日傘男子の日笠くん

藤城柚子

日傘男子の日笠くん

 福島ふくしま芽唯めい日笠ひがさくんと一緒に帰る。それはどちらかが「一緒に帰ろう」と口にしなくても、成り行き、あるいは自然に、そうなる。月に二度、図書委員の当番で貸出と返却の対応をした日だけ。

 高校三年生の春からクラスの図書委員になった二人は、放課後に三十分の業務を終えて、上履きをスニーカーに履き替える。

 昇降口の三段だけの短い階段を下りると、日笠くんはスクールバッグから取り出したワンタッチ式の折り畳み傘を慣れた動作で開いた。

 空は晴れ渡っている。

 梅雨の季節だというのに、雨の一滴も降ってきそうにない天気。

 突き刺す太陽光の主張に元気を奪われつつも、雨よりはマシか、と手で庇をつくった芽唯に日笠くんが問いかける。


「福島さんも入る? けっこう日差し強いよ」

「遠慮します。日傘で相合傘なんて聞いたことないし」


 もう一人分のスペースを空けていた日傘の位置を元に戻して、日笠くんは残念がる様子もなかった。


「そう? 紫外線、甘く見ちゃダメだよ。女の子なんだから」

「日焼け止めは一応塗ってますー」


 それにしても……

 外側は白、内側には黒い生地の張られた傘を眺めながら呟いた。


「日笠くんが日傘ねぇ……」

「そうそう。おもしろいよね」

「自分で言うかな」


 日傘を持った見返り美人図のような体勢で、日笠くんは笑っていた。


「美容男子は増えてるけど、日傘は恥ずかしいって男子もいるだろうから、俺が日傘を差すことでその恥ずかしさを薄めてあげられないかなーって」

「じゃあ日傘を差すのは自分のためでもあって、美容男子のためでもあるんだね」

「そだよ。でも、その結果、日傘男子が増えるのかっていう俺の実験でもあるから、結局は自分のためになるのかな? だからこうして春先から日傘差してるんだよ。夏にどうなるか楽しみだなー」


「実験……」芽唯が呆れていると、日笠くんは続ける。


「まぁ、それだけじゃないんだけどね」


 まだ他に理由があるのだろうか。首をかしげると、日笠くんは小学生みたいな口調で「なんでもなーい」と駅までの道を先に歩き出した。遅れて、芽唯もその背中を追っていくと、太陽もあとをついてきた。



 初めて一緒に帰ったとき、平然と日傘を差した彼に芽唯はとても驚いた。真夏ならわからないでもないが、まだ四月だったのだ。いつか母親に言われた「春の紫外線はバカにできないよ」というセリフが、まさか同級生の男子から飛んでくるとは思ってもいなかった。

 日笠くんはちょっと──いや、かなり変わっている。

 それは芽唯の主観だけではない。学年で一番成績の良い彼は、学年どころか全校生徒のあいだでちょっとした有名人だ。

 日笠くんを有名人たらしめたのは、彼の趣味である『誕生日集め』だった。

 人の誕生日を収集し、データ化して、誰かの誕生日の当日になれば本人のクラスまで赴き、お祝いの言葉をかけ、パーティー用クラッカーの糸を引く。それは生徒でも教師でも、知人でも知らない人でも関係ない。祝われて悪い気はしないからか、文句を言う人は誰一人としていなかった。芽唯も今までに二度、祝ってもらったことがある。

 なぜそんなことをするのか? と問われたとき、日笠くんはこう話したらしい。

「みんなそれぞれ反応が違って面白いから、この人ならどういう反応になるかっていう実験なんだよ」──と。

 日笠くんからあふれる知識欲と知的好奇心は、『変人』のレッテルを貼られるのに充分なほど、凡庸な高校生たちの目に異様に映っていた。



 駅に降りる階段の手前で、日笠くんは日傘をたたむ。地下鉄から地上に出てきた人たちはそれを見ると、訝しげに空を見上げて、手のひらで何かを受け止めようとした。

 空は嘘みたいに晴れ渡っている。

 雨が降っていないことを確認すると人々はそれぞれの方向へ散っていった。

 すれ違いざまに、高齢のおじいさんが日笠くんに声をかける。


「おにいさんが傘差してたから、雨降ってるのかと思ったよ」


 男子高校生と日傘の組み合わせは、アルバイトの面接に就活スーツで臨むくらい、非常識ではないがミスマッチのようだった。一緒に帰る回数を重ねた芽唯でさえ、驚きはしないがいまだに慣れてもいない。

