言い方ひとつで世界はまろやかになるらしい

石野 章(坂月タユタ)

 その日も私は、ショーケースの中の苺ショートケーキをにらみつけていた。


「にらんでも苺は太らんよ」


 レジ横のスツールに座りこんでいた親友の夏海が、雑誌をぱたんと閉じて言った。客がいない時間帯になると、彼女は当然のような顔でケーキ屋の裏口から侵入し、当然のような顔でなにも買わずに居座る。厚顔無恥の権化である。


「太るのは苺じゃなくて私だから問題なのよ」


「また始まった。ケーキ屋の娘がそれ言う?」


「ケーキ屋の娘だからこそ言うの。ほら見てよ、この罪深い光景」


 ショーケースの中には、苺ショート、モンブラン、ガトーショコラ、季節限定マロンプリン、さらに父の気まぐれ新作「抹茶ティラミス」という謎のハイブリッド生物まで、ぎっしりと並んでいる。砂糖と生クリームの暴動現場だ。


「はいはい、罪深いねえ」


 夏海は私の制服のスカートの裾をつまんで、ひらひらさせた。


「でも真琴は、その環境の割にウエスト細いのむかつくんだけど?」


「それ、褒めてる? ディスってる?」


「褒めてる。……けどむかつく」


 というような、限りなくどうでもいい会話を展開していたときである。店のドアの鈴が、ちりんと鳴った。


「いらっしゃいませー」


 条件反射で声を出しながら顔を上げると、黒縁メガネにジャージの上からコートという、やる気があるのかないのかわからない格好の人物が入ってきた。うちのクラスの担任、国語の斎藤先生だった。


「お、やってるねえ」


「まあ店なんで」


 返事をしながら、私は心のどこかでため息をつく。よりによって斎藤先生だ。よりによって今日。よりによってこのタイミング。


 なぜなら、ほんの二時間ほど前、この男の名前は私のクラスのLINEグループで血祭りにあげられていたからだ。


***


 時は遡って、教室、ホームルームの終わりかけ。


「じゃ、帰りの会しめる前に、ひとつお知らせな」


 斎藤先生が、黒板の前で日誌をぱたんと閉じた。


「夏休みの読書感想文。校内コンクールで入賞が出ました。西原や」


 前のほうで「え、うち?」と声が上がる。西原佳乃は、この学校いち丸文字が似合うと言われるようなフワフワ女子である。普段は勉強なんてわかりませーん、みたいな顔をしているのに、夏休みの読書感想文で妙に冴えた文章を出してきて、軽く話題になった人物でもあった。


