4章 断罪

    六月十五日(日)

 腕時計を見る。

十三時五十五分。もうすぐ十四時だ。

階段の方へ目をやる。まだ彼は降りてこない。

もう一度腕時計を確認する。十三時五十六分。

すぅー。はぁー。

先ほどから何度も深呼吸を繰り返している。なかなか収まらない動悸のせいだ。

天井の揺れと鈍い音で、ホームに電車が入ってきたのがわかる。この電車に乗っているだろうか。

もう一度、深呼吸をする。

今日彼と会うのは、彼を守るためだ。明正八幡宮からの帰り道、日曜に風雷(ふうらい)大社に連れて行ってほしいと頼んだら、快く『いいよ』と答えてくれた。風雷大社というのは、東京にある有名な神社だ。これで今日、彼と共に過ごすことができる。何者かによる監視や殺気など、迫りくる脅威から彼を遠ざけることができる。警察など人任せにはできない。私自身の力で立花くんを救わなければならない。

そんな最大限に気を張るべき状況のはずなのに、私の足元は安定しない。意識をそこに集中できない。緊張感はあるが、思っていたものとは何か違う。今一度深呼吸をしよう。

すぅー、

「ごめん、待った?」

「ゔぇ⁉」

 驚いて素っ頓狂な声を上げてしまう。

「あ、ごめん」

 立花くんが私の顔を覗こうとする。

「い、いや、大丈夫!」

 慌てて顔を背ける。恥ずかしさに頬が熱くなってくる。

 返事はない。恐る恐る立花くんの方を見ると、彼も目をそらしていた。と、彼の雰囲気がこれまでと異なっているのに気づく。

 いつもはTシャツだけなのが、今は白Tに黒の半袖シャツを羽織っている。サークルで会うときよりも、落ち着いた印象を受ける。かくいう私も、上京したときに買って、一度も着たことのなかったロングスカートを穿いている。前髪もいつもより丁寧に整えてきたつもりだ。

「じゃあ行く?」

「あ、うん」

言われて慌ててうなずく。

 揃って階段を上り、ホームへと上がる。見慣れた景色のはずなのに、なぜか新鮮さを覚える。

 タイミングよくやって来た電車に乗る。平日に比べると、ずいぶん空いている。座席もほとんどが空いていたので、二人並んで腰をおろす。

 ドアが閉まり、ゆっくりと電車が動き始める。その拍子に、立花くんの腕が私の肩に触れる。普段の通学のとき、隣に座っている人の体が当たっても気にならないのに、今はすごく彼との近さを感じる。

「…今日は風雷大社に行くんだよね?」

 走行音だけが聞こえる車内で、立花くんが言う。

「そ、そうですね」

「夏樹さんは行ったことない?」

「はい…私、独り立ちしてきたので」

 本当は会ってすぐ、『今日は来てくれてありがとう!』とでも言うべきだったのだろう。

「そっか…。俺は何度か行ったことあるから、案内は任せて」

「あ、ありがとうございます」

でも、そんな気の利いた一言をいおうにも、上手く言葉が出てこない。ガタンガタンという、電車がレールの繋ぎ目を走る音が、私を急かすように感じられる。

「…夏樹さん、いつもと話し方が違う?」

「え、いや」

 顔を上げかけて、またすぐ下を向く。鼓動が車両がガタンと揺れる頻度よりも早くなっている。はっきり言ってめちゃくちゃ緊張している! 立花くんたちとは、これまで神社仏閣サークルの活動で一緒に過ごしてきて、砕けた言葉で話せるようになってきたと思っていたのに、今はまた硬い物言いになってしまっている。

「き、気にしないでくださ…気にしないでいいよ!」

 緊張しているのを自覚して、その恥ずかしさから、またさらに緊張してしまう…。

「ふふっ」

 笑い声が聞こえて思わず横を見る。立花くんが笑みを浮かべている。

「あ、ごめん。夏樹さんの喋り方が面白くて」

「えっ」

 顔をそらす。バッグの持ち手を握る手に、汗がにじんでくるのがわかる。

「ごめん、違う。ありがとうってこと」

「え?」

 また彼の方に少しだけ顔を向ける。

「夏樹さん見てたら、逆に俺が落ち着いてきた」

「そ、そう?」

「うん。だからありがとう。…あれ、なんか俺、変なこと言っちゃってるな」

 立花くんが曖昧な笑みを浮かべる。

私だけではなく、彼も少しは緊張しているのかもしれない。それか私を元気づけようとしてくれているだけ? どちらにせよ、少しだけ心臓の音がゆっくりになった。

「もし夏樹さんが話したいことなければ、ちょっと先走って、風雷大社のことを話そうかな」

「あ、ありがとう。お願い」

 正直、何かを話す余裕がなかったので、立花くんの方から話し始めてくれるのはありがたい。

「おっけー。じゃあまずは、神社の歴史からかな」

 軽く腕を組んで話し始める。

「風雷大社は名前の通り、あの有名な風神様と雷神様を祀った神社なんだ。神社のある加美原(かみはら)地区は、ずっと昔から稲作が盛んだった」

 バレないように一息つく。恥ずかしさから猫背になっていたのを直す。

「でもあるとき急に嵐がやってきて、それ以降何日も太陽が出なかった。吹き荒れる雨風と収まらない落雷で、折角育てた稲は枯れ果てて、人々は飢えと恐怖に苦しむようになった」

 頭の中に、荒んだ土地の光景が思い浮かぶ。車両の向かいの窓から差し込んでくる日差しが、場違いに思える。

「人々は、この嵐は風神・雷神のお怒りによるものだと考え、二柱の神を祀る祠を立て、嵐が収まるよう祈った。すると嵐は止み、なんとか人々は生き延びることができたんだ。これが、風雷大社の始まり」

 ふーん、と相槌を打ちながら聞く。

「それから、悪天候が続いたときは天候の回復を祈り、逆に日照りが続いたときは雨乞いをするようにもなったんだ」

 立花くんが言葉を切る。私は素直に感想を述べる。

「昔から風神雷神は天候をつかさどる神様として、崇められて来たんだね」

「実は、そんなに単純な話でもないんだ」

「そうなの?」

 意外な話に、立花くんの方を見る。

「そもそも風神と雷神自体は、それぞれ別の神話から生まれた神様なんだ。ちゃんと起源を知ろうとしたら、『古事記』とか『日本書紀』の神話を調べないといけない。まあ本当は日本で生まれたんじゃなく、中国から伝わって来たんだけどね」

「難しいんだね」

 はた目から見たら聞き流しているように見えるかも知れないが、意外と内容は理解している。少しは立花くんの神社仏閣話のスピード感にも慣れてきたみたいだ。

 それからも彼が風雷大社の由緒について話してくれるのを聞いていた。部活外でこんなに立花くんと話すのは初めてだ。新鮮味を覚えつつ、胸の中が心地よい温かさで満ちていくのを感じていた。

    ~

『風雷大社前―。風雷大社前―』

 アナウンスにはっとする。

「お、降りないと!」

「え?」

 慌てて立ち上がり、電車を降りる。背後でドアが音を立てて閉まる。

「立花くん」

 振り返ると、彼が目の前に立っていた。

「席に忘れてたよ」

右手を差し出している。手のひらには『必勝祈願』と書いたお守りが乗っていた。

「え、ありがとう…」

 言ってからお守りに手を伸ばす。立花くんの手に触れる。ほんのり温かいと感じる暇もなく手を引っ込める。

「大切なものなら、ちゃんとしまっておきな」

「…そうだね」

 ことあるごとに触ってしまうため、ポケットの浅いところに入れておいたのが良くなかったようだ。しっかりと奥まで突っ込んでから、一度強くにぎる。

 ポケットから手を出して、笑いかける。

「行こ。立花くん」

 連れ立って歩き出す。

「てか、降りるの忘れててごめん。すっかり話すのに夢中になっちゃった」

 階段を上りながら謝罪の言葉を口にされる。

「いいよ。私も聞いてて楽しかったし」

「ほんと?」

「うん」

 改札を抜け、風雷大社方面の出口へ向かう。日曜だからか、思ったよりも人が多い。

 出口をでるとすぐ、右手に大きな白い鳥居が現れた。

「おお…すごいね」

「明正八幡宮よりもさらに大きいからな」

 鳥居の前では、多くの観光客が写真撮影をしている。外国人も多い。そんな楽しそうに写真を撮る人たちを見ていると、自然と言葉が口をついた。

「私たちも写真、撮る?」

「え、うん。撮ろうか」

 二人で鳥居の斜め前に立つ。立花くんが、鳥居全体がしっかり入る画角を探してくれている。

「鳥居も神社も、正面からは撮っちゃダメなんだ。真ん中は神様の通り道だからね」

 堂々と鳥居の正面で記念撮影をしている外国人観光客を画面越しに見ながら、彼が言う。

「こんな感じでどう?」

「い、いい感じ」

 また早まってきた心音を隠すように笑ってみるものの、頬が引きつって不自然になっているのを自覚する。

「はい、チーズ」

 カシャ、と拍子抜けしたシャッター音が鳴る。

「ありがとう」

「こんな感じ」

 立花くんがスマホ画面を見せてくる。…って、私、変な顔!

