6章 君が信じた未来

    六月十九日(木)

 電車内に走行音だけが響く。線路沿いに建つ家々の隙間から、途切れ途切れの夕日が車内へと差し込んでくる。

 馴染みのある花園と聖司がいなくなり、残った俺と二人の間に何とも気まずい空気が流れる。その二人もさっきから黙ったままなので、さらに居所がない。

 隣に座る夏樹の顔をうかがう。花園と一緒に林から出てきて以来、何か考えごとをしているようで話しかけづらい。さらに隣に座っている西川も同じ気持ちなのだろうか。

「…明正八幡宮、どうだったかな」

 どちらにとでもなく問いかけてみる。

「…あ、楽しかったよ」

 夏樹が笑って答えてくれる。西川もその横で頷く。

 また俺たちの間に沈黙が降りてくる。話が膨らまない…。

「…これからも、いろんな神社やお寺行こうと思ってるから、楽しみにしてて」

「ありがとう」

 そんな風に一方通行の会話をしているうち、布平駅に着いた。

「俺今日は西布平から帰ってみるわ」

「え? わかった。またね」

 夏樹が手を振りながら電車を降りる。

…口では西川に話しかけていたのに、目はずっと俺と合っていた?

 発車ベルが鳴り、ドアが閉まる。

「西川って西布平からでも帰れるの?」

「ああ、うん。俺のアパート、二駅の間にあるから、どっちが近いのかなと思って。いつもは布平から帰るんだけど、今日は気分転換に」

「そっか」

 電車が走り始める。

「さっき言ってた、夏樹が突然変わったって話、あんな感じ?」

「え? いや、むしろ今みたいなのが普段の遥香。俺の知ってる遥香は、知り合ったばっかりの人とはあんますぐ打ち解けられない」

「そうなのか…」

 今日や前回の活動での夏樹の様子を思い返す。俺に積極的に話しかけてきてくれて、内気な女子だとは全然思えない。

「あいつなりに変わろうって頑張ってるのかもな」

 車窓の景色をぼんやり眺めながら、西川がつぶやく。

「でも無理してないといいけど…」

「夏樹のこと、大事に思ってるんだな」

「は? あ、ああ、親友としてな…」

 西川がたじろぐ。そらした顔に影が落ちる。

「…蓮も、花園さんと上手くやれよ?」

「上手くやるってほどのこともないが、まあ大学でもよろしくって感じだな」

 今日、俺に明正八幡宮を楽しそうに案内していた花園の顔がよぎる。あいつが喜んでくれるなら、また神社や寺に連れて行ってやりたいと思う。

    ~

 西布平の駅前で西川と別れ、駅前通りを家へと向かう。

 それにしても、花園と夏樹はあの林で一体何をしていたのだろうか。本当に地蔵を見ていただけなのだろうか。

 それはわからないが、花園が夏樹と仲良くなっているのだとしたら嬉しい。二人は明るい性格も似ているので、波長が合うだろう。

 坂を上って行く。越して来た当初はいちいち上るのが面倒だったが、一月もすると慣れてしまった。帰ったら新作のアニメでも見よう。



    六月二十三日(月)

「じゃあ、もう時間だし今日は終わろう」

「うん」

 俺の呼びかけに小さな返事だけが返ってくる。なんだか今日は、みんな元気がないようだ。聖司が返事しないのはいつものことだが、今は花園も小さく答えただけだった。夏樹と西川もそうだ。

 今日は活動中もずっと変な空気感だった。なにより花園の様子がおかしい。いつもは明るく場を盛り上げてくれている花園が、今日は異様に静かだ。あいつの口数が減るだけで、サークルの雰囲気がここまで暗くなってしまうとは思わなかった。夏樹が何度か花園に話しかけていたが、適当な返しですぐに会話を終わらせてしまっていた。コミュ力があるあいつにしては珍しい。

そういう夏樹もなんだがそわそわして落ち着きがなかった。先週の悩みをまだ引きずっているのだろうか? 俺と目が合っても前のように笑顔にはなってくれず、気まずそうに目をそらすだけだ。…それとも、俺が何か彼女の気に障るようなことをしてしまっただろうか?

 どうしようか悩みながら机の上の史料を片付けていく。サークルメンバーのケアも、サークル長としての重要な任務だろう。何かしてあげられることはないだろうか。

「蓮」

 横を向くと、いつの間にか聖司が横に立っていた。

「女子たちのことが気になってるんだろ。話を聴いてあげればいいじゃないか」

「いや、ん……そうだな」

「資料は僕がやっておく」

 手の上にあった資料を聖司に奪われ、俺は棒立ちになる。

「…っしゃ」

 意を決して体の向きを変える。まずは夏樹に話しかけてみよう。大方、神社仏閣サークルとは反りが合わなそうだと思い始めたとか、そんなところだろう。

「夏樹」

 教室の隅で荷物をまとめていた夏樹に、声をかけながら近づく。

「え?」

夏樹が少し驚いたように顔を上げる…。

「…蓮」

 自然と足が止まる。その小さな声だけで、俺の袖を引いているのが誰かわかった。

「花園?」

 振り返ったものの、花園が俯いているせいで前髪がかかった目は見えない。しかし袖を掴む指から、小さく震えが伝わってきた。

「どうした?」

「…話があるの」

「え? あ、わかった」

 夏樹の方を見る。目を見開いていたが、すぐ手元に視線を落とした。

「…二人だけで」

 また花園を見る。小さなつぶやきが俺の耳に届いた。こいつがこういう言い方をするのは久しぶりだ。

「…わかった」

 俺も真剣な声色で返す。

 もう一度、夏樹に目をやる。なんと言おうとしていたのか、咄嗟に出てこない。夏樹は黙ってリュックを見つめていたが、やがて言った。

「そんな重要な話じゃないなら、今度でいいよ」

 言い終わるや否やリュックを背負い、教室のドアへと向かって行く。

「じゃあ」

「あっ、その、ごめん…」

 夏樹は振り返らずに部屋を出て行ってしまった。

「え、ちょ、遥香? 待ってよ!」

 西川も夏樹を追ってドタバタと教室を出て行く。

「あ、ん……」

 目をつぶってゆっくり頭を振る。夏樹には今度しっかり説明しなければ。

 顔を上げると、聖司が資料をまとめきったところだった。

「じゃあ、これは僕が戻しておくから」

 そう言って聖司も教室を出て行く。

 ため息をついてから、後ろを振り返る。

「…このままだとちょっと顔合わせづらいな」

 花園がはっとした様子で袖から手を離す。

「どうした?」

 腰をかがめて顔をのぞき込む。なぜか花園の口元が少しだけ上がっている。

「…ここでじゃなくて、別のところで」

「え、ああ」

 花園が扉へと向かう。

「荷物は?」

「近いとこだからおいてこ」

「わかった」

 続いて俺も部屋を出る。

背後でバタンと扉が閉まる。

    ~

 エレベーターから降りて花園の背について行く。普段からサークル活動で使っているのに、この棟の最上階にはほとんど来たことがない。

「蓮はあんまり来たことないでしょ」

「うん。この階の授業ないしな」

 とは言え構造は下階と同じなので、景色は見慣れたものだ。違うところがあるとすれば、所々天窓が付いているぐらいか。今の時間、空はオレンジ色に染まっている。

 前を歩く花園が歩調を緩める。廊下の突き当りに扉がある。

「前、大学内を歩いてたときに見つけたんだ」

 花園が扉のノブに手をかける。開けると暖かい風が吹き込んできた。

「来て」

 外に出るなり、まぶしい光に照らされ思わず目を細める。

「お、おおー」

 そこは屋上テラスのような場所で、大学付近の街が一望できた。夕陽に照らされ、どの家々もオレンジ色に染まっている。ずっと向こうには緑色の山々が連なっている。

「すごいでしょ」

「うん! めっちゃ見晴らしいいなここ!」

 テラスの際の柵まで一気に進む。柵をつかんで地上を見下ろすと、校舎から出て行く人が小さく見えた。

「俺あんま校舎内うろうろしたりしないから、こんな場所知らなかった」

「なにそれ。なんか私が変みたいじゃん」

「え? 違うよ、ありがとうってこと。花園のおかげで、こんな綺麗な景色が見れる場所知れたわ」

 横で同じく柵に腕をのせて寄りかかっている花園を見る。俺の言葉を聞いて得意げな笑みを浮かべている。

だが、その目にはいつものような輝きは宿っておらず、ぼんやりと遠くを眺めている。高所ゆえ地上よりも風が強い。風に吹かれた彼女の長い黒髪がなびく。その一本一本が陽光を反射して黄金色に輝いている。

 と、花園が横目でこちらを見ているのに気づく。俺と目が合うと、再び遠くへと視線を戻した。

「私のこと、見てたでしょ」

「ん…ああ。絵になるなあと思って」

 俺も遠くの山の方へ目を向ける。花園はそれ以上何も言わない。それなら俺も、焦って何かを問いただすこともないだろう。

夕陽が少しずつ山々の成す地平線へと近づいていく。眼下の街の景色が、徐々に紫がかっていく。先ほどまでは暑かった初夏の風も、だんだんと心地よいものになっていく。

「…ずっと見ててよ」

「え?」

「遥香なんかじゃなくて、私を見てよ」

 思わず隣を見る。夕日を反射した花園の瞳が、朱く光っている。

「蓮、好き。私、蓮のことが」

 瞳に映る茜色の光が、小刻みに揺れている。

「だから付き合ってよ、私と」

 ひときわ強い風が吹いてきたが、俺は瞬き一つできず、目を見開いたまま固まっていた。

「え…」

 花園は黙ったまま遠くを見つめている。俺が何か言わなければ。だが思考がストップしてしまっている。こ、これは告白というやつなのか? じょ、冗談じゃないよな? 流石に…。

 花園がちらとこっちを見る。俺は思わず柵から離れ、後ずさる。

「お、俺…」

 耳の中を心臓の音がバクバクと駆け巡る。

「えっ…と、その」

 花園は俺のことを『好き』だと言った。それはあまりにも意外で想定外。こんな俺を好きだと言ってくれるなんて。…でも。

「遥香なんだ」

「えっ」

 花園がこちらに向き直り言い放つ。夕陽を背にした彼女の瞳が、途端に湛えていた輝きを失う。

「遥香のことが好きなんだ」

「え、いや」

「やっぱ遥香のことが好きなんだ!」

「いや、ちがっ、」

「そうなんだ!」

「違うって!」

「なら私と付き合ってくれる⁉」

 花園が視線を落としたまま叫ぶ。その気迫に、思わず息が止まりそうになる。

「お、俺は…花園のことは、高校から一緒だったし、親友だと思ってるけど…その…付き合うとか…突然すぎてわかんないよ…」

 花園が息を呑んだのがわかる。

「…私なんかに興味ないってこと?」

「きょ、興味っていうか…俺は花園のことを大事に思ってる。だけど彼女にするとか、そういうのは考えたことなかっただけで…」

「…そっか。蓮は私をそういう目で見てなかったんだね。私が勝手に見てただけなんだね」

俯いた花園が、はあっと息を吐く。

「私なんて、話すだけの、サークルを作るだけの、一緒に遊ぶだけの、ただの友達なんだね…」

「花園…俺は…」

 俺は…なんだ? どうしたい? 付き合うのか? 誰かと付き合うなんて、今まで考えたこともなかった。付き合ったらアニメの中のカップルみたいに、お昼休みに一緒にお弁当を食べたりするのか? そんなことはこれまでだって花園としてきた。なら変わらないのか? それは違う気もする。…第一、付き合うならお互いに『好き』でなくてはならないだろう。俺は花園のことを大切に想ってはいるが、それは恋愛感情とはまた違うと思う。そんな状態で付き合ってしまうのは…。

「…遥香のほうがいいんでしょ」

「え」

 花園が俯いたまま声を絞り出す。

「私より、遥香のほうが」

「だからそれは、」

「わかってたよ、私。遥香がサークルに初めて来たときから、蓮は私が見たことない顔してた。最初は新入部員が入って来て嬉しいんだと思ってた。けど、明正八幡宮に行ったときに確信した。蓮があいつに惹かれ始めてるって」

 言葉に詰まる。夏樹に持ち上げられていい気になっていたのは事実だ。夏樹に見つめられると、なぜだが胸が詰まってくるのも…。

「さっきもなんで先に遥香に話しかけようとしたの? 山上に話を聴いてあげればって言われたんでしょ? なんで私が先じゃないの? 私のことなんか、もうどうでもよくなった?」

「ちょ、ま、待てよ」

「これまではいつも私を優先してくれたじゃん。…テスト期間のときも、文化祭の前日でも、受験勉強も一緒にやったじゃん。…それなのに、なんで遥香が先だったの…?」

「それは、ん…」

 花園がへこむのはいつも何か大きなことがあったときだ。相談に乗るのは、ほとんど聴くだけなんだが、時間がかかる。夏樹の方をさっさと済ませたあとで、花園の話を聴こうと思ったんだ。でもそれを今言ったところで、納得してくれるだろうか…。

「あいつも悪いよ。突然現れて、私の蓮を奪おうとしてる。なんなのほんとに。…蓮、あいつ、遥香も、蓮のことが好きなんだよ」

「な、なんでそうわかるんだよ…。まだ夏樹と出会ってから、一週間しか経ってないんだぞ…」

 そう言えば夏樹は、出会ったときから俺を知っていたようだった。でも俺は夏樹と話すどころか、顔を見たことすらないはずなんだ。もうわけがわからない。

「あいつが現れて、蓮との距離をどんどん縮めてく。そして蓮の中の優先順位まで変えられちゃった。私、蓮はずっと側にいてくれると思ってた。でもそれは違うんだって、蓮とずっと一緒にいるには、このままじゃだめなんだって。…でも、本当に、もう終わりなんだね」

「え…? 終わりってなんだよ」

 今度は俺が花園に近づく番だった。

「蓮はあいつを選ぶ。今はそうじゃなくても、あいつがきっとそうさせる」

「それと終わりってなんの関係があるんだよ。花園は俺の大事な親友だ。夏樹との関係がどうなろうと、それは変わらない」

「…は?」

「花園が俺のことを大切に思ってくれてるのは素直に嬉しいよ。付き合うってのは、ちょっと整理する時間が欲しいけど、これから一緒にサークル活動をしていく中で、自分の中で収集つけて、必ず答えるよ」

「…蓮は、れんはさぁ」

 ひとしきり喋り切ってから、花園が肩で息をしているのに気づく。

「花園?」

「なんもわかってねぇんだよ‼」

 突如花園が叫ぶ。驚いて思わず尻もちをつく。

「ざけんなよ‼ なに? これからもずっと親友だぜってか⁉ おまえ私の話ちゃんと聴いてたのかよ⁉ それじゃ駄目なんだよ‼ それじゃあ駄目なんだよ‼」

 はあっ、はあっ、と花園の荒い息遣いが聞こえる。何か言い返そうにも声が出せない。思わず戦慄せざるを得ない。これが花園が俺に頑なに見せようとしなかった、もう一つの顔なのか。

「さよならっ!」

 そう言って花園が踵を返す。

「あ、花園…」

 あ、駄目だ、これ。

「ま、待て!」

 立ち上がろうとするが、膝が震えて上手く立ち上がれない。また尻もちをついてしまう。

「花園‼」

 俺の声に振り向くことなく、花園は扉に向かって行く。

「ごめん‼ 謝るから‼」

 扉を開け放ったその背を、もう二度と見れない気がして。

「ごめん‼ 花園‼ 俺はお前なしじゃあ‼」

 無情にも音を立てて扉が閉まる。俺は脚が絡まって、また不様に転んでしまう。

「ごめん。行かないでくれ…。謝るから…」

 地面に叩きつけられた手脚が痛い。でもそんなこと気にならないくらい、胸がキリキリと痛む。

「俺は…なんて、ことを…」

 去り際、最後に見た花園の表情が脳裏によぎる。黒く氷のように冷たい目。そこから溶け出して、今にもこぼれ落ちそうに溜まった涙。固くつぐんで、何も話すことはないと突き放すような口元。…俺が初めて花園結衣に出会ったときの顔。

「また…またなのか! また人を傷つけてしまった! しかも大事な花園をっ! もう傷つけないって、誰の体も…心も…傷つけないって、決めたのに…決めたのに‼」

 叫びながら思わず天を仰いだ。日がもうほとんど暮れて、空にはいつの間にか紫色のグラデーションができている。

「クソっ! なんで! どうして! どうしてこうなんだ! 俺はどうしてこうなんだ!」

 床を殴りつける。手の痛みなど関係ない。ポタポタと床に黒いシミが増えていく。なに泣いてる。泣きたいのは花園のはずだ。なぜ俺が泣く。

「変わってねえよ、お前は。変わったようなふりして、偽善者ぶってただけじゃねえか! 結局なんにも変わってねえんだよ!」

 俺は俺自身に罵詈雑言を浴びせる。

「クソ野郎だよ! 俺は! 花園はそんな俺の側にいてくれたのに! なのに! 自分から突き放すなんて! ばっかだなあ‼」

 不思議なことに笑いが込み上げてくる。涙が頬を伝う。

俺は泣きながら笑っていた。

 ずっと灰色の日々だった、ずっと、みんなと同じようには生きていけないと思っていた。だが、同じように周りと違う生き方をしている花園を見つけて、俺は救われたんだ。屋上へ続く階段の途中に座って、毎日悩みを聴いた。俺は何もしてあげられなかったけど、それでも少しずつ笑顔が増えていく花園を見て、俺の心は洗われた。

二人で同じ大学に受かって、初めてサークル活動をやったとき、俺は、俺もこれからはまともに生きられるんじゃないかって、本気でそう思ったんだ。だが、俺は周りの人間に頼っていただけで、俺自身、何も変われていなかったんだな。俺は今も、あの頃のゴミカスのままなんだ…。

 ひとしきり高笑いをし終える頃には、空はすっかり暗い青色に染まっていた。視界の端で、月が黄色く輝き始めている。

「…ごめんな、花園。ごめん…」

 俯いて床を見つめる。

 とりあえず、何でもいいから付き合うべきだった。好きって感情はよくわからないが、花園と一緒にいれば楽しいのは事実だ。何より人生に、生きていくことに、前向きになれる。どうしてそのことに、もう少し早く気付けなかったんだろう。

あいつは俺の、唯一の光だったんだ。

「ごめん…。俺を、赦(ゆる)してくれ…」

 謝るだけではどうにもならないことがあることを、俺は小学生の頃に知った。あいつは俺のせいで、学校にいられなくなった。

 わかっているはずなのに、あいつに『ごめん』と言えば赦してくれるんじゃないかと思ってしまう。ちゃんと面と向かって謝ればわかってくれるんじゃないかって。

 でも、今改めて思う。無理なんだ。口で謝ったぐらいじゃ消せない罪がある。俺は今日、さらに罪を重ねた。花園に必死に謝ったところで、もう元のようにはいかない。床に落として割ってしまった皿を、完全には元の形に戻せないように、俺たちの関係も、もう修復不可能なのだ。

「また…一人か…」

 この広い空の下で、俺はこれからずっと一人なんだ。

そう思った。

「立花くん」

 顔を上げると目の前に女子が立っていた。視界がぼやけていてよく見えない。

 慌てて涙を拭い、立ち上がる。

「夏樹? どうした?」

 あくまで何もなかったかのように振舞う。引きつる頬骨で笑顔を作ってみせる。

「無理しなくていいから」

 はっとする。夏樹の落ち着いた声に昂っていた感情が凪いでいく。月の淡い光を映す深い瞳に見つめられると、すべてが見透かされてしまいそうで、思わず目をそらす。

「ぜ、全部、見てたのか?」

「うん」

 即答され言葉に詰まる。恥ずかしさが込み上げてくる。

「大丈夫だよ。別に立花くんのこと、悪く思ったりしてない」

「え?」

「立花くんは自分を責めすぎないで。初めてのことだし仕方なかったよ。次同じようになったときに、結果を変えられればいいんだよ」

 優しく温和な声で、けれど顔は至って真剣な表情で、語りかけてくる。なぜだかまた泣きたくなってくる。

「安心して。立花くんも、結衣のことも、全部私が救うから」

「え…なに言って、」

「じゃあ、私もう行かなきゃ」

そう言って扉の方へと走って行く。

「ちょ、ちょっと、」

「大丈夫。またすぐ会えるよ!」

 振り返った夏樹の顔には、笑みが浮かんでいた。心臓がまたトクンと跳ねる。

「夏樹!」

 扉を開けっぱなしにしたまま、夏樹が廊下を駆けて行く。角を曲がってその姿が見えなくなるまで、俺はずっと彼女の背を見つめていた。




 願う。

蓮くんと結衣が結ばれますように、と。

目を開ける。相変わらず殺風景な校舎の廊下の景色のままだ。もう一度目を閉じる。

もう一度過去に戻してください。六月二日ではなく、六月十六日でも構いません。いつでもいいから、蓮くんが私に出会ってしまう前に戻して!

