笛吹きお化けの誰も救えない曲
趣味人・暇人のS
笛吹きお化けの誰も救えない曲
「ねぇ、今日も聞こえてくるわよ」
「やだ、本当。毎晩毎晩気味が悪いわ」
「今度、お祓い行こうかしら…」
消毒液の匂いが漂う夜の病院。
白い廊下の隅で看護師たちは今日も口と顔を揃えてヒソヒソと話している。
どれだけ会話しても、耳の奥で"あの音"は消えない。
「ママ、なんか変な音が聞こえる…」
「だ、大丈夫よケンちゃん。何も怖くないわよ」
月明かりが忍ぶ病室。
母親の表情が青くなっていることに子供は気づけない。
飲み込まれそうなほど大きな月が昇る闇夜。
今夜も、不気味な演奏会が始まる。
── 1週間前。
ここは静かな病院だった。
夜になれば何も聞こえない、静寂の空間。
けれども、ある晩を境に変わってしまった。
「〜♩ 〜♫ 〜♪」
闇夜に響く笛の歌。
フルートでもリコーダーでもない未知の楽器の声。
まるで泣き声のような、風の唸りのような不気味なメロディ。
どこを探しても決して見つからない音の出所。
患者も医師も看護師も、笛の音に怯える。
演奏が続くたび「早く終わってくれ」とベッドの中で震える。
耳を塞いでも頭に流れる旋律に、人々はうなされる。
──施錠されたはずの屋上。
闇夜の中で笑っている影が一つ。
真っ黒な腕に握られた、黒蛇のように細長い笛が歌う。
爛々と光る目、尖った耳と鼻。
堂々と腰掛けた、一体のお化け。
彼に名前がなんてない。
誰にも見つけてもらえないまま、ただ笛を吹いて人々を怖がらせる。
それだけが、たった一つの楽しみ。
今夜もお化けは笛を吹く。
人々が恐れるこの曲を──
その夜も、お化けは笛を吹く。
蛇の鳴き声の様に怪しい旋律を奏で、耳を澄ます。
音色に紛れて聞こえてくる、院内の声。
「また聞こえてくるぞ…」
「気持ち悪い…」
「お母さん、怖いよぉ…」
震える声が聞こえるたび、お化けはすっかり上機嫌。
もっとみんなを怖がらせてやろうとばかりに、さらに不気味に演奏する。
聞くだけで震える冷たいメロディ。
背筋が凍る音の刃。
子供も大人の関係なく、病院内で怯える。
お化けは人が怖がってる声を聞いたり、怖がる顔を見たりするが大好き。
だからこそ、今夜も誰よりも楽しそうに笛を吹いていた。
──その時。
「……素敵な曲」
夜風に紛れて、やわらかい声が聞こえた。
あまりにも優しく、あまりにも場違いな響き。
お化けは思わず笛から口を離した。
怖がられることはあっても、褒められたことなど一度もない。
『きっと聞き間違いだろう』
そう思い直したお化けは演奏を再開。
今度こそ人間たちを怖がらせる一心で。
ところが──
「あら、今度は違う曲かしら? これも素敵ねぇ」
まただ。
また怖がらなかった。
また"素敵"と言ったり
それも、さっきよりも楽しそうに。
笛のお化けは首を傾げた。
なぜこの声は怖がらない?
何で楽しそうにしている?
