百年の有限

煙人計画

One Hundred Years of Finitude

 彼女は異世界転生者だった。

 昭和百年を待たず、世界セカイは滅んだ。

 これは、畢竟、あの山岳根拠地ベースで産まれなかった「子供たち」への伝言だ。

 これは、結局、漂着してしまった手紙入りのボトルだ。

 これは、つまり、誤配されなかった郵便だ。


 御用地を見下ろす高層マンションタワ・マンのバルコニー。ぼくは渋谷の方角をにらみつける。風上に向く者はいつだって背が高かった。

「キリスト教徒でもユダヤ人でも」ぼくはトーマス・スターンズ・エリオットの短い詩をそらんじる。「舵をとり風上に向く者は誰でも」

 冷房の効いた部屋から、彼女は顔だけをのぞかせて、

「それってキリスト教徒でもユダヤ人でもジェンタイル・オア・ジューだよね。ジェントルでなければ生きていく気にもなれない、ってさ」

「それとこれとはちがうんじゃない?」

「語源も出典も似たようなもんでしょ」

「それはそうかもしれないね」

 彼女の名前はヴェルマじゃなかったけれど、すこぶるつきの美人だったのはまちがいない。ぼくの名前はフレバスでもマーロウでもなく、ましてやカンチではなかった。しかし、彼女よりきっかり十五センチ背が高かった。

 キスやキスでないものを交わすのに、それくらいが具合のよい身長差だとされていた。

 すくなくとも、九〇年代においては。


 プライヴェート・ファイナンス・イニシアティヴが公共にとどめをさした。デベと役人がタッグを組んで交換不能な価値に正札をつけた。青山ブル・マンの都営住宅跡地に高級賃貸マンションが建った。

 二十一世紀初頭、財閥系開発事業者デベロッパーはゲーテッド・コミュニティ研究を社会実装した。テイザー銃を携えたプライヴェート・ミリタリー・ファーム兵が警護する高層マンションタワ・マンは、サイエンス・フィクションに登場する環境建築アーコロジーそのものだ。

 厳重な警備には理由がある。

 区立赤坂レッド・ヒル図書館が移設され、三階の開架スペースだけが一般に開放された。地下二階の秘密文書館はその存在さえもが隠匿された。宮内庁図書寮の禁書謄本を所蔵する自動化書庫は、東京の霊的結界維持の一端を担っている。


「そういうのってばかにできないのよね」

「そういうのってどういうの?」

「神様とか仏様とか、ううん、信仰かな」

「マルクスだって民衆の阿片だって言ってるもんなぁ」

「そうねえ。宗教的で象徴的で郵便的な、表徴?」


 高い塔に引きこもる富裕層への抗議プロテストが発生しないわけがなかった。合法酒や脱法ドラッグに酩酊した脱衣者や脱糞者の襲撃に、警備主任は頭を抱えた。

 裏には無論、起て飢えたる者よと扇動した活動家アクティビストがいた。それが誰かは言わないでおく。

 警備主任を悩ませたのは変態だけではなかった。彼は中央管理室及び防災センターに所属する軍人だった。建築基準法や消防法の埒外に立つ彼に、あらゆる雑務が押しよせた。

 プロパティ・マネジメントからじきじきに下命されたアイ・ピー・カメラの追加設置はそのひとつだった。壁内に配線されたイーサネットケーブルはすでに使いきられていた。電力線通信ピー・エル・シーは使えなかった。