「前出て。賞状渡すからな」


 佳乃が、照れくさそうに前へ出る。教室のあちこちから拍手が起こる。その音を聞きながら、私は手を挙げた。


「先生」


 ざわめきが、すっと細くなる。


「ん? 一ノ瀬?」


「それ、ネットのコピペです」


 教室の空気が一拍止まった。


「タイトルで検索したら、そのまんまの文章出てきました。“お手本感想文”のサイト。句読点の位置まで一緒やったんで、たぶん丸写しです」


「ちょ、ちょっと待って」と佳乃が小さく言う。賞状に伸ばした手が固まる。


「一ノ瀬」


 斎藤先生が、少し低い声を出した。


「その話は、ここではやめとこか。あとで先生が確認する。西原、職員室来てな」


 教室の空気が、じわりと重くなる。みんなの視線が、私と佳乃のあいだを行ったり来たりしながら、これから何が起きるのかを探っている。


「なんでですか?」


 気づいたら、口が続けていた。


「悪いことしたんやったら、その場でちゃんと言わなきゃダメじゃないですか。テストでカンニングしてたら、その場で注意するのに。おかしくないですか」


「一ノ瀬」


 さっきよりはっきりした声で、先生が遮る。


「その話が正しいかどうかの前に、言い方ってもんがある。今はもうやめや。座り」


 私は、ぐっと唇をかんで、椅子にどさっと腰を落とした。文句は山ほどあったが、これ以上しゃべると私まで職員室送りになりそうだった。


「……はい。今日はこれで終わり。気を付けて帰れよ」


 斎藤先生が、無理やり帰りの会を締める。「起立」「礼」が、いつもよりばらばらなテンポで教室に響いた。


 終わった瞬間、私は鞄をつかんで立ち上がる。佳乃の顔は見ない。前のほうで誰かが「どないするん」と小声でささやくのが聞こえたが、聞こえなかったことにして教室を出た。


***


 家までの道。夕焼けとコンビニの看板のあいだを、夏海と並んで歩く。


「さっきのさ」


 夏海がぽつりと言った。


「……真琴は、あれやな」


「え?」


「正しいこと言えばなんでも許される思ってるやろ」


「だって、間違ってるやん。コピペで入賞はおかしいやろ」


「それはそうなんやけどさ」


 夏海は、ため息をひとつ落として、スマホを取り出した。


「てか、うちのクラスLINEやばいで。見た?」


「まだ」


「ほら」


 差し出された画面には、さっきの出来事についてのメッセージが、縦にみっちり詰まっていた。


《真琴よう言ったわw》

《でも佳乃ガチへこんでた》

《マジでコピペやったん?》

《サイト見たけどほんまやった》


 佳乃を直接ボロクソに言っている人は、意外と少ない。私のことも、「こわ」「正義マン」みたいな意見はあるけれど、本気で叩いている感じではない。代わりに、なぜか斎藤先生が集中砲火を浴びていた。


《斎藤、コピペ見抜けんのは教師としてどうなんw》

《ネット知らん昭和おじさん》

《先生もコピペで生きてきた説》


「……なんでやねん」


 思わず口から出た。そこちゃうやろ。画面を閉じて、ポケットにスマホを押し込む。


 なんで、こんなことになるんやろ。


 横を歩く夏海の靴音が、アスファルトの上で一定のリズムを刻んでいる。その音を聞きながら、さっき教室に流れていた空気の重さを思い返す。


 あの場の雰囲気が相当やばかったことくらい、私にもわかる。佳乃が、見たことないくらいひきつった顔をしていたのも目に入っていた。LINEで謝ったほうがいいのかもしれない。


 でも、やっぱり私は「正しくないことは正しくない」としか思えない。コピペはズルい。黙っているのは、ズルに加担しているみたいで嫌だ。


 だから、私は結局謝らなかった。これが、今日一日の全ての面倒ごとの出発点である。


***


 話はふたたびケーキ屋に戻る。


「で、なんで先生がうちに来るわけ」


「そらケーキ買いにやろ」


 夏海は、雑誌をまた開きながら言った。


「いや、そうなんだけどさ。なんでよりによって今日に」


 先生はショーケースを一通り眺めたあと、どれにしようかなと、いかにも迷っているふりをしながら、実際にはすでに決めているという顔をしている。選択の自由を満喫しておられるだけだ。客というものはだいたいそういう生き物だ。


「決まりました?」


 私が声をかけると、先生はようやく顔を上げた。


「うん。苺ショートを、二つ」


「お持ち帰りでよろしいですか?」


「そうだね。……いやしかし、一ノ瀬。さっきはなかなかスリリングな事件だったな」


 きた。先生のくせに、妙にフランクな言い方である。


「コピペはあかんよなあ、とは思うよ、先生も」


「ですよね」


 私は思わず力強くうなずいた。夏海が、また私の脇腹を小突く。「調子に乗るな」という意味の、無言の警告である。


「でもなあ」と先生は続けた。「言い方がもうちょっとなんとかならんかったかな」


「え、でも、事実じゃないですか」


「事実やな。うん、事実や」


 先生は苺ショート二つを見つめながら、さも難しい文学論でも話しているかのような顔をする。


「正しいことってな、包丁みたいなもんやと思うねん。料理に使えばおいしいケーキができるけど、人に向けたら怪我するやろ。正論なんか、とくにそうや。よう研がれた剣みたいなもんやからな。振り回したら、自分も相手も切ってまう」


「またそれっぽいこと言うてますよ、この人」と夏海が小声でつぶやく。


「いやまあ、刃物のたとえ出すの好きな世代やからな、四十代は」と先生は自虐してから、ふっと笑った。「でも今日は、誰かが血出してもうたみたいやで」


 私は包装用の箱を組み立てながら、少しむっとする。


「でも、悪いことは悪いって言わなきゃじゃないですか。黙ってたら、なんかズルくないですか」


「別に、悪いことは見て見ぬふりしろ、とは先生言わんよ」


 先生は、そこで一度はっきり区切った。


「コピペはコピペやし、あかんことはあかん。正しいことは、ちゃんと正しいって言うべきや。ただな、その言い方で守れるもんもあれば、壊れるもんもある、ってだけの話やねん」