この病院にそんな人間がいるはずがない。
──声の主を探そう
屋上の縁から身を滑らせ、トカゲのように壁を這う。
一階、二階、三階…
怯える子供、眠れぬ大人を横目に、声の主を探し続ける。
そして四階の端の病室。
たった一つだけ、他と別の空気をまとった部屋があった。
「あら。演奏、止まっちゃったわのね……残念だわ」
ベッドの上で外を見つめる少女。
雪のように白い髪と瞳。
月光を集めたように、淡い光を帯びている。
けれど、その体はあまりにも弱々しい。
腕に巻き付いた管と点滴が、長い闘病を語っていた。
『こいつ、俺の笛が怖くないのか? 』
信じられない思いで、お化けはもう一度笛を鳴らす。
「〜♪ 〜♬ 〜♪」
低く唸る獣のような音色。
空気を震わせる、恐怖のメロディ。
多くの人間たちに恐怖と悪夢を与えてきた、お化けの自信作。
──なのに。
「まぁ…! また聞こえてきた。やっぱり素敵ねぇ」
彼女は微笑んだ。
恐怖は一切なく、目を細めて耳を傾けて、両手を打って喜んでいる。
お化けは確信した、
間違いない、彼女だ。
この病院で唯一、曲を恐れない人間。
『初めてだ…… こんなの』
自分の演奏を怖がらない彼女を、お化けは不思議がった。
それと同時に絶対に怖がらせてやる、と胸の内が熱くなる。
『この人間を何としてでも怖がらせてやる! 』
その日から、お化けは毎晩のように笛を吹き続けた。
"この人間の怖がる顔が見たい! " ──ただその一心で。
しかし──
翌晩。
「〜♪ 〜♬ 〜♩」
「今夜はゆったりとした曲なのね。まるでバラードだわ」
その次の晩。
「〜♩♬♩ 〜♩♬♩」
「リズミカルね! 踊りたくなっちゃうわ」
さらに次の晩。
「〜〜〜♩ 〜♬♪ 」
「今日の演奏はいつもより綺麗ね。この夜にぴったりだわ」
少女は少しも怖がらなかった。
むしろ毎晩、楽しそうに耳を傾けていた。
いつもの様に、彼女は演奏を聞きながら瞳を閉じる。
心地よさそうな寝顔と穏やかな寝息。
お化けは、今日も口を開けたまま眺めることしかできなかった。
──翌日。
なぜ彼女は自分の笛を怖がらないのか。
お化けは不思議でならなかった。
『気味が悪い』
『怖い』
『不気味』
今まで演奏から返ってきたのは、そんな言葉ばかり。
笛を鳴らせば、病院中が怯えた。
その声を聞きたくて、お化けは笛を吹き続けてきた。
しかし──
『素敵な曲』
『踊りたくなっちゃうわ』
『いつもより綺麗ねぇ』
彼女だけは違う。
他の誰よりも温かく、美しい。
お化けにとって確かな光と温もりを持った言葉だった。
『何で、あいつは俺の曲が好きなんだろう』
そう考えたお化けは理由を探ることに。
朝日を避けながら壁を這って、彼女の病室へ。
窓から覗いて見ると、彼女は看護師に支えられながらベッドに寝転がっている。
立つ体力すらも、残ってないようだ。
「いつもすみません、看護師さん。ベッドに寝るのも精一杯で…」
「いいのよ、奏さん。これも私のお仕事ですから」
『アイツ、"かなで"って言うのか』
お化けの視線が向けられてるとはつゆ知らず。
奏と呼ばれた少女は看護師に質問する。
「あの、看護師さん。あの笛って誰が鳴らしてるんですか? 」
「『あの笛』? もしかして毎晩聞こえてくる、あの? 」
「ええ。その笛です」
奏は目を輝かせながら看護師の返答を待っている。
お化けの笛について聞きたくて仕方ない様だ。
しかし、看護師の目は奏とは対照的に光はない。
瞳と声を震わせながら彼女は答える。
「あの笛、誰が演奏してるのか分からないのよ」
彼女の声がみるみると震える。
顔の色が徐々に青くなり、冷や汗が額に滲む。
「うちの病院、そんなに広くないのに全員で探しても見つからなかったの。目に見えない何かが笛を鳴らしてるってもっぱらの噂よ…」