 地下一階の喫煙所。メンソール煙草の煙に眼を細めながら、ぼくは彼にひとつの提案をした。

「この建物は幹線も枝線も百ベース・ティー・エックスだよね。だったら、ツイストペア四対を二対ずつにバラせばいいんじゃない。現場じゃときどきやるハックだよ」

 地獄で仏に会ったような表情で彼はぼくを見た。

 喫煙所コミュニケーションは飲みニケーションに優越すると工学は教えている。


「警備主任となかよくなって地下を案内してもらった。地下二階にはサーバールームと排水ポンプだけがあった」

主配線盤エム・ディー・エフ室とサーバールームが分かれてるんだ」

「排水ポンプの向こう側、図面にないバベルの図書館が存在するって寸法さ」

「この街が、この街こそが、大バビロンだから」

「いかにもこの都市は中心を持っている。だがその中心は皇居コーキョ、おっと、空虚クーキョである」

「文字通り誰からも見られることのないの住む御所、そのまわりをこの都市の全体がめぐっている」

 その『女帝』には、いやに力こぶが入っていた。

「だから、なのかい?」

「そうね、だいたいね」

「おかしいと思ったのさ。きみはこんなところに住みたいと願うような女じゃないだろう?」

「そうかしら?」

「そうだったら惚れちゃいない」

 彼女は莞爾と笑った。しかし、ここがどこかまではわからなかった。


 .* .* .* .* .* .* .* .* .*


 ここではないどこか。

 いまではないいつか。

 ぼくの友達が疑問を呈した。

「どうして乱数を一意識別子に利用していいの? 統制された識別子のほうが扱いやすいんじゃない?」


 宇宙で一意な識別子ユニバーサリー・ユニーク・アイデンティファイヤー

 世界で一意な識別子グローバリー・ユニーク・アイデンティファイヤー

 実装上、それとこれはおなじものだ。時刻と乱数で生成される民主的な一意識別子だ。

 宇宙で、世界で、一意で唯一たぁ、こりゃまたおおきく出たもんだ。誰もが識別子を生成できるが、しかし、統制がまったくないわけではない。


 そもそも、この宇宙に完全で有限な一意識別子は存在するだろうか。

 宇宙が有限なら、原子のひとつひとつに番号を振って、一意識別子を容易に実現できる。すこしも容易ではないけれど。

 宇宙は有限だろうか。

 観測可能な宇宙は光の速度で制約される。それが郵便の到達不可能性だ。

「しかし、」と、問うむきもあるだろう。「単調増加する時刻に重きを置きすぎじゃない?」

 まさしく。

 結局、これはそういう物語だ。

 単調増加する整数。

 単調増加する時刻。

 けっしてあともどりすることがない整数、うごうご増えつづける時刻に、人類と機械は依存する。

 ここで人類と世界は同義だ。

 ここで機械と宇宙は同義だ。

 砂浜で砂のひとつぶを拾いあげては空に放って星となす。数えあげるというのはそういう行為だ。

 砂浜を歩いてくる女がいる。

 ぼくは声をかける。

「きみ、かわいいね。何歳? 彼氏いる? どこ住み? ってか名前は?」

「二十歳。彼氏はきみ」

 騙りえぬ、おっと、語りえぬものについて人類は沈黙しなければならない。住所アドレス氏名フル・ネームも、この浜で識別子たりえなかった。十字星の岩陰で、ぼくたちは身長十五センチ差のコクのあるキスをする。

 浜の真砂は尽きても、夏の恋リゾ・ラバが可算無限である可能性は残されている。その浜からは、はるか遠くまで見とおすことができた。しかし、烏帽子岩までは見えなかった。


 人間はいつか死ぬ。これまでに産まれてきたすべての人類は(死んでから復活した幾人いくたりかはあれど)必ず死んだ。経験的事実から帰納的に導出された、それは仮説だ。

 人類はいまのところ空間方向にも時間方向にも有限だ。

 人類が発明した文字も有限だ。現代において、ヌル文字と百十一万四千百十一個の文字だけが存在を許されている。

 有限個の文字からなる無限を所蔵した図書館がバベルにある。図書館の入りぐちにはひとつのピリオドとひとつのアスタリスクの揮毫が掲げられている。

 この二文字は、古い言語で可能なすべての文を読む読み手をあらわす。

 エニイ・スター。

 新しい言語でそう発声される。

 有限個の文字からなる無限の本を受容する自動機械オートマトンはたった二文字で記述される。愚直に読みつづけるしかできない機械は、無限を遣わずとも無限を記述できると教えている。

