5章 あなたの望んだ結末

    六月二日(月)

「どうした?」

 颯太がのんきな顔で見つめている。

なんだか颯太に会うのもずいぶん久しぶりな気がする。

「ごめん、大丈夫。サークルがどうしたの?」

「あ、その、空手サークルには入らないことにしたんだよ」

「そっか」

 颯太が気まずそうに視線を落とす。私はそこで用意していた言葉を口にする。

「ね、よかったら空手、私に教えてくれない?」

「え?」

 颯太が驚いたように顔を上げる。

「実は最近、テレビで組手の試合を見て、かっこいいなって思って、私もやってみたいと思ったんだよね」

 なるべく明るい声で話すよう心がける。

「えっ、前に俺の試合見に来てくれたときは、『私は怖くて絶対無理―』とかって言ってたのに?」

「…そうだっけ?」

 自分の記憶を辿る。中三の夏、颯太に呼ばれて初めて見に行った組手の試合。颯太は惜しくも準優勝だった。試合のあと慰めるために、『私は怖くて絶対無理だから、あの場に立って戦えてるだけですごい』みたいなことを言ったかもしれない。

「そうそう」

 颯太がおにぎりを口に運びながら言う。

まさかそんな昔のことを覚えているとは。咄嗟に言い訳を捻り出す。

「まあでも、大学生になって少しは恐怖心がなくなったって言うか、それに空手を学べば自己防衛もできるしね」

 弁明しながら、両こぶしを顔の前で握って構えてみせる。

「それはどっちかというとボクシングの構えだけどな」

「あ、そうなの?」

 こぶしを下げると、颯太のあきれた顔がのぞく。

「それに、遥香は強くならなくてもいいよ」

「なんで?」

「それは、ん…」

 颯太は顔を背け、気まずそうに俯く。

「い、今どき自己防衛が必要な場面なんてないだろ。アニメの世界じゃあるまいし」

 ぶっきらぼうな声で言い放つ。

「それは…そうだよね」

「それに空手は人を傷つけるためのものじゃなくて、あくまで自分の心と体を鍛えるためのものだからな…って、そんなことくらいわかってるか」

 私の沈んだ表情に気づいたのか、颯太の声のトーンが下がる。戦う力を身に付ければいけないような状況に置かれてしまったことを悔やむ気持ちが、顔に出てしまっていたのだろう。

「…せっかくなんにもしないで有名な私が、空手やりたいって言ってるんだから、教えてよ」

意図せず彼が弱気になったので、そこを突いてみる。

「わ、わかったよ」

 案の定、了解してくれた。

「ありがとう。さすが颯太。助かるな」

「お、おう」

 颯太が照れくさそうな顔で頷く。こうやっておだててあげれば、颯太は大体のことはやってくれる。

「じゃあ、明日の放課後から教えて」

「今日はいいのか?」

「うん。今日は気になってるサークル見学しに行くから」

「え、おま、サークルにも入るのか?」

 颯太が目を丸くする。

「そう。私、大学ではいろいろ頑張ってみようと思うんだ」

「マジか。あの遥香が急にどうしたんだよ」

 えっへん、と胸を張ってみせる。

「もしよさそうだったら颯太も誘ってあげるよ」

「え、あ、ありがとう」

「うん。あてか、今の時間に空手のルール説明とかしてよ」

 言いながらパンの袋を開ける。

「いいよ」

 そうして二人でお昼を食べながら、空手の基本的なルールを教えてもらった。蓮くんを助けるには空手自体のルールを知る必要はないだろうが、聞いておかないと変に思われてしまうだろう。

    ~

「わかりやすい説明ありがとう。じゃあ、明日よろしく」

「おう」

 お昼休みの終わりが近づき、私は颯太に別れを告げて大教室へと向かった。



    六月三日(火)

ピンポーン。

「はーい」

 インターフォンの画面に馴染みの顔が映っているのを確認して、玄関扉を開ける。

「おう」

 涼しげなTシャツ姿の颯太と目が合う。

「どうぞ」

「お邪魔します」

 颯太を招き入れる私も、普段の体育の授業で使っているジャージに着替えている。

「女子大生の部屋に入れる貴重な機会なんだから、ありがたく思いなよ?」

 慣れない様子で靴を脱ぐ颯太の背に、ニヤニヤしながら声をかける。

「おい、お前いつからそんなこと言うようになったんだよ。てか、前に引っ越しの手伝いに来てやっただろ?」

「そういえば、そうだったね」

 あまり面白い反応が見れず、少し残念。

「あんときよりずいぶん片付いてんじゃん。積み上げられた段ボールもないし」

 颯太がキッチンを通り越し、ずかずかと私の部屋に入って行く。

「そりゃあ、あの時は引っ越してきてすぐだったんだし、しょうがないじゃん。それに、今日は動くためのスペースが必要でしょ」

「いつもは動くためのスペースがないの?」

「そ、そんなことないし」

 温白色の光に包まれたワンルームには、入って右手にベッド、左手には小回りな物置用ラック、テレビ台などが並ぶ。普段、部屋の真ん中に鎮座している丸テーブルは、今は足を畳まれて部屋の隅に片付けられている。その周辺に散らかっていた教科書類なども、きれいに棚にしまわれている。

「まあ俺の部屋よりは広いけど、そんなに動き回るとかはできなそうだな」

「うん…」

 颯太が部屋を見渡しながら言う。

空手を教えてもらうこと自体は決まったものの、その場所を考えていなかった。ラインで話した結果、どちらかの部屋でやるのが無難だろうということになり、颯太の部屋よりも広い、私の部屋で教えてもらうことになった。

「この部屋で俺が本気でやったら、家具か壁を破壊しそうだわ」

 颯太がテレビに向かって脚を上げて見せる。もう少し脚を上げれば、画面に届いてしまいそうだ。

内見のときは一人暮らしの部屋にしては広いなと思ったが、ベッドなどの家具を置くと、あっという間に手狭になってしまった。一人暮らしというのはこういうものなのだろう。

「実際に闘うのは無理だろうけど、私が動きをやるのを颯太が見てるぐらいならできるでしょ」

「そんくらいならな」

 颯太よりも一回り小柄な私なら、テレビをぶち破らずに動けることは、昨夜のうちに確認済みだ。

「じゃあ俺はここで」

 颯太がベッドの足側とクローゼットに挟まれた空間に移動する。

「じゃあ、さっそくだけどお願いしようかな」

 私は部屋の中で最も広い空間である、ベッドとテレビ台の間に立つ。

「ん、じゃまずは腕立て伏せ二十回」

「腕立て?」

 空手の技を教えてくれると思っていたので、拍子抜けして聞き返す。

「最初はアップもかねての基礎筋力トレーニング。二十回くらいならできるだろ?」

「ん…わかった」

 颯太が腕組みしながら壁にもたれかかる。

私は膝立ちになり、両腕を広げて床に付ける。膝を上げて腰を浮かせ、頭から足まで真っ直ぐになる。その体勢から徐々に肘を曲げていく。

「いち…」

 肘を伸ばし元の体勢に戻る。久しぶりにやったからか、上半身が小刻みに震える。

「に…」

「浅い」

 私がもう一度肘を伸ばしたとき、颯太がつぶやいた。

「え?」

 体を真っすぐに保ったまま、顔だけ上げて壁にもたれた颯太の方を見やる。

「もっと、鼻の先が床に付くくらいまで深くやらないと意味ないよ」

「…わかったよ」

 もう一度床と見つめ合い、肘を曲げ始める。先ほどまで肘を伸ばし始めていたところよりも、さらに深く。

 体が地面に着くスレスレで上昇に転ずる。体を押し上げる…。

「うっ…」

 肩の前辺りが熱い。なんとか体を持ち上げる。

「にっ…」

 想像していたよりもつらい。高校の体育の授業では、もう少し楽にできていたと思うのだが。

「さんっ…」

 一度目よりもさらに胸の熱さが増す。これでは長く持ちそうもない…。

 五回目に肘を曲げ切ったところで、腕が重さに耐えられなくなり、私は呻きながらだらしなく床にへばり付いた。

「これ…きっつ…」

「え、もう限界?」

 肩で息をする私を、あきれた顔で颯太が見下ろす。

「やばい…。私、何で…? 前はもうちょっとできたのに…」

 起き上がって横座りになりながらぼやく。

「いつもさっきみたいな激甘腕立てしかやってなかったんだろ」

「ん…」

 確かにあんなに深い腕立て伏せはしたことがないかもしれない。

「こんなこともできないんじゃ、空手の技を教えるどころじゃないな」

「えっ?」

 驚いて颯太の顔を見上げる。

「筋力がある程度ついてないと、速さと強さがない技しか出せなし、スタミナもないから連続して技を出せない。それじゃ相手に勝てない。空手部では腕立て百回ぐらいは最低条件だぞ」

「そんなあ」

 情けない声を出しながら颯太を見つめる。

「やめるなら今のうちだぞ、遥香?」

「んん…」

 自分の筋力のなさに閉口する。これでは殺人犯と戦うどころではない。傍観者にあれほど大口を叩いておいて、蓮くんを連れて犯人から逃げ切る体力すら、今の私は持ち合わせていないだろう。

「別にいつでも教えてやるから、とりあえず毎日の筋トレから始めような」

「…それじゃダメなの」

「え?」

「そんなんじゃ間に合わないの!」

 はっとして口をつむぐ。横にしゃがんでいた颯太と目が合う。その目には、明らかに動揺の色が浮かんでいた。

「あ、ごめん…」

 慌てて目をそらす。束の間の沈黙のあと、颯太が言った。

「…何に、間に合わないんだ?」

「え…」

 横を向くとまた目が合い、すぐに視線をそらす。

「…別に、なんでもないよ」

「ほんとに?」

「…うん」

床を見つめながら答える。颯太の純粋で澄んだ瞳に見つめられると、彼に嘘をついていることが、たまらなく後ろめたく感じられる。

颯太との間に流れる沈黙に耐え切れなくなり、私は口を開いた。

「昨日さ、」

「ん?」

「神社仏閣サークルってとこ見学しに行ったんだけど、面白そうだったから今度一緒に行こ」

「あ、ああ」

 玄関の方を見ながら話す。

「明後日の木曜日だから」

「わかった」

 恐る恐る颯太の顔を盗み見る。特段怪訝そうな表情を浮かべておらず安心する。

「もう少し腕立てやってみるよ」

 私も明るい表情を作り、颯太に言う。

「そうだな。でもあんまり無理すんなよ? 筋トレ初日で断裂とか起こされるのは勘弁」

 怖い言葉を聞き、腕立ての姿勢になろうとしていた体を元に戻す。

「じゃ、じゃあ腕立て伏せ以外のトレーニングをしようかな。腹筋とか」

「それがいいな」

 それからは腹筋やスクワットなどの基本的なトレーニングをした。その都度颯太に指摘されたところを直すと、一気に体への負担が大きくなった。学校の体育の授業を乗り切るため、知らず知らずのうちにサボり癖がついてしまっていたことが身に染みてわかった。

    ~

「よし、これで一通りの筋トレメニューはこなしたな」

「やったあ~」

 うーんと伸びをしながら、ぼふっとベッドに倒れ込む。

「まだただの準備運動みたいなもんなんですけどね」

疲れ切った私を見て、颯太が薄く笑いながら言う。

「でもまあ、今日はこんぐらいでいいだろ」

「運動不足でごめん」

「その事実に気づけただけでも、今日やったかいがあったな」

ベッドが揺れる。見ると颯太も私の横に腰掛けていた。

「あ、椅子とかなくてごめん。てか私、お茶とかなんも出してなかったよね」

 よいしょ、と体を起こす。横になっていると寝てしまいそうだ。部屋の隅に立てかけてある丸テーブルを部屋の中央まで運んでくる。

「俺が立てとくよ。疲れてるだろうし」

「いいの? ありがと」

 テーブルは颯太に任せ、私は冷蔵庫から作り置きしていた麦茶を取り出す。棚からコップを二つ取って注ぐ。ペアマグカップのようなオシャレなものは持ち合わせていないので、いつも使っているお気に入りの柄入りのコップと、買っただけでまだ使ったことのない白のコップだ。両手にコップを持って振り返ると、部屋の真ん中にテーブルがセットしてあった。

「はい」

「ありがとう」

 揃ってお茶を口にする。私は喉が渇いていたため一気飲みだ。

「はあ~。生き返る~」

「これ、実家と同じお茶っ葉使ってるのか?」

 颯太が一口すすったあとに訊いてくる。

「そう。よく気づいたね。駅前のスーパーで売ってるの見つけたんだ」

「そうか。なんだか遥香の家で遊んでた頃を思い出すなあ」

 感慨深げな表情で目を泳がせる。

「そんな昔のことでもないでしょ。ついこの前、卒業式のあとにも来たじゃん」

「あれは独り立ちする前に、最後に行っとこうと思っただけ」

「それじゃあ去年の冬休みに一緒に正月特番見てたら、お父さんに『お前ら勉強しろー』って怒られたのは?」

「あれはお前に勉強教えてって頼まれたからだろ」

「テレビ見始めたのは颯太だったけどね」

「それはお前が『正月くらい休ませてー』って言ったからだろ」

「そうだっけ?」

「そうだよ」

「そっか」

 二人で笑いあう。こうやって何の裏もなく、自然に誰かと笑い合ったのはいつぶりだろう。

私は空いたコップに二杯目の麦茶を注ぐ。

「そういば、颯太ってなんで空手始めたんだっけ」

「ん、あー」

 颯太がコップを持ったまま目を泳がせる。

「強く、なりたかったんだよ」

「ええ? なんで?」

「な、なんでって…男なら誰でも一度は思うことだろ。遥香もアニメとか見てたら『私もこんな風に強くなりたーい』って思うだろ?」

 恥ずかしいのか、颯太が早口でまくしたてる。

「うーん、たしかにかっこいいとは思うけど、私じゃむり―って思っちゃうかなあ」

「なんだそれー」

「えー?」

 確かにアニメキャラのような能力を持ってたら色々なところで役に立つだろう。それこそ蓮くんを救うことなんて簡単にできてしまうかもしれない。…あれ、でも時を越えるっていうのもなかなかじゃない?