恐怖を押し殺したような弱々しい声。
お化けはその反応に声にご満悦に口元を歪めている。
しかし、奏は──
「まぁ、不思議な演奏者さんがいたんですね。素敵な曲だもの。いつかお会いしたいなぁ」
全くと言っていいほど怖がってない。
星空の様にキラキラとした目をしている。
『……え?』
「……え? 」
彼女の反応に看護師とお化けの声が重なる。
「あら? 私、変なこと言っちゃいましたか? 」
看護師の反応に奏の惚けた声が漏れ出る。
「あ、あの奏さん? あなた、この曲が素敵に聞こえるの? 」
「はい! 何度聴いても飽きません! 」
興奮した様子の奏。
闘病中なのを忘れてしまうほどの勢いだ。
「で、でもこの曲を演奏してる人は誰もわからないのよ? もしかしたら、人間じゃないのかもしれないし…」
看護師の声には彼女に対する心配の意が込められていた。
得体の知れない者による謎の演奏。
普通なら避けて当然、病に侵されたのなら尚更。
ところが──
「関係ありません」
奏の表情に"恐れ"や"陰"が一つもなかった。
むしろ、太陽の様な光がそこにはあった。
「例えお化けが奏でてるとしても、私はこの笛の音が大好きです」
迷いのない瞳と声。
彼女は"本気"でお化けの曲を愛している。
だからこそ、曇りのない目ができるのだ。
「そ、そお。あなたがそう言うなら…」
看護師はこれ以上何も言わなかった。
奏に背を向けてそそくさと病室を出ていった。
一人取り残された奏は静かに窓の外を見つめている。
お化けもまた、彼女の瞳をただ黙って見つめている。
向こうから自分の姿は見えない。
それでも、自身の演奏を誉めてくれた人間と目が合ってるような気がした。
『何だ、この気持ち……』
胸の辺りに感じる、不思議な感覚。
今までなかった温もり。
その理由を知る間も無く、お化けは太陽の光に消えてゆく。
夜。
お化けは耳をすましながら笛を鳴らしていた。
いつもなら彼の耳は悲鳴や怯える声のみを求めている。
怯え、泣き声、悲鳴。
それこそが、お化けの望むもののはずだった。
けれども、今夜は違う。
彼の耳が探しているのはたった一つ
「落ち着くメロディねぇ。心が安らぐわぁ」
たった一人の病室の声。
今まで聞こえてきた恐怖の声が、小さく聞こえる。
彼女の声を聞いた途端、また胸の辺りが温かくなる。
『まただ』
理由はわからない。
何でこの人間に褒められると、胸がポカポカするのだろう。
理解できないまま、笛は止まらない、
しかし、唯一分かることがある。
それは──
『楽しい』
『嬉しい』
彼女に褒められると心がくすぐられる。
何で楽しいのか、何で嬉しいのかは分からない。
けれども自然と胸が軽くなる。
気づけば、お化けは身体を揺らしながら演奏していた。
真っ黒な影が、月の下で踊っている。
月夜に照らされ、ただ独りで笛を歌わせる。
奏が"好きだ"と言ってくれた、この曲を──
それからと言うもの、お化けは毎晩欠かさず笛を吹いた。
そして奏も、その演奏を聴いていた。
「〜♪ 〜♬ 〜♩」
「毎晩聞いても飽きないわぁ。このままずっと聞いてたい」
今日の夜も、次の夜も、その次の夜も
お化けは奏のために笛を吹いた。
彼女が素敵と言ってくれたこの曲を。
お化けも大好きになったこの曲を──
奏はお化けの演奏を待ってくれる。
いつまでもずっとずっと。
そう信じてたのに──
ある夜、お化けはいつもの様に耳を澄まして笛を鳴らす。
奏の褒め言葉を今か今かと待ちながら。
ところが、いつまで経っても言ってくれない。
吹いても吹いても、『素敵』だと言ってくれない。
それどころか、彼女の声すら聞こえてこない。
『変だな。寝てるのかな』
不安を押し殺しながら、彼女の病室を覗いた瞬間──
「ゲホッ…! ゴホッ…!! 」