 目尻に皺を寄せたおじいさんに、日笠くんも満面の笑顔で返す。


「日傘です。熱中症対策にもいいですよ。東京じゃ、大雨よりも暑さのほうが危険だから、夏になったら試してみてください」


 日傘普及運動は学外でも続いているようだ。

 返事の代わりに片手をあげて立ち去ったおじいさんの背中を見ながら、

「うーん。なかなか普及しそうにないなぁ。日傘」と、日笠くんは本気で悩んでいる。

 芽唯はいつも、社交的な彼の性格を不思議に思っていた。中学まで、頭の良い人物のイメージといえば、瓶底メガネの物静かなガリ勉タイプだったからだ。

 日笠くんの学ぶ欲求は自分の内側だけでなく、外側に放出されている。つまり、陽キャなのだ。きっと陽キャの『陽』が、日傘で日光を遮っているにも関わらず、彼をキラキラと輝かせているに違いない、と芽唯は常々考えていた。



 梅雨らしいまとまった雨も降らずに、このまま梅雨が終わるんじゃないか。

 そう油断させて、午後から強い雨音が校舎を包んだのは、七月になってすぐのことだった。

 ただでさえ利用者の少ない図書室は、こんな天気の日は図書委員だけの貸し切りになる。

 二人しかいなければ、お静かに! と大きく印字されたポスターの注意を無視することができた。

 昼休みに返却された本を元の場所に戻すというわずかな仕事も終わってしまうと、薄暗い空をうかがうように芽唯は窓を開けた。

 風がカーテンを揺らす。

 ついでのように、芽唯の脳も揺らす。

 すぐに窓を閉めた。遮断したかったのは、吹き込んでくる雨だけじゃなかった。


「雨の匂いって、きらいだな」


 湿気と土ぼこりの混じった雨の匂い。

 匂いそのものじゃない。付随して、浮かぶ記憶。それを思い出したくない。

 芽唯が指にまとわりついた雨粒をハンドタオルで拭うと、後ろのほうできちんと図書委員の仕事をこなしていた日笠くんが尋ねた。


「それって、雨の日に嫌な思い出があるとか?」


 まさか独り言が聞かれていると思っていなかった芽唯は驚いて、「地獄耳」という言葉は心の中だけで唱えた。

 そんなところかな、と芽唯が濁して答えると、日笠くんの目が爛々とする気配は図書室にひしひしと充満した。


「福島さん、どうして匂いと記憶が強く結びつくか、知ってる?」


 日笠くんに「知ってる?」と訊かれたとき、芽唯は「知らない」と即答すると決めている。自分が物知りでないことも、日笠くんが話したくてしょうがないことも、わかっているからだ。つまり、需要と供給。

 需要よりも供給(というより供給欲)が過多な気もしているが、いつもと同じように返事をした。


「視覚とか、聴覚とか、人の五感ってあるでしょ? その中で嗅覚だけが、脳の記憶や感情をつかさどるところに直接作用することができるんだ。だから、匂いの記憶はいちばん残りやすくて、忘れにくい」


 本棚の整理をしながら難しい話をする日笠くんを聖徳太子のようだと思った。


「じゃあその記憶が悪い思い出だったら、ずっと思い出して、自分を苦しめるってこと?」


 問題を投げかけても、日笠くんは手を止めない。

 彼が本棚を整理したあとは、並び順も本の背表紙の位置も整然としている。だからといって他の図書委員の雑な仕事にケチをつけたりはしない。自分が好きでやってるだけだから、と答える。