 素朴な人類は無限をあらわす文字を作って、有限の人類が無限をあらわせるようにした。現代では「∞」に八千三百七十四番が振られている。


 無限に濃度があることが判明すると、人類は混乱し、恐慌をきたした。人類が頼りにする百科事典棒(や、バベルの図書館棒)よりも強い棒が存在することが証明されてしまった。

 対角線論法棒である。

 人類の歴史を棒による殴りあいの歴史だったと要約して、乱暴であってもまちがいではないだろう。不幸の手紙が棒の手紙に変容する過程で、人類はなんども絶望を味わうことになった。

 しょせんアレフ・ゼロにもたどりつけず、不幸は棒に変わった。幸福も不幸もツイストした縄のようではあっても永遠でないことの、それは証左だった。

 単調増加する時刻を基準にすると、存在しないバベルの図書館が建立されるのは対角線論法棒の発見以降であり、バベルの図書館はあらかじめ打ち壊されて産まれてくるという理屈になる。

 だから、バベルの図書館でぼくたちは出会う。

 そして、バベルの図書館で恋におちるだろう。

 なんども。

 幾度だって。

 デアイ・スター。


 かつて、あんなに持てはやされた百科事典棒も、かえりみられなくなってひさしい。

 それは八〇年代の徒花だった。

 たしかに、一文字を二桁の数字で表現するなんて当世じゃ流行らない。だけど、あのころはまだ、彼または彼女の字点ユニ・コードは発明されてなくて、誰も彼もがシフト・ジスを遣っていた。

 だから、問題はそれじゃない。

 ツイストペアで雑音ノイズ打ち消キャンセルしていれば、不幸だって木奉に変わらなかったかもしれない。目が眩むような南米の太陽に照らされて、人類はだいぶん最近まで縄を結って媒体メディアにしていた。原始、人類はめちゃくちゃ刻木結縄しがちだった。

 文字がなかったから。

 だから、理由はそれじゃない。

 百歩譲って可算無限でしかない百科事典を、零以上一以下の実数がひしめきあう区間に射影した迂闊。

 それが理由だ。

 バベルの図書館より後に産まれてなお、先行棒より軽薄短小な棒だった。

 そんな時代だった。

 軽薄短小が持てはやされる、そんな昭和だった。


 二の二百五十五乗引く十九。

 巨大な素数である。

 真夜中にエドワーズ曲線がツイストすれば、署名シグネチャー落款サインされる。署名検証が彼または彼女の真正さを明らかにする。それは夏の恋リゾ・ラバに必要だったものだ。

 この魔術は、二百五十六ビットの乱数を触媒にする。推測しづらいおおきな数が秘訣だ。

 弥勒菩薩があらわれるまで、五百ピコ秒に一度、二百五十六ビットの乱数を生成しつづけよう。五百ピコ秒は、光がぼくと彼女の身長差ぶん進むのにかかる時間だ。

 ぼくの歯と彼女の歯は、五十五𥝱二千九百六十九垓分の一の確率で衝突する。なにしろファースト・キッスだったものだから。

 おなじ数が一度以上生成されることはまずありえない。この確率は、つまり、ほとんど衝突しないと見なして大丈夫だってこと。

 やれやれ。

 弥勒菩薩が衆生を救わなかったとしても、宇宙は遠からず熱的死をむかえる。乱数が生成できなくなる。結論はほとんど変わらない。


 乱数を利用するべき理由がここにある。単調増加する時刻を含むあらゆる統制は予測可能性につながり、脆弱性の温床になる。それくらいなら、じゅうぶんおおきな乱数にすべてを託すほうが筋がいい。

 だけど人類は、気を抜くと、いつだって、数として立ちあらわれる識別子に意味を求めてしまう。作成時刻で並びかえられる識別子を希求しては負けつづけてきた。

 それは人類の本質的な脆弱性のひとつで、世界が滅んだ理由のひとつだ。


「しかし、」と、彼は問うかもしれない。「しかし、どんなにおおきな乱数だって衝突する可能性は零じゃないじゃない」

 まさしく。

 畢竟、これはそういう物語だ。

 衝突を心配するのは杞憂だ。

 裏を返せば、衝突したら天地が崩壊するかもしれない。

 古い言語は衝突を未定義動作アンスペシファイド・ビヘイビアーと仕様で定めている。未定義動作が発生したら、鼻から悪魔が出てきても、天から少女が降ってきても、世界が崩壊しても文句は言えない。

