恋を手放した夜に。

濃厚圧縮珈琲

失わないために手放した恋

 グラスの氷が小さく甲高い声で鳴き、由香は閉じていた目をゆっくりと開く。




 東京の片隅、場末と呼ぶには少しだけ洒落ているバーのカウンター。


 白濁色の液体の入ったグラスを手慰みに揺らす由香の耳に、古いスピーカーから流れるシャンソンが柔らかく流れ込んでいく。






 日本語に訳された詞を読んだ後、原語であるフランス語で歌いあげられるのは『愛の賛歌』。


 何十年も前に録音されたであろうその声が、今でも、誰かの胸の奥を焦がし続けている。




  


 情熱的で、どこまでも深く、狂気すら思わせる強い愛の言葉に、由香は唇だけに僅かに笑みを浮かばせていた。


 


 だがその笑みとは裏腹に、目の奥も、胸の奥も、軋むように……圧し潰されるかのような痛みに苛まれていた。




 




———————————————————————————————————








 彼と初めて会ったのは、三年前の春だ。




 大学を卒業し、ある新聞社に入社した私は、やりたい事をやらせてもらえず、雑用ばかりをやらされていた。


 


 業務時間中でもお構いなしに喫煙所で煙草をふかす男達上司達から、あれこれ雑用を押し付けられた私は、苛立ちを隠さずに足早に廊下を歩いていた。


 


 この時代になっても未だに紙媒体をありがたがり、ペーパーレスの声にはどこ吹く風か、山積みの中身がパンパンになったファイルバインダーを資料室へ運んでいる時だった。




 「きゃっ!」




 早歩きで、しかも両腕に積まれたバインダーが落ちないように手元ばかりを集中していた私は、開いたエレベーターから降りてきた誰かとぶつかって転倒し、ドサドサとバインダーをまわりへ撒き散らしてしまった。




 大きな物音に周囲の人間は一瞬私へ視線を投げかけるものの、すぐに興味を失ったように各々の目的地へと足を運ぶ。






 「ごめん、大丈夫?」




 


 私がぶつかってしまった相手は、手にしていたテイクアウト用の紙コップに入った珈琲を溢し、白いワイシャツに茶色の染みをいくつも作りながらも、何より先に私を気遣う言葉をかけてくれた。






 「大変!クリーニング代……!?あああ、資料がっ!?いや!それより今は服を……!?」




 


 完全にパニックを起こして顔色を青にも赤にも白にも変化させていた私を、彼は目を真ん丸にして眺めた後、ぷっと吹き出して笑い始めた。




 急に笑い出した彼に更にパニックを起こして右往左往していた私を、彼は目元を拭いながら優しく諫めて散乱したバインダーを拾い集めてくれた。






 「君、面白いね!新入社員の子?」




 「は、はい……舞元由香……です」




 「やっぱりそっか。俺は深山健司。広告代理店のコピーライターやってるんだけど——」






 言いながら、彼は自分のシャツに広がった茶色い世界地図をちらりと見て、また笑った。




 「まあ、いいよ。こんなの。コーヒーなんて毎日こぼしてるし」




 普通なら怒るところだ。まず謝罪とクリーニング代を求める人の方が多いだろう。


 これから取材なのに!とか会議にこれで出ろと言うのか!?とか。




 それなのに、そんな素振りは欠片も見せなかった。




 私はそこで初めて、彷徨わせていた視線を落ち着かせて彼の顔を見た。




 輪郭は柔らかいのに、どこか疲れたような眼差し。


 それでも、笑えば少年のように無邪気で……。






 惹かれるのに理由なんていらない。


 この時にはもう、私は彼に惹かれていたのだと、今なら分かる。




 彼とはそのあと何度も偶然が重なり、偶然が偶然を呼ぶように、会話が増えた。




 昼休みが重なると一緒に食事をし、資料室の前で雑談し、お互いの好きな映画の話で盛り上がった。




 


 彼といると、私は人一倍頑張れる気がした。


 


