私はもう、タイムリープを望まない

倉田くら

私はもう、タイムリープを望まない



 約四十年間生きてきて、いまのところ、私はまだタイムリープをしたことはない。


 ある日、朝起きたら実家の自室にいて、階段を降りるとキッチンに母がいて、仕事前の父に「おはよう」と声を掛けられる。

 今日部活は? と尋ねられて、そこでやっと「夢か……?」なんて思いながらわけもわからず「ん」と曖昧な返事をする。

 学生服を着た弟とすれ違い、妹はランドセルに教科書を詰め込んでいる。

 そんな体験を、私はまだしていない。



 タイムリープをしたら何をしようか。

 おそらく、多くの人たちが考えたことがあると思うけれど、私も例に漏れずそんな妄想を繰り返してきた。

 きっと突然のことなので、宝くじの当たり番号も、競馬の結果も覚えてはいない。一発逆転大金持ちになるのは難しい。

 ただ、一度目の人生の反省を生かして、少しだけしっかり勉強をしたり、新たな習い事を始めてみるかもしれない。

 百回くらい後悔した友人への失言や、やらかしたつまらない失敗を回避することも可能だろう。

 違う学校に進学してみたり、違う分野の会社に就職してみるのも面白い。

 考え始めると、あれもこれもと色々なことが思い浮かぶ。


 いや、正確に言えば、思い浮かんで「いた」。



 人生とは何が起こるかわからないもので、私は三十代の後半になって結婚をして、出産をした。

 出産して、退院して、家に帰って、育児に追われながらスヤスヤと眠るポテポテのほっぺの娘を見ているときに、ふと気が付いたのだ。


「私、もうタイムリープできなくない?」


 いや、できる。できはする。

 いや、現実的にはできないのだけどもそれは少し置いておいて。

 タイムリープをして娘を妊娠するよりも前に戻るのは、ものすごくリスキーであることに気が付いたのだ。

 私はタイムリープをしたとしても、絶対に必ず間違いなく、いま目の前で眠る、この娘に会いたい。

 染色体が、遺伝子情報が寸分違わぬ「この子」に会わなければならない。


 それって、めちゃくちゃ大変な「縛り」ではないだろうか。


 今の夫と結婚するのは最低条件としても、兄弟姉妹の顔や性格がそれぞれ違うのと同じで、全く同じ子に会える保証はどこにもない。

 なんなら、会えない確率のほうがずっと高い。宝くじの方がマシなくらいだろう。

 妊娠して、産婦人科に通って、笑顔の先生に「男の子ですね」って言われたら、きっと私は泣くと思う。

 お腹の中にいるのは可愛い我が子にかわりはないのに、「あの娘」ではなかったことに絶望する。お腹の子にとってみれば最低最悪にも程がある。

 女の子だったところで、生まれてから顔立ちが違ったら同じ事が起こるのだ。声が違ったら、性格が違ったら。考え始めるとゾッとする。

 娘に会うためにもう一度やり直そうとするかもしれない。既に出産を終えてしまっていたら、娘とその子、二人ともを産む方法を考えたりするのかもしれない。

 どう考えたって幸せからはズンドコ遠ざかっていく。 



 だからつまり、タイムリープなどすべきではなくて。

 というか、結局のところ、宝くじの番号を覚える気もなければ競馬の当たり券を調べることもしてこなかった私は、最初からタイムリープを本気でするつもりはなかったのだ。

 ただ、もう「楽しく空想できない」のだと気付くと、急に「ああ」と残念な気持ちになっただけだ。


 もちろん、私が今後タイムリープを望む日が来る可能性はいくらでもある。日々のニュースを見ながら無責任に「もしも時間が巻き戻れば」と思うことはあるのだから。

 今はたまたま偶然に、穏やかな日常を送れているだけだということは忘れないでいたい。



 私は、私自身の青春のやり直しにタイムリープの妄想することは多分もうない。

 それはほんの少しだけ残念だけれど、逆に言えば、私の青春の物語は、一旦、ぼちぼち満足する形で終えることができたとも言えるのかもしれない。

 人に自慢できるようなことは取り立ててない、平らかで凡庸な日々の連続だったけれど、一応、章としての区切りはついたらしい。

 今は第二章の途中で、きっと娘が巣立ったら第三章が始まるのだと思う。始まればいいな、と思うし、始まるようにいま出来ることはやろうとも思う。



 叶うならば、いつか、どうか無事に、タイムリープを切望することなく私の物語を閉じられますように。



――私はもう、タイムリープを望まない


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