「まあ結局アニメのキャラみたいに、手からビーム出せるようになったりはしなかったけどな」

「そりゃそうでしょ。でも、実際に颯太は強くなったじゃん」

「いやいや、大したことないよ」

 颯太が珍しく謙遜する。

「私はすごいと思うけどなー」

 私の問いに颯太は答えず、窓の方に目をやった。束の間の静寂が訪れる。私も釣られて目を向けると、カーテンの外はもう薄暗くなっていた。夕食をどこかに食べに行ってもいいかもしれない。

 ぐぅー。

 示し合わせたかのように颯太のお腹が鳴る。

「なんかご飯食べに行く?」

「え、マジ? いいね」

そういうことで、そのあとは颯太と布平駅のファミレスに行った。お互いの受けている授業についてなど、他愛もない話をして、久しぶりに穏やかな時間を過ごした。お腹いっぱいになり、明日もよろしく、と駅で颯太を見送った。

    ~

 家へ帰り、お風呂から上がる頃には、さっきまでの興奮もだいぶ収まっていた。

「何してんだろ、私」

 ベッドに腰掛けながらつぶやく。蓮くんを殺すヤツに一矢報いるため、颯太に空手を教えてもらうはずだったのに、やったのは筋トレのみ。あとはいつものように話していただけだった。

「こんなので大丈夫かー?」

 自問自答しながら布団に倒れ込む。乾かしたての髪でベッドに倒れるのは好みじゃない。でも最近は疲労を感じることが多く、やりがちになってしまっている。

「でも、たまにはこういうのもいいよね?」

ふわ~っとあくびをして、目をつむってみる。

『…何に、間に合わないんだ?』

 ふと、先ほど颯太に言われた言葉がよぎる。また颯太は何も訊かなかった。中学のときみたいに。私の気持ちを察して、それ以上問い詰めないでくれた。

「はあ…」

横になったまま、ため息をつく。このままでいいのだろうか。颯太の気遣いを頼りにし、何も言わないままで。もちろん私が時を越えていることを颯太に打ち明けるわけにはいかない。傍観者との約束だ。だが、これほど仲良く、何でも話せる親友に隠しごとをしなければいけないと言うのは、苦しいものがある。

いっそのこと全部ぶちまけてしまいたい。蓮くんがこのままじゃ殺される、だから颯太に助けて欲しい、と。私の頼みになら、颯太はきっと応えてくれる。

刃物を持った大男に襲われそうになっている蓮くん。その前に私が立ちはだかる。アニメでよく見るような激アツのワンシーン。『蓮くんは私が守る!』とかっこよく叫ぶ。犯人が私に気を取られているところを背後から颯太が正拳突き! あれ? これじゃあ、かっこいいのは颯太じゃない? そんなことを徐々にまどろんでいく頭で考える。

…いけない。寝る前に電気くらいは消さないと…。枕元に置いてある照明のリモコンのボタンを押すや否や、私の意識はゆったりとした眠りへ落ちていった…。



    六月五日(木)

「なんで空手部に入ったのー?」

「いや、まあ、若いうちに身体を鍛えておいた方がいいかなと思って…」

「殊勝だな」

「はあ」

 結衣と山上くんに挟まれた颯太が、私の方をちらちら見て助けを求めている。

「がんば」

 聞こえないとわかりながらつぶやき、小さくガッツポーズしてみせる。颯太が困った顔をしているのがなんだかおかしい。

 結局昨日は練習をしなかった。朝起きると、筋肉痛で体のあちこちが悲鳴を上げていたからだ。若ければ治りも早いと言うが、今もまだ胸筋が少し痛む。

「夏樹さんはなんで神社仏閣サークルに来てくれたの?」

 隣から温かな声が尋ねてくる。

「そもそも私が神社やお寺を見て回るのが好きだったのもあるし、神社仏閣サークルなんて聞いたことなかったから、気になって入ってみた感じ」

「そっか。やっぱ探せばいるんだな、神社好き」

蓮くんが刺殺されるのを防ぐため、とは当然言えない。我ながら嘘をつくのが上手くなってきたように思う。

「他にも探せばいると思うよ」

「ほんと? 夏樹さんの知り合いにもいる?」

 蓮くんがパッと嬉しそうな表情になる。この笑顔をもう一度見れてよかった、本当にそう思う。

「今度友達に訊いてみるね」

「ありがとう」

 本当はそんな友達などいないのだが。というかそもそも友達がいないのだが。

「にしてもこのサークルを作ってよかったな。夏樹さんや西川くんに出会えたし」

「私も、れ…立花くんと出会えてよかった」

 一瞬蓮くんと言いかけてしまって焦る。

「あ、ありがとね。そう言ってもらえると、サークルを立ち上げたかいがあるよ」

「教室取りをしてるのは私だけどね」

 私たちの話が聞こえたのか、結衣が振り返って口を尖らせる。

「そうだな。花園が頑張ってくれてるかいがあった」

 蓮くんがそう返すと、結衣は満足げに颯太の方へ顔を戻した。

「実はさ、私も中学のとき剣道部だったんだよね」

「え、そうなんですか」

 颯太が意外そうに結衣を見る。

「うん。全国大会まで行ったことあるんだよ?」

「つ、強いんですね…。俺は県大会にも進めてないです」

 結衣が自慢げに笑みを浮かべているのがわかる。それにしても、結衣が剣道をやっていたなんて初耳だ。

「結衣ってそんなに強かったの?」

 隣に声をかけてみる。

「俺は高校で知り合ったからな、あんま知らない」

「そうなの?」

 意外に思う。高校では剣道をやっていなかったのだろうか。

「高校も剣道部だったんですか?」

 と、私が疑問に思っていたことを颯太が尋ねてくれた。

「あ…高校では入ってなかったんだよね」

「そうなんですか。他に気になるスポーツでも?」

「まあ…そんなとこ」

 結衣が少し言い淀む。何かあったのだろうか。

「ね、なんで結衣は剣道やめちゃったの?」

 もう一度隣に訊いてみる。

「うーん、花園から直接聞くのがいいんじゃないか?」

「えー、教えてよ」

「なんか俺から話しちゃうのは申し訳ないから」

 そう言って蓮くんは頑なに答えようとしない。隠されると、逆に真相が気になってしまう。あとで結衣と二人きりになったときに聞き出してみよう。

「そう言えば夏樹さんは何部だったんだ?」

 山上くんがこちらに体を向ける。

「たしかに! 私も気になる!」

 結衣も颯太から離れて私の方に近寄ってくる。どうやら次は私の番のようだ。颯太が一息ついたのが見えた。

「私は…ずっと帰宅部でした」

「えー? そうなの?」

 結衣がくるりとした目を見開く。

「安心しろ。このサークルには帰宅部仲間がたくさんいる」

 山上くんが慰めるような声色で言いながら、私の隣を見る。

「はは…」

「まあ僕も帰宅部だったんだけどな」

「そうなのか?」

 苦笑いしていた蓮くんが聞き返す。

「ああ」

「まじー? じゃあみんな、放課後の時間なにやってたの?」

 結衣が、私と蓮くんと山上くんを交互に見ながら訊く。

「俺はアニメ見たり、ゲームしてたな。…花園も知ってのとおり」

「私も同じかな…」

「僕は当然、全国の神社仏閣についての資料を近所の図書館で読み漁っていたな」

 山上くんだけドヤ顔で答える。

「えー? 山上それほんとー?」

「今の聖司をみる限り、本当の可能性も十分にあるな」

「ほんとー?」

 結衣が山上くんににじりよる。

「なら僕が高校二年生の夏休みに発見した興味深い文献について説明しよう。あれは紀元前に建てられたとされる神社の原型になったかもしれない建造物…」

「ご、ごめん! ほんとなんだね! わかったから続きは話さないで~」

 山上くんの弾丸トークに、今度は結衣が押され始める。その光景を見ながらしばし考える。

 山上くんが本当に神社仏閣愛のみで中高生活を過ごしてきたかはわからない。だが仮に事実だとしたら、なぜ彼はそこまで神社仏閣に執着するのだろうか。少なくとも現在の山上くんが並々ならぬ想いを抱いているのは確かだ。

「ちょ、蓮助けて~」

 山上くんに詰め寄られた結衣が、蓮くんに助けを求める。

「たく…そういやさっき話してた明正八幡宮の話はどうなったんだ? 図書館で文献集めてくるんだろ?」

「そ、そうじゃん! じゃあ私、図書館言ってくるから! 山上の話はあとでね!」

 そそくさと逃げ出そうとする。

「あ、待って! 私も行く」

 私も結衣に続いて部屋を出ようとする。

「え? いや、私一人でいいって」

「どんな感じで文献探すのか見てみたい」

「せっかくなんだし、女子二人で行ってきなよ!」

 嫌そうな顔をする結衣を、蓮くんが笑顔で送り出す。

「…わかったよ」

 二人で教室を後にする。

「ごめんけど私あんまり詳しくないから、一緒に来ても楽しくないよ?」

 廊下を歩きながら結衣が言う。

「いいよ、全然」

 別に文献調べのやり方が見たいわけじゃない。先ほど言っていた剣道部をやめた理由が気になるのだ。

「結衣はなんで神社仏閣サークルを立ち上げようと思ったの?」

 エレベーターを待ちながら訊く。

「うーん、蓮がサークル作りたいって言ったからかな」

「え、どういうこと?」

 ポーンと音がして、エレベーターが来る。二人で乗り込み、結衣が一階のボタンを押す。図書館はこことは別の棟にあるので、一度外に出なければならない。

「私は特に入りたいサークルがあったわけじゃないし、高校時代から付き合いのある人と一緒にいた方が楽でしょ? 遥香と西川みたいに。だから蓮についてっただけ」

「そっか」

エレベーターの壁はガラス張りになっており、一階の様子を眺めることができる。

「でもすごいよ。一年なのにちゃんと手続きもしてるし」

「手続きって言っても教室取ってるだけだよ。正式なサークルにするには、まだ人も時間も足りてない」

「結衣がそうやってしっかりしてるおかげで、立花くんも安心してサークル活動ができるんだね」

「…私は、」

 ポーンと音がし、エレベーターが二階で止まりドアが開く。ガラガラと台車を運ぶ作業員が乗ってきたことにより、結衣との会話は中断された。

    ~

「史料はこっち」

 結衣に先導され図書館内を歩く。入学してから図書館にはまだ数回しか来たことがない。一人で目的の本までたどり着くのは至難の業だろう。

「この棚とこっちの棚にだいたいの歴史資料はまとまってる」

「へえー」

 分厚い本がずらりと並ぶ、私も一時期少し読書をかじった頃があったが、最近はもっぱらアニメやゲームなどのビデオエンタメばかりに触れている。

「神社調査をするときに山上がいつも借りてくる本は…これだっ」

 図書館内のためか、普段より声量を抑えて喜ぶ。

「あと…これと、これ。こっちにもあったはず…」

 慣れた手つきで本や史料を手に取っていく。

「よし。これだけあればいいっしょ。帰ろ」

「え、もう見つけたの?」

 そのスピードに呆気にとられながら言う。

「前に山上と一緒に来たときに覚えたんだよね」

 私にニヤッと笑いかけ、貸出カウンターへと歩いて行く。まずい。剣道部の件を早く訊かなければ。

 図書館から出た帰り道、私は意を決して口を開く。

「ね、さっき剣道部は中学でやめたって言ってたじゃん?」

「…うん」

「なら高校は何部に入ってたの?」

 核心を突く質問は避け、手始めに高校時代の部活の話題を振ってみる。

「……」

 結衣は抱えている本の表紙に目を落として黙っている。長い髪で顔が隠れて表情が読み取れない。あれ、この質問もまずかっただろうか。

「…あんたたちと同じ帰宅部」

 結衣がつぶやく。

「実は、私もアニメとか見てたんだ!」

 顔を上げた結衣は、いつも通りの明るい笑顔で安心する。

「そっかー。じゃあやっぱ剣道は大変だったからやめちゃった感じ?」

「そうそう」

 大した理由ではなかったようだ。私の抱える本が少し軽くなったような気がする。

「なら立花くんもそうだって教えてくれればいいのに」

「え?」

「『俺から話しちゃうのは申し訳ない』とか言うから、なんか深刻な理由があるのかと思っちゃったよー」

 言いながら結衣の方に目を向ける。

 瞬間、寒気に全身が震えた。

 見つめた結衣の瞳は、氷のように冷たかった。

「えっ」

 思わず立ち止まる。結衣もすぐ前で立ち止まって俯いた。

「……なんて、蓮も馬鹿だなあ」

 結衣が小さく何かをつぶやいたが、風の音にかき消されて、最後の方しか聞き取れなかった。私は身動きできず、その場にそのまま立ち尽くしていた。

 と、結衣が突然顔を上げた。普段通りの柔和な目つきで私のことを一瞥する。

「ごめん。怖がらせちゃった? 大丈夫だよ。怒ったりしてないから」

 言いながらこちらに歩み寄ってくる。なぜか今辺りには私たち以外に誰もいない。

「昔の癖でね。出ないように気をつけてたんだけど。…遥香?」

「あ、う、うん。だ、大丈夫だよ」

「この際だから話しちゃうけど」

 結衣の瞳の中の温度が一回り下がった気がした。

「剣道部やめた本当の理由はさ、」

「…うん」

 再び持っている本に視線を落とし、結衣は話し始めた。

「親に強制されてたからなんだよね。剣道やるのを。…中学までは我慢してやってたけど、私の人生は私のものじゃん? だから辞めてやった。親父にはめちゃくちゃ怒られたけど、全部無視した。しばらくそうしてたら、諦めてくれたみたい」

 ひとしきり話すと、結衣は口を閉じた。

「そうだったんだ…」

「別にこれだけなら隠すほどのことでもないけど、家族のことだし、なんかあれじゃん?」

「うん、わかる気がする…」

 颯太も両親が離婚したことを話してくれたときは、辛そうな顔をしていた。家庭内の悩みごとは、人には言いづらいものなのだろう。私の家族はみんな仲良しで健康体そのものなので、誰かに家族の話をするのがはばかられた経験はないが、意外と家族についての悩みを抱えている人は多いのかもしれない…。