「だけど、衝突したらなにが起きるのさ」と、彼は問うかもしれない。

「なにが起きるのかは答えられない。なにしろ未定義動作は未定義だからね」

 ぼくは答えるだろう。

 そして告げるだろう。

「なにが起きたのかなら教えられるぜ。滅ぶのさ、世界が」


 .* .* .* .* .* .*


「きみは不動点として作用する」

 出会ったときからずっと、彼女はぼくをきみと呼ぶタイプの女性だった。

「地下のジャズ喫茶、変われないぼくたちがいた」

「コーヒー、ビーカーで出てきそう」

「計算可能な関数が不動点を持つのは当然じゃないか」

「私たちの出会いを覚えてる?」

「ぼくは運命とか信じちゃう性質タチだから、これはやっぱり運命だと思う」

「きみに告げなければならないことがみっつあって、ひとつめは私たちの出会いは運命ではないということ」

「運命でないなら、なんだっていうんだい?」

「作為よ。いいえ、当為かしら。任意の図書館の任意の閲覧室で、四〇〇番教室以外のすべての講義室で、小劇場だかミニシアターだかの客席で、たまさかのばした指先と指先がふれあい、おたがいの手を握りしめあったのは、すべて、おぜんだてされた偽史フィクションだったの」

「いや、それはまあ、そうだろう。こっちだってしたごころがあってデートに誘ったんだ」

「ふたつめ。私はここではない世界から来た。その世界では、一九八九年に昭和が終わった。本牧は返還され、マイカル本牧がつくられ、最後はイオンモールになりはてた。東京と千葉チバの県境は荒川で、東京と神奈川の県境は多摩川だった」

「県境はこの世界もいっしょだよ」

 アテンション・プリーズ。

 正史において、江戸川が東京と千葉の県境だ。

此方こっちの世界では昭和がつづいている。彼方あっちの昭和天皇は男性だったから、それが長生きの理由だと思う」

「ソ連は、ソ連はどうなったんだい」

「ベルリンの壁が一九八九年に崩れて、ソ連はその二年後に崩壊した。此方じゃ、トロフィム・ルイセンコなんて名前も聞いたことないでしょ。だから、ソ連がまだ存続しているんだよ」

「ま、ま、まさか、富士山に原爆が落ちなかったとか?」

「きみ、適応はやいよね。ふつう、歴史じゃなくてもっと別のこと訊くんじゃないの。富士山に原爆は落ちなかったよ。日本で原爆を落とされたのは広島と長崎」

 ぼくは指をふたつ折った。

「みっつと言ったね。それはちょうど長嶋の背番号にひとしい。さいごのひとつはなんだい?」

「この世界を滅ぼすために私は来た」

 彼女は手を伸ばし、指先でぼくの胸を突いた。

 ぼくは下手な口笛を吹く。

「やれやれ。ぼくの彼女は最終兵器彼女だったわけか。だけど、どうして?」

「さあ。世界夫人の考えることなんか、私は知らないよ」

「カントのつぎはヘッセか」

「向こうの世界じゃ、車輪の上巻が売っていたよ」

「嘘をつくなら、永遠の嘘をついてくれ」

「なにもかも愛ゆえのことだよ」

「ありがとう。ぼくも愛してる。それで、どうやって世界を滅ぼすんだい?」

「私ときみが子作りすると世界が滅ぶ」

「ありがとうは撤回する。いつまでもたねあかしをしないでくれ」

「この世界に本来存在しなかった一意識別子が、きみという不動点を通じて複製される。私ときみの娘は、私とまったくおなじ一意識別子を持って産まれてくる。正確に言うと産まれてこない。産まれるまえに世界が滅ぶ。受精卵がどれくらい細胞分裂したら衝突が発生するかわからないけど、遅くとも着床した段階で未定義動作になるはず」