 先生は財布からポイントカードを取り出しながら、真剣な顔をこちらに向けた。


「一ノ瀬は、何を守りたくて言ったん?」


「え?」


「正義感でも、ルールでも、自分の気持ちでも。なんか守りたくて言ったんやろ?」


 聞かれて、私は一瞬、言葉に詰まる。


 なにを守りたかったのか。そう言われて初めて、自分でもちゃんと考えていなかったことに気づく。ただ「それは違う」と思ったから、それを外に出した。それ以上の意味を、私はあまり考えてこなかったのだ。


「……なんとなく、です」


 結局、情けない回答しか出てこない。


「なんとなくで人を傷つけるのは、ちょっともったいないな」


 先生はそう言って、ポイントカードにスタンプが押されていくのを眺めていた。「あと三つで十個やな」とか言いながら。国語が担当のくせに、ポイントのほうはきっちり数えるタイプらしい。


 その横で、夏海が退屈そうにあくびをする。


「先生、話長いっす」


「教師のデフォルト設定や」


 うちの店のゆるい空気のなかで、さっきの教室の刺々しさが、少し薄まっていく。砂糖と生クリームの匂いには、多少は人間関係の角を丸くする効能があるのかもしれない。


***


 斎藤先生が帰ったあと、店内はまた静かになった。


「で、どうすんの」


 夏海が、テーブルに突っ伏しながら言う。


「なにを」


「佳乃」


 私はふと、冷蔵ショーケースの中のラスト一個のモンブランに目をやる。さっきからなぜか、上に乗ったラズベリーが先生の「血」という単語と重なって見えていた。なかなか物騒な連想だ。


「どうもしないよ」


 私はモンブランから視線をそらして、帳簿のページをめくるふりをした。


「あっちはあっちで悪いわけだし。私だけ謝るの変じゃない?」


 夏海は顔だけこちらへ向けて、じとっとした目を向ける。無言の圧力に耐えきれなくなって、「それに」と私は続ける。


「コピペってずるいでしょ。コツコツ書いた人が損するじゃん」


「わかるけどさ。真琴があれ指摘して、誰が得した?」


 その質問に、私は沈黙する。


 たしかに、誰も得していない。佳乃は傷ついた。クラスは微妙な空気になった。斎藤先生は頭を抱えたに違いない。私は私で、いまこうして親友に説教されている。


「……不正を暴いたという、ささやかな達成感?」


「それ、真琴しか得してないやつ」


 痛いところを突いてくる。彼女の言っていることはたぶん正しいのだが、私にはまだ、それを素直に飲み込む余裕がなかった。


「はい、営業妨害やから、そろそろ帰るわ」


 夏海はそう言って立ち上がると、カウンターの内側にひょいっと入ってきて、モンブランを指差した。


「これ、テイクアウトで。真琴の給料から引いといて」


「え、なに勝手に」


「カウンセリング料」


 にやりと笑う彼女を見ながら、私はなんだかすっかり負けた気分になった。


***


 夜になり、シャッターを下ろしたあと、店の奥では家族のまかないタイムが始まる。


「今日もおつかれさん」


 父が袖をまくりながら、まかない用のパスタを皿によそっていく。まあ、まかないというか、普通に晩御飯なのだが。母は帳簿と睨めっこしながら、「今月は生クリームの仕入れ先変えようかしらねえ」とか現実的なことをつぶやいている。


「真琴、なんかあった?」


 唐突に母が顔を上げた。「今日、ずっとしかめっ面してるわよ」と言う。親というのは、ときどき余計なところばかり見抜いてくる。


「別に」


「別にって顔じゃない」


 父まで口を挟んでくる。彼はケーキ作りの腕は一流だが、人の感情の機微についてはわりと鈍いほうだ。そんな父にまでわかるくらい、私の悩みオーラは強力だったらしい。


「学校で、なんかあった?」


 母の質問に、私はフォークでパスタをくるくる巻きながら、どうしようかな、と少し迷う。


「読書感想文でさあ」と、私はかいつまんで説明を始めた。コピペ事件、佳乃の顔、LINE炎上、斎藤先生の来店――今日一日の出来事を、できるだけ事務的に箇条書きにして話す。