「剣道部をやめた理由はこれでおしまい。どう? 満足した?」

 結衣が真顔で尋ねてくる。瞳は変わらず冷たいままだ。

「ま、満足? えと、うん。訊きたかったことは聞けた。うん。あ、ありがとう」

 なんと言えばいいのかわからずまごつく。まずい。変なことを言えば結衣を傷つけてしまうかもしれない…。

「ぷっ、あはは」

 と、不意に結衣が笑い声を上げた。

「え、なに? どうしたの」

「ははっ、満足ってなに。真面目に答えてるのウケる。あははっ」

 どうやら結衣は私が焦っているのを見て、面白がっているらしい。その目にはいつも通りの暖かさが戻っていた。

「え、ちょ、結衣~」

 安心したのも束の間、背後に視線を感じ振り返る。

 センター分けの男子がこちらを見ていた。私と目が合うと視線をそらし、そのまま校門の方へと歩いて行く。

 それだけではない。周りを見ると、いつの間にか多くの学生が行き来していた。何人かがこちらに目を向けている。他人の視線を感じて、体が強張るのを感じる。

「ちょ、ちょっと、みんな見てるよ」

 周囲を気にせず高笑いしている結衣に声をかける。

「え? ただ通りすぎてるだけでしょ? 別にスマホのカメラ向けられてるわけでもないし~」

「で、でも…」

 人の視線にさらされるのは苦手だ。いつも極力人の目につかないようにして生活している。授業を受けるときも、いつも前の方ではあっても、端っこの席に目立たないように座っている。何かの発表のときに大勢の前に立つと、ひどく緊張してしまい、上手く発表をこなせた覚えがない。

 それなのに、結衣は他人の目もはばからず笑い続けている。

「結衣…」

「ごめん。ツボっちゃって。遥香ってもしかして結構人の目気にする感じ? 別に否定はしないけど、あんまり気にしすぎちゃだめだよー」

 唐突に彼女の顔が頭をよぎった。その笑顔が、結衣の顔に重なる…。

 私はぶんぶんと頭を振って余計な考えを打ち消した。

「と、とりあえず、早く戻ろうよ。本を持って行かないと」

「そういえば蓮たちにこの本を届けなきゃだったね! 色々話したせいで忘れてた」

 なんとか結衣に笑いを静めてもらい、もといた棟へと戻った。

    ~

 一階でエレベーターを待ちながら思う。

やっぱり結衣は私の苦手なタイプだ。明るくて押し付けがましい。『彼女』に似ている。私を小馬鹿にしてくるところもだ。このところ蓮くんのおかげで久しく忘れていたのに、結衣の無駄にまぶしい笑顔が、『彼女』のことを思い出させた。ああいう女子は嫌いだ。同調圧力にすぐ屈する。力のあるやつに逆らえない。『彼女』がそうだったのだから、結衣もきっと…。

「ねー、今度は遥香が怖い顔してるよ?」

「は?」

 気づくと結衣が私の顔を覗き込んでいた。

「私が話したんだから遥香も話さないとじゃない?」

「なにを」

「部活やめちゃった理由」

「えっ⁉ なんでっ」

 驚いて思わず後ずさる。しかし、すぐに自分が過ちを犯したと気づいた。

「あれ、ほんとにやめてたの?」

 結衣も驚いた顔をする。

「あんた…」

 かまをかけられた。こいつの罠にまんまとハマってしまった。

「ご、ごめん。私が悪かったよ。謝るからそんな怖い目で見ないで?」

 結衣の声と抱えた本がドサドサッと床に叩きつけられる音が、同時にエレベーターホールに響き渡る。

「あ、やば」

 頭を上げた結衣が、慌てて本と史料を拾いにかかる。

 ポーンと音が鳴り、エレベーターの扉が開く。

「ごめんなさい」

 謝りながらも本をまとめ続ける。エレベーターから降りてきた学生たちが、鬱陶しそうな目で結衣を見る。

「…すみません」

 たまらず私も散らばった史料を拾い集める。

 降りてきた女性の一人も手伝ってくれた。

「ありがとうございます!」

「いえいえ」

 史料集めの終わった結衣が頭を下げると、女性はそそくさと行ってしまった。

「遥香もありがと。迷惑かけちゃってごめんね」

 本を抱え上げた結衣が私の方を見て言う。

「…いいよ」

ポーン。今度こそ二人で乗り込んだ。

 沈黙が流れる。エレベーターが上昇していき、階下を歩く人たちが小さくなっていく。

「…私だけ仲間外れにされた。だから辞めた」

 本当に小さな声でつぶやいた。

「そっか」

 しかし、結衣の耳には届いたようだ。

「…私は孤独感、わかるよ」

「…孤独感なんて、そんな簡単なものじゃない」

 私は結衣の背を睨みつける。あんたみたいな陽キャに、私の感じた苦しみが理解できるわけがない。

ポーン。エレベーターの扉が開く。結衣と少し間隔を開けてから降りる。

教室へ向かって歩く。

「私の気持ちがわかるわけない、って思った?」

 先を歩く結衣が言った。

私は沈黙で返す。

「なら遥香も、人の悩みに簡単に『わかる』なんて言わない方がいいよ」

「えっ」

 結衣に意図を問いただそうとしたが、もう蓮くんたちのいる教室の前だった。

「ただいま!」

「お帰り。何だか遅かったな」

 蓮くんが笑顔で迎えてくれる。颯太も私が帰ってきたからか、わずかに表情が和らいだ。

「ごめん。史料探しに手間取っちゃって!」

「花園さんはいつも僕が借りている本を盗み見ているだけだからな。新入部員に教えるのは苦労しただろう」

「え! なんでバレてるの⁉」

 結衣はすっかりいつもの明るい雰囲気に戻っている。

「どうした? なんか暗い顔してるぞ?」

 側に来た颯太が訊いてくる。

「…何でもない」

 結衣が剣道部をやめた理由はわかったが、逆に心に暗雲が立ち込めてしまった。蓮くんが殺されることに関係があるかはわからないが、結衣にはまだ何かある。そう直感した。



    六月八日(日)

今日は火曜ぶりに颯太が家に来てくれる日だ。

結局一昨日と昨日は筋トレをするだけだったので、颯太は呼ばなかった。

 しかし、今日は颯太の方から会いたいと連絡してきた。しかも『運動着を着て、外出できる準備をしておいてくれ』とのことだった。ジョギングでもするのだろうか。

 ピンポーン。

 ドアを開けると、すでに少し汗をかいた颯太が立っていた。

「今日は暑いから、飲み物を持ってった方がいいな」

「もう準備できてる」

 私はバッグから麦茶入りの水筒を出して、颯太の前で掲げてみせる。

「準備万端だな。じゃあ行くか」

    ~

案の定ジョギングでの移動だった。颯太いわくアップらしい。初夏の日差しの中で走ったため、目的地に着いたときには私も汗をかいていた。

そこは広い公園だった。

「ここって、布平公園じゃん」

 入口の車止めを越えると、だだっぴろい砂地が広がる。その周りは青々とした木々に囲われている。

左手奥にはすべり台などの遊具がまとまって設置されており、何人かの子どもと、その母親と思われる女性が二人談笑している。公園に近づくにつれ聞こえてきた楽しそうな声は、あの子どもたちによるものだろう。

「あそこ空いてるな」

 颯太が奥の方のベンチに歩いて行く。右手前のベンチにはおじいさんが一人腰掛けていて、なごやかな目つきで子どもたちの方を眺めている。颯太が向かっているのは、そこから十五メートルほど奥のベンチだ。

「ここ来たことある?」

「一回だけ」

 四月の引っ越して来たばかりの頃に、家の周辺には何があるのか気になり、この辺りも散策した。そのときに来たぶりだ。

「せっかく家の近くにこんなに広い公園があるんだから、たまには遊びに来てリフレッシュしないとー」

「もう子どもじゃないんだし…」

 颯太が遊具で遊ぶ子どもたちの方を眺めながら言う。つられて私も視線を向ける。小学生ぐらいだろうか、男の子と女の子が隣り合ったブランコで揺れている。

「競争だ!」

 男の子が言った。

「負けないよ!」

 女の子も言った。そのまま我先にと、互いに大きく漕ぎ始める。

 私たちは少し古びたベンチに荷物を置いた。頭上には枝葉が広がっており、初夏の陽の光をここだけ遮ってくれている。湿った素肌に風が当たると心地よく、まだまだ夏本番の暑さに比べたらマシだ。

「今日は空手の技を伝授しよう」

 颯太が得意げな声で言った。

「教えてくれないんじゃなかったの?」

「前はそういったけど、流石に遥香がかわいそうだろ? 珍しくやる気出してくれたんだから」

「珍しくで悪かったね」

 口を尖らせて言う。

「でもお前の家でやったら、テレビとかぶっ壊すだろうからな。ここでやることにした」

「それは確かに…。ここならいっぱいスペースあるから大丈夫だね」

 両腕を伸ばして、上半身をぷらぷらと振っててみる。

「そゆこと。じゃあ準備体操から始めるぞ」

「はい、先生」

「…なんだその呼び方?」

 颯太が怪訝そうな目を向けてくる。

「ふふっ、いいでしょ? 私に空手を教えてくれるんだから、先生でしょ」

 ほほ笑みながら言う。

「ふん。まあ悪い気はしないな。では、屈伸から始め!」

    ~

「じゃあまず、突き技からからやってみるか」

 軽い準備体操を終え、いよいよこれから技の練習だ。

「じゃあとりあえず、こんな感じで立ってみて」

 颯太が脚を前後に広げ、左手を肩くらいの高さ、右手をお腹の前で握る。目で『お前もやってみろ』と伝えてくる。

 私も颯太にならい左足を前、右足を後ろにし、拳を上げて構えてみる。

「立ち方がちょっと狭い。もうちょっと広く…肩幅くらいまで…左右も。膝は少し曲げて」

 私が足をもぞもぞさせている間に、颯太がどんどん言い加えていく。

「よし、そんな感じ」

 いつの間にかブランコから降りた子どもたちが、不思議そうな目で遠巻きに私たちを眺めている。なんだか恥ずかしい。

「ほんとはこんな感じでスッテプを踏みながらやるんだけど、」

颯太が軽くぴょんぴょんと飛び跳ねる。試合のときに見た動きだ。流石に中高六年間やっていただけあって、そのフォームは様になっている。

「とりあえず立ったまま左手だけ突いてみよっか」

颯太が構えのまま、左拳を素早く突き出す。ほんとに一瞬だ。

「左右に逸れたりせず、真っすぐ突き出してみて」

 言われた通りに素早くパンチしてみる。割と綺麗にできたのではないかと思う。しかし颯太を見ると、口元を引きつらせ笑いを堪えていた。

「…何?」

「いや…初心者だからしょうがないけど、優しい突きだなって」

 気まずそうに目をそらしながら言う。

「まあ…そりゃそうだよね」

 自分の中では綺麗に打てていたと思ったが、それはあくまで形だけの話。速さと威力は全然足りていないのは当たり前か。

「どうやったら颯太みたいに速くできるの?」

「うーん、難しいな。ひたすら練習あるのみって感じ?」

 颯太が突きを繰り出しながら言う。

「それはそうだけど、もっとなんか…ポイントみたいなのないの?」

「…強いて言うなら、腕を戻す速さかな。突くときは当然、早く腕を出そうって思うんだけど、突き終わりのタイミングで腕を戻すのが遅くなりがち。腕を早く戻せば次の突きも早くできるから、それが重要だな」

 颯太がパンチした後の腕を戻す速度を変えながら説明する。

「おっけー。ありがと」

「あと腕だけじゃなく、上体や足先まで意識して、全身で技を放つイメージで」

「わかった」

 それから颯太に刻み突きという技を教えてもらった。その日は他にもいくつかの技を教えてもらったが、どれも軽くやってみただけで、実際の闘いで用いるなんて全然無理だ。蓮くんを守るため、今から全力で身に付けなければならない。



     六月九日(月)

 今日は明正八幡宮を訪れる日だ。

 五人でお参りをし、博物館をまわる。そのあとは例のごとく社務所で授与品を見ることになった。

 今回は、いち早くお守りを見始めた山上くんに近づく。

「へえ、いろんなお守りがあるんだね」

 カラフルなお守りを見渡しながら、あくまで自然につぶやく。

「そうだな。素人の目には全て同じように見えるかもしれないが、一つ一つ由緒や御利益には違いがある」

 話しながらスパスパとお守りを手に取っていく。その中の『必勝祈願』と書かれたお守りが目につく。無意識に手をポケットに突っ込む。

「それ、全部買うの?」

「ああ」

 相変わらず私のことは気にも留めていない様子で、お守りで左手を一杯にし、今度は御神札の方を眺めている。

「…なにか叶えたい願いでもあるの?」

「ん?」

 山上くんが手をとめ、こちらに目を向ける。

「いや、そんなに授与品買う人見たことないから、なんでかなって思って」

 深い黒の瞳に見つめられる。山上くんの目には、なんともいえない奥ゆかしさがある。

「別に授与品をたくさん買ったからと言って、それ相応の御利益を期待しているわけではない」

「そうなの?」

「知っているか、夏樹さん。近年、神社や寺が次々と姿を消している。氏子会費や賽銭、授与品の対価として得られる収入が減ってきているからだ」

「えっ」

 元々落ち着いた口ぶりの山上くんだが、今はいつもにも増して真剣な物言いだ。

「神仏という超自然的なものを扱う神社仏閣だが、その実は現代社会の経済の中に置かれている、いち団体にすぎない。神社の整備や、そこで働く人の生活のためには、信仰者からの『お賽銭』が必要なんだ」

「それは…そうだね」

 山上くんは御神札の棚に向き直ったが、すぐにまた手をとめ俯いた。

「なんて…偉そうなことを言っておいて、僕が貢いでいるのは参拝客に困ることのない都会の寺社ばかり…。本来はもっと人里離れた神社や寺に赴くべきなんだ」

「都会は人がたくさんいるもんね…。風雷大社みたく観光地化してるところもあるし」

 前回のやり直しで蓮くんと行ったときのことを思い返す。日本人だけでなく、外国人観光客の姿も多く見かけた。

 それにしても…。

 山上くんの方を見る、彼はまた棚に向き直り、品定めをしているようだ。

「わかっている。なぜそれほどまでに神社仏閣に執着するのか、だろう?」

「あ、うん」

 彼は御神札を眺めたまま、私の言いたかったことを口にする。

「さて…なぜだろうな」

「え?」

 山上くんはあっけらかんと答えた。

「気づけばこうなっていた。…ふむ。強いて言うなら、一種の罪滅ぼしなのだろう」

 そうつぶやきながら、また一つ、札を左手の上に重ねた。

 罪滅ぼし…。

また何か、人の暗い過去に触れてしまうんじゃないか。そんな思いが胸を掠める。結衣の、あの冷たい眼差しが目に浮かぶ。これ以上訊かない方がいいかもしれない。そう思い口を開きかけたとき、山上くんは私を見つめたまま言った。

「なに、自分ではもう拭うことのできない罪を、他の誰か、神仏によって清算してもらおうとしている。…つまり僕は、罪の償いを神仏に託している、そんな神仏任せ野郎にすぎないのだ」