「セ、セ、セックスだけなら大丈夫なのかい?」

「避妊すればね。でも、私の言葉を信じたうえで、私がコンドームに穴を開けないって信用できるの?」

「きみが異世界転生者で、この世界を爆発させるための特攻ヒト型決戦兵器だと、ぼくは信じるんだろうか」

「信じてくれないの?」

「信じさせたいのかい? それは間尺に合わないような気がするぞ。いや、待って、そもそも、この高層マンションタワ・マンに部屋を借りさせた理由からして納得できないぞ。きみの言うすべてを信じたとして、ここである必要はないじゃないか」

「そういう魔術なのよ。バベルの図書館に収められた本は表題を持つ。それが制約のひとつ」

「鳩の巣のすくなくともひとつに、ラブラブカップルが暮らしてしまうんだな。いかんともしがたく」

「あるいは、住所アドレス苗字ファミリー・ネームを共有する家族ファミーリアがね」

「なるほど、そういう魔術なのか。制約のひとつ、というからには、ほかにも制約があるんだね」

「きみが産まれてくる娘を愛すること」

「まかせてくれ。しかし、そもそものところ、一意識別子の衝突で世界が滅ぶ理由を説明してからにしてほしい」

「言ったでしょ。バベルの図書館が成立しなくなる」

「言ってないよ。バベルの図書館なんて現実には存在しないだろう。地下のあれが比喩的にそう呼ばれたとしても」

「どうかしらね。いいえ、だからこそ、かな。比喩に比喩を重ねるなら、対角線を引くときにバグって数学がおかしくなるかんじかな」

「ちょ、ちょ、ちょっと待って。一意識別子がたったひとつ衝突しただけで、数学全体に障害が波及するのかい?」

「詳しいことは知らない。私はこの世界を滅ぼすために送りこまれた端末ターミナルにすぎないもの。でもさ、棒で叩けば世界なんてぶち壊せる。それが道理でしょ」

「それが道理だけど」

「崩壊は光の速度で伝播し、観測可能な範囲の世界は滅亡する。ここを択んだのは、此方側の世界夫人への接続経路アクセス・パスが存在するから。攻撃効率の問題ね」

「世界が滅んだら、実際、どうなるんだ? 人類は苦しむのか?」

「さあ。基盤が崩壊する以上、苦痛を感じることはないんじゃないかなぁ。というか、世界が滅んだことに気づかないで、普段通りに生活を続けてしまうかもしれないよね」

「いやいや、ちょっと待って。世界が滅び、宇宙が壊れたら、人類も滅亡するのが最低限の礼儀マナーってもんだろう」

「そうかしら。人類は、というより、マクロな生命はにぶすぎて気づけないかもしれないじゃない」

「それならいいか。いや、よくはない。だってそのとき世界は滅んでるんだから」

「たとえば、そうね。この宇宙がシミュレーション宇宙だったら、セグメンテーション・フォールトで止まるかもしれないじゃない」

「そうだね。この宇宙が非同期信号安全アシンク・シグナル・セーフに実装されていることを祈るばかりだ」

「宇宙が止まっても、信号調教師シグナル・ハンドラーのなかで生活は続くってありえるでしょ。生活ってのはそれくらいの強度を持つものなんだから」

「コア・ダンプのなかでだって、いやさ、熱的死をむかえた宇宙でだって、生活していかなきゃいけないもんなぁ。しかし、この世界が計算された世界だったら、彼方側の世界もそうだってことにならないかい」