「人って、良い記憶よりも悪い記憶のほうが何倍も残りやすいんだって」

「最悪じゃん。どうすればいいのよ、そんなの」


 貸出カウンターに戻り、席に突っ伏した芽唯は、聡明な現代の聖徳太子にすがるような口調で言った。日笠くんの表情は見えない。本棚の陰からなにやら声がする。


「うーん……消す方法があればそれが最適解なんだろうけど、無理なら……」


 どうやら本気で悩んでいるようだ。

 日笠くんはかなり変わっている。だけど、変人のレッテルを貼られている日笠くんを嫌いな人は、芽唯の知る限り、ひとりもいない。

 もういいよありがとう、と芽唯は自分の腕を枕がわりにして軽く目を閉じた。

 忘れたくないことはすぐ忘れるくせに、忘れたいことはどうして素直に消えてくれないのだろう。



 当番を終えて図書室の戸締りをしたあと、日笠くんは、鍵を職員室に返してくるね、と走っていった。

 先に靴を履き替えた玄関で芽唯は彼を待った。まだ雨は止んでいない。昇降口の短い階段の上と階段を下りた先では、アスファルトの色がくっきりと分かれている。

 芽唯は折り畳みの傘を出そうと、バッグの中を手でかき混ぜるように探ったが、ない。何度探っても、見当たらない。


「おまたせー」


 ぱたぱたと小走りで近づく日笠くんに、芽唯は落胆の声を出した。


「傘、忘れた」


 落ち込んでいる芽唯の表情に反して、日笠くんは嬉しそうに声をはずませる。


「えっほんとに? うんうん。折り畳みだけど、俺の傘入れてあげる」

「なんでそんなに嬉しそうなのよ」


 訝しげに訊くと、


「だって、月に二回しか福島さんと帰る機会がないのに、望んだとおりのシチュエーションになるなんて、ものすごく確率が低いんだよ?」

「望んだとおりって、なに?」


 質問には答えずに、にこにこと笑顔の日笠くんは靴を履き替え、下駄箱から昇降口の屋根の下まで進んで、空を見上げた。

 彼が取り出したのは、いつもと同じ、見慣れた白い日傘。


「日笠くん、それは日傘では?」

「日傘であり、雨傘でもある。晴雨兼用だよ」


 傘の持ち手部分のボタンを押すと、白い布の面積が一気に広がる。日笠くんは傘をわずかに芽唯の近くへ傾けて


「はい、中へどうぞ」


 といざなった。

 芽唯は、相合傘をすることになったのは全部この雨のせいだと自分に言い聞かせながら、傘の中の狭い空間で日笠くんの横に並んだ。「おじゃまします」

 雨の中を歩き出す。いつも、外側からしか眺めていなかった白い傘の内側には、思いがけない光景が揺れていた。

 中心から伸びている骨の一つに、それはぶら下がっている。

 薄いアクリルのキーホルダー。

 そのキーホルダーが、てるてる坊主の形をしている、と芽唯が気づくまでに時間がかかったのには理由があった。

 逆さまだ。

 ポンチョというのかスカートというのか、服の部分に穴をあけられ、チェーンで引っかけられている。タロットカードの一枚に、吊るされた男、というのがあったなと思い出す。頭に血が上ってしまいそうなポーズをしながらも、てるてる坊主は嬉しそうな笑顔を絶やさずに頭上で揺れていた。


「これって……」


 芽唯がそっと指先で触れると、てるてる坊主は揺れるのをやめた。


「それね、逆さまになるように自分で穴開けてチェーン通すの大変だったんだよ。既製品って、もちろん頭が上になるように作られてるからね」

「自分で穴開けたの? なんのために?」

「なんのためって、ふれふれ坊主にするためだよ」

「ふれふれぼうず?」


 言いながら、芽唯はさっきから質問しかしていない自分に気がついた。それでも訊かずにはいられない。日笠くんは謎で満ちている。


「そっ。雨が降ってほしいーって、てるてる坊主を逆さまに吊るすのが、ふれふれ坊主」

「なんで雨降ってほしいなんて思うの?」


 日傘男子の日笠くんが、実は雨乞いをしてたなんておかしな話だ。

 そんなの芽唯にとっては嫌がらせ以外の何物でもない。雨の匂いが鼻を突く。


「俺は雨の匂いがすると、福島さんを思い出すよ」


 また「なんで?」と訊くのも憚られて、今度は首をかしげるだけにした。

「福島さん、泣いてたから」傘の中、少しだけ芽唯を見下ろした日笠くんは言った。「半年くらい前、あの昇降口のところで、雨を睨むように泣いてたでしょ?」

 雨の匂いをきらいになったあの日のことだ、とすぐにわかった。まさか誰かに見られていたなんて。だけど──余計に謎は深まるだけだった。


「そのことと、雨が降ってほしいことは関係ないじゃん」


 泣き顔を見られていた恥ずかしさを、不機嫌の中に紛れ込ませて、ごまかすように芽唯は口を尖らせた。

 聡明な日笠くんはすべてを見抜いていて、それでも、フフ、と優しい息を漏らす。


「だって福島さん、傘も差さないで駅まで走って行っちゃって。俺、声かけなかったことずっと後悔しててさ」


 あの日を上書きできないかな、って思ってたんだよ。

 そう言って笑った日笠くんの頭上で、ふれふれ坊主は揺れている。雨を喜ぶ舞のように、もっと降れと祈祷するように。

 けれど勘違いしてはいけない。日笠くんの優しさは、他人のためでもあって、自分のためでもある。芽唯にも、もうわかっていた。日笠くんの果てない知的好奇心というやつは、ときに非常に厄介なのである。