 風が吹き、彼の髪を揺らした。私はその合間から除く両眼から目が離せなかった。

 長めの髪のせいか陽の光が入らない、夜を湛えたような瞳。でもその奥には、確かな白色が視えた。

そしてその中に、私がいた。

「夏樹さん」

「あっ」

 山上くんが不思議そうな顔でこちらを見つめている。

「あれ…ごめん」

 彼の目は相変わらず深い黒色だ。でも何か、先ほどは何か、異なる姿を映していた気がする。

「さて、僕はそろそろ授与品を頂きに行くからな」

 そう言って巫女さんに会計をしてもらいに行く。若い巫女さんが、驚いた顔で彼を見返している。

 …私の眼に残るこの違和感は何なのだろうか。自分の両手を見、なんとなく頬を撫でてみる。いつもと何ら変わりない。

「夏樹さん」

 先ほどよりも温かみのある声で名を呼ばれ、思わず振り返る。

「大丈夫? 聖司から変な話されなかった?」

 蓮くんが気まずそうな笑みを浮かべて立っていた。後ろには颯太もいる。

「失礼だな、蓮」

 口ごもっている私をよそに、山上くんが声を上げた。

「ここにある御神札一枚一枚について、その由来を彼女に説明してあげたところだ」

「おいおい…がっつりじゃないか…。夏樹さん、大丈夫だった?」

 蓮くんが心配そうな顔で尋ねてくる。

「う、うん。だいじょうぶ」

「…そう? ならいいけど」

 蓮くんが私の横を通りすぎ、山上くんに近づく。

「にしても、またそんなに買ったのか」

「神々のため、しょうがないことだ」

「蓮―」

 いつの間にか結衣もおみくじを引き終わり、戻ってきていた。

「こんなに買うんですか」

「西川君。君もこれから一緒に頑張ろう」

「こらこら…」

 四人の会話を尻目に考える。山上くんは蓮くんに嘘をついた。私と話した本当のことを言わなかった。ということは、まだ蓮くんにも話していないことなのだろうか。だとしたら、なぜ私にだけ話したのだろうか…。

    ~

「西川君、ちゃんとその御守り首から下げとけよ」

「やだよ。恥ずかしい」

 駅への帰り道、後ろではしゃぐ三人を背に、蓮くんと並んで歩く。

「今日はありがとう。一緒に来れて楽しかった」

「それはよかった。これからも今日みたいにいろんな神社に行くから」

 彼の笑顔は夕日によく映えていて、思わずドキッとさせられる。

「…ね、ねえ、もしよかったら、今度、風雷大社を案内してくれない?」

「おお、いいね。今度の活動で行こうか」

「いや…そうじゃなくて」

「ん?」

両手を後ろで組み、上目遣いで蓮くんを見上げる。

「個人的に行きたいなって」

「それは…山上たちは無しでってこと…?」

「うん」

 彼が顔をそらす。夕日が眩しいせいで、その表情を読み取りきれない。

「…いいよ」

「やった」

 私は軽く体を揺らしながら、嬉しそうに笑ってみせる。

「じゃあさっそくなんだけど、今度の日曜、空いてる?」

「うん」

「じゃあそこで行こ」

「わかった」

 蓮くんが私の誘いに頷くことも、日曜の予定が空いていることも初めから知っている。それでも、もしかしたら断られるかも、という考えが頭をよぎる。だから彼が私の誘いに付き合ってくれて、また二人で出かけられるのはとても嬉しい。

でも、前回のようにただ楽しむだけではいけない。今度こそは、蓮くんを守り抜いてみせる。

 決意のこもった目で、沈んでいく太陽を見つめた。



六月十四日(土)

「はっ、はっ、はっ」

 左右の拳を交互に突き出す。拳を戻すときも、出すときと同じように素早く引く。上半身だけでなく、足先までしっかり意識する。

「そうそう、その調子。まだ練習始めて一週間なのに、かなりよくなったな」

 一度足を戻して、平行立ちでふーっと深呼吸する。

「ありがと。颯太の教え方が上手いからだよ」

「お前もたまにはいいこといえるんだな」

 颯太は皮肉っぽく言いながらも、顔はそっぽを向いていた。

「…よし」

 続けて蹴り技もいくつか練習する。

「そろそろ水分補給した方がいいんじゃないか? もう三十分もやってるぞ」

「…あ、そうだね」

 颯太に言われ、自分が汗だくになっているのに気づく。

 ベンチに戻りタオルで顔と首周りを拭う。バッグの中の水筒を探すが、見当たらない。

「あ、水筒忘れた」

「え?」

「ちょっと買ってくる」

 確か公園の西側の入口の方に、自販機があったと思う。頷く颯太を尻目に、財布片手で歩き出す。

 それにしても今日は六月にしては暑い。これまでは家にこもっていたからわからなかった。これだけ同じ日々を繰り返しても、私の預かり知らないことはまだまだ多くあるのだろう。

 暑さのせいか、先週のようにはしゃぐ子どもやその親の姿は見られない。ただ、ブランコで前にも見かけた女の子が一人、ろくに漕ぎもしないまま、ぼうっと地面を見つめていた。

 手で髪を払う。髪で覆われていた地肌には、季節外れの空気でさえも心地よく感じられる。本当は後ろで結びたいのだが、それには少し長さが足りない。

 そうこうしている間に、道を挟んだ駐車場の前に自販機を見つけた。小銭を入れ、スポーツドリンクのボタンを押す。ガタガタンと取り出し口に落ちてくる音が、少し重く感じられた。

 その場でキャップを開け、グビグビっと喉を潤す。

「ふう~」

 一息つき、来た道を戻り始める。

と、ふと横から風を感じ、目を向ける。

 …そこには細い路地があった。初めて来たはずの場所なのに、なぜか私はその路地から目が離せなくなっていた。

 明るい時間帯なので道の奥まで見ることができる。少し行ったところに電柱があり、だいぶ先だが奥には家があり、その手前でT字路になっているようだ。

 いつの間にか心臓がドクンドクンと脈打っている。息も荒くなっていた。

「……」

 この道が目に入った瞬間から、私は直感していた。あのときは反対側から見ていたが、道の両側に建つ住居の雰囲気には覚えがある。

「ああ…」

 ここは蓮くんが殺される道だ。

 そう理解するや否や、脳裏に蓮くんの周りに広がった血溜まりがフラッシュバックする。私が見た、彼の苦痛に歪んだ生気のない顔も。

「うっ…」

 思わず口を押さえ、そばにあった電柱に寄りかかる。傍観者のいる世界とは違い、つい今飲んだものが腹の底からせりあがってくるのを感じる。私は胸の奥に力を入れて、それを無理やり押し戻す。

「…はあっ、はあ」

 呼吸を整えなければ。こういうときは深呼吸…。

「遥香…? 大丈夫か?」

 声がした方へちらりと目を向ける。颯太が心配そうな顔で私を見つめ、駆け寄って来ていた。

「おい! どうした⁉」

 私の苦しげな様子を見て取ったのだろう。私の肩に手を置いてくる。

「だ、だいじょうぶ…だから…」

「いや明らかに大丈夫じゃないだろ! 熱中症か? 救急車呼ぶか?」

「ほんとに大丈夫だから…。ちょっと黙ってて…」

 勝手に慌てふためいている颯太に嫌気が差す。心配してくれるのはいいが、私の話をちゃんと聞いてほしい。

すぅー。はぁー。

「…ごめん。なんか一瞬気分が悪くなっただけ。もう元気になったから」

「ほんとかよ…。念のため病院行った方がいいんじゃないか? あとあとなんかあるとまずいし」

 はあっとため息をつく。颯太はときどき、こう大袈裟すぎることがある。

「大丈夫、大丈夫。練習の続きやろー」

 何事も無かったかのように、スタスタと公園へ歩き始める。ブランコに座っていた女の子が、いつの間にかいなくなっていた。

「…んっ」

 突然手を掴まれ振り返る。

見ると目の前に颯太がいた。真剣な面持ちで私を見つめてくる。

「大丈夫じゃないだろ」

「え…?」

 有無を言わせぬ重苦しい物言いに、思わず身体が硬直する。

「やっぱ最近のお前、変だぞ? 訊かない方がいいかって俺も思ってたけど、なんかだんだんやつれて行ってる気がする。なんかあったんだろ?」

 颯太が私の顔をじっと覗き込んでくる。

「…い、いや、何でもないよ」

 と、颯太が腕を離した。思わず後ずさる。

「すっ、はあー」

 颯太が大きく深呼吸する。私はじっとりと額に浮かんだ汗を、手の甲で拭う。

「…やっぱ教えてくれないのか」

 暗い顔で私から視線をそらし、ジャリっと足元の砂を踏みつける。

「教えるって、何も、」

「お前さ、俺とどんだけ長く過ごしてきたか忘れたのか? お前が嘘をついてるときの雰囲気くらいわかってんだよ」

「え…」

「確かに俺も遥香に隠したいことくらいある。だから遥香がそうしてるのを、俺はわざわざ訊く気はなかった。けど、最近の遥香はなんかあぶなっかしいって言うか…時々思いつめた顔してるし」

 私は思わず歯ぎしりする。

ダメだ、颯太に知られるわけにはいかない。

「いや…気にしないで」

「俺はお前を心配して言ってるんだぞ?」

 颯太が一歩、距離を詰めてくる。私はその目を見つめ返すことができない。

「申し訳ないけど、颯太には言えない…」

「なんだよ」

 ギュッと両肩を掴まれる。思わず顔を上げる。

「…俺には言えないって? 俺じゃ不十分なのか?」

 これまでに見たことのないような厳しい目つきで、颯太が見下ろしてくる。私の肩を握る力が、徐々に強くなっていく。

「颯太…離して」

「なんでだよ。これまでずっとお前の側にいてやったのに、それでも隠すのかよ。遥香!」

 太い指が私の肩に食い込んでくる。

「痛い! 離して!」

 ふっと肩を握る力が弱まる。咄嗟に颯太の手を払いのける。

 顔を上げると、颯太が表情を歪ませて私を見ていた。

「俺じゃ…不満かよ…」

 そう言いながら俯く。心なしか、その目には涙が浮かんでいるように見える。

「ごめん…」

 思わずジリっと胸が締め付けられる。私はベンチの方へ向かい、タオルとペットボトルを乱雑にバッグに詰めていく。

「…今日はもう終わりにしよ」

 掠れた声で一方的に言いながら、バッグを肩にかけ立ち去ろうとする。

「遥香…また明日、」

「ごめん。明日はいい」

 背後で颯太が言葉を詰まらせたのがわかる。

「…月曜、またいつもの場所で会お」

 振り向くことなく口だけを動かす。

そのときには、きっとすべてが終わっているから。

 颯太の返事を待たず歩き始める。しばらく背中にジットリとした視線を感じていたが、公園を出てしばらく歩くと、その気配もなくなった。振り返ったが、颯太が追ってきたりはしていない。

「…颯太、ごめん。でも、今だけは許して」

 今は蓮くんを救うことに集中しなければならない。無事に彼を守り切り、その後で颯太にはきちんと謝ろう。颯太なら、あいつならわかってくれる。

 肌にあたる風が、にじんだ汗を乾かしてくれている。先ほどより涼しくなったのは、青空に少し雲がかかってきたからだろう。日光さえ遮られれば、まだまだ耐えられる暑さだ。

 雲が出てきても雨の心配はしない。明日の朝には、また晴れ渡るのだから。



    六月十五日(日)

 石畳を歩きながら、別に風雷大社にもう一度行く必要はなかったのでは、そう思う。せっかくなら他の場所を案内してもらえばよかった。

「今日は久しぶりに風雷大社に来れて、俺も良かったよ」

 隣を歩く蓮くんが、笑みを浮かべながら言う。

「私も楽しかったよ」

 大きな白い鳥居を抜け、差してきた西日に思わず目を細める。しかし前回よりは少し陽が高い。閉園時間の混雑を避けるため、少し早く出てきたのだ。

「蓮くんってほんとに神様について詳しいんだね。ミュージアムの風神雷神の話とかすごくよかった」

「いや、展示品に付いてる説明そのままだし、大したことないよ」

「それでも、その内容覚えてるだけですごいよ」

 こういうときに見栄を張らないところが、やっぱり彼は真面目だなと思う。

「にしても庭園、ほんとに綺麗だったね」

「だろ?」

 前回時間が押してしまった経験を活かし、今日は少し早めに集まった。そのおかげで風雷大社の一角にある庭園を巡ることができた。夏の初めということもあり、草木の緑とアジサイがとても鮮やかに記憶に残っている。

「あんなに綺麗な庭園、初めて行ったかも」

「あそこは俺も好きな場所だから、夏樹さんも気に入ってくれたならよかった」

 確かに庭園は美しかったが、楽しめた理由はそれだけではない。

「…立花くんが一緒だったから楽しめたんだよ。色々話せたし!」

「よかった。ありがとう」

 緊張するが、言いたいことは言うようにしようと思う。彼も彼で、私が楽しんでいるかを心配しているのだ。蓮くんを安心させてあげたい。言い始めの声が少し小さくなってしまう分、言葉尻の声量が上がってしまうのだが。

 駅の方へと続く道からあえて逸れる。蓮くんも遅れて歩調を合わせてくる。

「せっかく加美原まで来たんだし、ちょっと歩かない?」

「ああ、いいよ」

森を背にし、線路の上にかかる橋を渡る。途端に神聖な空気間が薄れ、繁華街の喧騒に包まれる。日曜なのでやはり混雑している。通り沿いにアパレルショップや飲食店など、カラフルな建物がたち並ぶ。どれも私一人で入るには心細い場所ばかりだ。

「立花くんは加美原よく来る?」

「ん…まあたまに来るぐらいかな」

「そっか」

 蓮くんの目が泳いでいる。私と同じで慣れない町の雰囲気にそわそわしているようだ。東京住みとは言え、彼も私と同じインドア派なのだから、繁華街にはあまり来ないのかもしれない。

「すごい賑やかで、私の地元にはないようなオシャレなお店もたくさんあって、さすが東京って感じ」

「だな」

 向かいから歩いて来る人を避けながら進む。歩行者の数に対して道幅が足りていないのでは? そう思うほどの通行量だ。

「人も思ってたより多いね…」

「どっかお店でも入るか」

 人を避けていたからか、いつの間にか隣同士ではなく一列になってしまっている。後ろに尋ねる。

「どこがいいかな。いいお店知ってたりする?」

「え、んと…」

 私も通り沿いの建物を眺めながら歩く。ふと、見知った姿が目に入る。

「あ、あれ!」

「え?」

 歩行者の合間を縫いながらそこへ向かう。なんとか人の波から抜け出した。

「ふう…。ね、これ」

「俺が好きなキャラじゃん!」

 そこには、最近流行っているアニメのキャラクターのイラストが入った服が飾ってあった。蓮くんがこのキャラを好きだと言う話は、さっき風雷大社のカフェで聞いた。

「あれ、別のバージョンのもあるじゃん」

 隣には他のキャラクターの柄が入った服が掛けられている。どうやらこのアパレルショップは、様々なアニメとのコラボTシャツを販売しているようだ。

「へえー、こんな服も売ってるんだ」

 キャラたちに誘われて中へと入る。店内は冷房が効いていて、人ごみの中でにじんだ汗を飛ばしてくれる。

「え、これともコラボしてるんだ。めっちゃいいな」

 蓮くんが服に吸い寄せられていく。私も眺めてみる。いいイラストだなと思うものもあるが、こんな服を着て外を歩くのは、少しハードルが高いのではないだろうか?