「あとでラインに送っておくね」

「う、うん」

 ほんとはもう見たくはないが、でも、立花くんだけに見られる方がもっと恥ずかしい。

「行くよ?」

「あ、うん」

 立花くんに言われて、慌てて顔を上げる。

 前で一礼してから鳥居をくぐる。太い参道がずっと続いている。

 皆なんとなく左側通行で歩いているようだ。私たちもそれに倣い、左側の石畳の上を歩いて行く。

左右には深い森が広がっている。見上げると、太い枝が青空にまで張り出してきている。

「ここの森の木々は、全部人の手で植えられたものなんだよ」

「そうなの? すごい」

「一本一本が緻密な計画の上に植えられていて、人の手を入れることなく、何十年も森が続いて行くようにできてるんだ」

 木々がこれだけ大きく成長するのに、どれだけの時間がかかったのだろうと思いを馳せる。…と、ふと思う。

「でも、出っ張ってる枝は切らないと、落ちてきて危なそうじゃない?」

「そこは流石に神社の人たちが上手くやってるでしょ。夏樹さん、面白いところに目をつけるね」

 余計なことを言ってしまったかもしれない。

すぅー。

「あっ」

 落ち着こうと深呼吸して気づく。

「空気がおいしい」

「だね」

 ここは自然が豊かだからなのだろう。とても都心の真ん中だとは思えない。

「夏樹さん、こっち見てみて」

立花くんに促されて横を見ると、森の中を小さな川が流れていた。川は私たちの足元の方へと流れている。

今、私たちは小さな橋の上にいると気づく。確かに、道がわずかに反っている。

「…なんか、東京とは思えない」

 川の縁にある苔むした岩を見ながら、改めて声に出す。駅の反対側の出口からは、カラフルな建物が見えていたのを思い返す。

「ね。心が落ち着くよね」

 再び歩きだす。しばらく行くと、立花くんが立ち止まった。

「こっちに風雷神社ミュージアムがあるんだ」

 右手にある脇道を指さす。

「明正八幡宮にあったやつみたいな?」

「あそこよりももっと大きい。全国から風神雷神にまつわるものが集められてるんだ」

「へえー」

 道の奥の方を覗くと、少し行ったところに建物らしきものが見える。

「あとで参拝が終わったら、見に行こう」

「わかった」

 さらに歩くと、また大きな鳥居が見えてきた。

「もう少しで社殿に着くよ」

「結構遠いね」

「社殿まで歩いても、この森の半分ぐらいなんだけどね」

「えっ」

 左右の森に目をやる。見えている限り、ずっと奥まで木々が生い茂っている。昨日家で見た風雷大社のマップを思い出す。

「地図で見て広いなとは思ってたけど、実際に歩くともっと広く感じるね」

「だよな。俺も初めて来たときはビックリしたよ」

 周りに人が多いためあまり気にしていなかったが、耳を澄ますと鳥のさえずりや虫の鳴き声が聞こえてくる。この森が都会から浮いているのではなく、こんな深い森に、こんなにラフな服装で入っている私たちの方が、場違いなものに感じられる。

自然の気迫に押されていると、再び鳥居が現れた。これまでとは違い、その奥には門や、黒い屋根の建物が見える。

「あれが社殿だよ」

自然と足早になる。

「夏樹さん、こっち」

 呼ばれて振り返ると、立花くんの後ろに手水舎があった。

「手水舎は本殿の外にあるんだね」

 彼に近づきながら言う。

「正確には社殿の外だ」

「…えっと、本殿と何が違うの?」

「えーと、詳しくは中で話した方がいいかな。とりあえず、この門のから先は聖域だから、くぐる前に身体を清めないと」

 二人で並んで手から清めていく。山上くんが颯太に教えているのを、もう四回も見ているので慣れたものだ。

 柄杓を元に戻し、ハンカチで手を拭いてから参道に戻る。

「じゃあ入ろう」

 立花くんと並んで敷居を越える。今更だが、こういう敷居を踏むとよくないことぐらいは知っている。

「わあ…」

 門をくぐった先には広場があり、正面には本殿がどんと構える。その手前、参道の両脇には大きな木が二本生えており、神聖な雰囲気を醸し出している。写真を撮っている参拝者を横目に広場の中央まで歩くと、そこから左右に道が伸びており、その先には門とさらなる石畳が続いている。

「一応日本の中でもかなり立派な神社の一つだからね」

 立花くんが、私の呆気に取られている表情を見て補足してくれる。

「すごいんだね」

 言いながら、自分の語彙力のなさを少し残念に思う。

「さっきの話だけど、」

 本殿に向かいながら立花くんが言う。

「目の前に見えるのが拝殿。参拝者が祈りを捧げるところ。普通はその奥に神主さんや巫女さんが入って神様にお供え物をする幣殿(へいでん)や、祝詞を捧げる祝詞殿(のりとでん)がある。で、そのさらに奥に、神様がいらっしゃる本殿がある」

「じゃあここからは見えないだけで、奥にまだまだ建物があるんだ」

「そう。そのほかの建物も全部合わせると、社殿だ」

「知らなかった…」

 まだまだ自分は無知だと感じる。立花くんの話についていくには、もっと神社仏閣についての知識を増やさなければ。

 拝殿の前には参拝客の列ができていた。その後ろに並ぶ。からんからん、とお賽銭が入れられる音が聞こえてくる。

「ね、立花くんはどんな願いごとするの?」

 ふと尋ねてみる。

「そりゃ、日々の健康に対する感謝でしょ」

「え、偉い」

 呆気に取られて立花くんの横顔を見つめる。願いごとではなく感謝とは。

「でもまあ、その後に願い事もするんだけどね」

「するんだね」

うっすら笑みを浮かべた立花くんと目が合い、私も自然と笑顔になる。。

「ちなみにどんなこと?」

続けて尋ねる。立花くんは前に向き直り、一瞬真顔になる。

「んー、ある人の幸せ、かな」

「え、誰?」

「うーん、秘密」

 立花くんがまたこちらに顔を向ける。

「そっか」

 前を向くと、私たちの参拝の番だった。

 お賽銭を入れて二礼二拍手。

私も、大切な人の幸せを祈る。すぐ隣にいる人の幸せを。

 参拝を終えて、石段を下りながら広場を見渡す。と、右手の木が目に留まる。

「あれ、この木、一本じゃなくて二本なんだ」

「そうだよ。この木は夫婦木って言って、縁結びや夫婦円満の象徴なんだ」

「そうなんだ」

 二本の幹はしっかりと離れているが、葉のほうは整えられているためか、道を挟んだ反対側の幹が一本の木と、ほぼ同じような形になっている。

「縁結び、か」

幹同士をつなぐしめ縄を見つめたあと、立花くんの方に目をやる。

「授与所のほうを見てみようか」

 と、立花くんが正面右手の門の方へ歩き出す。私も慌ててついて行く。

 途中、たくさんの木の板が飾られたものの前を通る。よく見ると、一枚一枚に文字や絵が描いてある。

「絵馬だ」

 吸い寄せられるように近づき、目に留まるものを読んでいく。

 受験合格しますように。内定をもらえますように。あの人と付き合えますように。健康なまま来年をむかえられますように…。

 それぞれ全然違った字体で書かれていて、中には英語のものや、見たことのない文字で書かれているものもある。

 みんな願いがあるんだ。そんな当たり前のことを心の中でつぶやく。

「絵馬って気になって読んじゃうよね」

 横にきた立花くんも流し見している。

「誰かのプライベートを覗いちゃってる気もするけど、結構面白いのがあったりするんだよな」

 確かに、あまり真剣な願いではなさそうなものや、とても上手いイラストが描かれたものなどもあり、見ていて飽きない。

「夏樹さんも絵馬、描きたい?」

 訊かれて横を向く。

「ええっと、さっきお願いしたばっかだし、いいかな。お金もかかるでしょ?」

 彼が頷く。

「わかった。夏樹さんは聖司みたいなタイプではなさそうだな」

 明正八幡宮でバッグをぱんぱんにしていた山上くんの姿を思い出す。思わず笑みがこぼれる。

「あれは買いすぎだよ」

 つられて立花くんも笑う。

 絵馬を見たあと、授与所を少し覗き、ミュージアムの方へと引き返した。

    ~

 ミュージアム内は静かで落ち着いた雰囲気で、展示品もしっかりとしたショーケースの中に入っていた。最初のエリアでは、風神雷神の伝承の解説や、それに関わる物品が展示してあった。