目を開ける。白い光はどこにも見当たらない。私は廊下に立ち尽くした。


 サークル終わり、帰るフリをして蓮くんと結衣のあとを尾けた。颯太には適当に、図書館に寄って行くから先に帰ってて、そう言っておいた。

 正直、私は結衣を甘く見ていた。布平駅のホームで私を救ってくれた恩返しがしたかった。結衣にも幸せになって欲しかった。でも、心の奥底では『どうせ告白なんてできない。結衣の腰が引けている間に、私が蓮くんの心を掴んでやる』そう思っていたのかもしれない。高校生の間に想いを伝えられていないのだから、そう簡単には告白できまいと。

でも違った。結衣は私の想像なんかより、ずっと勇気のある女子だった。

 校舎とテラスを隔てる扉の隙間から結衣の告白を聞いたとき、私の鼓動は早鐘のように鳴っていた。冷や汗が全身を伝った。蓮くんが手の届かないところへ行ってしまう、そう思うと居ても立ってもいられなくなりそうだった。

 だから、蓮くんが結衣の告白を受け入れなかったのを見て、悲しいことに、私は嬉しかった。口先では『恩人である結衣に幸せになってもらいたい』と思っておきながら、彼女の不幸が私の口元をほころばせたのだ。

 だからこそ、結衣が私を嫌悪するのは当然だった。

 突然、結衣が雷のような叫びを発し、思わず全身が硬直する。確かに結衣は見た目に反し砕けた物言いをする人だったが、あんなに激しい口調で怒鳴るとは思わなかった。あれじゃあ、まるで…。

と、唐突に結衣がこちらに向かってきて、私は咄嗟に扉の陰になる壁へと背中を這わせる。

間髪入れず結衣が扉を開け放つ。そのまま後ろ手にダンっと扉を叩きつける。今振り返られたら、私の全身が丸見えだ! 息を殺して私はその後ろ姿を見つめていた。

 不意に結衣が立ち止まる。全身の鳥肌が立ったときにはもう遅かった。

 振り返った結衣と目が合う。熱したフライパンに触れると、一瞬冷たく感じると言う。彼女の瞳はまさにそれだった。身体が凍ったように動かせなくなる。息も出来ない。そのあとで、煮えたぎるような憎悪に射抜かれる。

 殺される。そう感じた。

 だが、結衣は正面に向き直ると、そのまま歩いて行ってしまった。彼女が見えなくなってから、私は床にへたりこむ。肺の中の空気が一気に溢れ出る。全身の震えが収まるまでに、しばらく時間がかかった。

 落ち着きを取り戻すと、扉の向こうから笑い声がするのに気づいた。

 何かと思って、また扉の隙間から様子をうかがう。地べたに座り込んだ蓮くんが、どんどんと暗くなっていく空に向かって、笑っていた。一瞬状況が飲み込めなかったが、ふと蓮くんが俯く。

「…ごめんな、花園。ごめん…」

 はっとする。蓮くんは泣いていた。暗くとも、小さな光の反射や、彼の足元のシミがそれを私に理解させた。

 私は、自分が取返しのつかないことをしてしまったのだと理解した。

 結衣は私からすれば恋敵だった。だが、蓮くんから見れば、ともに高校生活の苦楽をともにした親友だったのだ。私と颯太のように。

 颯太が突然いなくなった、そしたら私はどう感じるだろうか。きっと、いや、絶対、寂しい。寂しいなんて言葉では表せないくらい、寂しい。そして悲しい。心にぽっかりと大きな穴が開いてしまうだろう。颯太と過ごしたこれまでの日々が急に色褪せて、遠退いていく。それが自分のせいだとしたら、なおさら辛い。

「ごめん…。俺を、赦してくれ…」

 蓮くんが悲痛な声を絞り出す。思わずギュッと目をつむる。

 私の方こそ、赦してほしい。私が二人の関係を壊してしまった。私の後先を考えない身勝手な行動が、二人を不幸にしてしまった。謝ってどうにかなることじゃない。もう、どうしようもない。

「…いや」

 小さくつぶやく。

「…私なら、二人を救える」

 そうだ。私の力があれば、二人を救える。また過去へ戻ってやり直せばいいのだ。私が蓮くんに出会わなければ、蓮くんとの距離を縮めようとしなければ、結衣は焦って告白する必要もなくなる。きっと二人を幸せにできる。

 そう決意するや否や、私は扉を開け放ち、夜空の下へと踊り出た。


 過去へ戻って二人を救う、はずだったのに…。

 ぼうっと天井を見つめる。遠くの教室から話し声が聞こえる。遅い時間までやっている授業なのだろう。

「戻れない…」

 願っても祈っても過去へ戻れない。冷静に考えればおかしな話だ。蓮くんは生き残った。何らかの形で死の運命を回避した。私が傍観者に願った望みは、成就したのだ。

「私…」

 自分の両手を交互に見つめる。

私は…過去に戻る力を失ったらしい。

 側の壁に体をもたせかける。思わずふっと笑う。

「…ばかみたい」

 蓮くんの前で高々と宣言したことを思い出す。『全部私が救う』と言ってしまった。だが実際、今の私に何ができるだろう。二人の本当のことをまだ何も知らない、ただの人間の私に。

 ずっと漠然と全身を覆ってくれていた自信が、みるみるうちに薄れていく。

なんとなく、私は変われたと思っていた。根暗で陰キャだった私から、少しは変われたと。でもそれは、傍観者さんのおかげで、他力で、私の力ではなかった。

 ふーっと息を吐く。

これからどうするべきだろうか。結衣が振られた今、蓮くんを振り向かせるチャンスなのだろう。だが、罪悪感でとてもそんな気にはなれない。じゃあ結衣に謝りにでも行こうか? そんなことをする勇気はとてもじゃないが出てこない。そして何より、蓮くんに想いを伝えたところで、結衣すら受け入れなかった彼が、知り合ったばかりの私なんかを受け入れてくれるとは、到底思えない。

思考がおぼつかないまま校舎を出る。地上は不気味なほど風がなかった。過ごしたことのない日付までやってきた。けれども、それは新しい出来事への期待とともに、この先なにが起こるかわからないという不安も一緒に運んでくる。

久しく忘れていた『一度しかない人生』という感覚が、私の中に霧のように広がっていく。



    六月二十五日(水)

 今日もいつもと変わらず、このラウンジは騒がしい。みんな楽しそうに談笑している。彼ら一人一人にも悩みごとがあったりするのだうか。あったとしても、私にはどうしようもできないのだが。

ラウンジの隅の席、といっても普段颯太と座っているのとは反対側の隅だが、向かいに座るやつれた男子と向き合う。

「あのあと、結衣から何か連絡あった?」

「何も…」

 蓮くんは伏し目がちのまま机を見つめている。

「…明日の活動、どうしようか?」

「…やらなくていいんじゃない」

力なく答える彼の瞳には、私が追い求めていたような光はもう宿っていない。

「やろうよ。山上くんはやりたいだろうし、結衣も来るかもしれないよ?」

「…来たところでどうすれば?」

「ん…月曜はごめんって謝って、それから……と、とりあえず何か話そ?」

「無理だよ…もう…」

 蓮くんが力なく首を振る。

「謝ったところで、どうすることもできないんだよ…。花園が負った傷は、決して消せない」

「でも…」

「全部俺のせいだ…。俺が弱いせいで、花園にあんな顔させた」

 弱音ばかりの蓮くんなんて見たくない。あちこちで笑い声が上がるラウンジの中で、まるで私たち二人だけ別世界にいるようだ。

でも本当に違う世界を知っているのは、私だけなのかもしれない。

「ごめんなさい」

「え…?」

 私は額が机につくまで頭を下げる。

「私のせいで立花くんと結衣の関係を壊してしまった。だから、ごめんなさい」

「…夏樹が謝ることじゃないよ。全部俺のせいだ」

 顔を上げる。相変わらず彼は机を見つめている。

「違う。立花くんだけのせいじゃない」

「なんでだよ」

 蓮くんがやっと顔を上げる。その目には苛立ちが浮かんでいる。

「結衣が立花くんに告白したのは私のせいだから。結衣も言ってたでしょ」

「だからって!」

「立花くんのせいでもあるよ⁉」

 いつの間にかお互い机の上に身を乗り出し、距離が詰まっていた。周囲からの視線を感じ、慌てて椅子に掛け直し、呼吸を整える。

「…でも、立花くん一人の責任じゃない。それだけはわかってほしい」

「夏樹…」

 蓮くんの瞳に、わずかに光が映った気がした。

 結局、いち人間の私ができることはこれぐらいだ。蓮くんのメンタルケアをする。蓮くんだけでも助ける。もう、この程度のことしかしてあげられない。

「じゃあ…」

 蓮くんを見る。彼の口角が少しだけせり上がった。

「花園のことも慰めてくれよ」

「え?」

「俺の代わりに…花園にも謝ってきてくれよ」

 思わず絶句する。私が、結衣に…?

「ほんとは夏樹の言う通り、意味のある無いに関わらず、俺が謝るべきなんだと思う。でも…怖いんだ…。今の花園に俺が会いに行ったら、何をされるかわかったもんじゃないから…」

 驚きで固まる私を見て取ったのか、彼がさらに口を動かす。

「ごめん。クズなこと言ってるよな…。でも俺一人じゃ、もう二度と花園に合わせる顔がないんだ…」

「私が行っても…」

 恋敵の私が行くことこそ火に油ではないだろうか。しかも結衣には、私が告白を聞いていたことを知られている。廊下で見つられた瞳が頭をよぎり、思わず身震いする。

「言っただろ…花園のことも全部救うって…」

「……」

「無理…か…」

 蓮くんがまた俯く。彼の暗い顔に胸が締めつけられる。

「…いいよ」

「え、ほんと?」

「うん」

 顔を上げた蓮くんの目に光が差し込む。

「ただし、」

 身を乗り出した蓮くんがそのままの姿勢で固まる。

「立花くんはこれからずっと、今みたいに明るい顔でいて。私は立花くんのそんな顔を見ていたいから」

「えっ」

 彼の目がしきりに泳ぐ。自分の席に身を引かせていく。

「それと、私は明日結衣に会えるかラインで訊いてみる。会ってくれなかったらどうしようもないけど、もし会えたら必ずサークルに連れていく。だから明日もサークルはいつも通りやって、で私が結衣を連れて行ったら、立花くんの口からもちゃんと謝って」

「……ああ。わかった」

 私の提案に頷いてくれたものの、彼の表情は依然暗いままだ。

「なに? なにか不満ある?」

「いや、そうじゃないけど…謝ったところで、どうにかなるのかなって…」

「じゃあずっと謝らないままでいいの?」

「えっ…それは…」

「確かにごめんってひとこと謝って済む話じゃない。けど、だからって謝りもしないのは違うんじゃない?」

 蓮くんが目を見開く。

「確かに…な」

「そんなに驚かなくてもいいんじゃない?」

 彼が一瞬口角を上げて、私を見る。

「ありがとう、夏樹。俺、大事なことを見失ってた。花園はまだ俺の手の届くところにいる。まだ謝れるんだ。だから謝らないといけないんだ」

 彼の言わんとするところが少し掴めない。だがそんなことより、そう決意する蓮くんの目には確かな光が宿っていて、その覚悟のこもった瞳に見つめられると、あのときのように不思議と鼓動が高まって、身体が火照ってくる。

「じゃあ明日、頑張ろう」

「うん」

 座ったままポケットに手を入れる。

 蓮くんと結衣をともに幸せにできる確証はない。むしろそれは不可能に思える。けれどそれでも、ずっと下を向いているわけにはいかない。お守りの加護がないからなんだ。蓮くんがこの世に生きている限り、立ち止まったりなんかしない。



    六月二十六日(木)

 昨日蓮くんと別れてから結衣に、明日会えないかとラインを送った。送信ボタンをタップする指が震えた。返信が来ないかもしれないとも思ったが、意外にも一時間ほどで返信があった。

 『四限終わりに本校舎の五〇二に来て』それだけの簡素な文章だった、本校舎は私たちがいつも神社仏閣サークルの活動をしている棟とは異なる校舎だ。しかも五〇二はその最上階の角に位置している。他人に聞かれたくない話をするのには最適な場所か。

 五〇二教室の扉の前に立つ。この教室の扉にはすりガラスなどがついていない。そのため中に結衣がもういるのかどうかはわからない。でも、いると直感が告げている。ドアノブを握ろうとする手が震える。ふと、初めて神社仏閣サークルを訪れた日のことが頭によぎる。

 あのときも私はビビっていた。扉の向こうにいるはずの人々が、私を受け入れてくれるか心配だった。私一人ではきっと怖くて踏み出せなかった。でも、結衣が向こうから開けてくれた。新しい可能性の戸を。そのおかげで蓮くんや山上くんとも知り合えた。今度は私が開ける番だ。

 すぅー。はぁー。

 意を決して扉を開ける。部屋全体を見回すが、結衣の姿はない。

机と椅子が円の形に配置されている。きっとゼミ活動など、グループワークを行うための教室なのだろう。照明の点いていない教室に、曇天の空から放たれる淡い光が差し込んでいる。窓辺に近づく。その向こうには、蓮くんたちが活動を行っているはずの別棟が見えている。

「遥香」

 はっとして振り向く。いつからそこにいたのか、教卓の前に結衣が立っていた。明るい外を見ていた目では、暗い場所に立つ結衣の表情をすぐには読み取れない。

「何しに来たの?」

「…結衣」

「今さら何を言いに来たの?」

「私、結衣に謝りたい」

「は?」

 だんだんと目が慣れてくる。しかし、結衣の目元だけはなぜかはっきりとしない。

 私は床に腰を下ろし、正座する。

「まずは、結衣の告白を盗み聞きしてごめんなさい」

 そのまま腰を折る。頭を床につけるまで下げる。

「…」

 一度頭を上げる。相変わらず結衣の表情は読めない。乱雑に揃えられた前髪が、彼女の目元を覆っている。

「そして、立花くんと仲良くなって、二人の関係を壊してごめんなさい」

 再び腰を折る。謝罪の意を示すため、長くその姿勢を保ち続ける。

「…え?」

 しばらくそのままでいると、結衣が口を開いた。

「なにそれ? それだけ? そんなこと言うために私を呼び出したの?」

 顔を上げる。半笑いを浮かべた結衣が、嘲るように言う。

「私のせいで結衣に辛い思いをさせて、本当にごめんなさい」

 構わずもう一度頭を下げる。

「いや違くて」

 再び顔を上げる。結衣が私の方へ近づいてくる。

「おまえ、キモイよ」

 瞬間背筋が凍った。前髪の隙間から見下ろす結衣の両眼は真っ黒だった。窓の外からの光を受けても、そこに何も映しはしない。そこにどんな感情が浮かんでいるのかさえも定かでない。それほどまでに彼女の瞳は闇に染まっていた。

「なに大学生にもなって教室で土下座なんかしてるの? 見てるこっちが恥ずかしくなってくるんだけど」

 結衣は目の色を変えないまま、口角だけを上げる。

「だからさ、やめてよ」

 やめてよ、で急に声が低くなる。同時にグッと放たれる威圧感が増す。薄ら笑いも一瞬にして消えた。空気の重さに息がつまりそうになりながらも、なんとか立ち上がろうとする。

「あでも、私より背の高い遥香に見下ろされるのもやだから、謝罪したいならやっぱ座っといて」

 有無を言わせぬ物言いに、私は黙って従うしかない。

 不自然に心拍数が上がってくる。この状況にひどく緊張しているのは当然だが、それだけではない。結衣の話し方や表情が、否が応でも私自身の遠い記憶を呼び起こす。蓮くんのおかげでふさがっていた傷口を、結衣が鋭く差し開いて行く。

「私、あんたのこと赦す気ないよ?」

「…」

「だから、あんたがどれだけそこで土下座しても意味ないよ? そこんとこわかってる?」

 圧倒的な拒絶の感情を向けられる。だが、こうなるのも想定内だ。私としても土下座程度で赦してもらえるとは思っていない。

「…なら、私にその埋め合わせをさせて?」

「は?」

「立花くんにもう一度、会ってほしい」

 結衣が息を呑んだのがわかる。黒に包まれた瞳が揺れる。

「なんで私が蓮に会いに行かなきゃいけないの?」

「だって…二人にはまだ言葉が足りてないから。もう一度会って、ちゃんと話せば結衣の想いも伝わるよ」

 蓮くんと付き合えるチャンスを作る。そうすれば傷ついた心も少しは、

「あんたさあ!」

 ダンっと強く床を踏みつけた音が、私の思考をも蹴散らす。その音に負けないくらいに、結衣の声量も跳ね上がる。

「何がしたいんだよ⁉」

「わ、私は二人に幸せに、」

 驚いて引き下がろうとするが、正座をしているため上手く動けない。

「あんたはライバルが減って清々してるんだろ⁉ 私のことなんか無視してさっさと付き合えよ! 何? 私のこと煽ってんの⁉」

 今にも殴りかかって来そうな剣幕で怒鳴られる。反射的に手を顔の前に掲げる。

「わ、私はもういいの!」

 床に向かって叫ぶ。怖くて顔を上げられない。

「あ?」

「私は立花くんと付き合いたいなんて、思ってないから…だから結衣に任せるよ」

 ふっと結衣が黙る。熱されていた空気が、急激に冷え込んでくる。

「…お前、それ本気?」

 結衣がしゃがんで私の顔をのぞき込んでくる。真っ黒な感情のない瞳が、嫌でも視界に入って来る。

「…うん」

「ざっけんじゃねえぞ‼」

 ガッと胸倉を掴まれる。結衣の顔が間近に迫る。

「私はお前のせいで蓮に告ったんだぞ! お前のせいで蓮に振られたんだぞ! なのに何? 立花くんと付き合いたいなんて思ってない? いい加減にしろよ‼ じゃあ私は何のために振られたんだよ‼」

 繰り返し強く揺さぶられ、思わずうめき声を上げる。

結衣の瞳は変わらず黒一色だが、その目にわずかに光が反射し始める。目元に水滴が溜まってきている。

「まさかお前、そうやっていろんな男に思わせぶりな態度取ってんのか? 実は彼氏がいて、なんて言うんじゃないだろうな? だったらほんとに赦さねえ! その綺麗な顔めちゃくちゃにしてやるよ!」

 結衣が拳を振り上げる。思わずギュッと目をつむる。

 だが荒い息遣いが聞こえるばかりで、いつまで経っても殴りつけてこない。ゆっくりとまぶたを開ける。

 結衣は確かに私の方を見ていた。だが私と目が合わない。彼女の瞳には、私以外の誰かが映っていた。私の胸倉を掴む手から震えが伝わってくる。

 チッ、と舌打ちして結衣が手を離す。振り上げたもう片方の腕も下ろす。

「ほんとに蓮のこと、好きじゃないのかよ…」

 俯いた結衣の目には、かすかに失望の色が浮かんでいた。それを見て、唐突に私の中で何かが弾けた。そのまま身体の奥底から一気にせり上がってくる。

「……ほんとは、好き」

…もうしまっておくつもりだった。蓮くんと結衣で幸せになって欲しかった。それなのに、なんであなたが悲しそうな顔するの?