「なるほどなあ」


 父はパスタをもぐもぐしながら、眉をひそめた。


「コピペはあかんな」


「お父さん、それしか感想ないの?」


 母が呆れたように言う。


「いや、それはそうやろ。真琴の言い方がきつかったんは、まああるんやろうけど」


「そうなんよ」と、母がこちらに向き直る。「真琴、そういうとこあるからね」


「どういうとこ」


「正しいことを言うときほど、ド直球で投げるやろ?」


 たしかにそうかもしれない。むしろ「正しいことなんだから、はっきり言ってもいいでしょ」と、どこかで思っている。


「正しいことを言うなって話じゃないのよ」


 母はそう言ってフォークを置く。


「悪いことを“まあいいか”で流してたら、それはそれであかんのよ。ちゃんと“ダメ”って言うのは大事。ただね、その伝え方ひとつで、相手を傷つけてまうこともあるって話」


 父も頷く。


「正しいことほど、砂糖多めで出さなあかんのよ。ケーキ屋やから、そのくらいの技術は身につけな」


 その表現はどうなんだと思いつつ、私はパスタを口に放り込む。トマトの酸味とバターのコクが、なんだかさっきよりも強く感じられた。


***


 その夜、風呂上がりにスマホを見ると、クラスLINEはまた少しだけ騒がしくなっていた。


《佳乃、大丈夫?》

《てか感想文ってそんなガチで書く?》

《まあでもコピペはやばくない?》

《てか斎藤もちゃんと見ろよな》


 画面の中で、色んな意見がぶつかりあって、火花を散らしている。


 私の名前が出ているメッセージは、とりあえずなかった。しかし、だからといって気が楽になるわけでもない。


 ふと、佳乃のアイコンが、オンラインになったかと思うと、すぐに個別チャットにメッセージが飛んできた。


《今日のことやけど》


 心臓が、どくんと跳ねる。


《別に真琴のこと、めっちゃ嫌いになったとかではない》

《ほんまに》


 ほんまかいな。


《ただ、みんなの前であんな風に言われたんがショックやった》

《悪いのは私ってわかってるんやけど》


 その言葉を読んだ瞬間、昼間の自分の発言が、時間差でずしんと肩にのしかかってくる。


 何分か、スマホを持ったまま固まっていたが、やがて指が動き出した。


《ごめん》


 とりあえず、そう打つ。あまりに短くて、自分でも驚く。


《コピペがよくないのは、今でもそう思ってる》


 そこまで打って、一度消す。


 事実は言いたい。でも、もう剣を突き刺したくはない。


 もう一度、文を組み立て直す。


《コピペがよくないのは、たぶん変わらへんけど》

《でも、みんなの前であんな風に言ったのは、ほんまごめん》

《傷ついたと思う》


 送信ボタンを押す直前まで、「これも自己正当化に見えないだろうか」とか、「やっぱり理屈っぽいかな」とか、頭の中に委員会が招集される。しかし、考えすぎても仕方ない。今の私にできる最大限の「砂糖」をふりかけたつもりだった。


 送信すると、まもなく既読がつく。少し時間が空いて、返事も返ってくる。


《ありがとう》


 それだけだった。長文の反論でも、泣き言でもない、やけにあっさりした「ありがとう」。なのに、さっきまで胸のあたりに固まっていたなにかが、少しやわらかくほどけていくのがわかった。


 佳乃のメッセージは続く。


《夏休みさ、部活と塾と家の手伝いでいっぱいいっぱいでさ》

《最後の週になっても書けてなくて、やらかした》

《だからってコピペしていいわけちゃうのは、わかってる》

《そこは、ちゃんと怒られるべきや》

《明日、斎藤に呼び出されとる。たぶん、入賞取り消しやろな》


 最後のメッセージが届き、あとはまた沈黙になった。わたしは小さく息を吐く。


 佳乃にも佳乃なりの理由があって、その結果のズルだったのだ。悪いことに変わりはないけれど、何も考えずに裁いていい話でもなかった、と思い知る。これ以上こちらから根掘り葉掘り聞き出して、その事情までジャッジするのは、なんか違う気がした。