月夜に照らされ、奏は苦しそうに身を丸めていた。
皮膚は汗に濡れ、息は荒く、腕には増えた点滴の管。
顔は青ざめ、生気を奪われたかのようだった。
お化けを息を呑む。
こんなに弱った人間は見たことがなかった。
奏は震える指でナースコールを何度も何度も推し続ける。
まるで命綱に縋りつくかの様に。
数秒後、医師と看護師たちが飛び込んできた。
「奏さん! しっかり! 」
「緊急治療だ! すぐに運んで!! 」
あっという間に騒然となった病室。
担架に運ばれる奏をお化けはただ見送ることしかできなかった
数時間後、奏は病室に戻ってきた。
しかし、その表情は先ほどまでよりも苦しげだった。
玉のような汗。浅くて早い呼吸。
声に出せない呻きが漏れるたび、身体が震える。
見守っているのは窓辺のお化けと病室の一人の医師、そして二人の男女。
男性の面影は奏に似て、女性の目元は奏そのまま。
震える瞳で、必死に娘を見つめている。
「先生……」
「奏は、娘は大丈夫なのでしょうか…? 」
「突然の発症でしたが、我々に出来ることは全てやり抜きました」
医師は苦しげに唇を結び、言葉を絞り出す。
その顔色には両親以上の苦痛さが現れている。
「ですが、完治するか否かは娘さんの力次第です。このまま回復する可能性もありますが、最悪の場合……」
父親の肩がわずかに震えた。
次の瞬間、彼は医師の胸ぐらを掴んだ。
「お前…!! 娘は治るんじゃなかったのか!? 治せるって……言ってただろうが!! 」
「も、申し訳ございません! 申し訳ございません!! 」
母親はその場に座り込み、医師は謝罪を繰り返す。
騒がしい声が響く奏の病室で、お化けだけが静かに彼女を見つめていた。
喧騒と謝罪の声は止まないまま、夜は深く沈んでいった──
次の日から、奏から笑顔は消えた。
朝も、昼も、夕方も、夜も──
苦痛に表情を歪め、うなされ続けた。
食事や排泄以外はただベッドで横たわるだけの毎日。
看護師や医師、両親も懸命に彼女の世話を続けた。
しかし状態は、一つも良くならなかった。
それでも、お化けは毎晩笛を吹き続けた。
彼女がうなされている夜に、一日も休みなく。
雨に打たれても、風に吹かれても。
まるで彼女の眠れない日々に寄り添うように。
「〜♩ 〜♬ 〜♪」
『奏はこの曲が大好きだ』
『この曲を聴いたら、元気になってくれる』
『きっと、届く』
それだけを胸に、お化けは今夜も笛を吹く。
奏が好きだと言ってくれた、この曲を。
自分も大好きな、この曲を──
──突然の発症から、数週間後。
太陽も届かない、曇りの日。
その日から奏はもう、うなされることはなかった。
だが──
「午後1時、25分……」
医師が淡々と言葉を並べる。
窓辺のお化けも、ベッドの隣に立つ両親も、奏を見つめている。
眠るように、動かない彼女を──
「か、奏さんは……」
『やめろ』
『やめてくれ』
『聞きたくない』
お化けは医師の言葉を拒絶する。
何を告げるかなんて、とっくに分かってる。
だからこそ、受け入れたくなかった。
だが、お化けの声は届かない。
「ご臨終です……!! 」
その瞬間、お化けの世界は音を失った。
泣き崩れる父の姿が色褪せて見える。
大口を開けた母の叫びが遠く聞こえる。
何もかも灰色に染まった世界。
目の前の奏は──
もう二度と、目を開けなかった。
その日から、お化けは笛を吹かなくなってしまった。
お化けは笛も演奏も大嫌いになった。
大切な人一人救えない、こんな演奏なんか。
どれだけ演奏しても、誰も褒めてなんかくれない。
唯一素敵だと褒めてくれた人は、もうこの世界のどこにもいない。
奏の死後から一ヶ月。
彼女の病室は何も残っていない。
空っぽの室内をお化けは毎日通い、覗き込んでいた。
あの日から欠かさず、ずっと。
