第16話『帰結』
「やめろぉ!」
聡太郎は怒りの限りに声を張り上げた。
その声は玄関のドアを吹き飛ばし、部屋中に散乱するゴミをはじき飛ばした。
『来…た…ね…』
茉里子の姿をした『女』は、部屋の中に上がり込んで来た聡太郎と茉里子を見て、ニヤリとほくそ笑んだ。
「さ! さおりさん!」
部屋に飛び込んで、聡太郎が最初に目にしたのは下半身を顕わにされ、藤本に弄ばれるさおりの姿だった。
怒りに打ち震え、藤本に掴みかかろうとする。
その刹那!
一陣の風が彼の前に吹き荒れ、吹き抜けると同時に、彼の顔や首、胸や脚に鋭い爪を立てた。それは彼の肌を抉ると同時に、その傷穴に壊疽を誘発する毒を塗り付けた。途端に皮が燃えるような異臭とと共に、彼の肌に黄疸が走り始め、そして瞬く間に黒ずみ始めた。
聡太郎は咄嗟に燃える左手を患部にあてがい、それを焼き付けて封じ込める。重ねて肌の燃える異臭が、室内にむせかえる。
『臭いんですけど……』
『女』は茉里子の顔をして、茉里子の声で悪戯に呟く。
「きゃぁ!」
その途端、後ろに居た本物の茉里子が、小さな叫び声をあげた。
慌てふためいて聡太郎が後ろを振り向くと、さっきまで鮮明に見えていた茉里子の姿が、足元からうっすらと消えかかっていた。
『さっさと消えなさいよ。この偽物が!』
『女』が叫ぶと、一層茉里子の姿は薄く透き通り始めた。
「大丈夫……」
聡太郎は消えかける茉里子の右手を握りしめ、その言葉に力を込めた。と、同時に彼女の姿はその彩りを取り戻し、彼女から透けて見えた室内は、彼女の存在の向こうに消えて見えなくなった。
聡太郎の身体は真っ黄色に染まり、黄ばんだ肌はすぐさま黒く変色を始める。それに抗うように、彼は左手をあてがうが、それはまるで間に合わず、ボタボタと徐々に腐り落ちていく。
聡太郎は目を瞑り、唇を噛み締める。そして徐ろに目を開けると、右眼はおろか、左眼も深紅に染まっていた。と、同時に身体じゅうからボロボロと、黒ずんだ肌が黄ばみを伴って剥がれ落ちた。
そしてその中からまるで新雪のように、一点のくすみもない、穢れ無き真っ白い肌が甦る。
『さすがに一筋縄ではいかないようね! これならどうかしら?』
『女』が呟くや、幹恵とさおりは今以上に高く宙に釣り上げられ、その首元に無数の手が現れ、二人の首を締め上げる。
『おい〜! 茉里子ぉ……』
急に遊び道具を取り上げられた藤本は、そそり勃つ肉棒を振り回し、まるで子供のように二人の足元でドタバタと走り回りながら奇声をあげる。
「何が目的だ?」
『目的? ただ私は生きし者の魂を喰らうだけ……それこそが永遠の愛。ただそれだけの事。あなただってそうでしょ? あ、そうか、あなたは残飯漁りでしたっけ?』
『女』は聡太郎と茉里子の間に回り込み、彼を嘲笑する。
「やめて! もうやめてよ!」
聡太郎の左手を握りしめながら、茉里子は金切り声をあげた。
『うっるさいわね! あんた! 馬鹿犬みたいにキャンキャン鳴いてんじゃないわよ!』
そう叫ぶと『女』は茉里子の頬を思いっきりひっぱたいた。
「きゃぁ!」
霊体と霊体がぶつかる事で発生する磁場が、茉里子を激しく弾き飛ばした。
『あんたも、すました顔してんじゃないわよ!』
『女』は茉里子から離れた聡太郎の左手を掴み、きつく握りしめた。
すると彼の脳裏に黒い闇が蠢き出した。
「な! 何をする?」
それは朦々と湧き上がり、徐々に彼を取り込み始める。急に身体の自由を奪われ、硬直する聡太郎。そして黒い闇はその漆黒の深淵に、一気呵成に聡太郎を引きずり込んだ。
『聡太郎、誕生日おめでとう!』
『聡太郎、男と男の約束だ! 万が一俺が居なくなるような事があれば、お前がお母さんを守るんだぞ!』
『お前は、俺たちの宝物だ……』
聡太郎の脳裏、いや、心の深淵で、今は亡き父の強くも優しかった声がこだまする。
漆黒の闇を抜けた後、気がつけば彼は車の後部座席に座っていた。
周囲を見渡すと、そこには懐かしい光景が見えた。
彼は父親の車の中に居た。シートベルトをしっかりと締め、手には先程サービスエリアで買ってもらったフランクフルトが握られている。
事態を掴めぬ聡太郎は前方に目をやった。
すると運転席と助手席には、在りし日の父と母が仲睦まじく座っている。そして車内には、父親が大好きだった海外のロックアーティストの音楽が流れている。それは彼にとっても耳馴染みのある楽曲。
また、車内に賑わう香りも、彼が幼い頃に慣れ親しんた、心落ち着く柑橘系の香り。
胸を突くような懐かしさと共に、あの日の記憶が彼の中に蘇ってくる。
あの日、そう、聡太郎の十歳の誕生日、彼らは誕生祝いに朝からドライブに出かけていた。目的地は聡太郎がいつも行きたがっていた狗巻湖と、そこに隣接された淡水魚の水族館とふれあい動物園。
『ほら! 早く起きなさい! さっさとしないと置いてくよ〜』
朝、母親の声で目を覚まし、何事かとキョトンとしていると、
『狗巻湖に行くわよ! ほら、ちゃっちゃと準備しなさい!』
一瞬間を置いて、
『うそ? マジで? やったぁ!』
事態を飲み込んだ聡太郎はベッドから飛び起き、洗面所へと走って行った。
そしていざ、狗巻湖へ!