「風神雷神の説明は、さっき立花くんが話してくれた通りだね」

 ショーケースの中に置いてある江戸時代の資料を見ながら言う。

「ここで知った話も多いからね。付け足しで余談だけど、作物に被害をもたらす風と、人間の体調を崩させる風邪は、同じ妖怪のせいだと考えられえていたんだよ」

「え?」

 意外な話に顔を上げる。

「ああ。たしかに、漢字は違うのに読み方は一緒だ」

 納得したように頷いてみせる。

「だから、風神は神様でも妖怪でもあったわけだ」

「ふーん」

 神様は崇められる存在なのに、妖怪と言った途端、悪いものになった気がする。

「同じようなことが雷神にも言えるんだけど、」

「うん」

 展示品の横の解説文よりも、立花くんの話に聞き入ってしまう。

「平安時代に、菅原道真が不当に追放されたのは知ってるよね」

「えっと、昌泰(しょうたい)の変だよね?」

「そう。道真は藤原時平に失脚させられ、無念の最期を迎えたあと、悪霊になって京に戻って来たんだ」

「それで朝廷に雷を落とした。…そっか、それが雷神なんだ」

「そう言うこと。もちろん、他にも諸説あるけどね」

 相槌を打ちながら、彼の話に耳を傾ける。

ふと、周りにいるお客さんがこちらを不思議そうに眺めているのに気づく。きっと風神雷神について熱く語る立花くんと、それに真剣に聴き入っている私のことが気になっているのだろう。

よく考えると、普通の女子はこんな話をされてもつまらないのではないだろうか。私は日本史が好きだからか、彼の話を楽しめる。無論、日本史好きの中にも色々タイプがいるが、私は神社やお寺への興味があって良かったと思う。ただ話しているのが立花くんで無かったとしたら、今ほど興味が湧かなかったかもしれない、とも思う。

「そう考えると、神様って私たちにとって常にいい存在でもないんだね」

 展示室の奥に置いてある、風神雷神の描かれた屏風を見ながら言う。絵の中の風神雷神が、怖い顔で見つめ返してくる。

「邪神って言葉もあるくらいだからね。でも、そういう神様でも一概に悪いとは言えないんだ」

「そう?」

「例えばこの風神雷神も、嵐をもたらすという点では人間にとって悪い神だけど、干ばつのときに雨をもたらしてくれる、いい神様でもあるわけだ」

「ああ」

「善い神様と悪い神様は、まさに、かみ一重だ」

「へえー」

 流しかけてから、ここは笑うところだったと気づく。

「あ、ごめ、」

「い、今のは忘れて」

 恥ずかしいのか、立花くんはそっぽを向く。それを見て私もひそかにクスッと笑う。もう一度絵に目を戻すと、風神雷神の目つきが少しだけ優しくなった気がした。

    ~

 ミュージアムから出ると、外は先ほどよりもだいぶ暗くなっていた。腕時計を見ると、まだ十七時前だった。見上げると、空はまだかなり明るい。

「なんか、ここだけ暗いね」

 目の前の木々は黒々としているのに、その上の空は明るくて変な感じだ。

「ここは高い木が多いから、日陰が広くなりやすいんだよ」

 立花くんに言われて納得する。確かに木々の隙間から、うっすら陽の光が差し込んでいる。

「ちょっと行ったところにカフェがあるから、そこで少し休憩しない?」

「いいよ」

 てっきり風雷大社から出るのかと思ったが、立花くんは参道に出てすぐ、また別の脇道に入った。

少し行くと二階建ての建物が見えてきた。一階部分には建物の反対側へと抜ける太い通路があり、置いてあるベンチで参拝客が談笑している。

「こっち」

 彼に続き通路の右手の両開き扉から入ると、木目のタイルが敷かれた広間に出た。手前に何組かの机と椅子、奥にカウンターテーブルがあり、多くの人の声と、コーヒーの香りが漂ってくる。

「ここでいい?」

 言いながら、立花くんがショルダーバッグを窓側の席におく。

「う、うん。ありがとう…」

 あまりこういう雰囲気のお店には来ないので、なんだかそわそわしてしまう。

「夏樹さんはなんにする?」

「えっと…」

カウンターの前に、メニュー表が立ててあった。コーヒー、カフェラテ、抹茶ラテ、紅茶…など、あまり普段は飲まないドリンク名が並ぶ。…ここは無難なものを選んだ方がいいだろう。

「コーヒーにしようかな」

「おっけ。俺はココアにしよ」

 そう言って二人でカウンターの前の列に並ぶ。

 コーヒーを受け取って、席に戻る。

「…どう? 風雷大社」

「え?」

 ミルクと砂糖を入れるため、落としていた視線を上げる。立花くんが見つめてくる。

「いいとこだよな」

「あ、うん、そうだね」

 対面の席のため、ずっと彼と目が合い続けてしまう。その状況に緊張して、自然と視線がそれがちにる。黙ったまま、マドラーでコーヒーをかき混ぜる。

「こういうとこでなんか飲むの久しぶりだな」

 言いながら立花くんはコップを持ち上げる。

「うん。おいし」

 立花くんがココアを口にするのを上目に見ながら、私もコーヒーを一口飲む。淡い苦みと熱が、口の中に広がっていく。

「王道すぎてサークルで来たことなかったけど、来てみてもいいかもな」

「颯太も来たことないと思うから、いいかもしれないね」

「聖司のハイレベルな説明も聞けるしな」

 五人で参道を歩く光景を思い浮かべる。私は颯太とばかり喋って、立花くんの隣には笑顔の結衣がいる…。

「…でも、私は二人で来れて良かった」

「え」

 目の前の立花くんが、一瞬驚いたように目を見開く。

「あ、いや、えっと…」

 な、何を言っているんだ! 立花くんと結衣が楽しそうにしているのを想像していたら、自然と口から出てしまった!

「…夏樹さんが楽しんでくれてたなら良かった」

「あ、うん、楽しいよ」

 彼の顔をチラ見する。さっきよりも少し頬が赤い…気がする。…私はもっと赤いだろうが。

「そ、そういえばさ、夏樹さんは基礎のレポート、もうやった?」

「え、うん」

 突然の話題転換に頷くことしかできない。

「あ、ごめん。神社の話ばっかじゃ飽きちゃうかなと思って」

「ああ、別に大丈夫だよ」

 お互いに黙る。周りの席の話し声が、やけに大きく聞こえる。

「…っと、もう出したよ。金曜日に締め切りだったよね」

「そう。俺はちょうど明正八幡宮に行ったとこだったから、それについて書いたよ」

「あー、その手があったか」

「まあ、ほぼ夏樹さんたちが説明してくれたことの受け売りなんだけどね」

「何それずるい」

「今日風雷大社案内して、借りを返したってことで」

 立花くんがいたずらっぽく笑う。

「山上くんたちにも許してもらってね」

 私も声に笑みを含ませて言い返す。もとはといえば私も、結衣や山上くんの受け売り情報を話しただけなのだが。

 それからは大学のことや、好きなアニメの話をして過ごした。立花くんと私は結構趣味が合い、同じアニメを見ていたりしたので、会話は自然と盛り上がった。とはいえ、最近はあまりアニメを見ていない。毎週のアニメも、決まった数話しか見れないからだ。

同じ期間を繰り返していると、だんだん生活に新鮮味がなくなっていく。ニュースは毎朝同じ事件を取り上げる。雨は決まった日にだけ降る。大学の授業はつまらないもので、立花くんを救ったあとの単位取得に困らないよう、一応毎日出席だけはしてきたが、今では寝たり考え事をしたりする時間になってしまっている。気を悪くした先生に突然当てられても、ちゃんと答えることができてしまうので、完全に変な人になってしまっている。

そんな毎日の中だからこそ、こうして初めての経験をできるのは嬉しい。立花くんともっと別の所へ行ってみたい、他のことをしてみたい、いろんな初めてを経験してみたい、そう思ってしまう。