 気付けば、彼の何気ない一言に私の一日が左右されるようになっていた。












 「由香ってさ、最近綺麗になったよねー」




 「……そ、そう?」




 「うんー。なんか……人生楽しんでるって感じ?」






 由香には昔からの親友がいた。高校からの付き合いの真理子。


 大学は別の学校だったが、同じ会社を受けて同期として再び仲良くしている。


 




 化粧もファッションも人付き合いも、何を取っても自分より華やかで……。なのに、どこか恋愛に臆病な子。




「ねぇ由香、最近さ……」


 


 仕事帰りの喫茶店。真理子がストローを指で弄びながら、やけに間を空けて切り出した。




 「オフィスでさ、気になってる人がいるの」




 「え、真理子が??ふぅん。どんな人?」




 真理子の真剣な表情に、由香は




 「背高くて、ちょっと猫背で……目は優しい感じ。広告の会社の人かな? コピー書いてる、って言ってた」




 まさか――まさかね。




 心臓がどくりと跳ね、嫌な予感に脈が早まるのを感じていた。


 




 「……その人、名前は?」




 「……深山さんって、言うんだけど」




 その瞬間、世界から音が消え失せた気がした。


 


 グラスの中で氷が触れ合う音も、隣の席からの笑い声も、店内のBGMすら耳からすり抜けてしまった。






 「……そう、なんだ」




 なんとか声を搾り出すと、真理子ははにかんだ。




 「変だよね、私がこんなふうに人を好きになるなんて。今まで誰かを本気で好きになったことないし、何となくで付き合うばかりだったから……どうしたらいいか分からないの」




 真理子は、嬉しそうに困っていた。


 由香は、困ったように笑ってみせた。




 「いいじゃない。素敵だよ」




 喉の奥に何かが引っかかったまま、そう言うしかなかった。


 


 昔から彼女に好きな人が出来たら全力で応援すると口癖のように話していて、由香も恋愛経験なんてないのに、姉御肌振って相談に乗っていた。




 そんな由香だからこそ、真理子は何かあったら真っ先に相談する程彼女を信頼し、親友でありながら実の姉のようにも慕っていたのだ。


 






 相談を受けた数日後、由香は真理子を健司に紹介した。


 仕事終わりに二人で飲みに行く予定だった所に、急遽彼女を呼んだのだ。




 薄暗いバーで見る真理子は、化粧もバッチリ乗っていて、普段彼女を見ている由香ですら、ドキッとする程の可憐さを見せていた。




 「は、初めまして……ではないですけど、こうしてお話するのは初めてですよね?……あの、白河真理子です。由香の親友でっ!その……」




 由香はガチガチに緊張していた真理子の背に手を添え、『落ち着いて』と伝えるようにトントンと叩く。


 


 そんな二人の様子を見て、健司は少年のように笑っていた。




 その笑みに、由香も真理子も釘付けになっていた。






 真理子の頑張りもあり、顔合わせは成功に終わった。……成功に終わってしまった。






 失敗してしまえば良いと心の奥底で思ってしまった事に、由香は自己嫌悪に襲われていた。




 同時に、自分自身も健司と一緒になりたいと願っている事を再自覚してしまったのだ。








 『ごめん、私も……健司さんが好き』




 この一言が言えれば、きっとどれだけ楽になるだろう。


 言ってしまえば、張りつめた心の糸はすぐにほどけてしまう。






 言えば救われるのだ。


 少なくとも——自分は。




 ……でも、真理子はどうなる?