「立花くんのこと…実はけっこう、好き」

 結衣の顔に一瞬動揺の色が表れたが、すぐに消え去った。代わりにうっすらと笑みを浮かべる。

「…けど、私ほどじゃないだろ」

 フンと結衣が鼻を鳴らす。

「高二の頃からあいつと過ごしてきた、私ほどじゃないだろ」

 黙ったまま、じっと結衣を見つめ返す。彼女の瞳の中に、私の姿が映っている。

「私はあんたよりずっと長い時間、蓮と過ごしてきた。一緒に大変な高校生活を過ごしてきた。苦しいときも、蓮が側にいたから乗り越えられた。バカで自暴自棄だった私が前を向いて、こんな大学に入ることができたのは、全部蓮のおかげ! 『サークル設立手伝ってくれてありがとう』なんて言われたけど、私は全然よかった! 蓮のためだったら、なんだってやれる! だって好きだから‼ ずっと、ずっと蓮のことが好きだったから‼ あんたに私の想いの深さがわかる⁉ わかるわけない!」

 声を荒げる結衣の目の中に、様々な色が溢れ出てしてくる。それは私も同じだった。胸の中に驚きのような、悲しみのような、嫉妬のような、なんだかよくわからない気持ちが激しく渦巻いて苦しい。

不意に、蓮くんが笑いかけてくれる光景が目に浮かぶ。勝手に口が動く。

「…いつでもこっちを気遣ってくれるとことか? 悩みを相談すると、『俺の前では辛い思いさせない』って言ってくれるところ? それで安心できるようにしてくれるのが好き? ここでは私は私のままでいいんだって思わせてくれるところが好き? 少しでもこっちが嫌な気持ちになったら、すぐにちゃんと謝ってくれるところ? それとも、恥ずかしがったときに見せる赤らめた顔が、ちょっとだけかわいくて好き?」

 私の突然の言葉に、結衣が目を剥く。

「な、なんであんたが、そんなこと…」

「立花くんは私の暗くて先の見えない人生に、光をくれた。立花くんは私の希望。立花くんは、私が戦う理由」

「…そっか…あんたも」

 結衣の目の色が薄くなった気がした。

「私は立花…ううん、蓮くんが好き。だから蓮くんがずっと幸せで、笑顔のまま生きていてほしい。そのとき隣にいるのが私だったらすごく嬉しい。でも結衣だったとしても、蓮くんが幸せに生きられるなら、私はかまわない」

 結衣が悔しそうに顔を歪ませ、歯を食いしばる。握った拳がわなわなと震えている。

 いつの間にか、私も蓮くんへの想いをぶつけていた。自分でも自分の言葉に驚いていた。結衣の想いに向き合って初めて、私も私自身の覚悟と向き合えたのかもしれない。

 結衣がふーっと息を吐き、何度か口をパクパクさせてから、小さな声で話し始める。

「…蓮はね、凛として落ち着いた雰囲気のある女子が好きなんだ。蓮のお気に入りのアニメキャラは全部そんなだった。…でも私は違った」

 結衣が遠い目をしながら、長く艶のある黒髪をかき上げる。

「蓮に出会ったとき、私は荒れてて、うるさくて、何をするにも周りに合わせてばっかりだった。…私の親はしつけが厳しくてさ、小さい頃から親に縛られてばっかりの生活だった。料理、掃除、裁縫とかの基本的な家事はもちろん、華道や茶道までわざわざ教えられた。『女子でも心と体の鍛錬は必須だ』とか言われて剣道までやらされて、頑張ったけど、中学の全国大会の初戦でボロ負けしたとき、何かが壊れちゃったんだと思う」

 結衣の話に、何も言わず耳を傾ける。

「高校、ほんとは名門の女子高に入る予定だった。けど、私が自分から入ろうと思ったわけじゃないし、なんかもうめんどくさくなっちゃって、勉強するのやめた。もちろん親にはめっちゃ怒られた。だから家出した。最初はもう帰ってこないってぐらいのつもりだったけど、家の外は寒いし、お金も無いし、三日で帰っちゃった。ダサいよね…」

 自分を嘲るかのように結衣が笑う。

「ダサくなんかないよ。私は家出なんて怖くてできない」

「それでいいんだよ。…私、家に帰るとき、すごく怖かった。絶対怒られるって。でも家に帰ったら、親父が怒鳴る前に、お母さんがね、私を抱きしめてくれたの。『あなたのこと考えてあげられなくてごめん』って」

 結衣が自分で自分を抱きしめるかのように、腕を交差させて肩に触れる。

「それから私は自由になった。親父も私にあまり口出ししてこなくなった。私は偏差値の低い高校に入って、短髪を金色に染めた。親父への反抗の思いもあったと思うけど、それ以上に私がギャルに憧れてて。それから、これまで関わったことのないようなやつらと仲良くなって、いろんなことやった。今考えれば、いろんな人に迷惑かけちゃったな。喧嘩っ早いやつもいたけど、長めの棒みたいなのがあれば、私は男相手でも十分戦えた。それだけは親父に感謝かもね」

 結衣が砕けた物言いをするのはその名残か。

「あの頃はサイコーだった。私は自由を謳歌してると思ってた。でも一年も経つとだんだん気づいてきた。私は自由になんかなっていなかったって」

 眉間に皺が寄っていく。思い出したくない記憶を呼び起こすように、結衣が一度深呼吸する。

「…いつもよくしてもらってる先輩がいた。その日も先輩に呼び出されて、学校の近くの河原に行った。『金貸せ』って言われた。それまでもお金を求められることはあって、その度に自分の小遣いから出してた。うちはお金持ちだから、小遣いも人より多かったと思うし、渡すたびに先輩がテストの過去問くれたりよくしてくれてたから、別に構わなかった。でも、その日はいつもよりずっと大金を求められた。『無理です』って言ったら『親から盗ってこい』って言われた。断ろうと思ったけど、そのときの先輩はいつもと目の色が違った。その日は他の先輩たちと友達が周りにいた。友達に助けを求めようとしたけど、『やるしかないよ』って憐みの視線を向けられるだけだった。そのとき気づいたんだ。また縛られているって、しかも、前よりもずっと固く」

 結衣が前髪を上げる。はっとさせられる。ファンデーションでわかりづらくなっているが、額にうっすらと傷跡が残っている。

「ひどい…」

「意外とあんま痛めつけられなかったんだよ? 私の親はちゃんとしてたから、通報とかを警戒してたのかも。もちろん、私が親に言えば済んだのかもしれないけどね」

 前髪を元のように下ろした結衣が俯く。私も両親に部活でのことは相談しなかった。ただでさえ毎日遅くまで働いていた両親に、余計な心配をかけたくなかった。

「だんだん暗くなってく河川敷に一人置き去りにされてさ、私めちゃくちゃ死にたくなったんだよ。親の縛りから解放されて、私は好きに生きるんだってドヤってたのに、その結果がこれとか、あのときはほんと笑えた。しかもちょうど雨も降ってきてさ。ほんとサイコーだったよね」

 頭の中でその光景を思い浮かべる。どれほど辛かっただろうか。

「ふっと頭に『子どもが川で溺れて死亡』ってニュースがよぎってさ、気づいたときには靴履いたまま川の中に入ってた。冬の川ってほんと冷たくて、これなら死ねるかもって思った。でもね? 川がバカみたいに浅かったの。笑えるでしょ? いくら冷たくても、こんなとこで流されるわけないって思ったよね」

 そう言う結衣は口角こそ上がっているものの、目は笑っていない。

「だからもっと深いところを探そうと思ったとき、あのバカに見つかっちゃったんだよ」

「それが…」

「『何してるの』って声かけられたとき、私の中で謎に盛り上がってた気分が一気にしぼんじゃって、最悪だった。私が睨みつけたらあいつ、わかりやすくビビってた。そのまま私のことなんか無視して行けよって思った。…でもあいつは行かなかった。私にビビってたけど、決して見て見ぬふりはしなかった。多分あいつはそういう人間なんだと思う。先輩は私に睨まれて逆上したけど、蓮は私を助けたいって思ったんだろうね。私、人に見られながら溺れ死ぬのは流石に嫌で、その日は諦めて帰った。蓮が私に何か訊こうとしてきたけど、そのときはまだ知り合ってなかったし、無視して帰った」

「そっか…」

 それが二人の出会いだったのか。

「それからしばらく学校を休んだ。親には何も言わなかったけど、怪我してたし、多分いじめられてるとでも思ったんだろうね。二年になったら、仲良かったやつらはみんな別のクラスになってた。しかも、そのクラスに蓮がいた。そのときになってあいつが同じ高校だったって知ったけど、あいつは私と違ってすぐ新しいクラスに馴染んで、友達と楽しそうに話してた。私はまだ金髪だったし、新しい友達を作る気にもなれなかったからクラスで浮いてた。別に気にしてなかったけど、お昼休みに近くの席でたむろしてるやつらがいて、流石に気まずかったから、屋上前の階段でいつもお弁当食べてた。そしたらある日、そこに蓮が来た。『なんであんたがここに来たの?』って訊いたら、『たまには一人になりたくて』って言われた。『じゃあ私はどく』って言ったら『一緒に食べよう』って言われた。意味わかんないでしょ? 河原でのことを訊かれるかと思って身構えたけど、結局あいつは一言も喋らなかった。一緒に食べようって誘ったんだから、なんか話せよって思うよね。それから蓮は時々階段に来るようになった。なんも話さないのも嫌で、私から授業の話を振ったのが最初だったかな。いつの間にか少しずつ話すようになってった。教室では全然話したことなかったけどね」

 蓮くんことを話す結衣の目は、少しずつ透明になっていく。

「また寒くなり始めた頃だったかな。蓮に『高校卒業したあとどうする?』って訊かれた。私、惰性で生きてただけだったから『わかんない』って言った。そしたら『じゃあどういう風に生きていきたい?』って訊かれたから、少し迷って『私の好きなように生きれるなら、生きたい』って答えた。そしたら『なんで?』って訊かれた。私はもっと迷ったけど、こいつになら話してもいいかなって思って、まず親のことを話した。ひと月後には、高一のときのことも話しちゃってたな。蓮は、お前はもっとこうするべきだーみたいなことも言ってこないし、話しやすかったよ」

 うっすらと笑みを浮かべて話していた結衣の顔に影が差す。

「でも高三になって、蓮は階段に来なくなった。クラスも別々になっちゃって、蓮の姿を見ることはなくなった。そしたら急にすごい寂しくなって、蓮ともう一度話したいって思って。他クラスに探しに行こうと思ったけど、髪は黒に戻してたとはいえ、あいつらに会うのが怖くて行けなかった。しばらくしたら蓮のことなんか忘れるかなって思ってたけど、忘れるどころかどんどん会いたくなってって。それでロッカーの名前確認しようって思いついて、放課後に教室を回った。そしたらある教室に、いた。教室の隅で一人で参考書とにらめっこしてた。私が『何してるの?』って訊いたら『受験勉強』って。蓮はうちのバカ校からは程遠いこの大学を目指してた。それで私に会いに来る余裕もなかったって。私、蓮が手の届かないところに行っちゃうって思ったら、思わず『私も行く!』って言ってた。蓮は驚いてたけど、『花園が行きたいなら』ってすぐ受け入れてくれた。それから毎日二人で勉強した。蓮はわざわざ私の教室まで来てくれた。小中の頃の真面目だった感覚がだんだん戻ってきたのと、蓮が教えてくれたおかで、私はすぐに追いついた。一緒に合格したときは嬉しかったなあ。私は一度人生の道を外れてしまったけど、また正しい道を歩んで行けると思った。ずっと、蓮と一緒に……」

 それっきり結衣は俯いて黙りこむ。話は終わったのだと悟る。

 自分が今大学の教室にいるということを思い出す。結衣の話を聴いている間、ずっと鼓動が早いままだった。胸の中に様々な感情が氾濫し、今はとても冷静な思考や判断ができる状態ではない。

「そんなに…蓮くんのこと…」

 わかっていた。結衣が高校時代から蓮くんのことを想っていたことは。だが改めて順を追って話されると、とても自分には太刀打ちできないと思えてくる。長い月日をかけて蓄積された結衣の覚悟には、私の数週間足らずの想いでは到底かなわないのだと。そして同時に、その二人の間を引き裂いてしまった自分を激しく呪う。

「結衣…私、どう謝ったらいいのか…」

 結衣が顔を上げる。その瞳の色がまた暗くなり始めている。

「あんたが現れなかったところで、きっと蓮は私を恋愛対象として見なかったと思う」

 長い髪を指でくるくるといじりながら言う。

「そして蓮と長い時間を過ごしたからこそ、あいつがあんたを好きになるのがわかる」

「えっ」

「今はそうじゃなくても、これからそうなる。きっと蓮もまだ自分の気持ちに気づいてないだけ。あいつ、見ての通り恋愛にはほんと疎いから、頑張ってね?」

 そう言って弱々しい笑みを向けてくる。

「なんでこんな私が…? 結衣の方がずっと明るくて優しいのに…」

 突然結衣が私の額に手を当てる。驚いたが、特に何かをしてくるわけでもない。

「…遥香はかわいいし、かっこいいし、私に会いに来るだけの行動力と勇気もある。何より会って数日でこんなに蓮のことを引き出して仲良くなれるなんて、相性抜群じゃん」

「そんなこと…」

 額を撫でられる。優しく触られているはずなのに、なぜか無性に鳥肌が立つ。

「月曜もあのあと、蓮に『私が側にいるよ』なんて甘い言葉でもかけたんでしょ? そんなん、鈍い蓮でも流石に落ちるって」

 思わず言葉に詰まる。私の表情を見て、結衣が目を細めてほほ笑む。

「…ここ数日のあんたを見て、そして焦って告って振られて、ほんっと私の人生ってなんだったんだろって」

「そんな悲しいこと…」

 結衣が私の額から手を離し、立ち上がる。

「さっき、あんたが私のこと煽ってるって言ったでしょ?」

「だから煽ってないって…」

 結衣が教室の前の方へ歩いて行く。

「私もだよ」

「え…?」

 今になって、教卓の上に黒のバッグが置いてあるのに気づく。

「私もあんたのこと、バカだなって思ってる」

「どういう…」

 こちらに背を向けたまま、結衣がバッグの中から何かを取り出す。窓から入って来る細い西日が、それの先端に当たってキラリと輝く。

「なんであんたをこんなひと気のない教室に呼んだと思う? なんであんたに私の過去を聞かせたんだと思う?」

「え…」

 その棒状のものを、結衣が軽く教卓に打ちつける。その見た目に反し、コツンと気安い音が出る。

「ほんとはもっと長いやつの方が慣れてるんだけど、持ち歩きづらいからね」

 結衣がナイフを一振りする。銀閃が瞬く。

「いくら蓮と遥香がお似合いだからって、振られた私の気持ちがなくなるわけじゃない。二人が付き合ったら、この想いはどこに向ければいいの? 身体の内側から凍えていくような寒さを、私はどうすればいい?」

 結衣がフラフラと近寄ってくる。その感情の読めない、けれど抑えきれない想いが溢れ出す両目に射抜かれ、無意識の内に立ち上がって身構える。

「結衣、落ち着いて」

 私自身落ち着いた声を出すよう努めるも、その震えを完全には抑えられない。

「私は落ち着いてるよ?」

 結衣が気味の悪い笑みを浮かべる。私は後ずさるが、教室の出入り口は結衣の背後だ。

「蓮があんな振り方するなんて、正直かなりイラついた。一緒にデートまで行っておいて振るとか、ほんとありえない。でも、私はそれでも蓮が好きみたいだし、あいつを傷つけるなんてしたくない」

 腰が窓際に当たる。一瞬外を振り帰るが、不運にも目の届く範囲内に人影は見当たらない。仮に誰かいたところで、分厚いガラスの向こうに声を届けられるかは怪しい。

「だから、そんな蓮にあんな顔させた遥香が羨ましい」

 結衣が立ち止まって俯く。長い髪が床に向かって垂れる。

「羨ましいよ、あんたが。羨ましくて…羨ましくて…羨ましくて…変になりそう…」

 結衣が頭を振るたび、黒髪が一層激しく揺れる。結衣の握るナイフがカタカタと音を立てる。耳の中で反響する荒い息遣いが、私のものなのか彼女のものなのか判然としない。恐ろしい光景を前に、心臓がバクバクと鳴って今にも破裂しそうだ。

 一触即発の状態。その中で結衣がゆっくりと顔を上げる。深淵に両の目を穿たれ、思わず息が止まる。

「…あんたがいなければ、何度もそう思った。そしたら蓮は付き合ってくれたのかなって。でもやっぱ…違ったのかな。それに蓮はあんたと出会ってしまった。私が時間を巻き戻せでもしない限り、その事実は覆せない」

 結衣が教卓の方へ移動し、机に囲まれた円の中心でまた向き直る。

「ほんとはあんたを斬りたかった。でも、そんなことしたって、人を傷つけるのが大嫌いな蓮が振り向いてくれるわけない。わかってる、そんなこと、わかってる」

 結衣が一度深呼吸をし、ナイフを顔の前に掲げる。刃先とともに、彼女の瞳も妖しげな光を帯びる。

「なら私が諦めるしかないよね。私は一度諦めた。蓮に引き止められて、もう少しだけ生きようとした。でももう蓮はいない。蓮と遥香が楽しそうにしているのなんて見たくない」