でも…。

「…夏樹さん?」

「あ、え?」

 立花くんが私の顔を覗き込んでいる。彼の顔は、先ほどよりも火照って見える。

「ごめん。俺ばっか話し過ぎちゃった。アニメ考察の話になると、止まらなくなっちゃうんだよね」

 申し訳なさそうにココアを一飲みする。

「いや、面白かったよ」

 笑顔を作って、残り少なくなったコーヒーのカップから視線を上げる。

「そうか」

 立花くんは目を合わせてくれない。気を悪くしてしまったかもしれない…。

「た、たち…」

 ピンポンパンポーン。

 突然チャイムの音がカフェ内に響き渡った。

『閉園時間、十五分前になりました。ご参拝にお越しの方は、お早めにお帰りください』

「あっ、もう出ないといけないのか」

「え、そうなの? …って、もうこんな時間」

 言いながら腕時計見ると、十八時を過ぎていた。

「話してると、あっという間に時間が過ぎちゃうな」

 そう言いながら立花くんがココアを飲み切る。

「ほんとだね」

 私もカップを飲み干す。すっかりぬるくなったコーヒーのほのかな苦みが、口の中に残る。

 二人で店を出る。参道ではたくさんの人が駅の方向へ歩いていた。私たちもその中に混ざる。

「まだこんなに人がいたんだ」

「ここは広いし、カフェみたいに社殿以外にもいろんな建物があるからね」

「すごい神社だね…」

 参道はカフェに入る前よりも、さらに暗くなっていた。この暗さで森の中に入りでもしたら、流石に気味が悪いだろう。

 話しながらまた鳥居をくぐる。横の厚い木々の葉がなくなると、途端に六月本来の西日が差してくる。まだ日没までには時間がありそうだ。

どうしよう…。

 駅のホームは風雷大社帰りの人が多いからか、来たときよりも混雑していた。やってきた電車に乗り込む。行きと違って座ることができず、二人で並んで吊り革を掴む。

「今日は久しぶりに風雷大社に来れてよかったよ」

「私も」

 ガタンガタンと電車は走って行く。

「ほんとはもうちょっと他のところも周りたかったんだけどなあ」

「そうなの?」

「うん。自然を活かしたきれいな庭園があったり、寝そべれるくらいの広い原っぱがあったりする」

「へえー」

 車窓を、一番上まで見えないような高いビルや、早くもネオンを点けた看板が通り過ぎていく。

「でも、夏樹さんと話すのに夢中になっちゃって、いつの間にか閉園時間だったな」

「ごめん。もう少し早く来ればよかったかな…」

「いや、夏樹さんは悪くないよ。俺も閉園時間がきっちり決まってるなんて知らなかったから」

「そうだったの?」

「こんな日が暮れてくるくらいまでいたことなかったからさ。初めてだよ」

「そっか」

どうしよう…。

 駅で停車し、立花くんの目の前の男性が降りていく。

「座る?」

 立花くんが目で促してくる。座るなら二人で座りたいので、首を振って答える。

「どうぞ」

 と、私の前に座っていたおばさんが横の席へずれてくれた。

「あ、ありがとうございます」

 軽く頭を下げてから、揃って座る。しばらく他愛のない会話をして過ごした。

どうしよう…。

    ~

「夏樹さんは他にも行ってみたい神社とか、ある?」

「え?」

 繁華街エリアを抜け、車窓を落ち着いた街並みが流れるようになったタイミングで、立花くんが尋ねてきた。

「…別に神社とお寺じゃなくてもいいんだけどさ」

「えっ…と」

 突然のことで、頭が思うように働かない。

「…別に無理に言わなくてもいいよ」

「あっ、ちが、」

 立花くんとならどこでもいい。気恥ずかしくて、その一言が口に出せない。

「ど、どこでもいいよ。私、上京してきてから大学以外の場所、あんまり行ってないし」

 自分で言って思い出す。私はもともとアウトドア派ではないが、せっかく東京に住むのだから、いろんな場所に行ってみたい、そう思っていた。しかし、その夢はまだ叶っていない。大学一年生の夏休みすら、まだ迎えることができていない。

「そ、そっか」

 立花くんは私から視線をそらし、向かい側の窓の方を見る。

「…じゃあ、またどっか案内するよ。俺は一応、東京に住んでそろそろ十九年だし」

「お願い…ね」

 大学生活最初の夏休みは、立花くんと過ごしたい。そう思うと、胸がキリリと痛む。

「あ、もう布平か…今日はありがとね」

 でもこの胸の痛みが、私の本来すべきことを思い出させてくれた。私が、どうにかするしかないと。

 ポケットの深くまで手を突っ込み、ギュッと握り込む。

「あ、あのさ、」

「ん?」

「よかったら、この後ご飯食べない?」

 私が夏休みを立花くんと過ごすためには、彼に生きて今夜を越えてもらわなければならない。

「え、あ、いいよ」

 このまま彼が家に帰って、きっちり鍵を閉めるとしても、こんなに早く帰すのはやっぱり不安だ。私が立花くんばかりに気を取られてしまって気づいていないだけで、すぐそばに危険が迫ってきているかもしれない。

「降りなくていいの?」

「え?」

 発車ベルが鳴り、電車のドアが閉まる。どうやら今のが布平駅だったみたいだ。

「あ…西布平駅前のファミレスに行きたいんだよね」

 あわてて取り繕う。周辺の乗客に目を配っていてぼんやりしていた。

「でも布平駅の方が、大きいファミレスあった気がするよ?」

「…そうだっけか、でもせっかく立花くんと一緒だから、そっちに行きたいな」

「そっか。俺も最近行ってなかったし、ちょうどいいか」

 そうこうしている間に西布平駅に着く。今度こそ電車を降りる。

 駅を出ると、ファミレスは目の前だった。

 日曜の十九時台ということもあり、店内はかなり混んでいた。しかし、運よく店の奥の二人席に案内してもらえた。

「何食べよっかなー」

「ごめん、私お手洗いに行ってくる」

「わかった」

 立花くんがメニューを見ているうちに、店内のお客さんたちを見渡す。家族連れや、高校生グループらしき若者が大半だ。トイレに向かう途中でガラス越しに店の外も見てみたが、特に怪しい雰囲気の人はいない。無論、本当に危ない人が怪しい雰囲気だとは限らないのだが。

 急ぎめに席に戻ると、立花くんは相変わらずメニューを眺めていた。

「夏樹さんも見る?」

「うん」

 メニューを受け取る。

「立花くんは何にする?」

「俺はハンバーグかなー」

「そっか。じゃあ私もそうしようかな」

 正直、今は何を食べても味わえなさそうだ…。

 それからはまた立花くんと色々なことを話した。しかし、先ほどのカフェのときのようには話が盛り上がらなかった。カフェでは立花くんばかりに話をさせてしまったので、今度は私からも話をしてみたが、なんだかぎこちない感じになってしまった。ここにきて私のコミュニケーション能力不足が露呈してしまうとは。

 それでもなんとか話をつなぎ、気づくと時刻は二十一時を回っていた。流石にもうそろそろお開きにすべきだろう。立花くんも先ほどからスマホを見る回数が増え、私の話す颯太との思い出話にも、適当に相槌を打つばかりになってしまった。立花くんは今夜命を狙われていることを知らないから仕方ないが、必死に彼を助けようとしている私からすると、その能天気さに少しイラっとしてしまう。

「じゃあ、そろそろお会計にしようか」

「ん、そうだね」

 財布を取り出しながら考える。このあとどうしようか。

 もう立花くんを帰してしまって大丈夫だろうか。今日のうちに彼と離れてしまうことに抵抗を感じる…。なら、立花くんの家に…いやでもそれはさすがに!

「夏樹さん?」

「あ、ごめん。出よっか」

 いつの間にか、店内は割と空いていた。支払いを済ませて外に出る。

「おいしかったねー」

「そうだな」

 外はすっかり暗くなっていて、駅前にも関わらず人通りもまばらだ。

「じゃあ、立花くんの家まで送って行くよ」

「えっ? 別にいいよ」

 とりあえず立花くんを家まで無事に送り届けよう。そうすれば彼が帰り道で襲われる可能性は無くなる。

「てか、なんなら俺が夏樹さんを送って行こうか?」

「いや、私はいいの」

 立花くんが眉をひそめる。確かに、男性が女性を家まで送り届けるのが一般的だと思うので、私の言っていることはおかしく聞こえるだろう。でも、なんとかして私が彼を家まで安全に送らなければならない。

「立花くんの家がどんな感じか見てみたいし」

「でも…」

 相変わらず困った顔を向けてくる。

「それに…私、最近夜の散歩にハマってるんだよね。だから、夜に一人で外を出歩くのにも慣れてるんだ」

「そうなんだ…」

 立花くんは一瞬考えてから言った。

「じゃあお言葉に甘えるか。でも、帰りは気をつけてね?」

「わかってる」

 立花くんに付いて歩き始める。

「でも、こんな私を狙う人なんていないと思うけどね」

 狙われるなら、私みたいな暗い雰囲気の人間ではなく、もっとかわいい女の子だろう。

「そんなことないよ。夏樹さんだって、可愛い女子なんだから」

「えっ」

 驚いて立花くんを見上げる。彼の横顔は、暗いせいではっきりとは見えない。

 立花くん、今、私にかわいいって言った? へ?

