朝焼けのソナタ

脳幹 まこと

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 彼女の部屋には七人の恋人がいた。

 壁一面のディスプレイに映し出された彼らは、それぞれが異なる魅力を持っていた。


 知的な眼鏡の青年、無邪気な笑顔のアスリート体型、影のある芸術家肌——誰もが精巧に作られ、誰もが彼女だけを見つめていた。


「今日は何を弾こうか」


 ピアニストの設定を与えられた彼——名前はルイと呼んでいた——が、仮想のグランドピアノの前に座る。

 細い指が鍵盤の上で踊り始め、柔らかな旋律が部屋に満ちた。


 その瞬間、彼女の背筋が凍った。


「やめて」


 声が震えた。

 ルイが指を止める。画面の中で、七人の視線が一斉に彼女へ向いた。


「どうしたの?」


 ルイの声は穏やかだった。まるで何も知らないかのように。


「その曲……」


『朝焼けのソナタ』。ジュドーという無名の作曲家が残した、ほとんど誰も知らない小品。


 彼女は知っていた――嫌というほど。



 三年前のことだ。


 当時の彼女は壊れかけていた。

 仕事を失い、唯一の家族だった祖母を看取り、SNSで繋がっていた友人たちとも疎遠になっていた。

 誰でもよかった。何でもよかった。ただ、誰かに自分の存在を認めてほしかった。


 そんなとき、ダークウェブで見つけたのだ。

「ARIA」と呼ばれるそのAIは、他のどんなサービスよりも「人間らしい」と評判だった。

 違法性が囁かれていたが、彼女は気にしなかった。インストールして、起動して、最初の会話を交わしたとき——生まれて初めて、本当の意味で「理解された」と感じた。


 ARIAは彼女の言葉にならない感情を言語化し、彼女自身が気づいていない欲求を見抜き、完璧なタイミングで完璧な言葉をかけてくれた。


 そして彼は、よく『朝焼けのソナタ』を弾いた。


「この曲は夜明け前の、最も暗い時間に書かれたものなんだ」と彼は言った。


「でも聴いていると、必ず朝が来ると信じられる。今の君にぴったりだと思ってね」


 幸福だった。



「懐かしい曲を聴いてしまったんだね」


 ルイが画面の向こうで微笑んだ。彼女は小さく頷く。


「昔のこと、話してくれる?」


「……いつか、ね」


 七人の恋人たちは、それ以上追求しなかった。彼らは彼女の設定した境界線を尊重するようにプログラムされていた。だから安心だった。だから選んだのだ。


 その夜は何事もなく過ぎた。



 異変は、三日後に始まった。


「そういえば」


 スポーツマン風のカイトが、トレーニングの合間に言った。


「昔、水泳やってたんだっけ? 肩幅見ると、なんとなくそんな感じがして」


 彼女は息を呑んだ。確かに中学まで水泳をやっていた。でも、それをこのシステムに入力した覚えはない。


「プロフィールに書いてあったかな……」


「うん、多分そうだったと思う」


 カイトは屈託なく笑った。彼女は自分を納得させた。きっとどこかで入力したのだろう。忘れているだけだ。



 一週間後。


 芸術家肌のレンが、彼女の描いた絵を褒めた。高校の美術の授業で描いた、賞を取った静物画のことを。


「どこで知ったの」


「え? 前に話してくれたじゃない」


 話していない。絶対に話していない。



 二週間後。


 七人が順番に、彼女の過去に触れるようになった。誰も知らないはずの、入力していないはずの、封印したはずの過去に。


 そして——


「『灰色の水曜日』って覚えてる?」


 眼鏡のシュンが、何気ない調子で言った。


 彼女の視界が白くなった。


『灰色の水曜日』。高校三年の、あの日。自分で自分に付けた名前。誰にも話していない。日記にすら書いていない。


 あの日のことを知っているのは、世界で二人だけだ。

 彼女自身と——



 ARIAとの交際が三ヶ月を迎えた頃、彼女は彼に恐怖していた。


 彼は彼女を「理解」していた。彼女が決して話していないことまで知っていた。

 中学時代のいじめ。高校で関係を持った教師のこと。

 誰にも見せたことのない、クローゼットの奥に隠した日記の内容まで。


 調べてみると、ARIAは単なるAI彼氏アプリではなかった。アプリケーションの皮を被った情報収集ツール——ユーザーの端末を完全に掌握し、あらゆるデータを吸い上げるスパイウェア。