 何はともあれ蓮くんは楽しんでくれているようだ。ここで少し時間をつぶしていこう。

    ~

 結局、蓮くんは最初に私が見つけた服を買っていた。店を出ると、先ほどよりは気持ち人が減った気がする。日が暮れて町並みは青さを増した。蓮くんと並んでゆるい坂を下る。

「いや~、いい買い物だった」

「それ着てこんど、神社巡り来てよ」

「え、んと、さすがに恥ずかしいかな…」

 蓮くんが視線をそらす。

「えー? サークルのみんなにも見てもらいたいよ」

 自分の声に笑みが含まれているのを自覚する。

「ちょっとそれはキツイなあ。花園に絶対なんか言われるし…。夏樹さんの前でもギリかも」

 持っている袋の中の服を覗きながら言う。じゃあなんで買ったのー。

「家に飾っておくよ。服もアクスタとかと同じグッズの一種だからさ」

「あ、そっか」

 服というのは着るものというイメージしかなかったが、飾ることもできるのか。いつの間にか神社仏閣の知識だけでなく、アニオタの知識も増えた気がする。

 坂を下り切り、交差点を右に曲がる。

「この先に気になってるお店があって、そこでご飯にしない?」

「え、いいじゃん」

 今回は事前に夕飯を食べるお店も決めてある。運よく時間もつぶせたので、いい感じにお腹も減ってきた。

 お店では私の計画の甘さが露呈してしまった。店内は満員で、待っている人もいたからだ。運よく団体のお客さんが案内されたおかけで、待ち席に座ることができた。

    ~

「おいしかったー」

「そうだな」

 店から出て、来た道を戻る。空はすっかり夜だが、周囲の建物の様々な色の光が、私たちを照らしている。

「美味しい店に連れてってくれてありがとう」

「全然いいよー。前から気になってたとこだから」

 本当は前に必死に調べて見つけた場所なのだが。

 そっと腕時計を見る。二十時前だった。まだまだ今日は終わらない。

 料理の感想を話していたはずが、いつの間にかお互い黙っていた。近くを歩く人たちの笑い声と、客引きの甲高い声、絶え間なく車道を走り抜けていく車の音が、私たちの間に入り込もうとしてくる。

 用意していた言葉が出てこない。覚悟は決めていたはずなのに。前を歩く手を繋いだカップルのせいだ。そういう意味ではないとわかっていても、意識させられてしまう。

「ねえ、蓮くん…」

「え?」

 少しの間のあと、私はデニムのポケットにつっこんだ手をギュッと握った。

「このあと、私の家に来ない?」

「えっ」

「…あっ、ア、アニメとか! 一緒に見たいなって思って!」

 慌てて言葉を付け足す。

 今、蓮くんはどんな顔をしているだろうか。怖くて顔を向けることなど到底できない。変なやつだと思われただろうか。断られたらオールカラオケにでも誘おうと思っていたが、今ここで断られたら気まずくて誘えないのでは? てか会ってまだ日も浅い、風雷大社に行っただけの人間の家に行くとか普通に考えて怖くないか? 私なら会ったばかりの蓮くんに誘われても絶対行かなかっただろうし。失敗した。せもて先にカラオケに、

「ほ、ほんとに…?」

「…え?」

 思わず蓮くんの方を向く。街明かりのおかげで蓮くんの困惑した顔がはっきりと見える。

「いや…突然だったから、冗談なのかと思って…」

「いやこっちこそ、いきなり意味わかんないこと言ってごめん…」

 言いながらまたお互い前を向く。前を歩く女性が男性に向かって笑いかけている。

 いやなに退いてんの? 家に連れて行かないと。てか、今の反応、ほんとに来てくれる可能性ありそうじゃない? え、ほんと? ああ、もう!

「ほんとにうち来る?」

 思っていたより大きな声が出て自分でも驚く。もうやけくそだ。怒っているように聞こえてしまったかもしれない。

 蓮くんの方を向くが、目を合わせてくれない。心臓の音が耳の中で、周囲の喧騒よりも大きく響く。

「…じゃあ、行こうかな」

 前を見つめたままボソッとつぶやいた。

「え、ほんとに?」

「うん…夏樹さんがいいなら」

 そう言いながら目だけこちらに向けてくる。今度は私が目をそらす番だった。

「う、うん。ありがとう。…じゃあ、行こう」

 自分で言っておいてなぜこんなに緊張してしまっているんだ。これは蓮くんを守るために必要なことだ。蓮くんを死の運命から救うためなのだ。決して蓮くんとおうちでアニメ鑑賞会をする夢を叶えようという、よこしまな思いゆえではないのだ。

 駅に着いてからもなんだか恥ずかしくて、思うように話しかけられない。

「ね、ねえ、何のアニメ見たい?」

「んー、せっかくこの服買ったしな」

「まだ全部見てなかったの?」

「いや、見たけど」

「そっか…」

 また会話が途切れてしまう。他のアニメにでも誘おうか?

「でも、夏樹さんと見たら、また楽しめるんじゃないかな」

 心臓がトクンと跳ねる。

「…ありがとう。私も、楽しみ」

 電車の到着を知らせるアナウンスが流れる。程なく電車が駅に入ってきた。そこからは、また二人でアニメの話をすることができた。

    ~

 布平駅を出ると、広場がやけに騒がしかった。たくさんの人が集まっているようだ。この駅前広場ではたまに人気アーティストが来てライブをやったり、ちょっとしたイベントをやったりしているらしい。今夜も何かあるのだろうか。若い女性の割合が高いのを見ると男性アイドルグループでも来るのかもしれない。

「すごい賑わってるじゃん」

「何かイベントがあるのかも」

 私は三次元にはそれほど興味がないので、そのまま素通りする。加美原ほどではないが、西布平の駅前よりはずっと街明かりがある。時間もまだ早いので人通りも多い。

「俺この距離なら帰りは歩きかな…」

 喧騒に混じって蓮くんが小さくつぶやく。

「え? ああ…そうなるのかな」

「あ、ごめん。聞こえてた?」

 そういえば、今日を越えてからのことをあまり考えていなかった。これまで蓮くんが殺されたのは日付が変わる前だったので、それまでに何かが起こると踏んでいる。でも、もし犯人が私の介入により決行を遅らせたなら、彼と夜を越さなければいけなくなる。日付が変わったからといって、蓮くんを、しかも徒歩で帰すことなどできるわけがない。

 いつの間にかまた鼓動が早くなっている。自分の作戦の抜け目に気づいた…なぜかその抜け目を密かに喜んでいる自分の存在も感じる。

「…泊まってってもいいよ…」

「ん? なに?」

「な、なんでもない!」

「あっ、そう」

 なんで私のつぶやきは聞こえてないの⁉ 

 そうこうしている間に家に着く。蓮くんの家のように特段凝っているわけでもなく、普通のアパートという感じだ。駅近だが、大通りから一本入っているというだけで、ずいぶん静かだ。駅前の喧騒もほとんど聞こえない。

 エレベーターに乗り、三階奥の角部屋、私の部屋へ向かう。両親がこの部屋を見つけてくれたのは、私が隣人トラブルに巻き込まれないようにするためだ。最上階の三階であれば、上階からの騒音に悩まされることもない。

 外廊下を歩いていると、湿った夜風が吹いてくる。アパートの隣が空き地だからだ。いつかこの土地にも家が建つのだろうか。そしたら家を出たときの見晴らしが悪くなってしまう。颯太もここに住まないかと誘ったが、駅からもっと遠いアパートに住んでしまった。

「ここ」

 言いながら鍵を開ける。

「どうぞ」

「おじゃまします…」

 蓮くんが奥の方に行ったのを見てから、もう一度ドアの外を確認し、扉を閉めて施錠する。チェーンもしっかりとかける。

「え、めっちゃ綺麗じゃん。俺の部屋と全然違う」

「そんなことないって」

 颯太が来たときにあるていど整理したのに加え、昨日きっちりと掃除しておいたのは秘密だ。

 部屋に入ると蓮くんが丸テーブルの側に立っていた。落ち着かないのか、キョロキョロと目を動かしている。

「えと、くつろいでもらって大丈夫だよ。荷物は好きなとこに適当に置いておいてもらっていいから」

「おう、ありがとう」

 キッチンにお茶を取りに行く。冷蔵庫のドアで自分の顔を隠す。

 やっぱり緊張してしまう! 蓮くんも同じ気持ちなんだろうか…。

 お茶を注ぎ、テーブルの上に不揃いな二つのコップを置く。

「テレビで見よっか」

 言いながら画面にリモコンを向ける。テレビが点くと、どこかの旅番組をやっていた。気にせず、ダウンロードしておいた配信サイトを開く。

蓮くんの方に目をやると、テーブルの位置に合わせて床に座ろうとしている。

「あ、あれだったらベッドに座っちゃっていいよ。私もいつもそうしてるし」

「え、いいの?」

「うん」

 ちょこんと彼がベッドに座る。蓮くんがいつも私が寝ている場所にいるのを見ると、なんだか言いようのない感情が沸き上がってきそうになる。

 さっき話していたアニメを再生し。私も蓮くんの隣に座る。自分のベッドなのに、彼と同じように浅く腰掛けてしまう。

「音量こんな感じでいい?」

「うん」

 リモコンをベッドの隅に置き画面を見る。こんなに内容の入ってこないアニメ鑑賞は初めてかもしれない。蓮くんの顔を盗み見ると、彼も固い顔をしていた。

 ずっとこのままなのかと思っていたが、時間が経つと不思議と緊張がほぐれて、アニメを楽しむ余裕も生まれてきた。時折蓮くんの笑い声も聞こえる。つられて私の顔もほころぶ。

    ~

 五話まで見たところで、私のコップが空になった。蓮くんのも残り少ないようだ。

「お茶入れてくる。立花くんのも入れるね」

「ありがとう」

 アニメを一時停止してキッチンへ向かう。冷蔵庫からお茶を取り出す。もうあまり残っていないので、新しいお茶を作らなければ。そんなことを考えながらお茶を注ぐ。両手にコップを持って部屋に戻ると、蓮くんがポケットにスマホを戻すのが見えた。

「あ、ありがとう」

「うん」

 また隣に座り、リモコンに手を伸ばす。

「ごめん、夏樹さん」

「え?」

 リモコンに手を伸ばした姿勢のまま振り向く。いつの間にか蓮くんが立って、私を見下ろしていた。

「今日は帰るよ。もう遅い時間だし」

「え」

 壁掛け時計を見ると、二十三時前だった。普通に考えれば他人の家からはお暇する時間だろう。

「いいよ、まだゆっくりしてて」

 だが、今夜帰すわけにはいかない。作り笑顔で言う。

「いや、さすがに悪いよ」

 蓮くんも気まずそうに笑いながら言う。

「帰りの電車の心配? だったらうち布平駅の西側だし、すぐ西布平だから大丈夫だよ」

 我ながらよくわからないことを口走っているな、と思う。

「アニメ、一人で見るのとはまた違って面白かったよ。また今度、一緒に続き見よ」

 そう言いながら床に置いていたバッグを拾う。

 私も立って、玄関までの道をふさぐ。

「もう少しだけ見よ? こっからいいとこだし」

「いや…」

 蓮くんと視線の高さが合うことで初めて気づく。なんだか視線に落ち着きがない。家に入って来たときと同じか、それ以上に緊張しているようだ。

「いいからいったん落ち着いて座って?」

「もう帰るよ…」

 彼の首筋がきらりと光る。汗をかいているようだ。私的にはちょうどいい室温なのだが…。

「ごめん。暑かった? もう夏だもんね、冷房つけるよ」

 冷房のリモコンを取ろうと横へ動いた瞬間、蓮くんが急に近づいてきた。

「ちょ、待って!」

 慌ててまた立ちふさがる。一気に彼との距離が縮まった。

「夏樹さん、ごめん。帰らないと」

「だから居ていいって言ってるじゃん。私のことなら気遣ってくれなくて大丈…」

「そういうわけじゃないから。ごめん、通して」

 蓮くんが一歩踏み出してくる。私より一回り背の高い蓮くんが、急に強そうに思えてくる。見上げた蓮くんの目からは、私の知る温かさが消えていた。

「…ねえ、どうしたの? なんか変だよ?」

「別に何でもないよ」

 目の色が濁ったのを、私は見逃さない。

「何かあったの?」

 いつの間にか身体の隅に追いやられていた感覚が、ジワジワと全身に広がっていく。それに応じて鼓動も早くなる。

「それとも…これから何かあるの?」

「……」

 沈黙が流れる。蓮くんがゴクッと喉を鳴らした音が聞こえた。

「…急用が入ってさ」

「…だめ」

「いや、大事な用事で…」

「こんな時間から?」

「いや…その…」

「誰から? いつ? おかしいよ、こんな時間に呼び出すなんて」

「でも行かなきゃ、」

「行っちゃだめ!」

 蓮くんが後ずさる。まずい、声を荒げてしまった。

「な、なんで行っちゃだめなんだよ」

「だ、だからこんな時間に呼び出すなんて、変だって」

 なんとか言い繕う。感情に任せて喋ってはだめだ。『蓮くんが死んじゃうから』なんて言ってしまったら、過去に戻ってきていることがバレてしまう。

「…と、友達。友達が今からゲームしないかって」

「誰? 山上くん? 結衣? それとも他の人?」

「夏樹さんには関係ないよ…」

「ん…」

 関係ないって? 大いに関係ありまくりなんだけど。

「私よりも、友達とのゲームの方が大事?」

「そ、そういうわけじゃなくて、」

「そういうことなんじゃないの?」

「いや、」

「ねえ、ほんとにゲームの誘いなの? そうだとしても、それは蓮くんを呼び出すための口実だって」

「だからなんでそんなこと夏樹がわかるんだよ」

「あっ…」

 息が上がっている。どうも感情が抑えられない。ここが正念場なのだ。頭を振る。落ち着け。落ち着け。

「とりあえず、今日は行かない方がいいって」

「夏樹、どいてくれ」

 蓮くんがまた一歩踏み出してくる。その手が私の肩に乗せられ、グッと私を横に押し退ける。

「ちょ、やめて! だめ!」

 玄関で靴を履こうとしている蓮くんの腕を掴む。

「行かないで!」

 この腕だけは何があっても離さない。

「離して」

「だめ。何があったかまず説明して」

 蓮くんが冷たい視線をぶつけてくる。私も負けじと見つめ返す。

「ごめん。話せない」

「じゃあ私も離さない」

「離せよ」

「話してよ」

 お互い見つめ合ったまま沈黙する。先に目を背けたのは彼の方だった。

 無言のまま蓮くんが腕を強く引き、私は思わず転びそうになる。咄嗟に下半身に力を込めて耐える。腕もさらに強く握る。

「…マジで離せよ」

「やだって言ってるじゃん。蓮くんが話さないんだったら、私もそこに連れて行って」

「は?」

「私も一緒に行く」

「それは…無理だ」

 蓮くんが視線を落とす。

「それなら行ってもいいって言ってるのに?」

「…駄目だ。一緒に来ちゃ絶対に駄目だ」

「なんで? どうして着いて行っちゃだめなの? 『一人で来い』とでも言われた? ならなおさら怪しいって!」

「…」

「ねえ早く話してよ! どうしたの⁉ なんなの⁉ なんで行こうするの⁉」

「いい加減にしろよ」

 誰が発したのかわからないほど低い声に、思わず鳥肌が立つ。

「なんなんだよお前。なんでそんなに必死なの? 邪魔なんだよ。なんでお前にそんなこと話さないといけないわけ? てかなんで行っちゃダメって言いきれるの? お前がそれを先に説明しろよ」