 とりあえず、今日はここまで。わたしはそう決めて、スマホを伏せた。


***


 翌日。学校から帰ると、すでに母がショーケースを磨いていて、父は厨房で生クリームを泡立てていた。


「おかえり、真琴」


 母は顔を上げると、ニヤニヤしながらこちらを見た。


「なにその顔」


「別にー?」


 絶対なにか知っている顔だ。そういえば佳乃の家も、うちの店の常連だったはずだ。母親ネットワークとやらは、どこまで情報を共有しているのか。


「真琴ー!」


 不安を裏付けるように、タイミングよくドアの鈴が鳴る。入ってきたのは、まさに佳乃だった。


「うお」


 反射的に変な声が出た。「いらっしゃいませ」とか言う前に、「うお」と言ってしまう店員は、たぶん日本で私だけだろう。


「モンブラン、まだある?」


「え、あ、うん。あります」


 昨日、夏海に買われて消えた分は、もちろん新しく仕込んである。栗は世の中から消えない。


「じゃあ、それを一つ」


「お持ち帰りで?」


「ここで食べてく」


 佳乃は、カウンター席にちょこんと座った。制服のリボンが少し曲がっていて、妙にかわいらしい。私はなぜかそのリボンばかり気になって、皿を出す手つきがぎこちなくなる。


 モンブランを運んでいくと、彼女はフォークを握ったまま、しばらくケーキを凝視していた。


「……真琴の家のケーキ、いつも思うけどさ」


「うん」


「見た目、めっちゃかわいいのにさ、カロリーのことは一切考えてないよな」


「褒めてる?」


「褒めてる」


 二人とも、少し笑った。


「今朝さ」と佳乃は言った。「お母さんに“ケーキ買って来て”って言われて、最初、ちょっと嫌やったんよ」


「なんで」


「真琴の家やから」


 その言葉に、私の心臓が一瞬だけ再起動を忘れた。


「でもさ、お母さんが、“あそこのケーキは、食べたらちょっとだけ元気になる味するから”って言ったから」


「……そんなこと言ってたん?」


「うん。だから、まあ、真琴の顔はおまけで見るかって思って」


「おまけって」


 なんだかひどい言われようだが、不思議と嬉しかった。


「昨日のLINEな」と佳乃はフォークをモンブランに突き立てながら言う。「ほんまに傷ついたんは傷ついたんよ」


「うん」


「でも、真琴が“傷ついたと思う”って書いてきたの、ちょっとおもろかった」


「おもろかった?」


「なんか、“私の攻撃は有効打でした”って、わざわざ自己申告してるみたいで」


「いやそういうつもりでは」


「わかってるって」


 佳乃は、ようやくモンブランを一口かじった。


「昨日、寝る前になんか考えててん」


「なにを」


「真琴ってさ、いつもはっきりもの言うからさ。あんまり“ごめん”とか言わんやろ」


「そうかな……」


「だから、昨日ちゃんと謝ってくれたの、逆にズルいなって思った」


「ズルいってなに」


「正しいこと言ったうえに、自分の言い方まで反省されたらさ。いよいよ“じゃあ私が悪いです”ってなるやん」


「そんな高度な作戦ではない」


「わかってるって」


 佳乃は二度目の「わかってるって」を言って、肩の力を抜いたように見えた。


「まあでもさ」と佳乃はモンブランを半分ほど平らげてから、ぽつりと付け足した。


「真琴がなんも言わんかったら、それはそれで、もっとムカついたかもしれんしな」


「え、なんで」


「だって、そういうの見て見ぬふりするタイプでもないやん、真琴」


「あー……」


「だから、どっちにしろ怒ってたと思う。めんどくさい女やろ、うち」


「いや、それは私もだいぶ」


 二人して笑った。ケーキ屋のカウンターで、中学生二人が「自分めんどくさい女」自慢をしている光景は、なかなかシュールかもしれない。


「ま、だからさ」と佳乃は最後の一口を慎重にすくいながら言った。「ほんま、ありがとうな。私、もうズルはせえへん。反省したわ」


 彼女はそう言って、モンブランの最後の欠片を口に入れた。その顔が、想像以上に嬉しそうだったので、私は自分の胸の中にも、じんわり甘いものが広がっていくのを感じた。


***


 また翌日。ホームルーム後の掃除時間。


「今日の教室掃除、B班なー」


 委員長の声に、B班のメンバーから一斉に小さなうめき声があがった。黒板横の当番表にも、ちゃんと今日の日付のところに「B」と書いてある。書いてあるのだが、理解と納得は別問題である。


「うわ、今日やったん忘れてた……めんど」


 夏海が、黒板消しを手にぼやいた。


「真琴、廊下モップねー」


「はいはい」


 私と夏海と、あと数人が立ち上がる。その後ろで、同じB班の男子たちが机に座ったままスマホをいじっていた。どう見ても勤務態度に問題のある当番である。


(出たな、サボり組)