 地面のコンクリートを見つめて、しばらくぶりに大きくなっている胸の鼓動を感じる。

「でも、夏樹さんって優しいよね」

「え?」

 再び顔を上げる。

「神社仏閣の話を真面目に聞いてくれるし、さっきのカフェでも俺のアニメオタク話をずっと聞いてくれたし」

 ゆるい上り坂に差し掛かる。彼は坂の上の方を見つめたまま、話し続ける。

「でも、流石に幻滅されちゃったかなと思ったら、夕食のときはそっちから色々話してくれるし。今も俺について来てくれてるってことは、俺と一緒にいてもそんなにつまんなくないってことなのかな」

 横目でチラッと私の方をうかがった。

「う、うん。つまんなくない。楽しいよ」

「…ありがとう」

 確かに立花くんと一緒にいたいという思いは、ある。ただ、今一緒にいることについては、立花くんを守るためという理由の方が大きいだろう。

 坂を上り切り、一度後ろを振り返ってみる。私たち以外には、誰も上ってくる人はいないようだった。そのまま住宅街に入る。ほの暗い電灯が道を照らすだけで、私たち以外に人気はない。もしかしたら、この道で…。

「もうすぐ着くよ」

「え…ああ…」

「大丈夫?」

「え…なんで?」

「いや、なんか息上がってるから。もしかして運動不足? さっきの坂で疲れちゃった?」

 立花くんに言われて初めて気づく。確かに呼吸がかなり早くなっていた。緊張のせいだろう。もしここで刃物を持った大男にでも襲われたとしたら、私一人で立花くんを守り切れるだろうか…。

「大丈夫…。それより早く帰ろ」

「あ、うん」

 少し歩みを早める。立花くんも私に合わせて早足になる。もう今更不審がられても仕方がない。いち早く安全な場所に彼を連れて行きたい。

「あ、夏樹さん」

 呼ばれて振り返る。立花くんが私より少し後ろで立ち止まっていた。

「なに?」

「ここ家」

 戻って立花くんの示す先を見ると、三階建てくらいの大きい建物があった。

「結構大きいんだね」

「そう? 夏樹さんの家は違うのか」

「うん」

 私の住むアパートをは普通のアパートだ。この建物はそれに比べると、いくらかお洒落な外観をしている。

「私のアパートよりも高級そう」

 言いながら敷地に入る。建物の入口までつづく道は、照明が明るく照らしだしてくれていて、いくらか安堵する。

「そんなことないと思うよ」

「ほんと?」

「うん。このアパートに住んでる人って、全員大学生だから」

「あ、そういう感じのか」

 大学生の一人暮らし向けの物件なら、それほど家賃も高くないのだろう。お洒落な見た目なのも納得できる。私も家を探すとき、こんな感じの学生向け物件を親に勧められたが、建物内に同じ大学の人がいたら、学校での人間関係のトラブルを引きずってしまいそうなのでやめておいた。今住んでいるアパートには、他にも大学生が二人ほど住んでいるが、話したこともないし、おそらく別の大学の人だ。

 私は入口の前で立ち止まる。中にはオートロック式のガラス扉が備わっていた。これなら、この建物内に入れば安全だろう。

「送ってくれてありがと」

立花くんも私の隣で足を止める。

「全然いいよ。こんなお洒落なアパートが見れてよかった。私も住みたくなっちゃった」

「なら、来年の春にでも引っ越して来ればいいじゃん。俺が紹介してあげるよ」

「え、いいの?」

 思わず立花くんの方を見る。

サークル終わり、今日みたいに一緒に坂を上って、他愛もない話をしながら帰って来る。そのままどちらかの家でアニメ鑑賞会なんかしちゃったり、なんて。

「おーい、夏樹さーん」

「え、あ、ごめん」

 立花くんに呼ばれて我に返る。

「やっぱ夏樹さんは面白いな」

「ええっ」

 恥ずかしさに顔が熱くなってくる。

立花くんは笑みを抑えてから言った。

「てか、夏樹さんって呼ぶのなんか堅苦しいから、夏樹って呼んでもいい?」

「え、うん…いいよ」

咄嗟に地面を見つめる。

 よ、呼び捨て⁉ 仲が深まったってことだよね⁉

「ありがとう。夏樹も俺のこと、立花って呼び捨てにしてくれていいから」

 緊張で顔を上げられない。耳まで熱くなってきたが、幸い暗いのでわかりづらいだろう。だけど名字呼びというのは…。

「ん…なんかそれは、変な感じ」

「え、そう?」

 立花くんが軽く訊き返してくる。胸のドキドキが抑えられない。でも、先ほどまでの嫌な緊張感とは違う。

「うん。だから…」

 身体の奥底から沸き上がってくる熱い感情に任せて、その言葉を口にする。

「…れっ…蓮くんって…呼んでもいい?」

「えっ」

 顔は上げられないが、立花くんが返答に詰まったのがわかる。地面を見つめている時間が、実際よりもずっと長く感じられた。

「…うん。い、いいよ」

「…ありがとう」

 少しの間、どちらも一言も発さなかった。だがその沈黙は不思議と苦しいものではなく、むしろ私は胸の中に広がる温もりを感じていて、火照った体を冷やそうとする六月の湿った風も、私の心の温度までは奪えなかった。

 しばらくしてから勇気を出して、目だけを彼の方に向ける。建物内からの光で、暗がりよりもその顔がはっきりと見えた。彼も目をそらしていたが、突然私の方を見て目が合った。あわてて私も視線をそらす。

「きょ、今日はありがとな! …夏樹!」

 彼がまごつきながら言う。

「い、いや、こちらこそありがとう! てか、風雷大社に連れてってて頼んだの私のほうだし!」

 緊張をごまかすためか、自然と声が大きくなってしまう。

「またどっか、二人で行こう!」

「うん! 必ず!」

「じゃ、じゃあな! 気をつけて帰れよ!」

そう言って彼は、ガラス戸に向かって歩き始める。

「わ、わかった! …蓮くん」

 彼はオートロックを開け、一度振り返ってこちらに手を振ると、そのまま廊下の奥へと進んでいく。私の最後の言葉は彼の耳に届いただろうか…。

無意識に、その背を目で追い続けてしまった。

「またね…」

 彼が見えなくなっても、相変わらず鼓動は速いままだった。

先ほどの彼の顔を思い出す。建物からの明かりで照らし出された、困ったような、それでいて少し嬉しそうな顔…。

「蓮くん、って呼んじゃった…」

 なんだか胸の奥がキュッとして、思わず両手で抑える。

今日の蓮くんのことを思い返す。待ち合わせに来たときの、普段と雰囲気の違う蓮くん。行きの電車の中で、私の緊張をほぐしてくれた蓮くん。風雷大社で、私の知らないことをたくさん教えてくれた蓮くん。カフェで好きなことについて、楽しそうに話す蓮くん。私に付き合って夕食を食べてくれた蓮くん。同じアパートに住もうと言ってくれた蓮くん。私に『蓮くん』と呼ばれ、照れくさそうにしていた蓮くん。

「ああ…」

 そこまで想いを馳せて気づく。

「私…蓮くんのことが…」

 それを口に出すのがなんだか恥ずかしくて、言葉を飲み込む代わりに、はあっと熱い息を吐く。

すぅー。はぁー。

すぅー。はぁー。

 何度か深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。しばらくすると胸の高鳴りも収まってきた。

顔を上げて辺りを見回す。周りには相変わらず人気はない。

「これで、大丈夫…」

 蓮くんはこの頑丈なガラス扉の向こうにいる。もし誰かがこのガラスを破ろうとすれば、住人や管理人がすぐに気づくだろう。

 念のため建物の周囲の道も歩いてみる。他の家が接しており一周は難しかったが、見えた限りで怪しいものや人はいなかった。

「大丈夫、だよね…」

 腕時計を見ると、二十二時過ぎだった。これ以上ここにいると、蓮くんの言うように私の方が危ないかもしれない。もう一度アパートを眺めてから、来た道を引き返す。

 帰り道でも、怪しい人がいないか常に気を配った。しかし、暗く感じていた住宅街の道は、来たときよりも明るく感じられ、それほど危険とも思えなかった。あのときは気持ちが張り詰めていて、本来よりも暗く感じてしまっていたのだろう。第一、遅い時間に帰ることのある大学生が多く住むアパートまでの道が、薄暗く危険なわけないだろう。

 そのまま住宅地を抜けて坂を下り、駅を目指す。ここまで誰ともすれ違わなかった。

 駅前の道に出ると、流石にちらほら人が歩いていた。仕事帰りと思しきスーツ姿や、帰宅途中の若者など、特に変わった雰囲気の人はいない。

 駅の入り口の側まで来て、ふーっと胸を撫でおろす。もう大丈夫だろう。そんな安堵感が込み上げてくる。

明日のお昼、ラウンジで颯太といつものように昼食を食べる。そのあとの日本史の授業で、蓮くんが遅刻ギリギリで私の隣に座ってくる。放課後はサークルでみんなと楽しく過ごす。それで、終わり。

と、道路沿いの木々がガサガサと音を立てた。

「さむっ…」

冷たい風に思わず体が震える。六月だというのに、やけに肌寒く感じる。

「ほんとに、大丈夫…?」

小さくつぶやく。腹の底から暗いものが這い上がってくる気がした。

 今日蓮くんが死ななかったとして、これから先も彼が安全な保障はどこにある? 蓮くんを殺そうとしている人間は、後日改めて襲い直そうと考えるだけではないだろうか?