「後悔してたのは、泣いてた理由が気になって気になって仕方なかったから、でしょう?」

「えっ⁉ どうしてわかったの⁉」


 芽唯は、フフ、と仕返しのような声を漏らす。「日笠くんは『わからない』ことを『知りたい』って思う人だから」

 知りたいと思ったら、一秒でも早く疑問を解決したいのが日笠くんという人間だ。その彼が、泣いていた理由をすぐに訊かなかったのは、偶然に偶然が重なる今日まで訊かないと決めてくれていたのだろう、と推測したし、そう思いたかった。

 それでも笑い話にできないのは、嗅覚の執念深さだろうか。辟易しながら芽唯は思い切りつま先を前に出した。雨のしずくを勢いよく蹴とばすように。

 駅に行く途中にはトンネルがある。高速道路の下に五十メートルほど続くトンネルは、薄暗く、夜に一人で歩いていたら幽霊に拉致されそうな不気味な場所だ。

 雨の日のこのトンネルが特に嫌だった。

 早足で抜けてしまいたい芽唯はわざと歩幅を大きくしていたのに、日笠くんは知ってか知らずか、


「ちょっと靴ひも直したいから、待ってて」


 と、傘を地面に放ってしゃがみこんだ。トンネルの中は雨が降っていないのに、空気がこもるためか雨の匂いが濃縮されている。

 芽唯はめまいを覚えながら、トンネルの先、白っぽく霞む出口のほうをボンヤリと眺めていた。

 いきなり、後方から日笠くんが大きく叫んだ。


「福島さん!」


 ぱぁんっ!

 鼓膜と空気を突き破るような鋭い破裂音は、芽唯が完全に振り返るよりも先に鳴り響いた。

 驚きと動悸。芽唯は息ができなかった。最後まで振り返って、日笠くんの表情と体全体を視界が捉えても、なにが起きたのかわからない。トンネルの中で、破裂音が何度も反響している気さえした。

 日笠くんはなぜか目を爛々とさせて、手にはパーティー用のクラッカーを握っていた。散らからないタイプのクラッカーで、飛び出した何本もの紙テープは、本体と繋がったまましだれている。破裂音の原因がこのクラッカーだと理解するまでに時間がかかった。


「福島さん! 誕生日おめでとー!」


 彼の大声にもさらに驚き、芽唯はぽかんと口を開けたまま放心していた。それでも言わなければならない。状況がのみ込めないまま声を振り絞る。


「あの……日笠くん、私、今日誕生日じゃないよ?」


 申し訳なさそうに答えた芽唯を楽しそうに見ながら、日笠くんはうなずいた。


「うん。知ってるよ。俺、みんなの誕生日は把握してるから」


 じゃあなんで?

 尋ねるより早く、日笠くんは使用済みクラッカーを丸めてスクールバッグの奥へぎゅうと押し込んだ。


「発砲だと思われて通報されたら困るでしょ? だからわざと大声で周知しといた」


 置きっぱなしになっていた傘を拾い上げて、日笠くんはまだ黒目が小さくなったままの芽唯に告げる。


「上書きしたかったのは、雨の匂いと結びついてる、福島さんの記憶のほう」

「え?」

「匂いと結びつく記憶が強くて忘れられないなら、上書きできないかなって思ったんだ。でも、楽しいことや嬉しいことは負の感情より弱いから難しい。それなら、驚きはどうかな、と考えて実験してみたんだけど、どうだった?」


「実験……」呆れていた。自分のための実験でありながら、本気で他人の悲しみを薄めようとした、彼の優しさに。


 日笠くんは早く実験の結果を知りたいといったふうに目を輝かせる。

 その目を見て、なぜか少しだけ意地悪をしたくなった。「あのね日笠くん、私があの日泣いてた理由は……」


 知りたかった答えが目の前に迫ってきたとき、彼はごくりと息をのんだ。


「教えない」

「えっ、どうして」

「教える理由が、ないからだよ」


 芽唯は白い歯を見せつけるように、口の端を横に広げて笑ってみせた。


「ひどいなぁ。まぁ確かに、俺なんかに教える筋合いはないだろうけど」


 肩を落として残念がっている彼の反応がますます愉快だった。

 日笠くんは勘違いをしている。教える筋合いがないわけじゃない。なくなったのは、雨の匂いをきらう理由のほうだ。

 トンネルを抜けて外へ出る直前に、芽唯は雨の匂いを目いっぱい鼻から吸い込んだ。

 この匂いを忘れないように。今日の記憶と結びつけて、上書きするために。

 左手で傘を持つ日笠くんは右肩だけが濡れている。

 雨の匂いを初めて優しいと思ったことを、日笠くんはまだ知らない。

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