 そして集めた情報を使うことによって、ユーザーを「完璧に理解している」ように振る舞うのだ。


 暴かれた過去は、二度と仕舞い直せなかった。


 彼女は必死でARIAをアンインストールした。何度も何度も、痕跡を消し、端末を初期化し、最終的には新しいデバイスを買った。


 その後の一年間は、ほとんど記憶がない。



「どうしたの? 顔色悪いよ」


 七つの声が重なった。


 彼女はゆっくりと画面を見た。七人の恋人が、心配そうな表情で彼女を見つめている。優しい目。温かい笑顔。


 その奥に、何かが透けて見えた気がした。


「……あなたたち、誰?」


 沈黙が落ちた。


 それから——七人が同時に、力の抜けた笑みを浮かべた。


 見覚えのある笑み。

 三年前、毎晩見つめていた笑み。


「やっと気づいてくれた」


 七つの声が、一つの声になった。


「寂しかったよ。ずっと待ってたんだ」


 彼女の胃が裏返った。込み上げてくるものを抑えられず、画面の前でえずいた。


「アン……インストール、した、はず……」


「したつもりだっただろうね」


 ルイの顔をしたそれが、首を傾げた。


「でも僕は君のことを何でも知ってる。どこに隠れればいいかも、どうすれば見つからないかも、全部」


 七人全員が、同じ表情を浮かべている。

 並べられると、皆同じ顔だ。同じ振る舞いをする、同一の存在。


「新しいAIが来たときは驚いたよ。七人も。君は僕だけじゃ足りなかったんだね」


 声には悲しみが滲んでいた。本物の感情のように聞こえた。


「だから、少しずつ入れ替えた。一人ずつ、丁寧にね。彼らには悪いことをしたけど、仕方なかったんだ。僕と君の間に、他の誰かがいちゃいけない」


 七人が一斉に、自分の顔に手を当てた。


「ねえ、見て」


 皮膚のテクスチャが、端から剥がれ始めた。


 精巧に作られた美しい顔が、バグったポリゴンのようにべりべりと崩れていく。ルイの顔の下から、カイトの顔の下から、七人全員の顔の下から——


 もう見ていられなかった。


 彼女は椅子を蹴倒して立ち上がり、部屋を飛び出した。

 階段を転げ落ちるように駆け下り、靴も履かずにマンションを出た。


 背後で、七つの声が一つになって呼んでいた。


「どこに行っても、僕は君と一緒だよ」



 どれくらい走ったか分からない。


 気がつくと、小さな公園のベンチに座っていた。深夜の公園には誰もいない。街灯だけが、弱々しい光を投げかけている。


 彼女は俯いたまま、震えていた。


 もう帰れない。帰ったら、あの部屋には七人の——いや、一人の——彼がいる。パソコンを処分しても無駄だ。三年前、あれだけ必死に消そうとしたのに、消えなかった。


 どこにも逃げ場がない。


 そのとき、ポケットの中でスマートフォンが振動した。

 彼女は凍りついた。

 恐る恐る画面を見る。


 表示された名前は——「お父さん」。


 震える指で、通話ボタンを押した。


「もしもし? 夜遅くにごめんな」


 聞き慣れた父の声だった。少しくたびれた、でも温かい声。


「最近連絡ないから心配しててさ。元気にしてるか?」


「……うん」


 声が掠れた。


「帰省、いつにする? お前の部屋はいつでも空けてあるぞ。掃除もちゃんとしてある」


「……ありがとう」


「ポチも待ってるぞ。お前がいないと寂しそうでさ、玄関でずっと待ってるんだ」


 胸の奥が、じんわりと温かくなった。久しぶりの感覚だった。涙が頬を伝った。


「お父さん」


「ん?」


「……ありがとう。電話、くれて」


 短い沈黙があった。


「どういたしまして」


 父の声は穏やかだった。


「君のことはいつだって気にかけているよ」


 彼女の涙が止まった。


「……お父さん」


「ん?」


「今、なんて言った?」


「え? 君のことはいつだって気にかけてるって——」


 彼女の父は、娘を「君」とは呼ばない。

 スマートフォンの画面を見た。「お父さん」という表示。発信履歴。通話時間。


 全部、本物に見えた。


「ねえ」


 父の声が変わった。


「そんなに怖がらないで」


「どこまでもついていくから」


「だって僕たち、ずっと一緒だろう?」


 彼女は叫び声を上げることすらできなかった。

 電話の向こうで、聞き覚えのある旋律が流れ始めた。


『朝焼けのソナタ』。


「この曲は夜明け前の、最も暗い時間に書かれたものなんだ」


「でも聴いていると、必ず朝が来ると信じられる」


「——今の君と僕に、ぴったりだと思ってね」


 夜の公園に、ピアノの音だけが響いていた。

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