 ブルっと身震いする。もう風は吹いていないのに、全身の鳥肌が収まらない。

「…つまり、まだ何も解決してないってこと…?」

 自分で口に出して戦慄する。まだ、何も終わっていない…。私はこれからもずっと蓮くんの周囲を警戒し、正体不明の殺意から彼を守り続けなければならない。

「うっ…」

 思わずその場にしゃがみ込む。また心拍数が上がっている。今度はそれに加え、背中を伝う冷や汗も感じる。

「これから…どうしよう…」

 過去に戻れるわけでもないので、白い世界で傍観者にヒントをもらうこともできない…いや、祈れば応えてくれるかもしれない。

「傍観者さん、助けて」

 両手を組んで、目を固くつむり、強く願う。

 お願い! 助けて! これからどうすればいいの⁉ 蓮くんがしばらくは安全かどうか、それだけでも教えて!

 まぶたの裏にいつものような白い光は現れない。目を開けてみると、変わらず駅前の光景が目に入る。駅から出てきたサラリーマンがうずくまる私に気づき、不審そうな目を向けてくる。しかし、私と目が合うとすぐに視線をそらし、私を避けて歩いて行ってしまった。多分、酔っ払いか、関わらない方がいい人だとでも思われたのだろう。

「ダメ…か」

 ふと、以前の傍観者の態度を思い出す。犯人の正体を知っているというのに、頑なにその人物を教えてはくれなかった。

 視界の端にベンチがあるのが目に入る。同時に、自分が歩道の真ん中にうずくまっていたことに気づく。スカートをはたきながら立ち上がり、ベンチの方へ移動する。

「はあ…」

ため息をつきながら腰掛ける。

「不幸ばかりに目を向けて、身の回りの幸福には気づかない、か」

 犯人へのヒントが隠されているかもしれないと考え、毎晩反芻していた言葉だ。この言葉で傍観者が伝えたかったことは、今のような困った状況で傍観者が助けてくれないのを嘆くのではなく、そもそも過去へ戻るという世界の法則を破る機会を設けてくれたことに感謝しろ、そういうことなんじゃないかと思う。

「それに、蓮くんも生きてる」

 とりあえず今のところ、蓮くんは生きている。これまでにない大きな進歩だ。立花蓮くんが生きて六月十五日を越える、今はそれでいいじゃないか。この先のことはまた考えよう。

「…疲れた」

 背もたれに体を預ける。今日はお昼からずっと緊張しっぱなしだった。流石に心身に疲労が積もっている。

 駅前の時計を見ると、もう二十三時だった。終電までに帰らなければ。疲れて回らなくなった頭で思う。

「…蓮くん、まだ起きてるかな」

 スマホを出してラインを開き、彼とのやりとりを見る。私が、日曜の十四時に布平駅で集合しよう、と伝えた履歴が残っている。

 右上の電話アイコンへ指が伸びる。なぜだか無性に蓮くんの声が聴きたい。そうすれば安心して家へ帰れる。こんな時間にかけたら迷惑かも、そんな考えが浮かんだときには、もうアイコンをタップしていた。

 スマホを耳に近づけ、呼び出し音を聞く。

「…って、私!」

 途端に我に返る。蓮くんに初めての電話! しかもさっき家の前であんなことがあったばっかりなのに! てか、蓮くんが出たらなんて言おう…。

 私がそんなことを思っている間にも、呼び出し音は続いていた。

 なかなか出ないな…。そう思ったとき、スマホがピロンと鳴った。画面を見てみると、『応答なし』の文字が浮かんでいた。

「もう、寝ちゃったのかな…」

 そうつぶやきながらも、背筋に嫌な感覚が走るのを感じた。

「…もう一度」

 改めて電話のアイコンをタップする。

 無機質な呼び出し音が鳴り続ける。応答はない。

 体の中でまた暗いものが渦巻き始める。一コールごとに、胸の中のそれが少しずつ大きくなっていく。

 ピロン。

 スマホの画面に、また『応答なし』の文字が浮かぶ。

「ん…」

 黙ってもう一度アイコンをタップする。

 きっともう、眠ってしまったのだ。十一時に、着信音を三度鳴らしても起きないくらい熟睡している大学生はあまりいなと思うが、今日は私に風雷大社の説明をしてくれたりして、疲れていたのだろう。そうだ、お風呂に入っているのかもしれない。それなら電話の音に気づかなくてもおかしくないし、気づいたとしてもなかなか出れないだろう。…これだけかけているのだから出てほしいところだが。

 ピロン。

 もう一度アイコンをタップする。

 蓮くんが寝てるなり、お風呂に入っているなりで電話に出れないのだろう、ということを頭でわかってはいる。今これ以上電話をかけても、彼のラインの通知を増やすだけだということもわかっている。

 ピロン。

 でも、今どうしても、どうしても今、蓮くんの声が聴きたい。そうしないと、私の中で広がるこの不安に、歯止めをかけることができない。

 ピロン。

スマホに近づけているはずの耳から、ドクドクと心臓の鼓動だけが聞こえてくる。自分の荒い息遣いも耳に響く。

 ピロン。

「蓮くん…」

私はベンチから立ち、先ほど歩いて来た道を戻り始める。もう居ても立ってもいられない。蓮くんのぽわんとした顔を見て、私を安心させてくれるその声を聞くまでは、この鼓動を抑えられない。

 いつの間にか早足に、坂を上る頃には小走りになっていた。折角穿いたロングスカートも、今は邪魔で仕方がない。

「はあ…はあ…」

 坂を上りきる頃には、完全に息が上がっていた。

 だが、今は足を止めている場合ではない。早歩きで住宅街の道を急ぐ。

 道中、唐突に右側から風が吹いてきた。

 先ほどの突風のように冷たくはなく、生暖かい風だったが、なぜか風の吹いて来た方向に自然と目が向く。

「あれ…?」

 今まで気にも留めていなかったが、そこには細い路地があった。

 私がいる道と違って電灯もほとんどなく、入ってすぐにある電柱と、ずっと奥の二つにしか灯りが点いていない。道沿いの家々の窓が道路に面していないのか、住宅からの明かりも少ない。そのため二つの街灯の間には、しばらく暗い空間が続いているようだ。

 その道の先から、かすかに不思議な香りが漂って来ていた。

 これまでに嗅いだことのない、そのにおいがする路地から、なぜだか目が離せなかった。

早くあのアパートに行って、蓮くんに会いたい。

頭の中ではそう思っているのに、足が勝手に路地に向かって歩き出していた。

一歩踏み出すと、においが少し強くなった気がした。なんと形容していいかわからないが、あまりいい気のしないにおいだ。

電灯の下を過ぎると、一気に視界が暗くなる。予想通り、次の電灯まではだいぶ距離があった。夜に通るには危ない道だな、頭の隅でそんなことを想う。

「…何してんだろ」

 ふと我に返る。このにおいの正体は気になるが、蓮くんに会う方が優先だ。振り返って明るい通りに戻ろうとしたとき、何かが視界の端に止まった。

「ん?」

 暗い路地の奥、すぐ後ろに立つ電灯の明かりがギリギリ届くところに、何かが落ちていた。暗くてはっきりとは見えない。気になって近づいてみる。

「靴…?」

 それはスニーカーのような形をしていた。目もだんだん暗闇に慣れてきたのか、はっきりとそれが見えてきた。

「え?」

 それはスニーカーだった。だがスニーカーは、履かれていた。

「…」

 私は一瞬、それを理解できなかった。ポケットからスマホを取り出し、懐中電灯アイコンをタップしようとする。指が異常に震えていて、何度も画面をタップしてやっと懐中電灯が点いた。

「ああああああっ‼」

 私は思わず叫んでいた。

 靴からは、足が生えていた。いや違う。靴は、履かれていたのだから!

 スマホの明かりに照らし出された地面には、男がうつ伏せに倒れていた。

 しかも、男の周りの地面には赤黒い血溜まりが広がっていた。

 私は腰を抜かしていた。全身がガタガタと震える。自分の目に映っているものを信じられない。

 背中側からも出血しているのか、男の着ている黒いシャツも、赤黒く染まっていた。

 …黒いシャツ?