 あの子は初めて本気で恋をした。


 初めて嫉妬し、初めて泣き、初めて不安を吐き出してきた。




 夜中の二時に震える声で電話してきたこともあった。


 


 「既読つかないの、どうしよう」


 「既読ついたけど返事来ない」




 そんな悩みで泣きじゃくる真理子に、由香は自身の心に嘘をつき続け、叫びたいぐらい煮え立つ感情を握り潰すように、固く強く握り締めた手に爪が刺さり、血を滲ませながらも彼女を励まし続けた。






 ——自分の心を、殺しながら。










 健司は由香の方を見ている。


 これは自惚れや願望ではなく、彼の視線に篭る熱を感じるのだ。




 真理子も、それを薄々感じていたのかもしれない。


 だから余計に泣いて、余計に怯えて、余計にすがってきた。




 由香は……裏切らないよね?と。








 誰かが傷付くしかないのなら——。


 


 その役目は……自分でいい。




 そう思ってしまった瞬間、答えは決まった。




 善意でもない。


 正義でもない。


 美徳でもない。




 ただ、彼と親友の笑顔を壊したくないという、残酷なまでに偏った願いから生まれた選択だった。




 




────────────────────────────────








 そして運命の日が来てしまった。




 仕事終わり、いつも通り帰ろうとした時、オフィスの入り口で壁に寄りかかって手帳を眺めていた彼が私に気付いた。




 少年の様で、それでいて年相応の大人の男性の色気も混ざる笑みを浮かべ、私へと微笑みかける。






 胸が苦しい。




 本当はこの笑顔を私だけに向けてほしい。


 私だけの物にしてしまいたい。


 他の誰にも渡したくない。


 


 


 そんな願いも欲望も、全部胸の奥底へと押し込んで、いつも通りの笑みを浮かべて彼へ会釈する。






 「お疲れ様、今日これから時間あるかな?」




 「あ……はい、大丈夫です……けど」




 私の歯切れの悪い返事にも、彼は嬉しそうに笑みを浮かべ、エスコートするように並んで歩く。


 歩幅や歩くペースもしっかり私に合わせてくれている。


 


 一見大雑把そうに見えるのに、しっかりと私の事を見て気遣ってくれる。


 そっと盗み見るように目だけで彼の顔を伺うと、すぐに気付いて微笑みを落としてくれる。






 「ごめんな、仕事終わりで疲れているのに」




 「う、ううん!それは健司さんも一緒でしょ?」




 そう返すと、彼は少しだけ肩をすくめた。




 「まさか!適度に休憩してるから問題ないよ。……でも、今日だけはどうしても話したいことがあってさ」




 「……話したいこと?」






 それが何の前触れかなんて、考えなくても分かっていた。


 これはつまり……そう言う事だろう。






 タクシーに乗り、やがて辿り着いたのは彼のお気に入りのバー。


 


 ここは真理子にも教えていない、彼と私だけの秘密の場所。




 


 初めてここへ来たのは半年前。


 


 何度かの食事に行った帰り、飲み足りないと呟いた彼に連れられてきたお店。


 


 「内緒な?」


 


 そう言って笑った彼のいたずらな笑顔は、まだ瞼を閉じれば鮮明に思い出せる。 










 「入ろうか」




 健司は扉を押し開け、私を先に通す。


 暗めの照明、落ち着いたジャズ、磨かれたカウンター。


 全てが記憶のままなのに、今夜だけは違って見えた。




 


 「いらっしゃいませ。本日はいかがされますか?」




 健司は迷わず、いつもの銘柄をバーテンダーへ注文した。




 「由香は?いつものやつでいい?」




 「……うん、それで」




 声が少し震えたが、彼は何も気付いた素振りは見せない。






 まもなく目の前にそれぞれグラスが並べられ、徐に手に取り、いつものように少し持ち上げて会釈をする。


 


 私のお気に入りは、スクリュードライバー。


 ウォッカにオレンジジュースを混ぜたカクテルで、ウォッカは少なめに、甘く飲みやすい配分で提供してもらっている。


 


 一口グラスに口を付け、鼻に抜けていくアルコールの香りに大きく息を吐いた。


  


 「今日さ、由香に話したかったのは——」




 


 ついにその時が来てしまった。


 


 聞きたくない。


 逃げたい。




 でも、この場から立ち去ることすらできない。




 覚悟を決める前に、彼は言ってしまう。


 もう止めようがない。






 「最近、やっと分かった気がするんだ。誰かと一緒に居たいって、こういうことなんだなって」




 胸が高鳴るのを、必死で抑える。


 自分がこうなってはいけないんだ。 


 私は……身を引かなきゃいけないんだ。


 