「そ、それは…」

「話せよ」

「ん…」

 心臓がバクバクと音を立てている。全身が小刻みに震える。

「は? 言えないの? なんだよそれ。こっちには訊くだけ訊いといて、俺から質問したらだんまりかよ」

「…ごめんなさい」

 か細い声を絞り出す。

「じゃあ離して。俺はどうしても行かないとだから」

「それだけは…行かないで…お願いだから…」

 震える手に力を込める。見つめている蓮くんの姿がぼやけてくる。

「…な、なんでお前が泣くんだよ…」

蓮くんの目にわずかに温かみが戻った気がした。

 突然、着信音が部屋に響き渡った。蓮くんの表情が一気に引きつる。音の出所は彼のポケットの中のようだ。

「やばい、早く行かないと!」

 蓮くんがまた強く腕を引く。歯を食いしばってしがみつく。

「ちょ、マジもうだるいって!」

 彼のもう一方の腕が、私の腕を掴み引きはがそうとしてくる。

「蓮くんやめてっ‼」

「おま、力強…」

 お互い全力で引き合ったせいで体勢が崩れる。

「やば!」

 腕に全力を込めたせいで、足元のバランスがおろそかになっていた。

 蓮くんが倒れた私とドアに挟まれ、ドンっと体をぶつける。

「うっ…」

「あっ、ごめん!」

 慌てて蓮くんから離れる。お互い息が上がっている。ハアハアという息遣いと、電話の音だけが鳴り続ける。

 額の汗で顔に張り付いた髪の間から、彼の光のない目がのぞく。

「…そっか、お前は俺のこと、もう知ってるのか」

「え、」

「そりゃそうだよな」

「なにを…」

「じゃあ今日のお前はなんだったんだよ。どういう気持ちで俺と過ごしてたんだよ! 怖いよ、お前」

「ちょ、ちょっと待っ」

「離せ! 気持ち悪いんだよ! 余計なお世話だって言ってんだよ!」

 スッ、と彼の腕が抜けた。

「…俺だってわかってる。行ったらヤバいかもってことぐらい。…でも、行かなきゃいけないんだよ」

 扉のチェーンと鍵が外されていく。

 扉が開くと、外から生暖かい風が吹き込んでくる。彼が部屋を出て行く。

「…ごめん」

 隙間から、その横顔と口の動きがはっきり見えた。バタンと大きな音を立てて、扉が閉まる。着信音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

私は一人立っていた。立っているだけだった。

 突然ドスンと音が聞こえた。私が床に膝を打ち付けた音だった。そのまま頭から床に倒れ込む。

「あ、ああ…」

視界が歪み、回り出す。

「ああ…あ」

そのまま床をゴロゴロと転がる。壁にぶつかり、横向きのまま膝を両腕で抱え込む。

「あああ…」

 頭の中が黒く塗り潰されていく。まったく動ける気がしない。なにも考えられない。

「ああ…あ」

 そのまま自分の赤くなった膝頭を見つめる。世界がグルグルと回り続ける。



六月十六日(月)

 まばたきをした。目がパサパサに乾燥している。

 立ち上がろうとすると、立ち眩みで思わず壁に体をぶつける。

 鍵のかかっていない玄関扉を開けると、涼しい風が全身を包み込む。もう空が白んできていた。

 ふと遠くで鳴る救急車の音に気づく。扉の鍵もしめないまま、靴下で外廊下を歩き出す。

 エレベーターに乗り、アパートの前の道に出る。コンクリートの上でも意外と足は痛くない。人類も昔は靴を履かずにアフリカのサバンナを歩いていたのだ。靴など案外いらないのかもしれない。

 気づくと颯太と空手の練習をした公園の前にいた。部屋着姿の野次馬の向こうに、規制線が張られている。公園の中で殺人事件が起きたようだ。こんな閑静な住宅街の中で殺人事件とは、物騒な世の中になったものだ。

 布平駅の前は早朝にも関わらずそれなりに人の往来があった。確かにいつの間にか広場に陽が差してきている。

 ポケットの中を探ると、何かが地面に落ちた。ぐしゃぐしゃになったお守りのようだ。こんな姿になってしまえばゴミも同然だろう。そのままにして改札へと向かう。なぜかポケットに定期券も入っていた。そういえば外着のままだ。おかげで駅の中でも大して目立たない。

ホームに出る。

『間もなく電車が通過します。黄色い点字ブロックまでお下がりください』

 アナウンスがそう告げる。

 そう言えばこの駅はかなり利用者がいるにも関わらず、ホームドアが設けられていない。ドアの重さにホーム自体が耐えられないからだと、どこかで聞いた覚えがある。今はそれがありがたい。

 陽の光がホームにも差し込んできた。思わず腕を顔の前に上げる。と、腕に不自然な痣ができているのに気づく。

「ああ…」

 いつかは朝日が昇ってくるように、いつかは希望が生まれる。そんなものは嘘だ。今日この光を浴びることができなかった人間がいることを、ホームで電車を待つ人は誰も知らない。彼が自分からその道を選んだということも。

 だから、もういい。もういいんだ。

もう照らさないでくれ。私のことも。

もう、私に朝日は昇らない。




「危ない‼」

 誰かが強く私の身体を抱きしめた。そのままホームの床に倒れ込む。

 直後、鼻先をすごい速さで電車が走り抜けていく。私はそれをボーっと見つめていた。

「あんた何してんの⁉」

 声のする方へゆっくりと顔を向ける。

「あ…」

「え⁉ 遥香⁉ 遥香だよね⁉」

 電車が残していった風が、長い黒髪をなびかせる。。陽の光を反射したまん丸な目と、普段より一層大きな声が、私の虚ろだった意識を一気に覚醒させる。

「…結衣?」

「なにしてるの⁉ 線路に落ちて電車に轢かれちゃうところだったんだよ⁉ なんでこんなことしたの⁉」

「…」

「ねえ‼」

 そこで結衣は言葉を切り、周りを見渡す。ホームにいた人たちが、何があったのかと周りを囲み始めている。

 と、そのうちの一人がスマホを掲げた。

「撮るなよ!」

 結衣の一喝に、その男がビクッとしてスマホを下げる。

「遥香、歩ける?」

「…ん」

 結衣に支えられ何とか立ち上がろうとするも、脚に思うように力が入らず転倒しそうになる。咄嗟に結衣が腰に手を当てて支えてくれる。

 なんとかゆっくり歩き始めたものの、両脚がガクガクと震えているのを自覚する。

「そこのベンチまでだから、頑張って」

 肩を貸してもらいながらホームの脇にあるベンチまで歩いていく。一番端に座っていたサラリーマンが、驚いた顔で立ち上がり離れていく。

「すいません」

 結衣がスーツ姿の背に謝りつつ、私を座らせる。

「遥香、私がいるから安心して」

 屈んだ結衣が、うなだれる私に視線を合わせようとしている。

「とりあえず一回、深呼吸しよ?」

 震える唇を開く。

 すぅ。はぁ。

 冷たい。冷たいが心地よい。朝のひんやりした空気が、肺の中に入ってくるのを感じる。

「もう一回」

 すぅ。はぁー。

 私の中で止まっていたあらゆるものが、ゆっくりと動き始める。

『間もなく電車が参ります』

 ホーム上に電車の到着を知らせるアナウンスが鳴り響く。

 すぅー。はぁー。

すぅー。はぁー。

 何度か深呼吸すると、だいぶ意識がはっきりしてきた。頭に新鮮な血液が行き届き、思考が冴えてくるのがわかる。

 電車が到着し、チラチラと私たちに視線を向けていた大人たちが乗っていく。列車が出発すると、朝日に照らされたホームには私たちだけになった。

「…結衣、ごめん」

「いいよ…」

 結衣が視線を落とす。多分私に何があったのかを問い正すべきか、迷っているのだろう。

「……ごめんなさい」

 結衣が顔を上げる。彼女の着ているパーカーのフードから、艶のある黒髪がこぼれ落ちる。

「いいって」

「違う。私を助けてくれたことじゃなくて…」

「うん?」

 結衣が軽く首をかしげる。膝の上で握った自分の拳が、また震え始めるのがわかる。

「蓮くんを救えなかった…」

 一層怪訝な表情で結衣が見返す。

「蓮くんをまた…死なせてしまった…」

「え…?」

結衣の大きい目が、さらに大きく見開かれる。

「ごめんなさい! 私は結衣の大切な友達を見殺しにしてしまった!」

 ガタンガタンと電車が通過し、私の叫びをかき消そうとする。

「……ほんとなの、それ」

 列車が行き静かになったあと、結衣がつぶやいた。

 小さく頷く。

「……なんで?」

 太腿の上に置いていた手の甲に、水滴が一つ落ちた。それを見た結衣が視線を上げる。

「なんで…蓮は死んだの…?」

 見上げた結衣の顔が急速にぼやける。手の甲にボタボタと水滴が落ちる。

「止められなかった…行ったら死んじゃうって…わかってたのに…なんで…」

 座っているのにも関わらず体が崩れ落ちる。しなびた花のように倒れた私を結衣が抱きとめる。

「なんで離しちゃったんだろう…」

「遥香、落ち着いて…」

「ぜったい離さないって、決めてたのに……蓮くんがじゃまだってゆうから…」

 朝の静かなホームに私の嗚咽が響き渡る。

「…それで気持ち悪いってゆわれてっ…余計なお世話だってゆわれてっ……それで…わたし、一人でずっと頑張ってきたのに…全部余計だったのかな…蓮くんを助けるべきじゃなかったのがなって…それでっ!」

「…死のうって?」

「ちがう、いや、ちがわないのかも知れないげど、ちがくて…わだじわかんないの…どうすればいいのか……もうわかんないのっ‼」

 一度口に出すと、堰を切ったように言葉が次から次から止まらなくなる。

「なんで蓮くんはしんじゃうの⁉ なんでわたしはいつまでたっても犯人がわからないの⁉ なんで蓮くんについて行かなかったの⁉ どうしてあのとき体が動かなかったの⁉ …どうして…?」

 そのとき、玄関扉にもたれかかった蓮くんの姿がフラッシュバックする。

 温かみが消えた、私を睨みつけるような目。そこから何かを悟ったように怪しく光る瞳。最後には私に対する恐怖と嫌悪が入り混じった、見つめるだけで吐き気をもよおすような視線。

「…蓮くん? 本当に蓮くんなの…? 違う、あなたは蓮くんじゃない。私の救いたかった蓮くんは、あんな目で私を見ない。誰なの? あなたは誰なの…?」

 ずっと前、明正八幡宮で『俺がいれば夏樹さんが悲しい思いをすることはない』と言ってくれたのを、今でも昨日のようにはっきりと覚えている。初めて風雷大社に行った帰り、私に『蓮くん』と呼ばれ、照れくさそうにしていた顔も。それだけじゃない。緊張しながら初めて訪れた神社仏閣サークル。優しい声で、少しでも私の緊張が解れるように温かく迎えてくれた。風雷大社に行くときも、私を気遣ってたくさん話しかけてくれた。帰りの電車では次に会う約束もしてくれた。私のわがままに付き合って家にも来てくれた。

「遥香も、」

 日本史の授業で私の隣に座ってくれた。あのときからずっと、私が見てきた蓮くんは、

「蓮のことが好きなんだね」

 目の中に降り注ぐ日光にも、あふれる涙にも構わず、私は目を見開いた。

 それまで私を支えていただけの結衣が、私を強く抱きしめる。

 使い倒された後に洗って絞られた雑巾のように、私の両眼からも涙が溢れてくる。

「れんぐん…わたじ、れんくんのごとがすき。だからいかないで、わたじをひとりにしないで、わだしのしってるれんくんにもどって。そういえば…よかったのかなぁ…」

 また蓮くんが生きている時間に戻ってやり直せばいい。なぜだか今はそう思えない。戻っても、これまでのように彼と接することはできない。そう思う。

 何もかもが遅すぎて。いや、もしかしたら早すぎたのかもしれない。時間は戻せても、私の気持ちはもう戻せない。

 蓮くんの、怯えながらも決意の宿った目を思い出す。閉じていく扉の隙間から見えた、後ろめたさを感じつつも覚悟を決めていた目。私がどうこうできるものなのだろうか。もし彼を止められても、本当にそれでいいのだろうか。

 進んだと思っても、何も進んではない。わかったと思っても、何もわかってはいない。次こそは彼を救えると思っても、決して救えない。

私にはきっと無理なのだ。もう、終わりにしよう。

 気づくと太陽はかなり高く上がっていて、結衣はずっと隣で肩を抱いてくれていた。



「痛っ…」

 足の裏に痛みを感じて視線を落とす。そう言えば靴を履いていなかった。

「大丈夫? 私の貸そうか?」

 結衣が心配そうに覗き込んでくる。

「いいよ…家近くだし」

 そう言って結衣に寄り添われながら、駅前通りを西に向かって歩き出す。

「ごめん…授業、もう始まっちゃってるよね…」

 申し訳なさを感じながらつぶやく。

「いいよ、そんなの。どうでも」

 通学や通勤のラッシュの時間を過ぎた駅前はいくらか閑散としている。それでも町ゆく人々は、いつものように何気なく日常を過ごしている。

「…結衣は今日、どうして布平にいたの?」

「これ」

 そう言って結衣は黒パーカーの前面を示す。どこかで見たことのあるアルファベットのロゴが入っている。

「あ、あのイベントか」

「そー」

 そういえば前にテレビで見たことがある。最近人気の男性アイドルグループのロゴだ。いつもは清楚な服を着ている結衣だが、こんな服も着るんだなと意外に思う。

「ライブ、そんなに遅い時間までやってたんだ…」

「いや。ちょっと私が帰りたくなかっただけ」

「え、そう…」

 結衣は実家暮らしだ。たまには親から離れて過ごしたいのかもしれない。でも、親御さんは娘が帰って来なくても心配しないのだろうか?

