき、丸眼鏡の奥のきれいな二重瞼がジョニーを見つめた。ジョニーは慌てて会釈で返す。
「彼は、アルバイトの方ですか?」
「そうです。ジョニー君って言って、三週間前くらいに働き始めてもらったんです」
ユミの艶のある髪が明るく揺れた。小さな輪郭の内側は、どうにも髪の揺れ具合と比例しない。「出直しましょうか」と男性。「いえ、大丈夫ですよ」今度はユミの声があった。なんだか距離を感じるやりとりに感じたが、ジョニーは慣れている。視界の端ではジョージがなにも言わずにひたすらスクワットに励み、雨の重みに、地球の引力に耐えている。
「こちら
ユミが左手を差し出して足立と呼ばれた男性に向けた。どうも、どうもこんにちは、という社交辞令的な会話が広がったわけだが、ジョニーはこれ以上どうしたらいいのかわからなかった。嫌味はない。しかし、大人の余裕を持っている男性を前にすると、ジョニーはなんだかわからなくなる。自分に自信が持てなくなる。ジョニーがとりあえず、と言わんばかりにおしぼりを持っていくと、彼のくっきりとした二重が再びジョニーをとらえる。
「いい眼をしてますね」
「でしょう! やっぱり足立さんならわかると思いました」
なんの話かさっぱりだった。だからジョニーは反応に困ってユミを見るしかできないわけで。何拍かしてからようやく絞りだした言葉が、オウム返しだった。ジョニーは足立にゆっくりと視線を向けた。
「眼、ですか?」
「そうです。眼です。人のその眼だけは、嘘がつけないものですからね」
そういうものなのか、とジョニーは思った。なんとなく、ジョージを見つめる。彼の白い肌と青い瞳は、なんだか向こう側を射抜くようで、美しかった。逃げるように視線を戻す。ブレンドで、と足立からオーダーを受け取って、ジョニーは伝票を一枚だけ切り取って、ボールペンを握った。電話が再び鳴り響いたのはそのときで、ジョニーは先ほどの「出ないで」、を守ろうとする。すぐに電話が切れた。
「やはり、そういう状況ですか」
足立の言った内実が、わからない。ジョニーが次に考えようとしたとき、再び電話が鳴った。ファックスも動きはじめた。ふとユミに視線を移すと、うつむきながら左手をギュッと握りしめている。ジョニーは状況がわからない。情報が足りない。しかし足立も店に入ってきたときと違う様子で、みけんにしわが寄っている。けたたましいほどに鳴り止まない電話をどうしようと思っていた矢先、ユミが珍しくカウンターから出てきた。ユミはゆらり、と現れたのち、電話の受話器を握る。ジョニーは安心した。店内に流れるジャズのBGMが、緩やかな雰囲気を作ってくれている。ジョニーが手元の作業に戻ろうと――パチン――なにかが切れる音と共に電話の音が消えて、世界との交信がぶつ切りになった。
「ちょ、なにしてるんですか、」
ジョニーは慌てた。ユミの手にはキッチンバサミが握られている。ユミが立っている奥の電話機の線が、力なく床に息絶えていた。なにごともなかったようにユミは戻りながら、ボソリ、と言う。
「いいの。買い替えるか、処分しようと思ってたから」
一切ジョニーとは視線を合わせていなかった。まるで断絶された高い国境の壁のようななにかを感じた。彼女へ差し出すべき手は、もう届かなかった。
「ジョニー君、今日はやっぱり帰ってもらってもいいかな。時間はつけるから」
ユミの声には、明らかにいつもと比べると差を感じてしまう。梅雨のあとは、雷雨だった。
「ちょっと足立さんとお話したいの。ワガママ、珍しいでしょ?」
珍しいかどうかはわからない、という言葉が喉元までのぼってきたが、ジョニーはその言葉を吐き出すだけの力もなかった。ジョニーはなにも言い返すことができない。動くことも、ニューバランスのスニーカーの輝きを利用しても、なにもできることはなかった。できることと言ったら、縦返事の肯定しかなくて、知恵の輪がなんだか絡まった。
「誰かが愛の先陣を切るのだ! 自分の意志はどこにある、あの川に乾杯!」
ジョージの強い言葉があったが、やはり、それはジョージの言葉で。それからジョニーは顔色ひとつ変えないように善処したが、いつも通りの「おつかれさまです」、にはならなかった。ジョニーの顔は、自分でも自覚があるほどに、引きつっていただろう。ジョニーはあえて、その自分の内側を知ることを、やめた。逃げたのかもしれない。
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