 でもこれはきっと、ずっと自分が求めていた言葉の最初の一歩なのだと。


 最後まで……聞かせて欲しいと、耳だけは勝手に彼の言葉をしっかりと引き寄せていく。


 


 「最初はさ、面白い子だなって。それに話しやすいなってだけだった。仕事の愚痴とか、くだらない話とかも、つい話しちゃうっていうか」




 ——知ってる。


 私も、そうだったから。




 「でも……今日みたいにさ、何か良い事とか嫌な事とかあった時に、真っ先に顔が浮かぶの、その人なんだよね」




 そこで初めて、彼の顔が私を向いた。


 その目は真っ直ぐで、残酷なほど優しかった。




 「由香、俺は——」




 続くはずだった言葉を、由香は遮った。


 自分でも驚くほど、明るい声で。




 「ねぇ、健司さん」




 「……え?」


 


 「真理子の事、どう思う?」




 彼の表情が一瞬固まり、沈黙が二人の間を通り抜けた。




 「何で……真理子?今は彼女じゃなくて君を――」




 「あの子、高校からの大事な親友なの。……それこそ、妹みたいに。あの子ね、あなたの事、好きなんだって。もう毎晩相談されちゃって、今日も居眠りしかけちゃった」




 彼の言葉を遮るように。その続きの言葉を、彼が漏らしてしまわないように。




 笑わなければ、と意識するほど頬が強張る。


 笑みで隠しながら歯を食いしばっていないと、口が震えてしまいそうだったから。




 「待て、待ってくれ。俺は……」




 健司は言葉を探すように、視線を泳がせた。






 「知ってるよ」




 もう、十分なくらい……あなたの気持ちは伝わってるよ。


 でも……でもね。




 「だから、お願い」




 彼の言葉を、聞いてしまえば崩れてしまう。


 たった一言で、これまで積み上げてきたものを全部捨ててでも、どんなに真理子に恨まれても、あなたの手を取ってしまうから。




 「真理子、恋に不器用だから……。健司さんならきっと、あの子を支えてあげられる。だから……優しくしてあげて?」




 彼はしばらく目を瞑り、黙っていた。


 


 その沈黙の裏に見える葛藤。想いを告げる前にやんわりと断られた絶望。自身の気持ちに蓋をしなくてはならない苦しみも、私には痛いほど伝わっている。


 


 私も、同じぐらい……ううん。それ以上に……辛い。


 それでも彼が……諦めずに『好き』という言葉をくれるのなら……その時は、私は……受け取ってしまう。




 ――でも、彼は大人な男性だから。きっと……そうはならない。




 「……由香は?」




 沈黙の後、健司が低く問いかけた。


 逃げ道を探すような、それでも確かめずにはいられない声。




 「由香は、俺のこと、どう思ってるの?」






 少しでも優しい嘘を選べばよかったのかもしれない。


 「分からない」と誤魔化すことだってできた。




 それでも、私が選んだのは、私にとっても、彼にとっても残酷な答えだった。




 「大切な……大切な、友達」




 


 彼の瞳から、目に見えるほどの光がすっと引いていく。




 「……そっか」


 


 やがて、健司は小さく頷いた。




 「ごめんね。……変な期待させちゃった?」




 「いや、俺の方こそ……勝手に……」




 健司はかすかな笑みを浮かべ、視線を逸らした。


 その笑みが痛いほど苦しそうで、私はそれ以上見ることができなかった。




 「真理子、いい子だよ。きっと健司さんのこと、すごく大事にしてくれると思う」




 やっと絞り出した言葉は、心からの本音であり、心を殺すための刃でもあった。


 




 礼を言うのは、自分じゃないはずなのに。


 




 馬鹿だ、私……。


 




 


———————————————————————————————————


 