 ナイフを倒し、刃先を結衣自身の手首に向ける。

「…結衣?」

「だからこれは遥香へのせめてもの罰。こんなこと言いたくないけど、蓮をよろしく。私の分まで、幸せにして」

 そのときの彼女の笑顔はとても晴れやかで、だけど不思議と哀しくなる。私はその光景を生涯忘れないだろう。

「だめーっ‼」

 弾かれたように身体が動いた。全身の感覚がこれまでに経験したことのないくらいに研ぎ澄まされた。一気に結衣に飛び掛かる。

「ううっ!」

 揃って床に倒れ込む。カツーンと金属音が伸びる。結衣の握っていたナイフが床を滑って行く。

「だめだよゆ」

「どけよ‼ 邪魔すんじゃねえ‼」

 間近で落雷に等しい怒号を浴びせられる。直後すさまじい力で結衣が私を跳ね除けようとしてくる。

「どけ‼ 離せ‼」

「やだ! 死んじゃだめ!」

 私も必死に抵抗しながら声を張る。

「どけ‼ 早く死なせろ‼」

「結衣が死んだら蓮くんが悲しむ!」

 上に乗る私の方が抑え込むには有利なはずが、徐々に結衣に押し退けられていく。単純な力で押し負けている。

「邪魔だよ‼」

 叫びとともに一気に私の上半身が浮き上がる。起き上がってきた結衣に咄嗟に抱きつく。互いにバランスを崩し、ゴロンと床を転がる。

「離せよ‼」

 今度は結衣が上になり、私の体を引き剝がそうとしてくる。

「結衣が死んだら蓮くんは自分のせいだと思うよ!」

「黙れよ!」

「それで蓮くんは一生苦しむ! 幸せになんて永遠になれない!」

「黙れ‼ 黙れ‼ 黙れーッ‼」

 側頭部に衝撃が走る。全身が一瞬電気が流れたかのように痺れ、腕の力が抜ける。

 拘束から抜けた結衣がすぐさま立ち上がり、素早く落ちているナイフの方へ動く。

「だめ…」

 頭に響く鈍重な痛みをこらえながら、結衣の背に呼びかける。

 結衣がナイフを拾う。だがすぐさま自分に突き立てることはなく、私の元へと戻って来る。私のことを見下ろした瞳には、再び奇妙な青白い光が揺らめいている。

「やっぱ、お前から殺すわ」

 結衣が逆手に持ったナイフを振り上げる。

「あ…」

 命の危機に瀕している。だが不思議と思考は鮮明だった。再び感覚が極限まで研ぎ澄まされる。どうすればこの刃を止められる? その一点に私の持ち得るすべてを動員する。

「縛られてる‼」

 ナイフの急降下が止まる。その切っ先は、私の胸の中心へと向けられていた。

「また縛られてるっ‼」

 結衣の顔は影になっていて見づらい。その中で異様にギラついた目だけが大きく見開かれている。

「あんたは蓮くんに縛られてる‼ 私にも‼ それで結局縛られたまま死んでいくんだ⁉」

「…んだと」

 ナイフが音を立てる。結衣が全身をわなわなと震わせる。瞳に浮かぶ青い光を黒い濃霧が覆い尽くしていく。

「なん!」

「あんたはそれでいいのっ⁉」

 結衣の声をかき消すほどの声量で叫ぶ。瞬時に上体を起こし、ナイフを握る結衣の手首を弾く。ナイフがさっきよりも遠く教室の端へと飛んでいく。はっとした結衣をすかさず満身の力で横へ押し倒し、馬乗りになる。

「自由に、好きなように生きて行くんじゃなかったの⁉ 今の結衣は蓮くんへの想いに縛られて、ぜんぜん自由には見えない‼」

「はあ⁉ ふざけんな‼」

 結衣が拳を振り上げようとする。両手で彼女の左右の手首を掴み、強引に地面に押しつける。

「蓮に縛られてるわけじゃねえ‼ あいつを好きになったのは私の意志だよ‼」

「ほんとに⁉」

「そうに決まってんだろ‼ 階段に来た蓮を受け入れたのも私の意志! 蓮に全部話したのも私の意志! 蓮と一緒の大学を目指したのも、神社仏閣サークル作ったのも、蓮に告ったのも…全部私の意志‼ 全部私が選んだ‼ 人のせいになんかすんな‼」

 怒りで顔を真っ赤にした結衣が叫ぶ。対照的に私の心はひどく落ち着いていた。命の危険に陥ったことが、私の思考をも覚醒させた。

「そうだよ。全部結衣の意志。結衣はずっと前から、自由だったんだよ」

「は?」

「家出したときから、結衣は自由になった。自由を手に入れたんだよ」

「なに言ってんだよ」

 結衣の両腕の抵抗が少しだけ弱まったのがわかる。

「それまでずっと親の言いなりだった結衣が、自分で自分の進む道を選んだ。それで自分のなりたい自分になって、自分の見たい世界を見て、自分の好きになりたい人に恋をして。結衣はもう十分、好きなように生きてる」

「は…」

「そんな結衣が、私にはまぶしく見えた。人の目ばっか気にして生きてきた私には」

 結衣が目を丸くしている。だが、すぐにまた厳しい顔つきに戻る。

「好きなように生きてる? 遥香にはそう見えるのかよ」

 私は大きく頷く。

「うん。髪を染めたいなって思っても、家族とかクラスメイトの目とか気になっちゃって、私にはできないと思う」

「それで高二のときはクラスから浮いてたけどな」

 結衣がバツの悪そうに目をそらす。

「でも、結衣はそのことを悪く思ってなかったでしょ? 友達がいなくてもいいって」

「あんときは人間不信に陥ってたんだよ…」

「それでも、私はすごいと思う。私なんかコミュ力ないのに、無理にクラスの人に話しかけて仲良くなろうとしてた。一人になるのは怖くて…そうなったら私、不登校になってたかも」

 友達作りに必死だった中学入学直後のことを思い出す。別にそこまで無理やりという気持ちはなかったが、今考えると反りの合う人とだけ繋がっておけば十分だったと思う。天真爛漫な彼女に出会えたことで、あのときの私は悦に浸っていた。

「それだけじゃない。家出したのだってすごいよ。私なら怖くて外で夜を明かしたりできない。家出って、すごく勇気のいることだと思う」

「それだけ家にいたくなかったってだけだよ。遥香はいい家族の中で育ってきたんだな」

 結衣の表情は相変わらず暗い。

「もう、なんでそんな否定的なの? 結衣らしくない」

「は? なんだよ?」

 私の場に合わない明るい声に、結衣が訝しげな表情になる。

「いつも元気で前向きで明るい。それが花園結衣でしょ」

「見ての通り、そうじゃないときもあるんだよ…。なあ、そろそろ放してくれない?」

 結衣の両腕にまた力が籠ったのを手で感じ取る。少しでも前向きな気持ちになってほしかったが、不十分だったようだ。

「死なないって約束してくれたらいいよ」

 私も腕を握る手に力を入れる。思考を加速させる。

「なんであんたに指示されないといけないの? 蓮を奪ったあんたに。私は自由に生きてるんだろ? なら死に方も自由に決める」

「だめ。結衣、きいて」

 結衣の両目がまた闇に包まれてしまう前に、私は言葉を繋ぐ。

「私も前に好きな人に拒絶されて、目の前が真っ暗になったことがある。その人のためにしてきた全部が無駄だったって、辛くて、悲しくて、結衣と同じで、気づいたら死のうとしてた。でも、私も人に助けてもらった。そしたら、そのあと色々あって、また生きる希望を見つけられた。そのとき死なないでよかったって、今は思う」

「そんな綺麗事…」

「それに、賢い結衣ならもう気づいてると思うけど、本当に自由に生きるなんて無理。社会の中で生きる私たちは、最低限法律に縛られるし、結衣だってマナーとかモラルみたいな言葉知ってるでしょ?」

「バカにすんな」

「自分の好きなように生きるのって難しい。結衣はその葛藤の中で戦ってきたんだよね」

 眉間に皺を寄せた結衣が小さくうなる。

「自分のやりたいようにやった結果、気づいたら何かに縛られてる。それでまた生き方を変えていく。自由ってそんな一時の仮初にすぎないのかもしれない。だからね結衣、私が言いたいのは、結衣の行動の結果、私が結衣に死んでほしくないって思うようになったってこと。そして、それは蓮くんも同じ。蓮くんも結衣がいなくなったら悲しむ。蓮くんが結衣を大事に思ってしまったのは結衣のせいなんだから」

 結衣がしきりに目を瞬かせる。一瞬彼女の全身に力が籠った。

「なんで…私に死んでほしくないんだよ。遥香にとっては邪魔なだけだろ…私の存在なんか…」

「……そりゃ、結衣が昔話したからでしょ? あんな話聞かされたら、なおさら結衣には幸せになってほしいって思う。それにいくら恋敵だからって、誰かに死んでほしいなんて、私は絶対に思わない。結衣だってそうでしょ?」

 目を閉じた結衣がふーっと息をはく。

「それに蓮くんのためでもある」

 結衣がピクっと体を震わせたのがわかる。

「私が蓮くんの側にいたとしても、結衣が死んだら蓮くんは悲しむ。その心に空いた穴は、きっと私がどんなに頑張っても埋められない」

「…あんたの都合かよ」

「そうだね。結局は私の勝手かも。でも、少なくとも私は蓮くんの悲しむ姿をもう見たくない。結衣は違うの?」

 黙って返事を待つ。しばらくすると結衣が目を開けた。その視線はじっと私に注がれている。

「…遥香も死ぬなよ?」

「わかってる。約束だよ」

私は結衣の手首を離し、ゆっくりと腰を上げる。結衣は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに足を引いて起き上がる。

 立ち上がろうとする結衣を、私は抱きしめた。

「は? な、なにすんだよ」

「結衣が自分や蓮くんのとの思い出を話してくれたのは、私に結衣の想いを継いでほしかったからでしょ? 蓮くんを大切に想ってるからなんでしょ?」

 結衣が息をのむ。彼女の体の震えが、全身を伝ってはっきりと感じられる。

「継ぐよ、その想い。私が結衣の分まで、きっちり蓮くんを幸せにする。これも約束」

「…うん」

 結衣の背中の浮き沈みが大きくなる。何かを吐き出すかのように、結衣の呼吸が荒くなる。

「ごめん。私勘違いしてた。結衣はまだ蓮くんと付き合いたいんだと思ってた。その願いを叶えるために、今日ここに来た。でも違った。結衣の中でとっくにけじめはついてたんだね」

「…蓮と付き合いたくないわけじゃない。でも…うっ…今の蓮が情けで付き合ったりしてくれても…それじゃ私の望んだものは手に入らないから…」

 耳元で聞こえる結衣の声が急激にか細く、弱々しいものになっていく。

「結衣、あなたは私が思っていたよりもずっと強い。ずっと、ずっと強いんだね」

 何度も鼻をすする音も聞こえてくる。

「…そう思って、くれるなら…今の私の顔、見ないで…。きっと、ひどい、顔してる」

 背中に温かさを感じる。結衣の両腕が、私に振り向くなと強くうったえてくる。

 私もそれに応えて、さらに強く結衣を抱く。

「ひどくなんかない。きっと今、世界中の誰よりも綺麗な顔してる。正々堂々、戦った人だけに許される顔をね」

「ううっ…はるがあ…あんだってやつは…ほんとっ…ほんどに…サイテーなんだからっ!」

 私を救えるのは結衣じゃない。でも、結衣を救えるのは私なのだ。

 痛いくらいに締めつけてくる両腕が、私に強く意識させる。もうこの願いは私一人だけのものじゃない。もう引き返すことはできない。これまで時間を巻き戻して自由にやらせてもらった。結衣の想いを受け継いだ。好きに生きてきた分、やらなければいけないこと、果たさなればならないことがある。

 いつの間にか窓の外には桃色の空が広がっていて、遠く弱く差す夕陽だけが、名残惜しそうに私たちを包み込んでくれていた。

    ~

 しばらく経つと、夕陽は建物の陰に隠れ、空も青みがかってくる。今は別棟や他の建物からの光が、私たちを暗闇の中に照らし出している。

 私は彼女のことを思い出していた。ずっと昔に私を吹奏楽部に誘った彼女を。彼女も結衣のように、苦しい葛藤の中で生きていたのだろうか。

 耳元で聞こえていた彼女の嗚咽はだんだんと収まり、今は深呼吸を繰り返している。震えていた息が、だんだんと真っ直ぐで落ち着いたものに戻ってくる。

「ごめん、ありがとう。もう大丈夫」

 私を抱く結衣の力が弱まる。

「うん」

 私も腕をほどき、互いに体を離す。

「ごめん。肩、結構ぬらしちゃった」

 結衣がスカートのポケットからハンカチを取りだし、ポンポンと私の肩を優しく叩く。

「気にしないで」

 もう何度か拭いたあと、結衣が手を降ろす。

無言のまま二人で向き合う。結衣の瞳が私を見据える。そこに先ほどまでの黒い感情はない。覚悟を見定めるかのようなその視線に、私も毅然と見つめ返す。

 やがて結衣がかすかに笑った。諦めのようで、それでいて満足げな、そんな光が、彼女の瞳には確かにあった。

 互いに一言も発することなく、しかし同時に立ち上がる。

「…遥香なら、蓮を幸せにできる気がする」

 結衣がスカートを払いながら、つぶやきを漏らす。

「…うん」

「変な話だけど、なんとなくそう思えるんだよね。二人はまだ会ったばかりのはずなのに。そう直感したからこそ、私もこんなに必死になっちゃって」

「そっか」

 切なそうな、見ていて胸がキュッと小さく締めつけられる、そんな笑顔のまま結衣が続ける。

「そんな遥香に一つ教えてあげる。今日って、実は蓮の誕生日なの!」

「えっ」

「だから、今日もサークルやってるみたいだし、今から行って祝ってあげな? きっと遥香がいなくて、蓮も寂しくしてる」

「…」

「私の分まで、祝ってあげてね…?」

「……」

「…遥香?」

「…たん…じょうび?」

 その言葉を聞いた瞬間から、私の中で何かが引っかかった。小さな火花が散ったと言ってもいい。どちらにせよその些細な言葉が、私の頭の中にある思考の歯車の一つを動かし始める。それは連なる隣の歯車を動かし、さらにその隣の歯車をも動かす。さらに隣、さらに隣と、次々に横方向の歯車が連動していく。それだけではない。これまでは繋がっておらず、それぞれ独立した存在だったはずの縦方向の歯車までもが、いつの間にか回り始めている。その流動は瞬く間に私の脳内を埋め尽くし、新たな可能性を示唆させた。

「う…そ…」

 いや、そうではない。私はわかりたくなかった。その可能性を受け入れたくなかった。だからその瞬間理解しようとせず、示唆などという憶測の域を出ないような表現で済ませたかったのだ。

「そん…な」

「大丈夫? どうしたの?」

 だが私を心配そうに見つめる結衣の顔が、私の成すべきことを思い出させる。さらなる勇気を奮い起こしてくれる。

「ごめん」

 私は踵を返し教室の隅に近づく。

「遥香?」

 ほとんど真っ暗な床で、わずかな光を反射し返すナイフを拾う。

「これ借りてく」

「えっ」

 返事を待たずに駆け出す。教室の戸をほとんど体当たりするような勢いで開け放つ。

「どこ行くの⁉」

 結衣が背後で叫ぶ。だが足を止めている暇はない。

「蓮が危ない‼」

 振り向くことなく私も叫び返す。エレベーターを待つ時間が惜しい。すぐさま近くの階段に飛び込む。

「ちょ、彼女候補だからって呼び捨て早すぎー‼」

 遠くで聞こえた結衣の軽口に口元を緩める余裕すら、今は持ち合わせていない。猛スピードで階段を駆け上がりながら、素早く思考をまとめる。

 考えなかったわけじゃない。でも、あり得ない話だった。

 いや、そうやって私は見ないようにしてきただけなのかもしれない。これまでだって何度もヒントは与えられていた。その恐ろしい可能性を、私は頭のどこかで否定し続けてきてしまったのかもしれない。

 息が上がってくる。ただでさえ結衣との衝突で体力が削られている。ナイフを持つ右手が震える。どうやら彼女を押しとどめるために、尋常ではない力を出していたらしい。

 この世界に来てからも習慣でトレーニングは続けていた。しかし今、全力疾走に加え、心臓を直接締め上げられているような緊張感のせいで、足元は覚束ない。だがここで足を止めるわけには行かない。

 階段を下り切り、外に出る。薄暗くなったキャンパスを風のように駆け抜ける。

 もし私の考えていることが事実だとするなら、運命とはどれだけ残酷なのだろうか。

 だが、傍観者が結衣ではなく私を選んだのも納得できる。これは私にしか成し遂げられない。

きっとまだ間に合う。必ずあなたも救う。




「なんだか元気ないみたいだな」

 聖司に言われ顔を上げる。聖司にしては珍しく、史料ではなく俺の方を見ながら話しかけてきている。

「いや…」

「何かあったのか?」

 読んでいた本へと視線を落とす。日本神話についての本らしいが、今日は何も頭に入ってこない。

…夏樹とした約束のせいだ。

「今日は僕たち二人だけだから寂しいな。こんなの初めてじゃないか?」

 居づらさに身をかがめる。聖司の言いたいことはわかる。なぜこれまで無欠席だった花園がいないのか、だ。

「…たまにはそういう日もあるだろ」

 本に目を通しているフリをしながら答える。

「それもそうだな」

 そう言った聖司が扉の方へ目をやる。案外、花園たちがいなくて寂しいのは俺だけではないのかもしれない。

 沈黙が流れる。ちらっと聖司の方を見ると、かなり年季が入っているのか、黄色く変色している紙を、涼しそうな顔で読んでいる。

 本に目を戻す。いつもより呼吸する回数が増えているのを自覚する。このあと夏樹が花園を連れてくる。夏樹ならきっと説得できる。そしたら俺は花園になんと言えばいいのか。昨日一晩中それを考えていて眠れなかった。しかも結局、納得のいく言葉を考えられていない。何を言っても、花園を傷つけてしまう気しかしない。

「これでため息も五回目だぞ?」

「えっ」

 聖司に指摘され初めて気づく。どうやら無意識に何度もため息をついていたらしい。

「ごめん…最近ちょっと疲れてて」

 愛想笑いを浮かべて見せる。花園がここに来たら、俺が謝る姿を聖司にも見られることになってしまうのか…。

「今日、僕の家に来ないか?」

「え?」

突然聖司に言われ、驚いて顔を上げる。

「今日は蓮の誕生日なんだろ? 誕生日会でもやろうじゃないか」

「え、あ、俺の誕生日知ってたのか」

「前に教えてくれただろ」

 聖司がこんな陽キャ的な発想をしたことも意外だったが、それ以上にこいつは自分の家や家族のことについて話してくれたことがないはずだ。おそらく実家暮らしだろうと思っていたが、一人暮らしなのだろうか?