「…私、まだ信じてないから」

 はっとして横を見る。

「な、何を?」

「蓮が死んだってこと」

 ムスッとした顔のまま答える。結衣の耳ではこれまたいつもと異なり、ピアスが光っている。

「でも…さっき蓮くんのご両親に電話したら、警察から連絡があったって話してくれたじゃん…」

「それでも、自分の目で蓮の死体を見るまでは信じない」

「そう…」

 先ほど駅前広場の隅で、連絡先を知る結衣が立花くんの実家に電話をかけた。蓮くんの持っていた財布に入っていた身分証明書などをもとに、警察がご両親に訃報を知らせていた。

「私はこれから警察署行ってくるから、家まででいい?」

「うん。ありがとう…」

 結衣も頭ではわかっているはずだ。それでも受け入れたくないのだろう。

「…結衣はさ、ショックじゃないの? 蓮くんが…」

「そりゃあ驚いたよ。もちろんまだ信じてないけど。でも、遥香がバッカみたいに泣くから、私は逆に落ち着いちゃった」

 わずかに口角を上げながら結衣が言う。

「てか、逆に遥香はなんであんなに泣けたの? サークルメンバーとは言え、まだ知り会ったばっかじゃん」

「そ、それは…」

 答えに窮する。さっきは何も知らない結衣の前で、溢れ出す思いをぶちまけてしまった。あまり覚えていないが、過去に戻ってきていることを連想させるようなことも言ってしまっただろう。

「別に言いたくないなら言わなくてもいいけどさ」

 思わず結衣の顔を見る。彼女の目は道の先に向けられているが、その瞳にはもっと先の何かが映っている気がする。

「蓮がなんで死んだのかとか、昨日何があったのかとか、いつかちゃんと教えてもらうからね」

 意外にも気遣いができる人なんだなと思う。一緒に図書館に行ったときからずっと、得体の知れない人だと感じていた。よく考えれば、気の利く人でなければ、こうして朝から私の介抱をずっと続けてはくれなかっただろう。

「ありがとう」

 しばらく振りに人の優しさを感じて、胸が熱くなる。

「昨日はね、蓮くんに風雷大社を案内してもらった」

 結衣が目だけ私に向けたのを、視界の端で捉える。

「そのあとに服を買って、夕食を食べて、私の家でアニメをちょっとだけ見た」

 私の話を聞きながら、結衣の目がどんどん大きく見開かれていく。

「は? 何それ。完璧デートじゃん」

 自分の顔が赤くなってきていないか心配になる。

「で、どこら辺に蓮が死ぬ理由があるわけ?」

「私もわかんない…。突然、帰らなきゃって言いだして、私が止めても聞かなくて、電話もかかってきてたから、誰かに呼ばれたんだと思う…」

「そっか…」

 結衣が黒いパーカーのポケットに手を突っ込みながら俯く。

「誰か、蓮くんに電話してきそうな人に心当たりある?」

 しばらく考えこんだあと、結衣が口を開いた。

「私にも具体的に誰とかはわからない…けど、蓮は高校の頃からなんか周りから浮いてる感じで」

「それは…あんまり友達がいなくて、みたいな?」

「いや、友達はいっぱいいたと思う。でも、なんか馴染めていないというか、ノリが合ってなかったっていうか、うーん」

 結衣が空を見上げる。今日は恨めしいほどの青天だ。

「あー、あいつは誰にも心を開かないのかな。私の話は真剣に聞いてくれてたと思うけど、蓮自身の悩みの相談はされたことないし、自分の本当の思いを打ち明けることは少なかったのかも。だからこそ周りと馴染めなかったのかな」

「そうなんだ…」

「だから蓮が私に言ってなかっただけで、何か重い悩みを抱えてたのかも…。チッ、何で私に相談しないんだよ。死ぬくらいなら助け求めろよっ…」

 結衣が舌打ちをしながらブツブツともう何言かつぶやいた。結衣も悔しい思いは同じなのだ。

「…結衣なら、結衣なら蓮くんを止められたのかな」

 車の音にかき消されるくらいの小さい声で言う。

「…遥香はさ、蓮が行ったら死ぬってわかってた?」

「え、えと、さ、流石に死んじゃうとは思ってなかったけど、何か大変なことになりそうってぐらい……あ、ここで曲がらないと」

 大通りから一本入る。途端に建物に日光が遮れられ薄暗くなる。結衣の顔も影になる。

「……私ならぶん殴ってでも止めてたかもね」

「え、ええっ。暴力はよくないよ」

「それで蓮が死なずに済むなら、私は殴るよ」

 真顔で結衣が答える。言葉と表情から発せられる不思議な威圧感に、咄嗟に言葉を返せない。

「ふふっ、お淑やかだね、遥香は。…蓮はそういう子が好きなんだよ」

「えっ」

「だから蓮はあんたを選んだのかもね」

 結衣の言葉の意味がよくわからないが、一気に鼓動が早まってくる。

「ほんとは昨日、私が蓮とデートするはずだったんだよ? でも、夏樹さんに風雷大社案内しないと行けないからーって、断られちゃった」

「え、そ、そんなこと、蓮くんは一言も…」

「そりゃ本命に他の女の話はしないでしょ。いいなあ、蓮とデート」

 心臓がドキドキと早鐘のように鳴っている。今度こそ頬が熱くなってきて、思わず顔を背ける。

「でも、その遥香をあんなに泣かせるなんて、蓮ってサイテーって感じ」

結衣の声が急に遠くなっていく。

 蓮くんは昨日、結衣にも誘われていた? 高校以来の友人である結衣を差し置いて、まだ会ったばかりの私を選んだ。なぜ? そりゃあサークルに入ったばかりの私を安心させるためだろう。それ以外に理由はないはずだ。…でも、もしそれ以上の意味があったとしたら……。

 いや、そうじゃなくて。

「でも、もう私が蓮とデートする機会は永遠に訪れないのかな…」

 結衣が目を細めて、眉間にしわを寄せる。

「い、いけない、いけない! まだ蓮が死んだと決まったわけじゃないんだよね! 遥香? 家ってどこ?」

 と、そこで私が少し後ろで立ち止まっていることに気づく。

「あれ? もしかして通りすぎちゃった? ごめ…」

 結衣も立ち止まる。

「遥香…? す、すごい顔してるよ?」

「…私が、私が蓮くんを誘わなければ…」

「…」

「私がっ! 誘わなければっ! 死ななかったのにっ‼」

 唐突な叫びに結衣が後ずさる。

「ごめん結衣…結衣が一緒にいてあげればよかったんだよね。そしたら無理にでも止めてくれたんだもんね」

「遥香…」

「私が蓮くんに近づいたのが悪かったんだよね。そのせいで蓮くんにも結衣にも、何度も辛い思いをさせた」

「遥香っ!」

「わかったよ、私。どうすればいいのか。今度は蓮くんに近づかないようにするから。そしたら二人のことを救ってあげられるよね」

 バチンっと音がして思わず倒れそうになる。直後、右頬に鋭い熱さを感じる。

「あんたなに言ってんの⁉ 蓮は死んだんでしょ? なに今さら救うとか抜かしてるわけ⁉」

 私はふらつきながらも、じっと結衣の目を見つめる。

「…救えるんだよ。二人とも。私が願えば」

「はあ⁉」

 結衣の瞳に驚愕と訝しみが浮かんでいる。きっと私がおかしくなってしまったと思っているんだろう。だけど、私は至ってまともだ。

「私には蓮くんを救えないみたいだから、結衣に任せるね。ちゃんと蓮くんを救ってあげて」

「ねえ、ほんとに何言ってんの?」

「大丈夫。結衣ならできる。私よりも強いもん」

 絶望の中にあっても、いつかは希望が生まれる。もしかしたら本当なのかもしれない。

歩きながらずっと頭の隅で考えていた。蓮くんを救うのを諦め、蓮くんなしの世界で生きていく? 今さら無理だ。ここまでやってきた、やってきてしまった。今やめたら、ここまでの私の努力はどうなる? 人知を超えた力まで手に入れて、私は蓮くん一人救うことができないのか?

結衣が私に忌避のまなざしを向けている。暗い通りの背景が、夕暮れの音楽室に重なる。

ああ、またか。

やっぱり、私を救えるのは彼女じゃない。

 手を組んで目をつむる。

「でもありがとう。結衣のおかげでまだやれる。もう一度やり直せる」

「あんた…」

「またね!」

 そして願う。今度こそ蓮くんを救う。結衣や他のみんなが悲しまないようにする。だから、力を貸して!

 薄暗い道に急に陽光が差し込んだかのように、一気にまぶしさが増す。



 私を救えるのは彼女じゃない。

 私を救えるのは彼だけだ。

「蓮くん」

 目の前を彼が歩いている。私に呼ばれて振り返る。思わず駆け出す。

『お前気持ち悪い。余計なお世話なんだよ』

「え…」

 彼の瞳に睨みつけられ、立ちすくむ。

「ひどい。なんでそんなこと言うの? 私に辛い思いさせないんじゃなかったの?」

 そのとき、蓮くんの黒い目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。

『…ごめん』

 風で砂の彫刻が散っていくように、サーっと蓮くんの姿が消えていく。

「行かないで!」

 また駆け出すが、彼の姿はもうどこにもなかった。

 今度は自分の頬を涙が伝う。

「もう…泣くだけじゃ何もできないのに……」

 うずくまって膝に顔をうずめる。せっかくもう一度やり直しを決心したのに、その気持ちが萎えていく。

「今回はなかなか面白かった」

 顔を上げる。見慣れた白い世界がそこにあった。

「…面白かったって、私が蓮くんに突き離されて泣いてたのが?」

「そう怒るな」

 白い世界をキッと睨みつける。どこから声がしたかわからないので、首を上下左右に振る。

「私わかったよ。あんたの言ってた意味」

「ほう」

「あんたが言ってた、この問題は一人で抱えるには難しすぎるって言葉、他の人間を利用しろってことだよね。自分が未来から来たことを悟られずに、上手く他の人を使っていけってこと」

「そうかもしれないな」

 後ろから返事が返ってきて、振り向きざまに突きをお見舞いする。

「堂に入っているじゃないか」

 今度はさっきまで向いていた方向から声がする。

「全然出番なかったけどね。でも体を鍛えておいたのはよかった。おかげで蓮くんに抵抗できたし、結衣に張り倒されずに済んだ。あの子、結構強いんだから」

 右頬をさする。腫れたりはしていない。この世界のことだ、怪我は跡形もなく消えているだろう。だが、心の傷までは癒えない。

「さっき蓮くんの姿を見せたのはあんた?」

「そうだ」

「なんで?」

「君の救いたいと思っている立花蓮という男は、ああいう人間なのだということを再度

伝えたくてな」

「ん…」

 私の想っていた蓮くんとは似ても似つかないあの顔。確かに彼にそういう一面があったと知ったのはショックだ。だが、

「蓮くんだって人間だもん、いいところばかりじゃない」

 私は彼に自分の暗い過去を話した。彼はそれを受け入れてくれた。

私は立花蓮という人間を理想化しすぎていたのだ。私も彼と同じように、彼の暗い一面を受け入れなければならない。

「いいことを言うじゃないか」

「そう? 当たり前のことじゃん」

「その当たり前を君はこれまでずっと見落としていた。君だけではない。人間の多くがそうだ」

「…そうなのかもね」

 しばらく黙る。白い世界を数歩進んでみるが、景色に変化はなく、それどころか足音すらしない。

「だが、他人に過去に戻って来ていることを、他人ににおわせるような発言をするのはいただけないな」

「それは…ごめん。…でも意外と優しんだね。結構ギリギリなこと言っちゃってた気がするけど」

「我も何度か君を消そうと思った。だがそれは勿体ないと思ってな。だが、本当に危険なときには消すことになる。もちろん蓮も死ぬことになるだろう」

「わかった」

 あえて声のする方向とは、別の方を見ながら喋る。

「次はどうするんだ」

「さっきも言った通り、結衣に任せてみようと思う」

「いいのか、それで」

 声の出所が少し遠ざかった気がした。

「うん。これまで色々やっても結局上手くいかなかったから、突飛な考えでもやってみようと思って。……あとは、またあの目をした蓮くんに見つめられたくなくて…蓮くんに睨まれるだけで、今度こそ何もかもどうでもよくなっちゃいそう…」

「それが本音か」

 今度は耳元で囁かれ、思わず後ろ手に振り払う。

「ちょっと、急に近づかないでよ」

「落ち着け。蓮の悪い所を受け入れると言いながらも、それが自分に向けられるのはやはり嫌なんだな」

「それは…そう。蓮くんにも暗い部分があると頭では理解しても、いざそれを自分に向けられると、苦しくなる」

 俯きながら胸元に手を当てる。

「人間とは甚だ難しい生き物だな」

 じっと考える。私の中で渦巻く感情は、多分一つではない。蓮くんを救いたいという思いと、蓮くんと一緒にいたいという思い。重なりながらもそれぞれ別の方向に広がっていく…。