 それから、季節がひとつ変わった。




 桜の花びらが街を彩り、散っていく頃。


 真理子は、その満開の花のような晴れやかな笑顔で由香を呼び出した。




 「聞いてよ、由香!」




 「どうしたの?」




 「私ね……健司さんと、付き合うことになった!」




 駅前のカフェのテラス席。


 春の風がテーブルのナプキンを揺らし、真理子の髪をふわりとなびかせる。


 


 その姿があまりにも幸せそうで、


 由香は一瞬、何も感じないふりをすることすら忘れそうになった。




 「すごいじゃない。おめでとう」




 精一杯の笑顔を作ると、真理子は目を潤ませて頷いた。




 「由香が背中押してくれたからだよ。本当にありがとう……!」




 ありがとう、ありがとう、と。


 その言葉は何度も繰り返された。




 由香は笑った。


 しかし、手元から香るミルクティーの甘い匂いが、なぜか酷く不快に感じた。






 


 その後、同じ職場だからこそ情報が漏れるのも早く、真由美と健司が交際を始めたという話は社内でも噂になっていた。


 


 休憩スペース。


 会社近くの定食屋。


 信号待ちの横断歩道。




 肩を寄せ合い指を絡めて幸せそうに笑う真理子と、その隣で少し照れたように微笑む健司。


 その風景は、どこからどう見ても『幸せなカップル』だった。






 ——もういいじゃない。


 こうなることを、望んだのは自分だ。




 湯船に浸かりながら、ふと天井を見上げた拍子に息が詰まる。


 電気を消した部屋の中で、スマートフォンの画面を見つめたまま固まってしまう。


 枕に顔を埋めて、誰にも聞こえないように声を殺して泣いた夜もあった。




 それでも翌朝には、いつものように化粧をして、笑顔を作って出社する。


 真理子のノロケを聞き、健司と目が合えば冗談を飛ばす。




 彼の目の奥で、一瞬だけ揺れる未練の色を——見なかったことにして。


 








 そして今。由香はたった一人、彼との思い出のバーのカウンターに座っている。




 今のところ、真由美とここで会う事はない。


 たったそれだけなのに、まだ彼との秘密の場所聖域は守られているんだと、胸の奥がじんわりと温かくなり、同時にキリキリと刺し穿つような痛みを訴える。






 「……マスター、今の曲もう一度聞かせて」




 店内には由香しかいない。


 気が付けばこの店の常連となっていた由香は、ある程度融通が利くのだ。




 再び古いスピーカーから流れ始める『愛の賛歌』の詞を、じっくりと噛み締めながら手元のカクテルーー『XYZ』を一口含む。




 「あなたが望むなら……友人も何もいらない……か」




 歌は、あまりにも正直だった。


 自分でも認めたくないほど、由香に刺さる歌であった。




 本当に彼を愛しているのなら、ここまで後悔し、毎日燃えるような彼への恋慕と深く冷たい悲しみに心を蝕まれるのなら、親友だって捨てて愛に生きるべきだったのではないか?








 カウンターの向こうで、マスターがグラスを磨きながら言う。




 「……友人を選んだ事を後悔されているのですか?」




 由香は笑った。


 自嘲でも強がりでもなく、ただ、笑うしかなかった。




 「してますよ。すごく……死ぬほどに」






 慰めも、説教も、励ましもない。


 この店のマスターは、客に無闇に踏み込まない男だ。


 


 それでもしっかりと相談には乗ってくれる。




 「でもね……選んだのは私なんです」




 ゆっくりとグラスを揺らす。


 白濁の液体が、薄暗い照明の光を纏って揺れる。




 「真理子が泣いて相談してきた夜、私の電話の向こうで救いを待っていた夜……その時に、私の心が何を望んでいたのかなんて、ちゃんと分かってたんです」




 アルコールの熱が喉を焼く。


 思い出が胸を焼く。




 「でも、私を慕ってくれる妹のような親友を裏切るのが怖くて……見捨てるのが怖くて……だから私は、彼を大切な友達って言ってしまったの」




 それは自己犠牲でも聖女でもない。


 ただの弱さだった。




 「格好つけただけなんですよ。どちらにも正しい人間でいたかった。ただそれだけ」




 