「誘ってくれてありがとう。けど…」

 言葉に詰まる。花園に謝ったあとに、聖司の家で楽しく誕生日会、なんて気でいられるとは思えない。もしかしたら俺のダサさを知って、やっぱやめようと言い出すかもしれない…。

「ついでにストレス解消になるようなこともしよう」

 山上は一人盛り上がっているようだ。普段あまり人と打ち解けようとはしない聖司が、こんな誘いをしてくれた。彼なりに俺に歩み寄ろうとしているのかもしれない。それを断るのも忍びない。

「…ああ。そうしよう」

「なんだ? 花園さんや夏樹さんもいないと不満か?」

 俺の暗い表情を見て取ったのか、聖司が不満げな声を漏らす。

「いや、そんなことないよ。楽しみだな~」

 そう言って笑ってみせる。聖司は相変わらず怪訝な顔をしていたが、やがて紙に目を落とした。

 俺もまた本に目を戻そうとするが、夏樹たちのことを思うとそわそわする。窓の外に目をやる。夏樹は花園に本校舎で会うと言っていた。今、ちょうど雲の隙間から注ぐ日光で本校舎の一部が明るく照らし出され、そこだけ神聖な空気を放っている。あの中に二人もいるのだろうか。

 ずっと落ち着かないでいたせいか、なんだかトイレに行きたくなってきた。

「トイレ行ってくる」

「気をつけてな」

 聖司に後ろから言われる。軽く頷いて教室を出る。

    ~

 トイレから出て教室に戻ろうとする。

 ふと、足が止まる。

 誰かに名前を呼ばれた気がした。一瞬の後、振り返ろうとする…。

「ん…」

 すぐ後ろに人の気配を感じた。途端、頭から足の先まで全身を突き抜けるような悪寒が奔り、身じろぎ一つできなくなる。

「声を出すな。動こうともするな」

 耳のすぐ横で低い声が響く。

「守らなければ殺す」

 首に小さな刺激を感じる。まるで虫にでも刺されたかのような。

 目だけを動かす。思わず手が出そうになる。銀色に光る包丁が、俺の首をまさに切断しようと構えていた。

「あっ…あ…」

 口をパクパクさせる。あまりの恐怖に全身が震えようとする。だが、首だけは震わせては駄目だ。

「声は出すなと言ったはずだが?」

 また首に冷たい感覚が奔る。もう、少し血が出ているかもしれない。これ以上刃が食い込まないように、無意識に声を発さないように、息を止めようとするも上手くいかない。危機的状況だと言うのに、身体が言うことを聞いてくれない。

「フフッ」

 耳元でくぐもった笑い声が聞こえる。

「黙って歩け」

 男が背中を小突く。震える足では上手く進めない。

「早く歩け」

 もしかしたら聖司や誰かが目撃してくれるかもしれない。必死に目で周囲を見渡す。

「歩かないと殺すぞ」

 さっきよりもよりさらに耳の近くで囁かれる。全身の毛が逆立つ。

 生存本能だけでなんとか足を前に出す。残念ながら今廊下を歩いてくる人はいない。

 エレベーターホールに来る。背後の男がボタンを押す。ほどなくエレベーターが到着する。男は迷わず最上階である七階のボタンを押す。扉がゆっくりと閉まる。

「お前…やっぱり…」

「死にたいのか?」

 包丁を喉仏に当てられ、それ以上言葉を発せなかった。

 ポーンと音がして扉が開く。背中を押される。あいにくこの階にも人の姿はない。

「そんなに焦るな。今日この階で授業がないことくらい調べてある」

 男が耳元で言う。思わず目が潤んでくる。

 三日前もここへ来た。そのときは花園が前を歩いていた。今度は背後から包丁を突きつけられている始末だ。

「止まれ」

 一番奥の教室の前で男が言った。

「開けろ」

 言われるがままに扉を開ける。窓にかかるカーテンは閉まっていて、中はほの暗い。唐突に背をぶたれ、一瞬浮遊感を覚えたのち倒れ込む。思わず床についた両手が鈍く痛む。

「ぐっ…」

 痛みをこらえながら振り返る。男の後ろで静かに扉が閉まる。扉上部にある小窓から注ぐ細い光が、暗闇に男の姿を浮かび上がらせる。

「無様な姿だな、立花蓮」

 薄暗さにもすぐ目が慣れ、男の顔を両眼ではっきりと捉える。それはよく見知ったものだった。

「やっぱり、お前だったんだな…宮本颯太」

「お前のせいで、今は西川とか言うダサい名字になった」

 黒い炎を湛えた瞳が、俺をじっと見つめている。無意識にビクッと身体が震える。頭で理解するよりも早く、これから自分の身に起こることを悟ったのかもしれない。

「俺の名前は覚えてたんだな。顔はわからなかったくせに」

「ん…」

 最初に夏樹が西川を連れて来たときから違和感は覚えていた。名前も颯太だった。だが俺は、お前じゃないと決めつけた。颯太って名前のやつぐらいたくさんいる。そんなわけない。そう思いたかった。

「眼鏡を外して髪色を変えたってだけでもうわからないのか? それだけ俺の存在はお前の中で小さかったんだな」

「…そんなことない」

 俺が颯太のことを忘れられるはずがない。毎日考えてきた。一日たりとも忘れたことなどない…はずだった。

「ならなぜ俺だとすぐわからなかった? 俺は一目でわかったのに」

「それは…」

 言い訳しようとして口ごもる。

 …怖かった。それと真正面から向き合えば、言いようのない、けれどとてつもなく重いものが身体にのしかかってくるような気がして…。

「東京に戻って来るって時点でもしかしたらとは思ってたけど、まさかドンピシャで会えるとは」

 俺はそれに後悔を抱いておきながら、それについて考えることを避けてきたのかもしれない。だからお前だとわからなかった…いや、認めたくなかったのだろう。

「しかも自分でサークルを立ち上げて、幸せなキャンパスライフを謳歌しているなんてな…」

記憶の中でいつの間にかおぼろげになっていた颯太の顔が、目の前の憎しみに満ちた顔に重なる。その両眼は俺に向けられていて、今にも瞳から溢れ出しそうな憎悪の元凶が、俺にあると知らしめてくる。

「俺はずっとお前のことを忘れようとした。でも無理だった。なあ蓮、体にできた傷は消えても、心にできた傷は消えないって話、本当なんだぜ?」

俺はその重さと息苦しさに耐えられなくて、知らぬ間に罪の意識から逃れようとしていたんだ。毎日颯太のことを思い出せば、それでいいんだと勝手に線引きして、勝手に満足して、勝手に自分を赦そうとしていた。

「中学に入って、クラスメイト一人と仲良くなれても、グループでの会話になると途端に話しづらくなる。黙っていることが逆にグループから浮くことにつながるってわかってるのに、自分がその場に合わないことを言ってしまうんじゃないかって怖くなる。知らない話題が出たときに、知ってるふりして相槌を打つことすら怖いんだ。もし俺に話が振られたらどうしようって思って、その場を離れちゃう。それで結局、どのグループにも馴染めない」

 颯太の握る包丁に反射する小さな光がフルフルと震える。その手に視線を落とした颯太が、傍らにあった机に包丁を置き、震える手で片目を覆う。

「わかるか蓮? 全部お前のせいだ。お前のせいで俺は…ずっと苦しい」

 体を起こして立ち上がろうとしていた俺に、颯太が近寄ってくる。思わず身を固くした俺の顔を、しゃがんだ颯太が覗き込んでくる。

「なのにお前は!」

 左頬に衝撃を感じた。直後、腕と脇腹をすぐ横の机にぶつける。

「なにのんきに大学行ってる⁉」

 右頬にも鋭く熱が走る。今度は左隣の机に体を打ちつける。

「なんで楽しそうに生きてる⁉ なんで俺のことを忘れられる⁉ なにのうのうと生きてやがんだよ‼」

痛みを感じる暇もなく、何度も両頬を殴られる。その一撃一撃が、俺のした罪の重さを示すかのように、俺の皮膚と肉のもっと内側にまで響いてくる。何度も体をぶつけたせいか、徐々に机が動き、体の振れ幅が少しずつ大きくなっていく。

「机邪魔だな」

 そう言って颯太が自分の周りの机と椅子を蹴り飛ばす。それぞれがぶつかり合って、ガチャンガチャンと音を立てる。

その様子を横目で見ながら起き上がろうとする。途端、頬と体の側面に激痛が走る。思わず視線を落とすと、床に赤い斑点がいくつもできていた。手で拭うと、画用紙に汚く塗った絵の具のように粗く広がる。

「これでお前を殴りやすくなった」

 ある程度スペースができると、颯太がまた俺の方に視線を戻した。

「ちょっとはブサイクになったな。お前は小学校のときから俺よりイケメンだった。それだけは認めてやるよ。女子の友達もたくさんいた。今も花園みたいな女子にたくさんチヤホヤされてるんだろ?」

「…そんなことない」

 頬に先ほどよりも強い衝撃を受ける。視界を舞ったのが唾か血なのかも判然としない。頬を抑えながら視界の端に颯太を捉える。その脚は天井に向かって斜め上に真っ直ぐ伸びていた。

「俺は昔より強くなったんだ。今ならお前が何人へなちょこを連れて来たところで、返り討ちにしてやる」

 脚を戻して見下ろしてくる颯太の目は、爛々と輝きを放っている。

「そこの机に包丁が置いてある」

 颯太が肩越しに後ろの机を指さす。

「お前にやるよ。すぐには取り巻きも来れないだろ? そんな調子じゃ武器くらいないともたないぜ?」

「颯太…」

 俺が体を起こすのを見て、颯太が満足そうに口角を上げる。

「ごめん!」

 だが俺はその場で正座する。

「…あ?」

「俺が悪かった! 颯太が苦しい思いをしたのは全部俺のせいだ! 本当に申し訳なかった!」

 頭を地面に打ちつけて叫ぶ。額から血が出たって構わない。今の俺に何ができる? 他に颯太になんと言えばいい?

「…」

 無言のまま颯太の足音だけが近づいて来る。

 突如、ガッと後頭部に硬い感触が乗ってくる。咄嗟に顔を横に向けるも、血の滲む頬を床に押し付けられ、針で刺されたような痛みが走る。

「今さら謝って済むとか、本気で思ってんの?」

 颯太が足に少しずつ体重を乗せてくる。靴が俺の頭に食い込んで来ようとしている。

「ふざけんなよ」

颯太が踏みつけたまま、足をゆっくり左右に動かす。それに合わせて地面に頬がずりずりと擦り付けられ、焼かれるような熱さに思わず呻き声を上げる。

「フッ…なんだか悪役になったみたいだな。でも、ヒーローが助けに来るなんて展開はない」

 急に頭が軽くなる。だがすぐに頭を鷲掴みにされ、無理やり顔を上げさせられる。颯太のギラついた瞳がすぐ目の前に迫る。

「だってこれは復讐の物語なんだ。真の黒幕はお前。俺は悲劇の主人公」

 ニヤニヤと口角を上げていた颯太の顔から、突然フッと笑みが消える。

「は…? なんだよ、悲劇の主人公って」

 その表情が一気に歪み、瞳の中に火花が散る。頭を掴んでいた颯太の手が滑り、俺の髪だけを辛うじて掴む形になってしまう。

「ふざけんなよ‼ まるで俺が可哀想みたいじゃねえか‼ なんだよ‼」

 颯太のもう片方の拳が、俺の顔を強烈に殴りつける。ブチブチと自分の髪の毛が抜ける音を聞いた。

「それもこれも全部お前のせいだ‼ 俺の人生が可哀想になったのは、お前のせいなんだ‼ 返せよ‼ 俺の人生を返せ‼」

 床に突っ伏した俺の背を、颯太が何度も何度も踏みつける。その度に俺の口からは弱々しい呻きが出てしまう。

 痛みと全身の震えのせいか、呼吸もままならなくなり、ゲホゲホと激しくむせてしまう。と、不意に颯太の踏みつけがやむ。

「おい大丈夫か? こんな程度で死ぬわけないよな?」

 颯太がまたしゃがんで俺の顔を覗き込んでくる。荒い鼻息が顔にかかる。

「辛そうだな。もうやめて欲しいか? ならお願いしてみろよ」

 そう言ってニヤニヤと見つめながら、俺の言葉を待っている。

「……颯太」

 口の中も切れているのか、呂律が上手く回らない。それでもなんとか床に手をつき、体を起こす。

「…もうやめてくれ…これ以上俺を殴れば、颯太が犯罪者になってしまう…そしたらもう、本当に取返しが、」

「黙れよ」

 腹に衝撃を感じる。胃が強く圧迫されて、中で行き場を失ったものが一気に喉元へせり上がって来る。

「ぐうっ!」

 颯太がしゃがんだまま素早く後退する。俺は込み上げてくるものを抑えられず、四つん這いのままそれを床にぶちまける。

「うわ、きったね~。おい、俺の靴に跳ねたんだけど。どうしてくれんの?」

 颯太の言葉に返すこともままならない。腹の中で胃がドクンドクンと脈打っているのがわかる。咳き込むと喉からゴロゴロと濁った音がする。

苦しい。

 そう思ったとき、床に広がった黄色い水溜まりに、ポタポタと透明な雫が落ちた。

「泣いてるのか。可哀想だな。もうやめてあげるよ」

 力なく顔を上げる。だが颯太の歪な笑みを見て、俺の儚い希望は潰えた。。

「お前はこうは思わなかったのか? 思わなかったんだよな? だから俺をいじめるのをやめなかった」

 その顔からうすら笑いが消え、再び怒りの色が露わになる。

「俺が泣いても、何度やめてと叫んでも、無意味な謝罪を繰り返しても、お前は、お前らはやめなかった」

 …そうだ。

「一体俺の何が悪かった? 俺が何かお前らに危害を加えたか⁉ 不快にさせたのか⁉」

 そうなんだ。

「…俺はあんまり服を持ってなかったから、すぐにボロくなって、貧相な見た目だったかもな。それが悪かったのか? みんな流行りのゲーム機をいつの間にか持ってたけど、俺は持ってなかった。それでみんなの話についていけなかった。それが悪かったのか? お前らと放課後遊んだりもほとんどできなかったな。俺は帰って掃除とか洗濯をしなきゃいけなかった。お前は知らないよな? アイツ…俺の最初の父親が脱ぎ散らかした服を毎日片付けないと、あとで殴られるんだ。それが悪かったのか?」

 視線を落とす。水溜まりにまた波紋が浮かぶ。

 颯太は何も悪くない。全部俺たちのせいだ…。

「なあ、何が悪かったのか教えろよ。いつの間にかクラスで孤立していた俺に、ある日お前が話かけてきた。久しぶりに誰かに話しかけられて、嬉しかったなあ。そしたらお前は、宿題をやってほしいって言ってきたんだ」

 はっとする。そんなことがあっただろうか。

「思ってたのとは違ったけど、話しかけてもらえたのが嬉しくて、次の日にやった宿題を渡したんだ。そのときお前に『ありがとう』って言われて、俺の心は踊った。家で家事をやっても、親から感謝されたことはなかった。それが当たり前だったから」

 颯太との出会いすら、俺はいつの間にか忘れてしまっていた。

「そしたらそれからもお前に宿題を渡された。たまにだったのが毎日に。お前の分だけだったのが、いつの間にか何人からも頼まれるようになって。それもだんだん無理やりに。俺は家事もあったから、これ以上は無理だって言ったんだ。そしたらお前はこう言った。『俺らはゲームで忙しいの。お前はゲームも遊びもしないんだから暇でしょ?』って。小学生ながらに寒気がしたね」

 急に全身がずしりと重くなったように感じた。

…やめろ。

「それでも無理だって言ったら、お前は他のやつらを連れて来て『こいつ暇なくせに宿題もやらないんだって』って言いふらした。みんな俺のことを何も出来ないやつだって馬鹿にしてきた。俺はもう宿題をやるしかなかった。期限に遅れた日には、お前らに囲まれた。『こんな無能、人間じゃなくね?』そう言って俺を最初に殴ったのは、お前だったよな。蓮」

 …やめてくれ。

 怯えた目で震えながら俺を見つめる顔。許してと懇願する声。そして、それを無視して殴りつける…拳。

見たくない、聞きたくない、思い出したくない。そうやってずっと塞いでいた記憶の蓋を、颯太が強引にこじ開けていく。

「怪我して家に帰っても、親には何も訊かれなかった。きっと俺のことなんかどうでもよかったんだな。母親だけは心配の眼差しを向けてくることもあったけど、アイツのご機嫌取りに夢中で、手を差し伸べてくることはなかった。結局、アイツに愛想尽かして別れたくせに…」

 颯太の声がか細いものになる。だが、それは一瞬だった。

「毎晩深夜まで宿題をやって、家事を忘れることもあった。そのときはアイツに殴られた。そうして過ごすうちに、俺はどんどん早く宿題を解けるようになった。アイツとお前らの暴力に晒されて、いつの間にか身体も強くなった。そう考えると、俺がこの大学に入れたのはお前のおかげかもな」

 颯太が嘲るように笑い声を上げる。

「一度勇気を出して先生に相談したこともあったな。でもお前らはどうやって先生をはぐらかしたのか、何も変わらなかった。その日の放課後は当然、お前らに囲まれたな」

 そんなこともあった。あのとき先生は俺たちを引き合わせた。そして『蓮くん、先生の前で颯太くんにごめんなさいしなさい』と言った。だから俺は謝った。俺が言うと周りのやつらも『ごめんなさい』と言った。それで終わった。先生はニコニコしながら『これからは仲よくね』と言った。それだけだった。

「…俺は……クズだ…」

 そう言いながら床にへたり込む。全身から力が抜け、背後の壁にもたれる。

「今さら気づいたのか? まあ気づけただけでもえらいな」

 颯太が近づいて来る。俺が汚した床を避けて回り込み、暗い瞳で俺を少し見つめてから、胸倉を掴み上げる。

「そうだ、お前はクズだ」

 眼前でそう言い捨てるや否や、俺の体が弓なりにしなる。ドシンという鈍い音を聞いたときには、俺は教室の反対側に仰向けに倒れていた。全身が痺れて動かせない。小さな教室とは言え、端から端まで投げ飛ばされるとは…。

「お前はこの世界に生きていてはいけないんだ。俺にあれだけのことをしておいて、どうして平然と生きていられる?」

 颯太が再び近寄ってくる。俺は体中の痛みに歯を食いしばって耐えながら、なんとか体を起こす。

「…それでも、後悔した。颯太が学校に来なくなったあと…」

「…へえ」

 颯太が足を止め、また見下ろしてくる。

「ほんとはもっと前から…嫌がってる颯太を見て、まずいんじゃないかって思ってた。でも、もう周りを止められなくて…俺が始めたことだったし…」

 颯太がフーッと大きく息を吐く。熱い吐息が、床に座り込む俺にまで届いてくる。

「卒業式にも颯太はいなくて、俺は取返しのつかないことをしたって気づいた。年齢を重ねて物事の分別がつくようになるにつれ、どんどんその罪悪感は大きくなっていって…」

 俯いたまま続ける。颯太を見れない。俺は颯太を見ることができない。

「それだけじゃない。中学以降、俺はあまり人付き合いが上手くいかなくなった。颯太のこともあるけど、一番はこのねじ曲がった性根のせいだと思う。友達はできても、うまく距離を縮められなくて。相手のことを本当に大事にできるのかわからなくて…また傷つけるかもって怖くて…」

「それを話したら同情するとでも思ったか? 俺の心が揺れるとでも?」

 フッと颯太が鼻で笑う。

「…違う。こんなのはただの言い訳だ。でも、俺は颯太に知って欲しかった。俺は颯太を…いじめてたことを後悔してるって」

 顔を上げる。颯太が変わらず憎悪の燃える両眼で睨みつけてくる。腹に力を込めて、俺はその目を見返す。

「それで赦されようなんて思ってない。それで颯太が楽になるとも思ってない。けど、それを知らないままじゃ、颯太がずっとあの頃から進めないんじゃないかって」

 颯太の眉間に皺が寄る。

「颯太もきっと、俺に再会しさえしなければ、楽しい大学生活を送ってたと思う。でもそれは、一生俺というわだかまりを心の中に抱え続けることを意味していて…だからこうして出会えたのは、ある意味…良かったのかもしれない。颯太にとっても、俺にとっても…」

 颯太との再会は不運だった。確かに今、俺は殴られ蹴られ、身の危険に晒されている。

だが、完全に不幸だったとも言い切れない。俺はやっと颯太に謝れた。ずっと神に頼るくらいしかできなかった想いを、ついに本人に伝えられた。

「ハッ」

 俺の話を聴き終えた颯太の表情が歪む。

「確かに幸運だったな。こうして俺の手でお前を殺せる。俺の中のわだかまりを無くせるなあ」

「いや、そういうことじゃない!」

 俺の言葉に耳を貸すことなく、踵を返した颯太が机上の包丁を手に取る。

「やめろ! それじゃ意味がない!」

 やはり不幸だったのかもしれない。颯太の燃え盛る憎しみに見据えられそう思い直す。

 颯太は本気で俺を殺す気だ。この両眼を見れば、そう感じない人間はいないだろう。俺を殺した颯太は殺人罪に問われる。警察に捕まり前科持ち。俺を殺したところで、颯太に順風満帆な人生は訪れない。俺が望んだ結末とは違う。