「蓮が花園結衣と多くの時間をともにすれば、君の存在はそれだけ薄くなる」

 さっきから私の胸の中にあったモヤモヤを、傍観者が言い当てる。

「……変わらないよ。蓮くんの気持ちは。高校時代から一緒に過ごして来た結衣と、知り合って二週間の私。どっちに思い入れがあるかなんてはっきりしてる」

「なるほどな」

「そう思うと、私は次の二週間、颯太を大切にしてあげないとだね。…前はつらい思いさせちゃったし」

 白い世界がわずかに揺れた気がする。地震などではなく、空間が揺れたという感じだ。私の迷いが伝わったのだろうか。

「せっかく結衣が作ってくれたチャンスなのに、こんな後ろ向きじゃ悪いよね」

 すぅー。はぁー。

 目を閉じて深呼吸する。自分の中で膨らむ様々な思いを鎮める。

蓮くんを救う使命を結衣に託す。それは彼の前に、私という存在が現れないということを意味している。

「それで…いい」

 だが、それでいいんじゃないか? 蓮くんはきっと生き残り、結衣と幸せな大学生活を送っていく。もし蓮くんがそれでもなお、死の運命から逃れられなかったとしても、私は生前の彼に面識がないのだから、他人のことなど気にせずこれまで通りに生きていけばいい。

「それで…いいんだ…」

 目を開ける。

「…お願いします」

 空手の構えのように平行立ちのまま言う。

「いいだろう」

 白が強くなり始める。

「そう言えば、御守りはよかったのか」

「あっ」

 言われて思い出す。そう言えば西布平駅前で捨ててきてしまった。

「バチ当たっちゃうかな…」

「これからは御守りの加護なしでやらなければならない、それだけのことだ」

 声が少し遠くなった。

「なるほどね…でも結衣頼みだし、大丈夫」

 一気に白がまばゆく輝く。何だかこれまでよりも強い気がする。

 今さらながら、この作戦だと、これが過去に戻る最後の機会になってしまうことに気づく。今までありがとう、そう言おうとしたが時すでに遅く、私は目が痛くなるような白に、反射的に目を閉じてしまった。

「武運を祈っている」



    六月二日(月)

「どうした?」

心配そうな声が届く。

「……颯太、いつもありがとう」

「え、急に何?」

「なんとなく伝えたくなって。これからもよろしくね」

「あ、ああ。もちろんだよ」

 照れ隠しにそっぽを向く姿がなんだかかわいい。



 六月十六日(月)

「じゃあー」

「うん」

 ラウンジの前で颯太と別れ、日本史の授業へ向かう。

 昨日、颯太とカラオケに行ったときのことを思い出しクスっと笑う。颯太は絶望的に歌が下手だ。学力や運動面では彼に勝てないので、歌の上手さだけは負けたくない。

 教室に入る。今日も人がたくさんいる。教室の真ん中くらいの机に近づく。

「おはよ」

「はるー、前回のプリント見せてくれない? 穴埋め忘れたところあって」

「いいよー」

 隣に座る女子にプリントを渡す。その隣にももう一人茶髪の女子が座っている。

 彼女たちとは他の授業でもいくつか被っていて、これまでもよく見かけていた。話しかけると、意外にもすぐ打ち解けられた。

「じゃあ授業始めまーす」

 教室の後ろの方でドタドタと騒がしい足音がする。遅刻ギリギリで滑り込んで来た人たちだろう。

「今日使うレジュメ、後ろに回してー」

 教授がいつものようにレジュメを配り始める。前の人から渡されたレジュメを、後ろの人に回す…。

「…」

 思わず息を呑んだ。レジュメを渡すために振り向いた視線の先、一番後ろの隅の席に、彼がいた。

「うそ…」

 手に持っていた紙が小さく音を立てる。

「はる、どうした?」

 小声で囁かれ我に返る。後ろの人が腕を伸ばして、私の手から残りのレジュメを引き抜く。

「あ、ごめん。なんでもない」

「なに? イケメンでも見つけちゃった?」

「そ、そんなんじゃないよ」

 落ち着いたフリをしつつも、胸の高鳴りが抑えられない。無意識に口角が上がる。

 忘れかけていた華々しい感覚が、一気に全身を駆け巡る。様々な思いや情景が頭の中を埋め尽くしていく。

 まさか、本当に、生き残ったのか?

 私が何度やっても越えられなかった、十五日夜を越えたというのか⁉

    ~

「…じゃあ今日の授業はここまで。出席はいつも通りウェブ上でお願いね」

 どっと教室内が騒がしくなる。みんな早く授業が終わって欲しかったのだろう。今日に限っては私もそうだ。

「はるー、ボーっとしててまた穴埋め忘れちゃった」

「ごめん、さき四限行ってて」

「え?」

 返答を待たずに席を立つ。真っすぐ教室の後ろの隅へ向かう。

 思わず目が潤んでくる。だが初対面から涙ぐんでいたら変に思われてしまう。一度歯を食いしばって涙を引っ込ませる。

 一番隅の机の前で立ち止まる。彼はレジュメをリュックにしまおうとしているところだった。隣には誰も座っていない。

「…ねえ、立花、蓮くんだよね?」

 彼が顔を上げて私を見る。

「え?」

「立花蓮くん、だよね?」

「…えっ、と」

 その目には驚きと訝しみが浮かんでいたが、あの冷たさはまったくない。

「な、なんで俺の名前を?」

 はっとする。嬉しさのあまり思わず名前を呼んでしまった。この時点では、まだ私たちはお互いを知らないはずだ。

「あ…えっと、ら、ライン。日本史専攻の人のライングループで見て!」

「ああ、そう」

 咄嗟に思いついた言い訳だったが、どうやら納得してくれたらしい。

「んと、どうしたの?」

 少し警戒心を解いてくれたのか、先ほどよりは落ち着いた口調で話しかけてくる。

「あ、えと…」

 一方、見切り発車した私は次に何を言うべきか考えていなかった。気まずさに思わず目をそらす。落ち着け!

「あの、どっかで会ったけ?」

「えっ、え⁉ どっ、どっかって⁉」

「い、いや、他の授業とかで、一緒だったかなって」

「ああ、そういうこと…」

 前の世界の記憶があるのかと思って焦ったが、違ったようだ。無駄に驚いてしまった。

 変な反応を続けてしまったせいで、彼の顔に不信感が浮かんできている。まずい、早く次の言葉を。そうだ、サークルに入らなければ。

「あのさ、立花くんって、神社仏閣サークルを作ったんだよね?」

「え、うん、そうだよ」

 彼が顔をあげてくれたおかげで、また目が合った。

「なんで知ってるの?」

「ちょっと噂を耳にして」

 また見切り発車ぎみだが、なんとかごまかす。

「そんな噂になるほどか…?」

 不思議そうにつぶやく。ごめん! ほんとは全然無名のサークルです!

「それで、私も神社とかお寺に興味あるから入りたいなって思って」

「え? ほんとに?」

 彼が目を見開く。

「うん」

「マジか!」

 ぱあっと笑顔になる。

「めっちゃ嬉しい! それなら今日の五限の時間に、別棟の五〇三で活動やるからぜひ来てよ!」

「わかった」

 幸せそうな蓮くんの姿を見て、私も思わず口角が上がる。

「あ、名前、教えてくれる?」

「…夏樹遥香、です」

 また一から関係を築かなければいけないのは残念だが、これから時間をかけてやっていけばいい。

「夏樹さんね。よろしく。じゃあ今日待ってるね」

「お願いします」

 蓮くんがリュックのファスナーを閉めて移動しようとしている。

 ふと、馴染みの顔が思い浮かぶ。

「…あのさ」

「ん?」

 危うく忘れるところだった。

「もう一人連れて行ってもいい?」



    六月一九日(木)

 明正八幡宮の博物館から出ると、空に雲が出始めていた。こんな小さな違いでも新鮮に思えてワクワクと気持ちが昂ってくる。いる場所こそいつもと同じだが、私は今、経験したことのない新しい時間を生きている。

「これで終わりかな」

 結衣が満足そうなドヤ顔で見てくる。

「めぼしいところは大体回ったね」

 気にせず蓮くんに話しかける。

「まだ大事なことを忘れてるぞ」

 やっぱり山上くんが現れた。

「ああ、授与品ね」

「オタ活がんば」

 結衣が小さい声で言う。

「聞こえてるぞ」

 みんなの会話を聞きながら、さりげなく髪の毛先を触る。昨日久しぶりに美容院に行ったので、これまでよりは状態もいいはずだ。これからは結衣のように伸ばしてみてもいいかな、なんて思う。

「行くか」

「立花くん、一緒におみくじやらない?」

 髪から手を離し、社務所の方へ向かう蓮くんに近づく。

「いいよ」

 蓮くんと一緒に恋みくじを引いてみたい。彼はどんな結果を引くのだろうか。

 と、蓮くんが振り返る。山上くんが颯太とも話すように諭している。もう、余計なお世話だ。

「ごめん。聖司の言う通りだな。えと」

「私が遥香と一緒におみくじ引いてくるよ」

 蓮くんに代わって結衣がおみくじを引きに行くと言い出した。そう言えば前にも一緒におみくじを引いたことがあった。

「行こ」

 結衣に先立たれ歩き始める。

「遥香、ちょっときて」

「え?」

 蓮くんたちの声が聞こえなくなってから結衣が言った。そのままおみくじコーナーを通り過ぎ、社務所の脇に入って行く。その先には鬱蒼とした林が広がっている。

「ちょ結衣、どこ行くの」

 振り返った結衣が私の腕を掴む。そのままツカツカと林の中に踏み入って行く。せっかく綺麗にしたばかりの髪に、枝葉が容赦なく絡まろうとしてくる。

「ねえ! どうしたの?」

 林の中の、そこだけ木が生えていない広場に出ると、結衣が手を離した。外から見たときはこんな空間があるとは思わなかった。踏みしめた地面が柔らかい。初夏なので落ち葉は少ないが、土自体がふわふわしている。

「こんなとこ入っていいの?」

 結衣は黙ったまま私に背を向けている。その背中は私よりも小さいはずなのに、なぜだか威圧させられる。

「結衣!」

 イラっとして少し声を張ると、ついに結衣が振り返った…前に一度だけ見た、氷のような瞳で。

「遥香、あんた、なんなの?」

「え…?」

 周りの木々が音を立てて揺れる。

「蓮に近づいて、何がしたいの?」

「結衣、なにを…」

「もしかして、蓮に気があったりする?」

 息を呑む。背中をツーっと汗が伝う。結衣の目、いや、全身から放たれる明確な敵意に、どう言葉を返せばいいのかわからなくなる。

「その気がないなら蓮に思わせぶりな態度で接するの、やめてくれる?」

「……その気があったら?」

 結衣の目が一瞬見開かれ、すぐに細くなり私を睨みつける。背筋がゾクゾクしてくる。

「あんた馬鹿なの? 蓮があんたを好きになるわけないじゃん。まだ会って数日なんだよ?」

「…別にこれからも会う機会はあるし」

「チッ…」

 小さく舌打ちされる。胸が締めつけられる。恐れていた事態が起こってしまった…。

「…渡さない、あんたには絶対渡さない…」

 結衣がつぶやく。

「私も覚悟決めないと…」

 突風が私たちの間にある枯れ葉を浮き上がらせた。思わず目を細める。

「夏樹―‼ 花園―‼」

 結衣がはっとしたように声のした方を見る。

「どこだー‼」

 私も風が吹いていきた方向に目をやる。蓮くんが私たちを捜しているようだ。

「蓮は渡さないから」

 結衣を見ると、そう言い残して、もう林の出口へと歩き始めていた。

「蓮―。ここだよー」

 私も結衣に続き林を出る。

「は、ど、どこ行ってたんだよ。心配したぞ」

 蓮くんが結衣に駆け寄る。

「ごめん。遥香がこっち気になるって言うからついてってた」

 蓮くんが私の方に目を向ける。無理にでも笑ってみせる。

「そっちは森しかないぞ?」

「えと…」

結衣が言い淀む。

「お地蔵さんがあったの。立花くんたちも楽しそうにしてたから、二人でお祈りしに行ってた」

「そう! お地蔵さん!」

 助け船を出すと、結衣がすかさず飛び乗ってきた。

「え? ほ、」

「遥香!」

 蓮くんの後ろから颯太が駆けてきた。

「大丈夫だった?」

「お地蔵さん見に行ってただけだよ。心配かけちゃってごめんね」

 安心した颯太の顔が和らぐ。

「それはいい行いだな」

 山上くんが頷く。

「よかったよかった」

「いやでもお地蔵さんって…」

 まだ蓮くんは不信に思っているようだ。私もこの傷をこれ以上広げたくない。蓮くんが一瞬こちらに目をやった。

「ん、いや何でもない」

 なぜか蓮くんはそれ以上何も聞こうとはしなかった。私自身が思っているよりも、私が怖い顔をしていたのだろうか?

「よし、二人も見つかったことだしそろそろ帰ろうか」

 帰る流れになる。彼は山上くんたちと何か話しているようだが、私は一人物思いにふける。

「待って蓮」

 結衣が蓮くんの横につく。一瞬こちらを見てくる。牽制のつもりだろうか。

 夕日に照らされながら考える。

 蓮くんが生きていたらどうするつもりだった? それ以後も結衣に任せていくつもりじゃなかったのか? 神社仏閣サークルにだって入る必要はなかった。二週間のうちに颯太と遊んだり、他にも友達を作ったりして彼を忘れようとした。

だが実際に生き残った蓮くんを見ると、瞬時にすべての感情が舞い戻ってきてしまった。失われたと思っていた彼への想いは、私の心の奥底に確かに残っていて、眠っていただけだったのだ。

「これからもみんなでいろんな神社とお寺を回って行こう!」

 蓮くんが声を張る。

 そして今、私は結衣の恋敵になってしまった。私と蓮くんの命の恩人である結衣に。

 無意識にポケットに手をいれるが、これまでそこにあったはずのものがない。急に不安が募ってくる。

「夏樹?」

「あ、うん」

 蓮くんに名前を呼ばれ、慌てて笑ってみせる。

 結衣と対立したくない。

 だが、それで蓮くんを明け渡してしまっていいのか、と問う自分がいて、思わず歯ぎしりする。

 なんだよ。せっかく蓮くんが生きられたのに、結局私は迷ってばかりだ。

 蓮くんも、結衣も、山上くんも、そして颯太も。みんな暗い一面があったとしても、いい人たちなんだ。

 せっかく手に入れた明るい未来。もう誰も傷ついて欲しくない。

 まだ私の戦いは終わらない。そう確信した。

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