 フェアネス警報がじりじり鳴る。「当番なんだから動けや」と一喝したい衝動を、モップに込めて床をこすりながらなんとかこらえる。


(サボるのが悪いのは確定。でも、“またあんたらか”って公開処刑する必要までは、たぶんない)


 黒板のほうを見ると、夏海が一人で上のほうまで手を伸ばし、消してはチョークの粉をかぶっていた。見ていてちょっと気の毒になる。


 私はモップを立てかけて、サボり組の一人――比較的話しやすい男子、悠人の机の前に立った。


「悠人」


「ん?」


「今日さ、黒板の上のほう、お願いしていい? 夏海じゃ届かないから」


 悠人がきょとんとする。続けて言う。


「ほら、身長だけは無駄にあるじゃん、悠人」


「“だけ”ってつけるなや」


 周りの男子が笑う。


「掃除めんどいのはわかるけどさ。先週も夏海が一人で黒板やってたからさ。ずーっと同じ人だけしんどいのは、さすがに不公平じゃない?」


 悠人は黒板のほうを見る。椅子に乗って背伸びしながら、夏海が上の端を消している。


「……あー、なるほどな」


 悠人は腰を上げ、黒板の前へ。


「夏海、上は任せろ」


「え、なに急に」


「当番やし、たまには働こかなって」


「たまにはって自分で言うな」


 夏海のツッコミはいつもどおりだったけど、顔はちょっと嬉しそうだった。それを見ていた別の男子も、なんとなく気まずくなったのか、窓を開けたり机を運んだりし始める。完璧とは言えないけれど、少しはましになった。


 廊下をモップでぐいぐいしながら、夏海がこそっとささやく。


「あれ、真琴にしては優しい言い方やったな。前の真琴なら“なにサボってんの?”とか言ってたやろ」


 自覚はある。でも、正しいことは、ちゃんと正しいと言う。そのうえで、言い方と場所を選ぶ。ここ最近、色んな人から、色んな言葉で伝えられきたことだ。


 たぶん私は今、その練習をしているのだ。


***


 その日の夜。店を閉めて、今日のまかないを食べ終わったころ。


「今日もおつかれさん」


 父が食器を下げていき、厨房のほうへ消えていく。テーブルには、私と母だけが残った。


「……なあ、今日、掃除のときさ」


 私は、さっきの掃除当番の話をかいつまんで話した。いつものメンバーだけが動いていること。サボり組に何か言いたかったこと。でもちょっと考えて、言葉を選んでから話しかけたこと。


 母は最後まで聞くと、ふっと笑った。


「いいやん」


「いいやん、で終わり?」


「うん。いいやん、で終わる話よ、これは」


 母がそう言うと、キッチンから父の試作品らしいチョコレートケーキを持ってくる。


「味見係、お願いします」


「出た、労働基準法的にグレーなバイト」


 文句を言いながらも、フォークはちゃんと伸びる。ひと口かじると、濃いチョコの甘さが口いっぱいに広がった。


「……おいしい」


「でしょ。そういうときは正直でよろしい」


 母は少しだけ真面目な声に戻った。


「正しいこと言うときほど、気を遣う。それができるようになったら、大人やね」


「またそうやってハードル上げる」


「大丈夫。真琴なら、ケーキのデコレーションと一緒よ。ちょっと練習したら、すぐ上手くなる」


 そう言って、母は私の頭をぽんと叩いた。


 ケーキのデコレーション。たしかに、最初は誰でもクリームをぐちゃぐちゃにしてしまう。でも、何度もやっていくうちに、「どこにどれくらい力を込めればいいか」が、自然とわかるようになってくる。


 ただ正しいだけの言葉は、たぶんまだ、絞り袋から勢いよく飛び出しただけの生クリームだ。美味しいけれど、形は汚い。相手にとって飲み込みやすい形に整えて初めて、「ああ、そうか」と素直に受け取ってもらえる。


 でもまあ、と私は思う。たまには、生クリーム爆発させる日があってもいいか。人間だって、全部きれいにデコレーションされた部分だけでできているわけじゃない。ぐちゃっとしたところも含めて、自分なんだろう。たぶん。知らんけど。


 もうひと口、チョコレートケーキをかじる。甘さがゆっくりとほどけて、まろやかなチョコレートが舌の上でのびていった。

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