「俺は颯太に幸せに生きて欲しいんだ! 俺とのわだかまりを無くして、」

「じゃあさっさと死ねよ‼」

 怒鳴り声に思わず身体を震わせる。

「死んでくれよ‼ 俺のために‼ お前の言葉なんてこれ以上聞きたくねえんだよ‼ お前が生きてちゃ俺は幸せになんてなれねえ‼ お前なんかが生きてる世界で‼」

 颯太が一気に迫ってくる。直感的に体を捻る。

「よけんなよ」

 硬い拳に殴られ、再び地面に突っ伏す。

 右腕にピリッとした痛みを感じ、暗い中で目を凝らす。赤い血が腕を下り、肘の先から床に滴っている。一斉に全身の鳥肌が立つ。俺の前腕に赤い線が出来ていた。そこから血が少しずつ肘の方へと伝っている。

「怖いか?」

 口の端だけを吊り上げて颯太が言う。ハアハアという自分の呼吸音が、やけに大きく耳の中に響く。

「俺だって怖かったよ。お前らに囲まれたとき、今から何をされるのか、自分がどうなるのかわからなくて、不安でいっぱいだった」

 淡々と語る颯太の声が急に遠のいていく。さっきまで自分の胸の中でかすかに灯っていた黄色い蝋燭の火が、いつの間にか消えてしまっていた。

「後悔した? 罪悪感? そうか。でもさ、お前が俺に与えた苦しみは、お前のそれとは比較にならないんだよ」

 颯太の持つ包丁の刃先から、赤い血が一滴落ちる。

「お前は罪悪感に縛られてただけ。他に楽しさや忙しさがあれば簡単に考えないこともできる。忘れようと思えば忘れられたはずだ。でも俺はどうだった? どうあがいても逃げられなかった。家ではアイツが、学校ではお前らが、俺に安息の地はなかった。お前に俺の苦しみがわかるか⁉」

「…」

 恐怖だった。それが俺の身体を硬直させて、ピクリとも動かなくさせていた。

…いや、正確には動いていた。プルプルと、怯えた小動物のように情けなく身体を小刻みに震わせていた。

ホラー映画で幽霊に怯える人を見て、『さっさと逃げろよ』なんて思っていたが、彼らが前にしていたのがどういうものだったのか、今ならわかる。

「なんか言えよ!」

 颯太の大声に、思わずビクッと反応する。

 いつか罪を償うときが来るかもしれないと漠然と感じていた。そして同時に、何らかの形で償わなければならないとも思っていた。

 だから廊下で首筋に包丁を這わせられ、颯太の声を聞いて、エレベーターの中で覚悟は決めていた。断罪の時が来たのだと。

だが今、明確な死というものを前にして、固めたはずの気持ちが、ボロボロと崩れていく。確かに俺が悪かった。颯太をいじめて、その半生までも台無しにしてしまった。しかし、その代償はあまりにも重い。それはつまり、俺が犯した罪が颯太にとってそれほど重大なものだったということだ…。

「んだよ、恐怖で声も出ないか? つまんな」

 颯太が屈んで、座り込む俺の顔を覗き込もうとしてくる。俺はその目に射止められたくなくて、半ば反射的に目をそらす。

「…いい顔してるじゃん」

 不気味なほどに吊り上がった笑みに見つめられる。その大きく見開かれた両眼の中で、得体の知れないものが蠢いている。

「せっかく遺言聞いてあげようと思ったのに、黙ったまま死ぬの?」

 その言葉に、何か言おうと口をパクパクさせるが、言葉が出てこない。

「……お…俺は…」

 なんとかか細い声を絞り出す。

「ん? なに?」

 颯太がわざとらしく耳に手を当ててこちらに向けてくる。

「もっとおっきな声でしゃべってよ」

「…俺は…どうしたら……死ぬしか…ないのか……なにか…他に…颯太のために…できることは……」

「ない」

 恐怖と絶望と罪悪感が、身体に重い鎖のようにまとわりついてくる。俺を…罪人を地の底へと引きずり込むように…きっと俺は、もうここから立ち上がることすらできないだろう。

「今日でお前も十九だよな。誕生日に死ぬって最悪じゃね?」

 颯太が嘲笑っているのが、どこか遠くの世界での出来事に思える。

「お前は昔、俺を無価値な人間だと散々囃し立ててたよな。だが実際どうだ? お前はこの十九年で何か成し遂げたのか?」

 目の前に迫る死に、思わず意識が遠のく。いっそこのまま気絶してしまった方が、楽に死ねるかもしれない。

「どうせまた誰かに迷惑をかけたり、傷つけたりしたしただけじゃないのか?」

 そのとき、ふっと花園の顔が思い浮かぶ。

「…ああ、そうだな」

 自然とそうこぼしていた。

「やっぱりな。お前の方が無価値な人間だ」

頭を後ろに倒して天を仰ぎ見る。と言っても、見えるのは暗い天井だけだ。どうせなら、花園と別れたあのテラスがよかった。

目を閉じる。あのとき空に浮かんでいた月と、数は少ないものの、明るく強く輝いていた星がまぶたの裏にチラつく。花園にも結局謝れなかった。夏樹との約束も守れずじまいだ。

「…ごめん」

 ごめん、花園。

 ごめん、夏樹。

 ごめん、颯太。

 …もう、誰も傷つけたくない。

結局俺も、颯太と一緒であの頃から何も進めていない。最初から最期まで、俺は何も変われなかった。

…だからもう、終わりにしよう。

「じゃあ、死ね」

目の後ろを、すうっと一筋の涙が伝った。




 バタンと大きな音がして、思わず目を開ける。

 目の前で包丁を振りかぶっていた颯太に、誰かがぶつかって行く。次の瞬間には、ダーンと音を立てて二人が床に倒れ込む。

 上になった人影がすぐさま起き上がる。

「蓮‼」

 呆然とする俺の手首を掴み、すぐさま扉の方へ走ろうとする。しかし、俺が動かないのを感じて振り返る。

「立って走って‼」

 弾かれたように立ち上がる。痛いほど強く腕を握ってくるその手から、確かな温もりが伝わってくる。

彼女が今度こそ走り出す。足がもつれそうになりながらも、俺も必死にその背を追って駆け出す。

「夏樹! 何で!」

 教室から出ると、さっきまでの喉の詰まりが嘘のように声が出た。

「話はあと! このまま階段を降りて! すぐ警察が来る!」

ナチュラルボブの黒髪が荒々しくなびく。

「夏樹は⁉」

 角を曲がると階段が現れる。夏樹が俺を階段の方へ放って手を離す。

「行って!」

 背を向けたまま彼女が叫ぶ。

「夏樹も逃げなきゃ!」

「私は大丈夫だから! 早く!」

「駄目だ! 今の颯太はまともじゃない! 夏樹だって何されるかわからない!」

「れーん!」

 そのとき遠くから俺を呼ぶ颯太の怒鳴り声が聞こえた。地の底から響いてくるかのような音に、思わず身震いする。

「ほら早く!」

 夏樹がたまらず振り返る。もう一度俺の腕を掴み、階段を一段下ろしたところでまた離れようとする。今度は俺が夏樹の腕を掴む。

「駄目だ」

 その腕は思っていた以上に細い。

「何してるの…⁉ 行ってよ‼」

 夏樹が焦った顔で言う。よく見るとハアハアと荒い呼吸を繰り返している。七階まで駆け上がってきたのかもしれない。顔色もよくない。

「危険すぎる。夏樹は逃げろ」

「私はいいんだって。颯太が狙ってるのは蓮くん!」

「そうだ。あいつがこうなったのは、全部俺のせいだ」

 夏樹が息を呑んだのがわかる。

「だから、俺がけじめをつける」

 毅然と夏樹の目を見つめ返す。

俺を庇えば、颯太は夏樹に凶刃を振るうかもしれない。俺のせいで誰かが傷つくのはもうごめんだ。それに、俺のような無価値な人間が生き残ったところでなんになる? 夏樹、今度はお前が俺に傷つけられる番かもしれないんだ。

 夏樹が目を閉じて大きく深呼吸する。さあ、落ち着いて、逃げてくれ。

 彼女の目が再び開く。刹那、その顔が一気に近づいてくる。

「えっ」

 突然全身を包み込んだ温もりに、思わず言葉を詰まらせる。

「大丈夫」

 耳元で夏樹が囁く。

「もう、大丈夫だから」

背中に回った夏樹の腕が、強く、けれども優しく、俺の体を抱き締める。

「蓮くんが颯太に何をしたのか、私は知らない。けど、それがどんなことでも、私は蓮くんを受け入れる」

 夏樹の柔らかな声と、伝わってくる体温が、冷たくしなびた俺の身体の中に広がって、染み渡っていく。

「だって私は、今の蓮くんが好きだから」

 消えた心の蝋燭に、夏樹が新たな火を灯す。

「過去はもうすぎたこと。私は今の蓮くんを見てる。蓮くんは、もう悪人なんかじゃない」

 目頭が熱くなってくる。こんな俺に、こんな言葉を、かけてくれるなんて。

「だから生きて、生きていて」

 夏樹の腕がそっと解かれる。自分の置かれている状況にも関わらず、名残惜しさを覚える。そのまま身を任せていると、階段のさらに下の段へと押しやられた。

「大丈夫。行って」

 ニカッと笑いかけてくる。人間が発光するわけがない。だが、そのときの夏樹は確かに周りよりも数段明るかった。神仏に後光が差すように、俺には彼女が輝いて見えた。

「蓮くんが悲しむような結末には、絶対しないから」

 自然と足が一段下がる。夏樹への後ろめたさはもうない。身体に残る彼女の温かさが、安心感となって俺を包み込んでくれている。

「れーん‼」

 颯太の声がさっきよりもはっきり聞こえた。もうすぐそこまで迫ってきている。

 本当にいいのか?

 心の中の俺に小さく問いかけられ、思わず足を止め振り返る。

 階段の前に立ちはだかる夏樹の背は、きっと俺よりもずっと大きくて、胸の内にわずかに残っていた不安さえも拭ってくれる。

 夏樹に任せて大丈夫だ。安堵とともにまた一歩、下の段へと踏み出す。




すぅー。はぁー。

振り返って階下の踊り場を見る。もうそこに彼の姿はない。

 ふーっと息を吐きながら胸を撫でおろす。やっと…やっと行ってくれた。

 後ろ手に上着をめくり、デニムに差し込んでおいたナイフの柄に触れる。これはなるべく、どうしようもなくなるまでは…抜きたくない。

 再び元のように上着を被せておく。

 これを隠しておいたのは正解だった。もちろん最初は人目に付かないようにするためだったが、もし蓮くんに見せていれば、あれだけしても行ってはくれなかっただろう。

 もう一度天井を仰ぎ、深呼吸する。

すぅー。はぁー。

「遥香」

 前を向く。見慣れた、でも知らない目をした颯太が立っている。

「どいてくれ」

 私の方へ近づきながら低い声でつぶやく。その瞳に普段宿っているはずの優しさは、今は影も形もない。

「いや」

「…なんで」

 残念そうに視線を落としたものの、彼の足は止まらない。

「蓮くんに死んで欲しくないから」

 静かに言い放つ。

「颯太に人殺しになって欲しくないから」

「ハッ」

 颯太がずんずん迫って来る。顔を上げた彼の目の中で、漆黒の炎が燃え盛る。右手に握られている包丁の切っ先は、真っすぐ私の方に向いている。

 すかさず颯太の右手首を掴み、刃先を横に向けさせる。だが彼は手に視線を落とすことなく、無言で手首にもの凄い力を込めてくる。両眼に殺意がほとばしる。私の力では数秒ともたない。

「誕生日おめでとう‼」

 咄嗟にそう叫ぶ。

「は?」

 力が抜けた隙を狙って、颯太を押し戻す。彼はふらふらと後退したものの、尻もちを着いたりはしない。

「忘れててごめん」

「それ今言うことか?」

 颯太の顔に困惑の色が浮かぶ。だが、おかげで彼の殺気が一瞬弱まった。

「六月十六日、颯太の誕生日。もしそれよりも前に颯太が蓮くんに出会ってたら、どうしてたかな…」

「は…? したら俺の誕生日にアイツを殺してたかもな。さっさと葬ってやりたいし」

「違うよ。きっと颯太はこう思った。『十九歳になる直前、十五日の夜に蓮を殺して、新しい人生を始めるんだ』って」

 颯太が眉間に皺を寄せてからニヤリと笑う。。

「…まあ、そういうのもアリかもな」

 颯太がまた一歩踏み出してくる。

「ねえ、どうして蓮くんを殺したいの?」

「アイツが生きてちゃいけないヤツだからだ」

「なんで?」

「アイツを殺したあとで話してやる」

 私のことなど構わず、颯太は蓮くんを追おうとする。

「言わなきゃどかない!」

 バッと両手を開いて階段をふさぐ。彼なら私を押し退けるなど造作もない。そんなことはわかってる。

「どけよ」

「いや!」

「てめえも死にてえのか!」

 颯太が包丁を振り上げる。

「蓮くんは優しい‼ 誰かに恨まれるような人じゃない‼ なのになん、」

「黙れよ‼ アイツはクズで、無価値で、俺の人生を壊した‼ 俺の心も体も、アイツがボロボロにした‼」

 颯太が咆哮する。私もそれに負けないよう腹に力を込める。

「嘘だ‼」

「嘘じゃない‼ お前は本当のアイツを知らないだけだ‼ アイツのせいで俺は小学校のクラスメイトにいじめられた! 暴力だって振るわれた!」

 思わず颯太の顔を見上げる。

「アイツのせいで俺は人間不信になって、コミュ障になって、ぼっちになった! 家事を忘れてクソ親父の機嫌を悪くさせたこともあった! 母さんが離婚したのだって、きっとそんな親父に呆れたからだ! アイツが、蓮がいなければ、俺はもっと、もっと幸せに生きられたんだ‼」

 颯太の目から煮えたぎる炎が溢れ出て、目の前の私までも焦がそうとしてくる。だが私は身じろぎ一つせず、その猛る炎の源を見つめる。

「そして…そして俺にあんなことをしておいて、こんなに俺の人生をめちゃくちゃにしておいて、アイツは幸せそうに生きてやがる! それが俺は赦せねえ! 赦せねえんだよ‼」

 颯太の目の焦点が私に合う。共感を求めているかのように、口元を吊り上げて奇怪なうすら笑いを浮かべる。

「遥香、お前もわかるだろ? お前を人間恐怖症にしたヤツらがこの大学にいて、自分よりもずっと幸せそうなキャンパスライフを送ってる。それ見て耐えられんのかよ? 憎しみが、殺意が湧かないっていうのかよ⁉」

 あまりの熱気に思わず後ずさりしそうになるが、なんとか踏みとどまる。

「さあ、話してやったぞ。早くどけ」

 颯太が私の肩に手をかける。

「…だからって、だからって蓮くんを殺していい理由にはならない‼」

 また颯太を押し退けようと体を押す。だが、彼の体はびくともしない。

「あんたの知る蓮くんが卑劣ないじめっ子だったとしても、私の見てきた蓮くんはそんな人じゃない! 今の蓮くんは人を傷つけるのが大っ嫌いで、傷ついてる人を見つけると自然と手を差し伸べてしまう、そんな心優しいだだの大学生! あんたの言う立花蓮はもういない!」

「そんなの関係ねえ‼」

 颯太が私の肩を握り込む。鈍い痛みが走る。

「今は人を傷つけるのが嫌い⁉ ほんとかよ⁉ 上手く隠してるだけじゃないのか⁉ 人の根っこってのは、そう簡単に変わるもんじゃねえ!」

 唾を散らしながら叫ぶ。

「それにアイツが俺につけた傷は、今さらどう足掻いたって消せない! アイツには俺の人生をめちゃくちゃにした代償を払わせなきゃならない!」

 颯太の爪が食い込んで、思わず歯ぎしりする。

「めちゃくちゃな人生って何⁉ 私と颯太は中学からずっと一緒だったよね。私と過ごした時間も、めちゃくちゃの一部?」

 颯太が目を細め、それ以上の言葉を引っ込める。

「ねえ教えてよ? 颯太は中学、高校と、ずっとそんなふうに思いながら過ごしてきたの?」

「ん…」

「お昼休み、一緒にお弁当を食べながらよく笑い合ったよね。放課後、二人で話しながら帰ったりもした。家で一緒に遊んでるときも、颯太は不満だった?」

 肩に加わる颯太の握力が緩む。

「運動会のときは、他の男子とも結構仲良くやってた。そのときは? 文化祭じゃ颯太、なぜか主役になっちゃって、本番前は舞台袖で、ずっと深呼吸繰り返してた。私よりもしてたんだよ? 修学旅行では二人で勝手に抜け出して、あとで先生に怒られたよね。そのときは?」

 自分で言いながら、脳裏にあの頃の景色が蘇る。こんな切羽詰まった状況のはずなのに、不思議と気分が落ち着き、懐かしい感覚が湧いてくる。

「高校の合格発表の日、私は家で見ればいいって言ったのに、颯太がどうしても張り出されるのが見たいって言うから、ついてってあげた。もともと私が行こうと思ってた学校なのに、変だよね? あの日はもう春先だっていうのにすごく寒くて、受かってるかどうかの緊張もあって、正直調子悪かった。でも掲示板に自分の番号を見つけて、寒さも体調も、全部吹っ飛んだ! 覚えてる? そのときの颯太、泣いてたんだよ」

 顔を上げる。颯太は前を見つめたまま固まっている。

「あのとき、どんな気持ちだった?」

「…」

 颯太が口だけをパクパクと動かし、声にならない声を出す。彼の瞳が揺れているのを見逃さない。

「悲しかった? 憎かった? 蓮くんのことを考えてた?」

「俺…は…」

 ゆっくりと颯太が私の方を見る。その瞳には、必死な顔をした私が映っている。

「違うよね? あのとき颯太は、心から泣いてた! 心から笑ってた! 私といて、みんなと一緒に笑って、喜んで、楽しんで。蓮くんへの復讐心なんかとっくに忘れて、ずっと幸せで、当たり前な青春を生きてた!」

 もう一度、颯太の胸に当てた手に力を込める。一歩、颯太が下がる。

「だからさ! 颯太は颯太の人生を否定しないで! 蓮くんへの、過去への憎しみに縛られないで!」

 もう一歩、颯太を押し戻す。

「…遥香」

 颯太の体が私の手から離れ、階段からも遠ざかって行く。

「…悪かった」

 そう言って俯く。彼の顔に影が差す。

「お前と過ごした日々は楽しかった。お前の言う通り、昔のこともいくらか忘れられたよ」

 突然、颯太が空いている方の手で頭を抑える。

「でもアイツに会った途端、すべてが戻ってきた! すべて思い出した! 俺の中の古傷が、またジンジンと痛み出したんだ!」

 そう怒鳴る彼の目は、焦点が定まっていない。

「遥香が俺のことを大切に想ってくれてるのはわかった! ならなおさら行かせてくれ! アイツを殺したい! 蓮を殺したい‼ それが俺の今の一番の願いなんだ! 俺の願いを叶えさせてくれ!」

「だめ!」

 半狂乱で叫び散らかす颯太を見つめる。彼の瞳は蓮くんへの憎しみに支配され、ドス黒く濁っている。そこにはもはや、物事の善悪を判断する能力なんて残ってはいない。

「なんでだよ⁉ 中学のとき、孤立してたお前に声をかけてやった! お前の無茶な挑戦を見かねて、付きっ切りで勉強を教えてやった! お前に近寄ろうとするやつらは全員追い払ってやった! 俺が遥香をここまで連れて来たんだ! そのお返しに、これくらのことも許してくれないのか?」