時折、ドアを見つめることも多くなった。
もしかしたら奏が来てくれるんじゃないか。
そんなはずのない光景を想像して。
どれだけ願っても、彼女が来てくれるわけがない。
そんなこと、お化けが一番分かっているのに──
そんな時、ドアノブが回って二人の看護師が入ってくる。
「ねぇ、本当に置くの? あの演奏者、いるかどうかわかんないのよ? 」
「仕方ないでしょ? 最後に届けて欲しいって遺言だったんだから。一日だけ置いて、すぐ回収すればいいわよ」
そう言いながら、一冊のノートを机に置いた。
『日記帳』と書かれた、ボロボロの表紙。
ページはヨレヨレで角は潰れ、所々破れている。
看護師たちが足早に去った病室。
お化けは机に置かれた日記帳に視線を落とす。
『あいつの日記……? 』
お化けは音もなく近づき、表紙を開く。
これを読めば寂しさが埋まる、そんな期待を胸に秘めたまま。
【8月10日 今日から入院生活が始まった。「全力でサポートします」ってお医者さんは言ってたけど、大好きなフルートが出来ないのは辛い。早く回復できたらな】
『あいつ、フルートやってたのか。俺と同じだ』
彼女の隠れた共通点を知ったお化け。
心の奥の重りが少し減ったような気がする。
こんな些細なことですら、今のお化けにとって救いだった。
そのまま黒く細い指で次のページを捲る。
【8月11日 薬の副作用でずっと気分が悪い。喉の奥が焼けるように熱いし身体が鉛のように重い。これで本当に治るの? 】
【8月12日 今日もまた新しい薬。いつ副作用が来るのか分からない。早く解放されたい。早くまたフルートが吹きたい】
【8月13日 今日はお母さんとお父さんが来てくれた。「すぐに良くなるよ」って言ってくれたけど信じていいのか分からない。私は本当によくなるの? もう一度、フルートが弾きたいよ】
【8月14日 今日は友達や吹部の後輩が見舞いに来てくれた。でも、正直来て欲しくなかった。みんなの楽しそうに部活や学校の話を聞くたびに胸が苦しくなる。私、ひどい人間なのかな】
ページを追うほど、重い何かがお化けにのしかかる。
自分も知らない影の中。
彼女は一人、孤独で闘っていた。
再び捲ると日にちが一気に飛んでいる。
その答えは、彼女の日記が教えてくれた。
【8月20日 地獄みたいな数日が、ようやくマシになった。一日中吐いて寝込んでた。髪を触ったら数本抜けた。久しぶりに日記を書いたけど、またいつ書けなくなるか分からない】
【8月21日 またあの苦しみが来るか分からない。今夜は眠れないほど怖かった。どうして私ばかりがこんな目に遭うの? 私、何か悪いことでもしたのかな】
【8月25日 今日も眠れなかった。怖い。苦しい。こんな毎日が続くなら、もう……生きていたくない】
【8月26日 点滴を取ろうとしたら止められた。あともう少しで終われたのに。神様、お願いします。どうか私を殺してください】
気づけば日記を握るお化けの手が震えていた。
細く黒い指がページを歪ませてしまいそうだった。
読むたびに痛い。
奏の笑顔が頭に浮かぶにつれて、鋭い痛みが全身を巡った。
お化けはページをめくる。
この日にちは、見覚えのある日だ。
この日、お化けが初めてこの病院で笛を吹いた日──
【8月30日 夜に変な笛の音が聞こえてきた。フルートでもリコーダーでもない、不思議な音。誰か弾いてるか分からないけど、その日は朝まで聞いちゃった】
『俺の笛だ』
お化けは小さく呟いた。
胸の奥で、温かいような痛いような感覚が広がる。
【8月31日 今夜も笛の音が聞こえる。看護師さんに聞いたら「病院中を探したけど見つからなかった」って言ってた。ちょっと不気味。でも、この笛の音は嫌いじゃないかも】