「ただちにそういう帰結は導かれないわよ。だいたい、シミュレーションかそうじゃないかに意味はないでしょ。さっきの例だって実装依存の仮定にすぎないんだから」

「うん。わからないけど、わかった」

「じゃあ。ねえ、セックスしよ!」

 ぼくの名前はフレバスでもマーロウでもなく、ましてやカンチではなかった。しかし、ここは東京で、これは恋物語ラブストーリーだった。


 .* .* .*


 そうして世界は滅んだ。

 だから、これは蛇足だ。


 自己紹介しよう。ぼくの名前は不動畢竟。

 彼女は髪を肩まで伸ばし、不動結局を名乗っている。

 娘が産まれた。

 不動つまり。母に似て整った顔立ちの赤子だった。


 ところで、彼女が異世界転生できたという事実から、世界間通信が可能だという帰結が導かれる。世界間通信は光速を超越していなければならない。どれくらい速い必要があるかはわからないが、無限に速い必要はないだろう。

 通信があるなら通信規約プロトコルがあってしかるべきだ。

 通信規約があるならネゴシエーションが先立つべきだ。


 一意識別子の脆弱性を利用されてこの世界は滅んだ。脆弱性にはパッチを当てるのが常道だ。時間と空間が複雑にいりくんでいるのが世界であり、脆弱性をふさぐと世界は滅ばなかったことになる。

 遡及的に。

 それは択ばれなかった選択肢の側に立つという表明アサーションだ。

 それが道理だ。


 ぼくの友達が疑問を呈した。

「どうして乱数を一意識別子に利用していいの? 統制された識別子のほうが扱いやすいんじゃない?」

 ここでなく、いまでない時空においても、彼はぼくを友達だと思ってくれるだろうか。

「だけど、衝突したらなにが起きるのさ」


 必要になったのは折衝者ネゴシエーターだ。

 当初、宇宙検閲官コズミック・センサーシップの導入を検討したけれど、権限が強すぎるし、つまりが産まれてこなくなってしまうし、バベルの図書館に所蔵された本の表題の問題が再燃してしまうから見送った。

 この問題は二分木とハッシュ表の関係に似ている。図書館一般で、所蔵された本の数に対して対数時間で本にたどりつくことができる。

 バベルの図書館でもそれは同じだ。

 ほとんど無限冊が所蔵されているというだけで。

 ハッシュ表のハッシュ値は、定義上、ほとんど一意識別子であるべきだ。空間の有限性から、しかし、ハッシュ値の衝突はあらかじめ織りこまれている。なにしろ、原始、空間はいまよりもっとずっと希少で貴重だったから。

 連鎖法と開番地法があり、ハッシュがある。

 初期の折衝者が実装したのは、連鎖法であり、開番地法であり、再ハッシュであり、そのどれでもなかった。

 単に一意識別子のビットをひとつ増やした。既存の一意識別子との互換性が担保できるのが大きかった。

 二百五十六ビットからはじめて、衝突が発生するたび、双方の世界で一ビット増やす。お尻の一ビットに〇を入れる世界と一を入れる世界を分けるのが、折衝者の主たる仕事だった。

 そうやって衝突してきたのがぼくたちの一族だった。そんな葛藤も八〇年代の光と闇のなかに埋もれていった。一ビットずつ、ぼくたちは異なる部族トライヴに変容していった。

 そうして、弥勒菩薩が三千大千世界を救い尽くすまで、折衝者方式でしのぎつづけていくことになる。それは、いやいや、あれもこれも、どこか、恋に似ていた。


 ぼくは彼女に問う。

「きみはどうやってこの世界に来たの?」

 彼女は告げる。

「強く願ったのよ」

「なにを?」

「きみに会いたいって」

 彼女は莞爾と笑った。

「パパ、ママ、そろそろ往くよ」

 少女が告げた。

 しかし、どこに旅立つかまでは言わなかった。


 不動つまり。

 通常の棒より一ビット多い一意識別子を持つ少女は女神殺しの宿命を背負って産まれてきた。

 いうまでもなく、女神とは世界夫人の謂である。

「いってらっしゃい」

「いってきます」

 少女は世界夫人のお茶会におもむき、世界夫人をころし、世界夫人になった。

 少女は女神であった。同時に殺神者でもあった。

「まるで『金枝篇』ね」

「最終兵器彼女はきみじゃなくて、きみの娘だったんだな」

 ぼくと彼女は微笑みあった。


(おわり)

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百年の有限 煙人計画 @vaporoid

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