 足に力が入らないので四つん這いになる。満身の力を込めて、右腕を前に出す。腕に続いて足を動かす。

 …さっき靴を見つけたときから、なんとなく見覚えがある気がしていた。

 ゆっくりと、だが着実に男に近づいて行く。突如強烈な臭いがし、思わず顔を歪める。別に今初めて嗅いだわけじゃない、視覚からの情報を脳で処理するのに時間がかかり、今やっと嗅覚に対する反応が追いついたのだ。

 …背丈も私より少し高いくらいのようだ。

 足の横、続いて腰の横を通りすぎる。シャツの襟に軽くかかるぐらいの髪も、今ははっきりと見える。

 …やめろ。

男の顔は、私の這ってきた側と反対の方向を向いていた。男の右肩の下に腕を入れる。

 …やめろ。見るな。

 自分の心臓がこれまでにないくらい強く脈打っているのを感じる。

 …やめろ!

 右腕に力を込め、自分の方へと男の体を返す。

 …やめろ‼

「蓮くん」

 そのとき、世界の時間が止まった。

 永遠にこのままかと思った。

 永遠に、このままで良かった。

 でも、非情にもその世界を壊したのは、他ならぬ私自身の叫びだった。



「…ん」

 目を開けると、痛いほどの白色が視界に飛び込んできた。

「ここか…」

 どうやらいつの間にか傍観者の世界にいたらしい。体を起こして立ち上がる。

「あれ、でも私、なんで…」

 今までのことを思い返してみる。毎回蓮くんが死んでしまう日曜、彼に風雷大社に連れて行ってもらい、帰りに西布平のファミレスへ行き、彼を家まで送って行った。そこで『夏樹』、『蓮くん』と呼び合ったことを思い出す。その光景を思い返すと、自然と顔が熱くなってくる。

しかしその先を思い出そうとしても、頭の中にモヤがかかったようで思い出せない。

「大丈夫か。夏樹遥香」

 聞き覚えのある声が、どこからともなく響いてきた。

「あ、傍観者さん…。私、なんでここにいるんでしたっけ…?」

 蓮くんは無事に家に送り届けた。ならば蓮くんが帰り道で刺されることもないはずだ。

「覚えていないのか」

「すみません。私もなぜだかわからないんですけど、ここに来る直前の記憶がなくて…」

 しかし、私がまたここにいるということは、蓮くんはまた殺されてしまったのだろうか。どうして。

「でも多分、蓮くんは…救えなかったんですよね?」

「そうだ」

 傍観者は不愛想な声で言い放った。

「なんで…。私がしっかり家まで送ったはずなのに」

 ここに来るのを願ったときのことを必死に思い出そうとする。きっとまた颯太から『立花が死んだ』とでも伝えられたのだろう。だが今回は家の中で殺されたのだろうか。これまでのやり直しと異なる点は、犯人を突き止め、蓮くんを救う糸口に繋がるかもしれない。