 ドクン、と心臓が強く打たれる。

「…これくらいのこと?」

「お前は、俺がしてやった恩を返さないような薄情ものじゃないよな?」

 ギリッと歯ぎしりし、拳を強く握り込む。手のひらにわずかに痛みが走る。

「私に、蓮くんが死ぬのを黙って見てろと? 颯太のために何もするなと?」

「そうだ」

 顔が熱くなってくるのを感じる。ドンドンと胸の奥が鳴る。

「そんなことできるわけ…ないでしょ」

 身体の奥底から、はたまた手や足の先から、熱い感情が全身に広がって来るのがわかる。…まずい。この感情に飲み込まれてはダメだ。

「なんでだよ。薄情もんが」

「あんたが自分でした善意に、見返りを求めるようなやつだとは思わなかった」

「別に見返り目当てにやったわけじゃない。ただ誰かに助けられたなら、今度自分が相手を助けてあげたいと思う、それが普通だろ」

 颯太が真顔で答える、まるで自分がすべて正しいとでも言うかのように。

「だとしても…今はそのときじゃない」

「ふざけんなよ、バカ遥香。俺がいないと何にもできないようなお前に、俺の憎しみの深さがわかるのかよ」

「…は?」

 またドクン、と鼓動が身体の中に共鳴する。

「じゃあ…颯太には私の気持ちがわかるとでも? 私が今、どれだけの覚悟でここに立っているか…わかると…?」

 腹の底から煮えたぎったものが一気に喉元へせり上がって来ようとするのを抑えられない。

「私はあんたに助けてなんて言った覚えはない。…それにもう、あんたの助けを必要とするほど弱くない」

「んだと…」

 颯太が睨みつけてくる。

「悪いけど、私には颯太以外にも頼れる人がいる。あんたは勝手に保護者面して私を守ってた気になってたかもだけど、見返りを求めてくるぐらいなら、もういい。見返りなんて求めない、そんなあんたよりずっと優しい人を、私は知ってるから」

 颯太がフーッフーッと肩を震わせながら息を吐く。やがて何かに気づいたようにピタッと動きを止め、目を大きく見開いて私を見つめる。

「……まさか…それが蓮か?」

 彼の体が小刻みに震えているのが、距離を置いている私からでもわかる。

「…そうだよ」

 そう答えた途端、颯太が持っている包丁を気にせず、両手で頭を抱える。

「は…? 嘘だろ…?」

 今度は力が抜けたかのように、手をだらりと下げ、天井を見上げる。髪を少し切ってしまったのか、ポロポロと茶色く染めた毛が落ちる。

「……結局…お前は俺から何もかも…奪って行くんだな…」

 ポツリとそう呟き、天井をぼんやりと見つめている。

 束に間の静寂に、私はずいぶん早くなっていた呼吸を落ち着ける。それとともに、濁った思考を少しでも整えられるよう努める。

 これだけ時間を稼げば、流石に蓮くんも下に辿り着いているだろう。山上くんに呼んでもらった警察は、もう到着しただろうか。

 ぼうっとしている颯太に目を戻す。

 蓮くんにいじめられ、心にも体にも、決して癒すことのできない傷を負った。颯太だって被害者なのだ。蓮くんにいじめられていたその瞬間、悪だったのは確実に蓮くんの方なのだ。だが、蓮くんだって更生している。もう二度と誰かを傷つけるようなことはしないと心に決め、逆に傷ついた結衣や、私のような人間に救いの手を差し伸べてくれた。

 だが、もし蓮くんを殺していたのが颯太でなければ、問答無用で刺していたかもしれない。その人の事情になんて耳を貸さず、それこそ今の颯太のように、憎しみに囚われ、それ以外の一切を視界から排除して。

「…お前も」

 はっとして颯太を見る。いつの間にか彼もまた、私を見つめていた。

「お前も…敵なんだな」

「え…」

 颯太が包丁を構え直す。銀色に光る包丁の面が、真っ直ぐな線になっていく。

「お前はもう、俺の知ってる夏樹遥香じゃない」

 その瞳には今や、赤い炎が燃え盛っていた。そしてそのグツグツとたぎる怒りの対象が、もはや蓮くんだけではないことも、すぐに感じ取れた。

「俺の知らぬ間に色々なことを経験して、蓮と出会って、変わっちまったんだな」

「い、今さら行ったって意味ない! もう警察の人が来てる!」

 慌てて胸の前で両手をブンブンと振る。

「関係ねえよ。もう手遅れなんだ…」

 だが、颯太は意に介さないという風に一歩踏み出してくる。

「俺は蓮を殴った…蹴った…もう罪に問われるのは避けられない」

「だからってこれ以上罪を重ねないで!」

 頭をフル回転させて、颯太をなだめる言葉を考える。

「黙れ。もうお前は、俺の想ってきた遥香じゃない。アイツらと同じ、蓮の味方をする、取り巻きの一人に過ぎない」

 彼の目から、熱い雫が一筋頬を伝って、床に落ちる。

「私はずっと颯太の味方だよ!」

「お別れだ、遥香」

 そう言って体勢を低くする。もう口だけの薄っぺらい言葉なんかじゃ彼に届かない。もう、私でも颯太を止められない。

「ま、待って!」

 危険を感じ思わず身構える。と、颯太が目を見開く。

「お前…その構え…」

はっとして自分の体に目を向ける。いつか颯太に教わった、空手の組手の構えだった。

「フッ…いいだろう。真剣勝負だ」

 颯太も一度直立してから構え直し、握った拳と包丁を突き出す。

「お願い…やめて…」

 言葉とは裏腹に、自然に背中に手を回す。

「なら元の遥香に…戻れよ!」

 ダンっと颯太が踏み込む。

 結衣に殺されそうになったときと同様に、刹那に感覚が研ぎ澄まされる。

横に跳んで回避。

 そしてナイフを背に突き刺す。

 これしかない。

 迷っている暇はない、瞬時に足に力を込める。

そのとき、唐突に肩を強く押された。踏み切り直前で全神経を跳ぶことだけに集中していた私の体は、予期せぬ衝撃に反応できず、いとも容易く横倒しになっていく。転倒を防ぐため、咄嗟に左足を地面に着く。

 鈍い音。

ゆっくりに感じていた時間が一気に流れ出す。私はタタっと何歩か横にズレて、体勢を立て直した。颯太が行ってしまう。そう思い、先ほど自分が立っていたところに目をやる。

「え?」

 そこには二人の男が立っていた。

「ううっ…」

 片方が呻き声を上げる。

 泥に埋まった足を引き抜いたような、そんな気味の悪い音を立てて、颯太が包丁を引き抜き、後ずさる。

蓮くんははふらふらと揺れ動いたものの、すぐさま床に膝をつき、ドンっと湿った音を立てて、うつ伏せに倒れた。




 一段飛ばしで階段を駆け下りる。

「誕生日おめでとう!」

 意味不明な声が聞こえて、思わず立ち止まる。

誕生日? 俺のことか? だったらなぜ今?

耳を澄ますが、それ以上何も聞こえてこない。さっきのは夏樹の声だった。急に、夏樹の悲鳴が今に聞こえやしないかと、不安に駆られる。

踊り場に書いてある表示を見ると、三階と四階の間だった。流石にもう降りてしまった方がいいか。

 再度階段を下り始める。

「黙れよ!」

 颯太の怒鳴り声がかすかに聞こえて、再び上を見上げる。夏樹の声も聞こえる。何と言っているかはわからないが、激しく言い争っているようだ。

 当然だ。底の見えない憎しみに駆られて俺を殺そうとする颯太と、そんな親友をなんとか食い止めようとする夏樹。穏やかな話し合いで済むわけがない。

 …夏樹が俺のために命をかけてくれている。

 あいつの上着の背が膨らんでいるのには、最後に振り向いたときに気づいていた。俺も昔よく、ああやって木の棒なんかを先生にバレないよう隠し持っていた。それがカッコいいと思っていた。夏樹が持っているのも木の棒程度だと思いたいが、刃物を持つ颯太と対峙する以上、それでは一層危険が増すだけだ。

 端から夏樹は危険を承知で俺を逃がしたんだ。そして俺はそれを理解した上で、女子を盾にして逃げ出した。夏樹が負けるとは思わない。こちらまで力が湧いてくるようなその姿を前にしたからこそ、そう思える。夏樹は俺なんかよりもずっと勇気があるし、言葉にだって長けている。夏樹が教室で俺を助け出してくれたとき、その瞳に見つめられただけで、もう動かせないと思っていた身体がスッと動いたんだ。出会ったときからそうだった。彼女には何か、普通でないものを感じる。だからこそ、俺も安心して後ろを任せてしまった。

 また足を止める。

…だが、もし夏樹が颯太をなだめられなかったら…?

…もし、気の狂った颯太が夏樹に凶刃を振り上げたら…?

体格のいい颯太に、あんなにか細い夏樹が敵うわけがない。

 思わず体の向きを反転させる。結構降りて来たと思っていたが、先ほど確認したときとほぼ変わらず、いまだ三階だった。

 戻ったら夏樹に怒られるだろうか…きっとそうに違いない。

 颯太はのこのこと戻って来た俺を喜んで殺そうとするだろう。そうなったら夏樹でも止められないかもしれない……だがそれでも、夏樹が刺されるよりはマシなんだ。

 一段上がる。

…何をしている? 俺は今、本当に馬鹿なことをしようとしているんじゃないか?

「フッ…」

心の中の自分に問われ、思わず笑ってしまう。

 折角夏樹が作ってくれたチャンスを無駄にしてしまう。きっと夏樹は酷く傷つくだろう。『蓮くんのことなんてもう知らない!』と愛想を尽かされてしまうかもしれない。

 …だがなぜだろう。もし遥香が颯太に傷つけられたらと思うと、胸がズキズキと痛む。もちろん誰かが傷つけられることは赦せない。だが夏樹の場合は、もっとこう、ずっと、胸をギュッと締め付けられるような感覚が苦しい。もし夏樹が俺に代わって死んだりしたら…そう考えるだけで鳥肌が立って、居ても立ってもいられなくなる。

 階段をどんどん上がって行く。その歩みが、呼吸とともに段々と早まっていく。

 …きっと夏樹が俺を抱いて、あんなことを言ったからだ。夏樹は俺の中で、花園の存在に成り替わろうとしている。つまり…新たな光だ。生きて行く上での希望。その人がいるから自分は生きるんだという、そんな人生の道しるべに。

 花園がそうだったことに俺は気づけなかった。だから花園をあんな風に傷つけてしまった。次に夏樹がそうなるのなら、今度は間違わない。夏樹自身が俺に言ったことじゃないか。

 それで戻って自分が死んだら意味がない? …確かにそうだ。だがそれでも、何もしないまま夏樹が死んでしまうのだけは赦せないんだ。失われた命は戻らない。夏樹が死ねば、もう二度と俺に、見ただけで元気が湧いてくるような、そんなまぶしい笑顔を向けてくれることもない。

そんなのは、嫌だ。

 二人の声がもう、すぐ上に聞こえる。

 もし二人とも無事に生き残れたら、俺が戻ってきた理由を話したとき、夏樹はどんな顔をするだろうか? 怒ってドン引きされてしまうかもしれない。だからそのときは、やっぱり罪滅ぼしをしたくって、とでも言おう。実際その思いだって強い。夏樹のためでも、颯太のためでもなく、ただ俺自身が、罪を犯した自分を赦せなかったから。だから颯太に一刺しくらいもらわなきゃ、気が済まなかったんだ、と。

「お願い…やめて…」

 はっとする。夏樹の弱々しい声が耳に入った。危険な状態に違いない。全力で階段を駆け上がる。踊り場の角を回ると、後ろ手に腰から何かを抜こうとする夏樹の後ろ姿が目に入る。

「戻れよ!」

 颯太の声と急激に迫ってくる足音に、たまらずその肩を強く押し退けた。




私の目の前で、蓮くんが力なく倒れていく。

「え…?」

 目の前で起こった光景が理解できない。ドクッドクッという自分の鼓動だけが、頭の中に鳴り響いている。

「は、はは」

 声のした方に目を向ける。颯太が目を剥いて、ふらふらと後ずさる。

「ははは、ハハハハッ!」

 そのまま高笑いし始める。

「マジかよ! 自分から死にに来やがった! お前どんだけバカなんだよ! ハハハハハハ!」

 蓮くんの方へ視線を戻す。

「蓮くん…蓮くん!」

 転ぶように蓮くんの側に膝を着く。ピチャっと水溜まりを踏んだときのような音がする。

「なんでっ! 何で戻ってきたの⁉」

 薄目を開けたまま動かない蓮くんに向かって叫ぶ。嘘だ。あれだけ言ったのに。確実に行ってくれたと思っていたのに!

彼は虚ろな目をしたまま、力なくほほ笑む。

「……や……り…」

 蓮くんが荒い息に混じって何かをつぶやく。聞き取るために、咄嗟に屈んで耳を近づける。

「…やっぱ…り…危なかった…だろ……」

 顔から頭を離し、ぎこちなく首を振る。

「私は大丈夫だって…言ったよね? なのになんで戻ってきたの?」

 蓮くんの頬から徐々に赤みが引いて行き、残念そうに間近の床を見つめる。

「…罪…滅ぼし…」

 苦しそうに顔を歪めながら言う。歯の隙間からヒューヒューと息が漏れている。

「はあ⁉ だからいいって言ったじゃん!」

 思わず怒鳴ってしまってから、慌ててまた彼に顔を近づける。

「ごめん。でも…」

 視界が涙でぼやけてくる。胸の中で色々な感情が渦巻いて、とても正気でいられそうにない。くそっ。また、またダメなの? ここまで来たのに…あとほんのもう一歩だったのに!

「……ほ…ん……とは…」

「え?」

 先ほどよりも小さな声に、口に触れてしまうんじゃないかというくらい、耳を近づける。

「…な…つき…を……うっ!」

 ゲホっと濁った咳が出る。私の胸と腹もズキズキと痛む。

「…しなせたく…なかった…」

 思わず目をつむって、唇を噛む。

「私だって…蓮くんを死なせたくなかった…」

 ガリガリと床に爪を立てる。胸の中から一気に感情が沸き上がってきて、今にも両眼から溢れ出そうとしている。

「ハハハハハッ!」

 と、耳障りな笑い声が耳に入ってくる。目を向けると、狂ったように颯太が笑い続けている。蓮くんが話している間もずっと邪魔だった。

「…そうたぁ……」

 自分の喉から想像以上に低い声が出て、内心自分でも驚く。だがそんな束の間の気づきも、全身を瞬く間に巡った黒くて熱い感情に飲み込まれる。

「ハハハハハ‼」

「何がそんなに面白いんだよ‼」

 颯太がビクッと体を震わせる。私の顔を見た瞬間に、その薄ら笑いも消え失せた。黒よりも黒くなった瞳で、私が睨んだせいだろう。

「死ねよ、颯太も」

 背に這わせていたナイフを抜こうとするも、手が滑って抜き取れない。見ると、今まで蓮くんの側の床に付いていた両手は、彼の流した血で赤く赤く染まっていた。

「はあっ…はあっ…」

 息を荒げながらも、今度は滑らないよう柄を強く握り直し、ナイフを引き抜く。

「そんで蓮くんの気持ちを味わえ‼」

 目の前のクソ野郎を殺す。もうそれしか考えられない。

「れーーん‼」

 突然、甲高い声が廊下中に響き渡る。颯太の背後からだった。

 咄嗟に振り向いた颯太の額を、竹刀が割った。バチンっと目が覚めるような音がこだまする。

 カチャンと音を立てて、颯太の握っていた包丁が落ちる。彼自身もヨタヨタとふらついてから、そのまま床にばったりと倒れた。

「蓮‼」

 小柄な人影が竹刀を投げ出して、倒れている蓮くんに駆け寄る。

「マジかよ…蓮⁉ 聞こえる⁉ 絶対死んじゃ駄目なんだからね⁉」

 そう声をかけながら、肩の下に腕を入れ、彼を仰向けにしようとしている。

「遥香⁉ 突っ立ってないで手伝って!」

「あ、うん」

 はっとして私もナイフを捨てて膝をつく。結衣と一緒に蓮くんを引っくり返す。

「うっ…ゴホッゲホッ」

 途端に蓮くんが激しく咳き込む。

「あっごめん! 苦しいよね…でも傷口を抑えないとだから…」

 そう言って結衣が花柄のハンカチを取り出し、蓮くんの腹に押し当てる。

 愕然とする。蓮くんの白いTシャツは、今やほとんど赤いTシャツになっていた。結衣のハンカチもあっという間に赤く染まって行く。

「救急車は⁉」

「えっ」

 結衣の疑問に答えるように、遠くからサイレンの音が聞こえてきた。山上くんが気を利かせて救急車も呼んでくれたのだろう。

 とは言え、今さら来ても…もう遅い。

 目の前の蓮くんは、さっき咳をして以降ピクリとも動かない。息をしているのかどうかも怪しい。前に路地で息絶えていた、彼の冷たさを思い出す。

 また、救えなかった。

 きっともう、蓮くんは死んでしまう。

 それだけではない。颯太だって、救えなかった。

 少し離れたところに倒れている颯太に目をやる。頑丈な彼のことだ、今は気絶しているだけで、命に別状はないだろう。

だが問題はそこではない。私は颯太のことをすべて知り尽くしていると思っていた。そんな私なら颯太を止められると驕っていた。しかし現実に、彼は私の知らない顔をして、知らない過去に囚われていて、ついに私は、その深すぎる怨嗟の沼から彼を救い上げることができなかった。颯太はもはや私をも信じられなくなり、心の傷をさらに深めただろう。

「遥香!」

 前を向く。結衣だってそうだ。私がもっと上手くやっていれば、彼女にだって、もっと幸せな道を歩ませてあげられたかもしれない。仮に蓮くんと一緒になれなかったとしても、もっと円満な結末に。

「ねえ!」

 でも、大丈夫。

 私、もう一回やるから。

過去へ戻って、もう一度やり直すから。

 そのときは必ず、みんなが本当に幸せになれるように、

「おい‼」

 ベチンと鈍い音がして、思わず頬を抑える。

「何してんだよっ‼」

 ベチッ、と今度は反対の頬を平手で打たれる。

「幸せにすんじゃなかったのかよ‼」

 驚いて目を瞬かせる。

「私との約束は⁉」

 結衣が唾を飛ばしながら、瞳の中で光を燃やしながら叫ぶ。

「お前が諦めんなよ‼」

 足元で蓮くんが一瞬ビクッと震えた。はっとして手元を見る。

「ぜんぶ遥香のせいなんだよ‼ 私が振られて‼ 西川がおかしくなって‼」

 結衣が蓮くんの傷口に体重を乗せて圧迫する。そんな程度で出血が抑えられているのかは定かではない。だが、

「遥香のせいで蓮まで死んだら、今度こそ赦さねえ‼」

 それでも、

「んっ!」

 取り出したハンカチを、結衣のハンカチの上に重ねる。

「蓮くん‼」

 まだ、届くなら。

「生きて‼」

 どうか。

「死なないで‼」

 だって、死んだらもう会えなくなってしまうから。

「生きて‼」

それが当たり前のことだから。

 階下から慌ただしく階段を駆け上る音が聞こえた。そのときになって、結衣にビンタされた両頬が、やっと痛くなってきた。




    六月二十七日(金)