 親友の涙を見たくないと願った。


 彼の笑顔を失いたくないと願った。




 本心は、選ぶまでもなかった。




 彼を独り占めにしたかった。


 彼の隣に立っていたかった。


 誰でもない、彼の『特別』になりたかった。






 そのすべてを押し殺して、笑って譲り渡した自分を、誰が正気と呼べるだろう。






 じわ……と視界が滲む。


 ぽた……と音がして、バーカウンターに一滴の水滴が落ちる。


 


 涙が落ちたのか、それともカクテルから滴った水滴なのか、自分でも分からなかった。




 歌がサビに差しかかり、伴奏のピアノの演奏に熱が籠る。




 フランス語故に何を歌っているのかは、分からない。


 それでも感情豊かに歌い上げる歌手の熱が、由香の心を打つ。




 


 グラスの中の氷が、また小さく鳴った。


 由香は再び視界が滲むのを感じながら、カクテルを喉へ流し込んだ。




 涙の味が、アルコールに紛れていく。




 「……嫉妬、されているのですか?」




 マスターの問いは淡々としていた。




 「ええ、しています。狂いそうなほど。なのに誰より祝福して、誰より傷付いて……その全部を抱えたまま生きてるのが、もう滑稽で仕方なくて」




 由香は涙を拭かずに続けた。






 「……でもねぇ、マスター」


 


 「何でしょう?」




 「あの子が幸せなら、それでいいんです。私は……あの時それを望んだんだから」






 由香の頬を、また一筋の涙が伝った。


 誰もそれを拭ってはくれない。


 それでも彼女は、唇の形だけを、少しだけ上げた。




 「……あぁ、ほんと。バカみたい」




 小さく呟いて、グラスをカウンターに置く。


 僅かに中身は残っているが、彼女の震える指先は決して再びグラスを掴み直そうとはしなかった。






 これは彼女が、自分の手で手放した恋だ。


 誰のせいでもない。


 




 愛は時に、狂気と呼ばれる。


 それでも彼女は、その狂気を胸の奥で丁寧に包み込み、そっとしまい込んだ。




 答えはどこにもない。




 ただ一つだけ確かなことがある。




 ——彼を心から愛していたのは、誰よりも自分だった。






 歌が終わる。


 拍手の代わりに、静寂が店を包む。




 マスターはカウンター越しにそっと一杯のグラスを置いた。




 「こちら、サービスです。どうぞお召し上がり下さい」




 


 由香の前に置かれたのは『メリーウィドウ』




 彼女は目を閉じ、小さく頷きグラスを手に取る。




 「……今日で全部、終わりにします」




 涙がまた一筋、頬を伝う。




 グラスの縁に口を寄せ、最後の一滴まで飲み干す。




 「……ありがとう、マスター。ここは……私の最後の逃げ場所でした」




 そう言ってカウンターに紙幣を置くと、席を立つ。




 扉に手をかけ、振り返らずに言った。




 「また、いつか素敵な人と巡り合えたら……またお邪魔します」




 扉が静かに閉まり、足音が遠ざかる。






 店の中には古いスピーカーからノイズ交じりに流れるジャズと、扉につけられたドアベルの余韻だけが残された。




 カウンターの向こうでマスターがため息をつき、小さく呟く。




 「……愛というのは、いつも残酷なものですね」




 


 磨いたばかりのグラスを元の場所に戻し、ふと時計を見る。


 針は、日付が変わる少し手前を指していた。




 時計の針は、休むことなく前へ前へと進んでいく。




 ――誰かの恋が終わっても、時間は止まらない。




 たとえ愛に殉じた心が立ち止まってしまっても、


 世界の時間は、誰に対しても等しく流れ続ける。




 変わらぬものなど、本当はどこにもない。


 だからこそ、人はまた歩き出せるのかもしれない。




 静かな夜は続き、店内には古いスピーカーから流れるジャズの音だけが響いていた。

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恋を手放した夜に。 濃厚圧縮珈琲 @espressokakuyo

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