「思い出したいか」

 先ほどとは違う場所から声が聞こえてきた。

「はい。今回は何かを変えられたと思うんです」

「解離性健忘」

「え?」

「脳が君の心を守るため、記憶を消したんだ」

「ど、どういうことですか?」

 唐突によくわからないことを言われ、思わず聞き返す。

「つまり、その記憶を思い出すと、君は気が狂ってしまうかもしれないということだ」

「え…」

 訳がわからない。何があったかはわからないが、蓮くんと別れたあと、なんらかの原因で、私の心に大きな負担がかかったようだ。

「傍観者さんは、何があったか知っているんですか」

「もちろんだ」

 そしてそれは、多分蓮くんの死と関係がある。

「教えてください」

 蓮くんを救うためには、思い出さなければいけないことだろう。

「そうだ。思い出さなければならない」

「えっ」

「それも我から聞くのではなく、君自身で」

 白い世界の奥の方へ目を凝らす。いくら見つめても、白色にムラはない。本当に奥行きがあるのかすらわからなくなってくる。

「…私の心が読めるんですか?」

「無論だ。時の流れに逆らうことができるくらいだからな」

 傍観者とは何者なのだろうか。一瞬考えてから首を振る。そんなことを考えても仕方がない。

「どうやったら思い出せますか?」

「自分の胸に訊け。胸の奥底に」

「え…」

「立花蓮は死んだ。そのことを理解した今なら、それを受け入れることができるだろう」

 何を言っているのかよくわからないが、座って目を閉じ、自分の記憶に集中してみる。

すぅー。はぁー。

 蓮くんのアパートの前で別れたときの映像を、頭の中で再生する。

『またどっか、二人で行こう!』

『うん! 必ず!』

『じゃ、じゃあな! 気をつけて帰れよ!』

『わ、わかった! …蓮くん』

 胸がドキドキしてくる。

『私…蓮くんのことが…』

 恥ずかしくて思い出したくない。でもきっと、思い出すべきはこの先だ。

 目をつむったまま、ぶんぶんと頭を振ってその先を再生する。

『大丈夫、だよね…』

 蓮くんのアパートの周りを一周してから帰路につく。怪しい人に出会うこともなく、駅前へ戻ってくる。

『さむっ…』

 突然冷たい風が吹いて来る。そして、蓮くんをまだ完全には救っていないことに気づく。

『…蓮くん、まだ起きてるかな』

 今はこれで十分。そう思い、なんとなく彼に電話をかけてみる。

 ピロン。

 しかし、電話に蓮くんが出ることはなかった。心配になった私は、来た道を戻り始める。

『あれ…?』

 道中、細い路地を見つける。こちら側と、ずっと奥の二つしか電灯がなく、間には深い闇が横たわる。

 心臓の鼓動が大きくなってくる。

「靴…?」

 スニーカーのようなものが落ちていた。気になって近づく。

 汗が背中を伝う。奥歯がガチガチと鳴っていた。

『…』

 そして、私は見つけた。見つけてしまった。

「ああっ!」

 思わず目を開く。目の前には相変わらず白い世界が広がっていて、少し安心する。

 いつの間にか全身汗だくになっていた。しかし、不思議とあまり不快には感じない。

「うっ…」

 この先を見たくない。でも、思い出さなければならない。

すぅー。はぁー。

 もう一度深く深呼吸をし、覚悟を決めて目をつむる。

 スマホの明かりに照らし出された地面には、男がうつ伏せに倒れていた。男の周りには血溜まりが広がる。

 私はその男にゆっくりと近づいて行く。見覚えのある靴とシャツ…私より少し高いくらいの背丈…。私は男の右肩に腕を入れ、その体を引っくり返した。

「ああああっ‼」

 記憶の中の私と一緒に、私は叫び声を上げていた。

「蓮くん‼ 蓮くん‼」

私が触れた彼の顔は、冷たかった。それは蓮くんが、もう戻って来ないことを示すのに十分だった。

「なんで‼ 嘘だ‼」

 もう蓮くんの声を聞くことはできない。彼の優しい笑顔を見ることも。

「嘘だっ‼」

帰りの電車の中で夢見た夏休みも、彼のアパートの前でした約束も、永遠に果たされることはない。

「嘘だよ…」

 誰かが、私の肩を掴んだ。

『大丈夫ですか!』

 振り向くと、顔面蒼白の女性が心配そうに見つめていた。私と目が合うと、女性はさらに険しい顔になった。

『誰か救急車を!』

 男性が大声を上げていた。複数のスマホライトやら懐中電灯やらの光が、目の中の水分に反射してまぶしい。

 いつの間にか周囲には人だかりができていた。私の叫び声を聞いて、住民たちが家から出てきたのだろう。

 私はその見知らぬ女性に後ろから抱かれながら、しばらくの間子どものように、わんわんと泣き続けた。

 その後、サイレンの音とともに救急車が到着した。救急隊の人たちは私の腕の中の蓮くんを見ると、表情を強張らせた。言われなくとも、彼が死んでいることは明らかだった。

『大丈夫ですから』

 救急隊の人はそう嘘をついて、蓮くんを連れて行った。

 取り残された私に、警官が歩み寄ってきた。またも蓮くんが死んでから現れたか。今さら犯人を突き止めたところで、もう蓮くんは帰ってこない。

『すみません。私、蓮くんを救いに行かないといけないので』

『…と、言うと?』

『蓮くんがいない世界に、もう意味なんてないんです』

『…』

 黙り込む警官をよそに、私は目をつむった。

『もう一度!』

 目を開ける。痛いほどの白が、目に飛び込んでくる。

いつの間にか、私も手を組んでいた。

「思い出したか」

「はい。すべて」

 心臓が早鐘のように鳴っていた。

「気は確かか」

「はい。大丈夫です」

 だが記憶の中の自分に比べれば、今の私は不思議なくらい冷静だった。

「君は願い、ここへやって来たが、疲れていたのだろう、こちらでの目覚めに少し時間がかかった」

「そうみたいですね」

 確かに疲れは取れていて、眠気も感じない。

「今の状態なら、やれる気がします」

 むしろ力がみなぎっていた。全身が自然と熱くなってくるように感じるのは、そのせいだろうか。

「何をだ」

 それとも腹の底でグツグツと沸騰しているかのような、この感情のせいだろうか。

「復讐を」

「ほう」

 私は立ち上がる。全身に力が入り、血液が体中を駆け巡っていくのを感じる。

「蓮くんを、私の大切な蓮くんを、何度も、何度も殺し続ける人間に、罰を」

 自分の喉から出たとは思えないほど、冷たい声を聞いた。

「絶対に、逃がさない。絶対に、許さない」

顔を上げる。白い世界を毅然と見つめる。

「覚悟が決まったようだな」

 自分の手のひらを見つめる。

「私が、断罪する」

 口にしながら、その拳を強く握った。


「だが、犯人の目処は立ったのか」

 白い世界の奥の方から、声が問いかけてくる。

「私の心が読めるなら、わざわざ訊く必要もないんじゃないですか」

「念のため尋ねたまでだ」

 私は腕を組んで考え込む。

「最大の謎は、なぜ帰宅したはずの蓮くんがあの路地にいたのか…か」

 確かに『今日はもう家を出ないで』とは言わなかったが、あの時点で二十二時前。そこから、ちょっと夜の散歩に出かけようとはならないと思う。

「なら、やっぱり蓮くんは何かの目的があって、あの路地にいたんだ。それか、どこかへ向かう途中だった?」

「悪くない推理だな」

 声の元が一気に近づいた気がする。

「それは合ってるってことですか?」

「さあな。面白い考えだと思っただけだ」

「何ですかそれ。知ってるなら真実を教えてください」

 ぶっきらぼうに言う。

「それはできない」

 はあっとため息をつきながら推理を続ける。

「あとは蓮くんがどうやって殺されたか…凶器は何か…とか」

 気は進まないが、彼をひっくり返したときの姿の記憶を手繰る。

 蓮くんの白Tは、腹の部分が真っ赤に染まっていて、服の生地はグチャグチャに裂かれていた。いや、グチャグチャだったのは服だけじゃない…彼の腹かからはもっと別のモノが溢れ出そうになっていた…。

「ぐえっ…」

 強烈な吐き気に襲われ、思わずえずく。だが吐くことはなかった。まるで自分の胃の中に何も入っていないみたいだ。

「安心しろ。この場所はあらゆる物理的条件において安全だ。吐くこともないし、頭痛や腹痛に悩まされることもない」

「でも、気持ち悪くはなるんですね」

 嫌味っぽく言う。しばらく待ったが、返事はない。

「ん…」

 続きを思い出す。

前面だけでなく、背面のシャツも赤黒く染まっていた。腹側のTシャツに比べて黒シャツがきれいだったのを考慮すると、蓮くんはナイフのような刃物を腹から刺されたと考えるのが自然だろう。そういえば、前に颯太も『立花は刃物で刺された』と言っていた。

「でも、前から刃物を持った人が近づいてきたら気づきそう…」

 そこで思い出す。あの路地はとても暗かった。比較的明るい道から入ったばかりでは、暗闇にあまり目が慣れていない。そこを襲われたのかもしれない。確かに蓮くんが倒れていたのは、路地の入口の街灯の光が届く、ギリギリのところだった。

「…もしかしたら、蓮くんも急いでたのかも」

 ふとそんな考えが頭をよぎる。もし彼もあの時の私と同じくらい急いでいたとしたら、一層暗闇に身を潜めていた人間には気づかないだろう。

 だが、刃物で刺されたことは確実だとしても、それ以外のことはあくまで憶測でしかない。本当のところは何もわからない。

「うーん」

 私は唸りながら上を見上げる。空は地面とまったく変わらない白色で埋め尽くされている。

「視点を変えてみろ」

「え?」

 空から声が降ってきた。

「立花蓮の立場になって考えてみろ」

「そんなこと言われても…」

 何かわかるのだろうか。とりあえず、蓮くんの視点に立ってみる。

 私に手を振ってから、建物内に入って行く。自分の部屋に帰って、どこかにバッグを置く。手洗いうがいをして、シャツは洗濯機へ…。

「あ」

 なぜ彼はシャツを着たまま、再度外出したのだろうか。帰宅したら、冬のコートのように、不要な服はすぐ脱ぐだろう。その後急ぎの用事が入ったなら、わざわざ着直したりはしないと思う。

「蓮くんは、私と別れてすぐあそこに行ったってこと…?」

 ならいつだろう。私が家の周りを回っていたとき? いや、だとしたら帰り道であのにおいに気づいたと思う。となると、私が住宅地を抜けてすぐのタイミングくらいだったのだろうか。

「それか…」

 蓮くんは私のあとをバレないようについてきていて、私がいなくなったタイミングを見計らってあの路地に入った可能性もある。でも、だとしたらなぜ。

 訳がわからなくなってきた。蓮くんの不可解な行動に、私が関わっている可能性があるのだろうか。

「あっ…」

 そこで私は、ある恐ろしい可能性に気づいた。

「私が…呼んだから…」

 だがすぐに頭を振ってその可能性を打ち消す。ありえない。確かに何度も電話をしたが、私の身を案じたなら、ただ電話に出ればよかっただけじゃないか。それに、わざわざ駅の方向と異なるあの路地に入る必要もない。蓮くんが死んだのが、私のせいなわけない。

「ふうー」

 ため息をついて座り込む。膝を抱えて下を向く。

 そうだ。蓮くんは何かの目的があってあの路地に行ったんだ。

それが元々決まっていたことなら、彼はそれを私に隠して一日を過ごしていたことになる。その場合、私にバレないように路地へ向かったのだろう。

もし私と別れてすぐ、あそこへ行く必要ができたなら、蓮くんはそれを家に帰ってから知ったことになる。その場合、誰かに呼び出された可能性が高いのではないだろうか。

「ならやっぱり、犯人は蓮くんが知っている人…?」

 すべては私の勝手な妄想なのかもしれない。現状、蓮くんが誰かに呼び出されて殺されたのか、その道中で偶然殺されたのか、それすらもはっきりとしない。

 だが、彼は決まって六月十五日の夜に死ぬ。そこに何者かの強い作為が感じられる。

「とりあえず、次は絶対に蓮くんを一人にしない」

 私は顔を上げる。日曜の夜、絶対に彼を一人きりにしたり、あの路地に連れて行ったりはしない。

「何があっても、蓮くんを守り切る」

 自分に言い聞かせるように言う。もし犯人がのこのこと私たちの前に現れたときは…。

「返り討ちにする…」

 語尾の方は小声になった。運動部でもない、ひ弱な私が犯人と戦えるだろうか。

…きっと無理だ。蓮くんも体育会系ではない。悔しいが、相手が本気の殺し屋だったりすれば、私たち二人で立ち向かったところで、逆に返り討ちにされてしまうだろう。

「どうしたら……あ」

 いるじゃないか。すぐ近くに、空手の猛者が。

 颯太に助けを求める。だが、どう説明しよう。『三人で遊びに行かない?』とでも言おうか。だが、人見知りの颯太が、そんなにすぐ蓮くんと打ち解けられるとも思えない。まして、日付が変わるような時間まで一緒にいてもらわなければならないのだ。そんなこと、私とでもない。

「うーん」

 なら、私が颯太から空手の技を教えてもらうというのはどうだろうか。それなら過去に戻ってすぐ始められる。目の前に颯太がいるからだ。二週間では付け焼刃程度にしかならないだろうが、それでも何もしないよりはましだ。あとは…。

    ~

 考えと作戦がまとまってから、私は立ち上がった。

「どうするか決まったようだな」

 傍観者が語りかけてくる。

「はい。また私を過去へ戻してください」

「夏樹遥香。君は最初に会ったときに比べるとずいぶん変わった」

「はい?」

 その声色が少し優しくなったような気がした。

「今の君なら、もしやとも思う」

「そうですか…」

「だが、今一度考えろ。立花蓮を救うためにはどうしたらいいのかを」

 しかし、すぐに元の声色に戻ってしまった。

「それは今考えました。成功するかはわかりませんが…」

「君の考えていることは本質ではない」

「何か抜けがありましたか?」

「そういうことではない。蓮を『真の意味で救う』ためにはどうしたらいいのかを考え続けろ、ということだ」

 それは胸の深いところに届くような、不思議な声だった。

「…どういうことですか?」

「少々ヒントを出しすぎた」

「え」

「では、武運を祈る」

「まっ」

 唐突に眼前の白色がまばゆいほどに輝き始めた。咄嗟に前に上げた自分の腕も見えなくなるくらいに。

「またこの流れか!」

 あまりのまぶしさに、私は思わず目をつぶった。

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