【9月1日 やっぱり今夜も聞こえてきた。薬の副作用はきつかったけどこの演奏がずっも頭から離れない。今日はこのまましっかりと聴くことにしよう。きっと、明日も少しマシになる】
【9月2日 今夜も始まった。素敵な演奏会。この曲を聴いてると辛い治療の苦しみが何だか和らいでいく気分になれる。誰か弾いてるか分からないけれど、この曲が素敵だという事はよく分かる】
気づけばお化けの瞳は素早くページの上を駆け巡っていた。
高鳴る胸が、無意識に捲る指を早めているかのようだった。
【9月4日 今夜はバラードのようにゆったりとした曲だ。昨日は一日中キツイ治療だったけどこれを聞いてるとそんなこと忘れちゃうわ】
【9月5日 今日はとてもリズミカルな演奏ね。聴いてるだけで肩が踊ってリズムを取っていた。踊れたら良かったのになぁ】
【9月6日 今日も一日中吐いて苦しかった。でも、今日の演奏はいつもより綺麗。まるで私を慰めてくれてるみたい。今夜はゆっくり眠れそう】
【9月7日 今日も治療に耐えられた。きっと、あの演奏のおかげだ。あの曲が無かったらきっと私は耐えられなかった。いつか、この曲の演奏者さんに会いたいわ】
どんどんページを捲る。
もっと彼女の声が聞きたい。
もっと彼女の気持ちが知りたい。
一文字読むたびに彼女の声が聞こえてくる。
まるで近くで語ってくれているように。
次の日、お化けの手が止まった。
ページに書かれた日付を見た瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
この日は、忘れたくても忘れられない。
奏の症状が悪化して、苦しみ始めた日──
【9月12日 今日はいつもより胸が苦しい。お医者さんに急いで治療されたけど、治るかどうか分からない。神様、今まで「殺してください」ってわがまま言ってごめんなさい。私はまだあの曲を聴きたいんです。だからお願いします。生かしてください】
その願いは真っ直ぐで、必死で、弱々しい。
読めば読むほど、お化けの胸が張り裂けそうなほど痛い。
『あの時演奏で奏を救っていたら…』
何度目か分からない後悔がまた広がる。
逃げようとしても、必ず絡みつく。
締め付ける胸を抑えたままゆっくりとページを捲る。
【9がつ13日 今日はあたまがずっとぐらぐらする。はき気も止まらない。今日のよるも笛がきこえるかな? 今は辛いけどたのしみにしておこう】
紙いっぱいに広がる文字は、もはや文字の形を成していなかった。
殴り書きさながらのぐちゃぐちゃな筆跡。
ひらがなと漢字が不自然に混ざり合った文章。
大きさが全く統一されてない歪んだ文字。
僅か一日分の出来事すら2、3ページ使っているのなんてザラにある。
読もうとしても、読めない。
読めないのに、痛みは伝わってくる。
【9月14にち 今日もずっとむねが苦しい。はりさけそうな痛みが一日中続いてる。昨日の夜のえんそうのおかげで乗りこえられたけど、この先ふあんだ】
【9がつ16にち お母さんとお父さんがおみまいに来てくれた おかげで今日のちりょうはがんばれそう 二人とも、いつもありがとう】
【9 21 こんやも えんそうが きこえてきた。今日のちりょうも くるしかった でも、このえんそうを聞いたら いたいのも わすれられる。明日も聞けるといいな】
捲るページが少なくなるほど、奏の文字は幼い子供のように崩れ、"書こうとする意識"のみが紙に残されていた。
読める言葉もだんだん減っていく。
それでも、唯一分かるのは──
どれだけ苦しくても、彼女は生きようとしていた。
それだけは、文字が読めなくても伝わった。
そして、捲る指が途端に止まった。
この日は、奏が死んだ日。
彼女の最後の言葉が綴られた日だ。
【9 26 今日はいつもよりからだがかるい気がする いつものいたみもくるしみも そこまでひどくない】