 先の見えない暗闇に、突如まばゆい光が差して込んできた。

 薄目を開けると、そこは案外暗い場所だった。

「ん…」

一体ここはどこだろう。誰かが俺を呼んでいたような気もする…。

カーテンと天井の隙間からこぼれる薄い水色の光を眺めていると、次第に意識がはっきりしてきた。

ここは…病室だ。ドラマなどで何度か見たことはあったが、実際にそこで自分が横たわっているのは初めてだ。

ふと、左手だけが他よりもほんのり温かい気がして、横になったまま首を下に向ける。

 黒髪が、ベッドの端っこでゆったりと上下している。耳を澄ますと、小さく寝息も聞こえてくる。さらに視線を下ろすと、白い指が俺の手の甲の上にのぞいていた。

「夏樹…?」

 体を起こそうとした瞬間、腹に痺れるような激痛が走り、思わず呻き声を上げる。

「…ん…」

 荒い深呼吸を繰り返しながら、再び下に目をやる。黒髪がふわっと浮き上がり、現れた小顔の、その中心にある両眼がぼーっと俺を見つめる。

「…蓮くん…?」

 夢見心地だった細目が次第に見開かれていき、青白かった顔にも徐々に血の気が戻ってくる。

「蓮くん⁉」

 大きな瞳に光が宿った刹那、飛びつくように彼女の端正な小顔が迫る。

「生きてる…蓮くんが…生きてる……」

透き通った瞳にジワっと水滴が浮かび、涙袋の上で大きくなっていく。

「蓮くん…蓮くん…」

 大きく溜まった涙が一滴、ツーっと頬を伝う。その道に沿うようにして、また涙が流れる。暗い中でもかすかに紅い頬を、次から次へと涙が伝い、最後にはすぐ下にある俺の腕を濡らしていく。大きく開いたまぶただけをわずかに震わせながら、それ以外の表情を崩さずに、震える声で何度も俺の名を呼ぶ。

「れんくんっ……」

 ガバっと突然俺の胸に顔をうずめる。痛いと感じたのは腹ではなく、夏樹が固く握った手の方だった。俺は突然すぎる状況に呆気に取られたが、そのまま胸の上で呻くように泣き続ける夏樹を、どうすることもできない。

「…大丈夫?」

 苦しそうに思えるほど激しい嗚咽に、思わず声をかける。

「…だいじょうぶ……安心して…つい……」

 わずかに頭を上げたものの、顔はこちらに向けずに答え、再び泣きじゃくる。

 あんなに芯の強そうな夏樹でも泣くことがあるんだな、と思う。

けれど多分、どんな人間だってそうなのだろう。どんなに完璧な人でも、どんなに素晴らしい人であっても、涙を流したことの一度や二度くらい、当たり前にあるのだ。

 夏樹の泣き声を聞きながら、自然と俺の目頭も熱くなってきて、思わず目をつむる。

 その熱につられて、まぶたの裏に焼けつくような憎悪を孕んだ男の姿が蘇る。

 それは確かに俺に向かってぶつけられたもの。過去に犯した罪に、それから何年も経った今でも、俺の魂を固く繋ぎ留めておく、逃れようのない罪悪の枷。

もう、忘れたりしない。

もう、向き合うことを恐れたりしない。

 もう一つ。

 そんな、闇の中にいた俺の元へ駆け寄ってきた、一筋の光。包まれれば身体が軽くなり、掴まれれば明るい方へと一歩踏み出せる。

左手からの温かさが俺の全身に広がって、満ちていく。

 もう、傷つけはしない。

「…夏樹」

 目を開け、俺の体に顔を埋めている彼女を見つめる。

「…ん」

 夏樹も今度は顔を上げる。俺が左手を強く握り返したからだろう。

 まだ目が赤くなるほどではないが、カーテンの隙間から入るわずかな朝日の光をキラキラと照り返す瞳。小刻みに震える薄い唇。すっかり崩れてくしゃくしゃになった前髪。

 これまでの凛として、それでいてちょっとあざとい、そんな彼女とは似ても似つかぬ姿に、なぜだか胸がヒリついてくる。それと同時に、その弱さを俺がカバーしてやりたいと、半ば反射的に思う。

「…ごめん。余計なことして…不安にさせたよな…」

 患者衣に隠れた腹の傷をさすりながらつぶやく。夏樹が目をキュッと閉じ、涙をこぼしながらゆっくりと首を振る。

「…いいよ…もう…」

 そう言って潤んだ瞳で俺を見つめてくる。

「それより…わたしのほうこそ……余計なおせわじゃ、なかった…?」

 体と声を小刻みに震わせながら、まるで何かを訴えかけてくるかのように、その目に熱がこもる。

「ああ。余計なんかじゃなかった。ありがとう」

 窓が開いていたのか、ふわっとカーテンが浮き上がり、夏樹の顔を照らし出す。

「俺を救ってくれて、ありがとう」

 両眼がキラキラと輝き、一瞬固まっていた夏樹の顔が、また急激に崩れてくる。俺の患者衣で拭われた彼女の頬を、再び大粒の涙が伝っていく。

「…そっかあ…よかっだあ……」

 そう言って深く息を吐きながら、と言ってもすぐにヒックとしゃくりながら、また俺の胸に顔をうずめる。

 なんだか俺も安心して、ふーっと息を吐く。身体の奥に最後まで溜まっていた重い何かが、抜けていくような気がする。

 俺は死にたかった。何度も人を傷つけてきた俺に、生き続ける価値も意義もないと。このまま、クズの俺のままで生き続けるくらなら、死にたかった。

でも、俺のためにこんなにも涙を流してくれる人がいるのなら、俺のために命を懸けてくれる人がいるのなら、もう少しだけ生きてみてもいいのかもしれない、と思う。

 いや、生きなくちゃいけないんだ。

俺が死ねば、きっと夏樹が傷つく。きっと今、目の前で流しているよりも、もっとたくさんの涙を流して、決して消えない傷をその心に負ってしまう。だって、誰かの死でできた傷なんて、死んでしまったその人くらいしか、完全には埋められないだろうから。

 こんなに俺のことを大切に想ってくれる人がいるなら、それだけ俺にも存在価値があるんじゃないか、と慢心してしまいそうになる。

 どうしてここまで?

 そう訊こうと口を開きかけてから、やっぱりやめる。夏樹が落ち着いたあとで、またじっくり話そう。俺にはそれだけの時間が許されているんだから。

ずっと泣き続ける夏樹を見ていると、無性にじっとしていられない気分になってきて、かと言って声をかけることもできず、ためらいながらも彼女の頭にそっと手を当てる。特に反応もないので、また夏樹の笑顔がみたいな、なんて思いながら、もらった温もりを返そうと、両手に力を込めた。




    七月七日(月)

 石畳を進んで行くと、社殿の方から神楽の独特な音色が流れてきた。風に木々がザアザアと鳴く。すっかり夏になったことを思わせる、どこか青くさい匂いに混じって、子どもの頃から聞きなれた、『七夕さま』のゆったりとしたメロディーも聞こえてくる。

「前とはだいぶ雰囲気が違うな」

 そんな雅な空気に合うのか合わないのか、軽い調子の声が響く。

「もう結構暗くなってきたからね」

 そう言いながら当たりを見回す。暗くなってきたとは言っても、境内は一定間隔で吊るされた提灯で照らされているため、足元まではっきりと見える。

「屋台が出たりはしないの?」

 蓮くんが石畳の先の方を眺めながら言う。私たち以外にも家族連れやお年寄りの人たちなどが何組か歩いているものの、みな静かではしゃいでいる様子はない。

「ここの祭りは真剣なものだからな。最近よく見かける、特に信仰心も持っていない若者や酒飲みたちがどんちゃん騒ぎをするだけの、『夏祭り』とは違うんだ」

 少し後ろで山上くんが口を尖らせて言う。

「でも、そのせいで地元の人もあんまり来ないらしいんだけどね。九月にもっと大きなお祭りがあって、そこでは屋台も出るみたいだし」

「じゃあ、ちょっとマイナーなお祭りってことか。来れてラッキー」

 蓮くんが笑いかけてくる。それだけで『ありがとう』の言葉、十回分くらいの感謝が伝わってくる。

「…うん。でも、だからこそ、ここ明正八幡宮で七夕の日に願ったことは、ぜったい叶うって、言われてるんだよね」

 ぜったい、の部分を強調する。

「マジか。絶対か…」

 そう言って蓮くんがフフッと笑う。山上くんも鼻で笑った。

「あ、やっと来たー‼」

 突然耳に入ってきた甲高い声の出所に目を向ける。

「えっ⁉」

 驚いて立ち止まった私たちの元に、小柄な女子が少し歩きづらそうに近寄ってくる。提灯の明かりに照らされて、大胆にも大きく白い花の模様が描かれた、薄紫の浴衣が現れる。

「その髪…」

「え? ああ…どう?」

 結衣が首を横に向けて、橙色の光によく映えた茶髪を見せてくる。今、丁寧に結われてできたお団子には、これまた桃色の花を模した簪が差してある。

「すっごくかわいい!」

 思わず声を上げながら、照れくさそうに目をそらしている結衣に駆け寄る。

「どこでやってもらったの?」

「…夏祭り行くって言ったら、親が着て行けって…」

 メイクのせいか、いつもよりも頬を紅く染めながら、上目遣いで答える。

「すご! いいな~、家にこんな綺麗な浴衣があるなんて。てか、髪…」

 矢継ぎ早に尋ねようとして、ふと結衣の目線に気づき、口を閉じる。彼女の視線は私の肩越しに、私の後ろにいる人物を見つめていた。

「やっぱり私、こういう髪色の方が好き」

「そっか」

 背後から落ち着いた返答が返ってくる。と、結衣の目線が私に戻り、そのまま全身を一瞥する。

「てか、なんで遥香はフツーの服なわけ?」

 目を細めてジトっと睨んでくる。

「なんで屋台が一個もないわけ⁉」

 パン、と軽く私の腕が叩かれる。

「えと、それは、言い忘れててごめん! まさかサークルの活動に浴衣で来ちゃうとは思わなくて!」

「はあ⁉ あんた夏祭りって言ったんじゃん! てか一昨日、『私は現地集合で」ってラインしたでしょ? そんときに察して言ってよ!」

「え、ええ~」

「てか花園、授業は?」

 背後からさらなる疑問が飛んでくる。

「こ、細かいことは気にすんなー‼」

 それからしばらく一方的に不満をぶつけてきた結衣に、私は何度も頭を下げる羽目になった。山上くんに促されて、やっと社殿に向かい始めた頃には、辺りはすっかり夜の帳が下りきっていた。

「つまりさ、」

 先を歩く蓮くんの背に聞こえないように、小声で結衣が囁いてくる。

「遥香は浴衣なんか着なくても、よゆーで蓮を落とせるってことだよね?」

 ニヤニヤと口角を上げながら訊いてくる。

「な! …なにそれっ」

 私も慌てて声を抑えながら反論しようとする。

「まあ、遥香はそれでいいのかもしれないけど、」

 私の言葉を制した結衣が、また前を見つめる。

「…蓮は遥香の浴衣、見たかったかもよ?」

 ドキッとして思わず目を見開く。得意げにほほ笑む結衣の目には、私の顔がみるみる赤くなっていくのがはっきりと映っているだろう。

    ~

「うおー、デカっ」

「この笹に願いを書いた短冊を掛けてからお参りすると、その願いが叶うんだって」

 門をくぐって境内に置かれていた見上げるような笹の木に、蓮くんと結衣が揃って目を丸くしている。

「じゃあみんな書こう」

 砂利の上に置かれた特設机の前で、何人かの人が短冊に願い事をしたためている。流石に四人横並びで入れる空間はないので、なんとなくバラバラになって短冊を手に取る。そうした方が書きやすい願い事もあるだろう。

 だが、その中で私はあえて山上くんの隣に入る。

「なんて願い事するの?」

 あくまで自然に振る舞いながら尋ねる。

「うーん、全国の神社仏閣の繁栄でも願おうか」

 腕を組んで俯きぎみに答える。

「へえ」

 私も机上の短冊を見つめながら、髪をかきあげて彼の表情を横目に捉える。

「…ありがとう。助けてくれて」

 彼の目もわずかに私の方へ向く。

「救急車のことなら礼はいらない」

 そう言って無関心そうに視線を戻す。

「…それだけじゃない。あなたが私たちにしてくれた、全部」

「…なんの話だ」

 短冊に目を落としたまま、声色一つ変えずに彼はつぶやく。

「蓮くんと私、それだけじゃなく、結衣と颯太のことまで、あなたは救ってくれた」

 私も俯いたまま、おもむろに机に置いてある鉛筆を取る。

「救ったのは君じゃないか」

 彼もまた、同じように鉛筆へと手を伸ばす。傍から見れば、短冊に願いを書こうとしている二人の男女にしか見えないだろう。…だけど、私だけは知っているのだ。

「ううん。あなたがいなければ、何もできなかった」

 周りにいる誰も気づかないくらい、小さく首を振りながらつぶやく。

「あなたが力を貸してくれてなければ、蓮くんは死に、私と結衣は悲しみのどん底、颯太は人殺しになってた」

 彼が黙ったまま鉛筆を走らせているのを見て、私も一字一字、噛み締めるように願い事を紡ぐ。

 しばらくして鉛筆を置いた彼が口を開いた。

「どこから気付いていた?」

 私も鉛筆を置き、軽く息をつきながら一瞬考える。

「…色々おかしなところはあったけど、確信したのは結衣に竹刀があった場所を聞いたとき。だって明らか変でしょ。『たまたま山上が持ってたー』なんて」

「フッ」

 彼が小さく声を漏らしたが、その目は少しも笑ってはいない。

「なんであそこまでしてくれたの?」

 鉛筆を元の箱に戻しながら言う。

「僕的にはあのまま蓮が死んで、君にまたやり直しをさせても構わなかった」

 無機質な声で、彼は淡々と続ける。

「だが、それではこの先がつまらなくなる」

「え?」

「これくらいの方が、この先も見ていて面白い」

 表情一つ変えずに、彼はそう言って短冊を手に取り、笹の方へと歩いて行く。

 私は一瞬ぼうっとしてから、すぐさま慌てて彼のどこか朧げな背に続く。

「…それなら、また次も力を貸してよ。蓮くんや私たちに何かあったらさ」

 彼と同じように、笹の枝に短冊に通してある紐を巻きつけていく。

「それは無理だ」

「どうして…?」

 彼は私の背よりも少し高い所にある枝を、輪っかにした紐に通している。

「転校する」

 えっ、とつぶやいてから口ごもる。

「だから神社仏閣サークルを辞めて、もう君に会うこともない」

 そう言い放って、唖然とした私をよそに紐を引っ張って短冊を縛りつけ、笹から離れようとする。

「待って!」

 思わず声を出して、彼の腕を掴む。

「颯太がいなくなって、結衣もほとんど来なくなって、今、山上くんまでいなくなったらサークルが…」

 振り返った彼の瞳には、相変わらず申し訳なさや、寂しさといった感情は何も宿ってはいなくて、彼が私やみんなとは違う世界に居るものなんだと、私は直感した。

「…それだけじゃない。これから先、颯太のこととか…私と蓮くんの間にも、また何か起こったとき、私一人で全部解決できるか自信が、」

「夏樹遥香」

 急に今までに感じたことのない奇妙な感覚に襲われる。思わず周りをみる。こちらに目を向けている人、書いた短冊を笹に飾ろうと移動している人、まさに今短冊を掛けようとしている蓮くんと結衣。そのすべてが、ほとんど静止しているかのように、とてつもなくゆっくりと動いていた。

 そしてそれは私とて例外ではなく、私は彼の…目の前に立つ山上聖司という名の『なにか』…の両眼から目が離せなかった。…ならどうやって今、私は周囲の状況を瞬時に理解した? わけがわからないまま、ただ彼の瞳を見つめ続ける。

「驕るな」

 彼の唇はまったく動いていないのに、確かに声が耳の中で響く。

「今回のことは奇跡だと思え」

 そしてその声はやはり、何度も聞いたことのある声で。

「もしこの先、再び蓮が死んだときは、潔く受け入れろ。涙を流したっていい、暴れて喚きちらしたって言い、それが誰かのせいなら、そいつを憎んで殺したっていい」

 その深い黒色の瞳の中に、小さな白い光が瞬く。

「それが人間だ。それに、」

 かすかに彼の口元が上がった気がした。

「今の君なら、やれるさ」

 途端、私の手が空を切る。はっとして前を見ると、山上くんが何事もなかったかのように、拝殿の方へとスタスタ歩いていた。周りの人たちの話し声もいつもと同じように聞こえる。

「どうした?」

 横を向くと、蓮くんが怪訝な表情を向けていた。

「…いや、何でもないよ」

「あ、聖司のやつ、また一人で参拝しようとしてるのか」

 私の視線で察したのか、蓮くんがふざけた調子で言う。

「ごめんな。よし、俺らも行こう」

「うん!」

 蓮くんの後ろで元気に返事したのは結衣だった。二人に連れられて私も歩き出す。

 拝殿の前にはちょっとした列ができていて、山上くんの背を見つめながら、その数人後ろに私たちも並ぶ。

ここにいる一人一人が何か叶えてほしい願いごとを抱えていて、その切実さは人によって違うだろうけれど、みんなの持つ全ての願いが叶ってほしい、と昔の私なら簡単に思っていただろう。

でも今ならわかる。誰かの強い願いが、誰かの強い想いが、他の誰かを傷つけてしまったり、誰かの願いを台無しにしてしまったりする。だからそんな人々の願いを叶えようとする神様にも葛藤があって、誰を助ければいいのか、なら誰を助けないのか、いっそ誰も助けないのか、私たちの知りえない真っ白な空間で、ずっと考え続けているのだろう。

「遥香は短冊になんて書いたの?」

 パッと蓮くんの方を向く。まだ慣れないその呼び方を彼が口にする度に、身体が固くなってしまうが、同時に言いようのない温かい気持ちも湧いてくる。

「私は…」

 なら私は?

 私はどうすればいい?

 神様が私の願いをまた叶えてくれるとは思わない。なら、自分の力で叶えるほかないだろう。彼は、見ているだけと言いながら何度も救いの手を差し伸べてくれた彼は、私にそんな力をくれた。

「…颯太」

 隣にも聞こえないくらいの、本当に小さな声でつぶやく。

 あなたも…あなたがいてくれたおかげで、私は今日までやってこれた。そこに悪意なんて微塵もなかった。だから、私も颯太のことを想い続ける。いつかまた同じ陽の光の下で、会える日まで。

 風が吹き、私の少し伸びた髪と、結衣の浴衣をはらはらと揺らす。

 神様は数えきれない人数を幸せにしようとしている。それはとても難しいこと。でも私が幸せにするべき人数は、それよりも、もっとずっと少ない。特別な力は使えなくとも、まだこれから長く続いていく私のすべてを懸けて、ゆっくりと叶えていけばいいこと。

 私が言い淀んでいる間に、私たちに参拝の順が回ってきてしまった。三人で並んで一礼する。

 五百円玉が少し重い音を立てて、木箱の中に吸い込まれて消えていく。二礼二拍手して、息を吐きながらゆっくりと目をつむる。

 そして、祈る。

 そして、願う。

 ずっとそうしていたかったが、後ろに待っている人もいるため、名残惜しさを感じながらも一礼して神前をあとにする。

「で、なにをお願いしたの?」

「私も気になる!」

 二人に挟まれながら、自然と涼やかな気持ちになって、うっすら笑みを浮かべる。

 振り返って私たちを待つ彼も、ほほ笑んでいるような気がした。

「…わかってるくせに」


  完



※この物語はすべてフィクションであり、実在の人物・団体・神社仏閣などの建物とは無関係である。

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断罪の刻 後藤 紅 @GotouKou

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