【けれども今 とてもねむたい 今ねたら日記がかけなくなる気がする だから今日は早いけど 日記をかこう】
【そしてさいごの時がくる前に みんなにお礼をかこう】
短い文が何ページも何ページも埋め尽くしている。
ぐちゃぐちゃに歪んだ文字たちが、彼女の最後の言葉を伝えようとしてる。
【おかあさん おとうさん 今までそだててくれてありがとう びょう気でめいわくばかりかけてごめんなさい 2人のむすめでしあわせだった 元気になったら また3人でくらそう】
【せんせい かんごしさん ずっとかんびょうしてくれて ありがとうございます おかげで今日も のりこえられそうです】
【すいそうがく部のみんな びょういんにきて 部かつのこと話してくれて ありがとう みんなの話をきいて 楽しかったよ またみんなで演奏しよう】
祖父母、友達、学校の先生、楽器屋の店主、他校の生徒…
お化けも知らない数多くの人間の名前も震える文字で次々に並んでいく。
そして──
【夜にえんそうしてた 笛の人へ】
その一行を読んだだけでお化けの心臓は喉から出てくるほど飛び上がる。
震える指で進捗に日記を捲る。
自分に送られた、彼女からのメッセージがゆっくり、ゆっくりと姿を現した。
そして、そのページをめくった瞬間、空気の重さが変わった。
まるで、時間そのものが呼吸をやめたみたいに。
そこにあったのは──
【ありがとう】
【ずっとえんそうしてくれて 本当にありがとう】
【すてきな曲をきけて わたしは 】
【しあわせでした】
見開きいっぱいの最後の言葉。
ぐちゃぐちゃに歪み切った文字。
バランスも大きさも統一されてない文章。
破れてもおかしくないほどシワだらけの紙。
お化けの視界には、それだけが広がっていた。
"ポツ… ポツ…"
一滴、また一滴と雫が紙に落ちる。
息が吸えない。胸が苦しい。
世界が滲み出て、前すら見えない。
お化けは自分に何が起こったのか、初めは理解できなかった。
けれども、その答えは即座に分かった。
お化けは、泣いていた。
大口を開けて、喉を枯らして、声を張り上げて。
声を押し殺すこともできず、喉がひっくり返るみたいにしゃくり上げて。
奏の日記帳を抱きしめて、大粒の涙をこぼし続けた。
誰もいない病室。
大切な人が微笑んで、旅立ったこの場所で。
彼は、独りぼっちで泣いていた。
──そして、数日後の夜。
「ねぇ……なんかまたあの笛が聞こえない? 」
「え〜やだぁ。しばらく聞かないと思ったのに」
「本当気味が悪いわ。やっぱりお祓いいこうかしら」
薄暗い電灯の下。
看護師達は廊下でヒソヒソと声を沈める。
「ママぁ…」
「大丈夫よハナ。怖くないからねぇ」
闇に包まれた病室。
怯える娘を母は震える手で抱きしめる。
「〜♩ 〜♪ 〜♬」
病院中の人間が恐れる、笛の音。
誰も笑顔にならない、不吉なメロディ。
心臓が凍る、悪夢の時間。
今夜も始まった。
お化けの不気味な演奏が。
誰も求めてない。
誰も褒めてくれない。
ただ怖がられるだけの恐怖の旋律。
お化け自身もこの曲は大嫌いだ。
吹くたびに、聞くたびに胸が抉られる気がして。
けれども、お化けは笛を吹くのをやめない。
たとえどれだけ怖がられても。
たとえどれだけ時が経っても。
屋上でただ一人。
彼はひとりぼっちで演奏していた。
誰もが恐れる、この曲を──
お化けすら愛さない、この曲を──
誰も救えなかった、この曲を──
あの子だけが愛してくれた、この曲を──
「〜♬ 〜♪ 〜♩」
〜『笛吹きお化けの救えない曲』 Fin〜
笛吹きお化けの誰も救えない曲 趣味人・暇人のS @Shuu-Himajin-0221
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