高速道路を使っておよそ一時間半の道のり。
ずっとずっと行きたかった狗巻湖。聡太郎の胸の内は期待と喜びでいっぱいだった。地味ではあるが、健気に生きる淡水魚、そして人懐っこい動物達にもみくちゃにされる、ごく近い未来の映像が、彼の頭の中を占拠する。
しかし、この絵に描いたような幸せに、彼は違和感を覚えた。
これは現在(いま)ではなく、記憶の残像……
その証拠に、細部に目を凝らすとカメラのピンぼけのようにボヤけて見え、その端からは泡となってプチプチと小さな音を立てながら、気化し始めていた。
そして聡太郎は思い出す。
この先に待ち構えている悲劇を……
『危ない!』
父親の咄嗟の叫びと共に、車体の右側から激しい衝撃が彼らを襲う。車は左手のガードレールに直撃するも、勢い余ってそのまま蛇行を続け、その反動で右側のレーンに再度踊りでる。そして、法定速度を遥かに超えた後続車が、聡太郎たちの車に追突する。二台とも宙を舞った後、激しく地面と衝突し、その大半は大破した。
その惨劇を前に後続車両は次々と急ブレーキを掛け、重ねて玉突き事故が多数発生する。
『そ、聡太郎……』
激しく大破した車内で、虫の息の父親の声が聞こえた。聡太郎はその声に目を覚まし、その姿を探す。
目の前にはボンネットから丸ごと押し潰された、父と母の虚ろな顔があった。二人とも完全に身体は潰れ、何故だか顔だけが揃って聡太郎の方に向けられている。
『聡太郎……何故、お前だけ?』
焦点の合わない目をぐるぐると回しながら、父親は口を開いた。
『お、お父さん、大丈夫?』
大丈夫では無い事は聡太郎も分かっていた。しかし、その父親の異様な表情に、幼ない彼はそうしか言いようがなかった。
『……前のせいだ……全部……お前のせいだ!』
『あんたのせいで、私達は死んだ……』
隣にいた母親も血を吐き出しながら、口を開き始めた。
『痛いよう! 苦しいよう!』
母親はだらしなく舌を垂らしながら、叫び始めた。
『お前のせいだ! お前のせいで俺たちは死ななきゃならないんだ! お前が! お前が死ねばよかったのに!』
執拗に聡太郎を詰める父と母。
『ご、ごめんなさい……ごめんなさい!』
彼はそれしか言葉が浮かばない。
『お前は悪魔の子! 産まれて来なければよかったんだ! お前なんか中絶すればよかった!』
尚も責め立てる母親。怒りと狂気に任せて叫ぶあまりに、垂れ下がったままの舌を噛み切ってしまう。その途端、だくだくと溢れ出す血飛沫が、まるで生きているかのように、周囲に飛散する。
『ごめんなさい!』
聡太郎はそう言いながら、無意識のうちにシートベルトのボタンを押す。カチッという音と共に、スルスルと外れるベルト。彼は助手席の座席の裏に足を踏ん張って、割れて粉々になった窓から脱出を試みた。
『ごめんなさい……』
泣きながら、彼は窓から這い出る。そして、飛び出した外の惨状に息を飲んだ。
すぐ右隣には、同様に大破した車が。後方には無限に連なる玉突き事故の大渋滞。至る所に飛散する、車の部品と血痕が、より一層その凄惨さを物語っていた。
『痛いよう……苦しいよう……』
今度は隣の大破した車から、か細い女性の声が聞こえてきた。その声は何処か懐かしくも、記憶に新しい声。
聡太郎はその声のする、隣りの車輌へと目を向ける。すると、大破して鉄の塊とかした車体が一定のリズムで揺れ出し、激しい喘ぎ声が聞こえ始めた。そして、後部座席のリヤガラスから血まみれの腕が飛び出した。
もしかしたら生きているのかも? そう思った聡太郎はその車輌へと駆け寄る。
が、しかし。
粒子状にひび割れたリヤガラスをぬって出てきたのは、血まみれで全裸のさおりだった。
『さ……さおり……さん……』
彼女のその姿に聡太郎は絶句した。
彼女の背後には、同じく全裸の藤本がしがみつき、よく見れば腰周りが同化している。それをいい事に、藤本は激しく腰を振り続けている。
さおりはその猛攻に為す術もなく、ただただ破壊されるばかり。
その肢体はぬらぬらとまとわりつく血で艶やかに濡れ、それを差し置いても、絶えぬ衝撃に全身を紅潮させているのが見て取れた。
『痛い……』
嫌がるその声と表情と苦痛の中に、艶めいた吐息が混ざり合う。
『ああああああああぁぁぁ!』
聡太郎はその光景を受け入れられなかった。
『あ、あなたに関わった人は皆、不幸になる……守ってくれるって言ったのに、私の事なんかほったらかしで、可愛い女子高生と淫らな中年女に夢中になって……ああ! 反吐が出るわ!あんたに、あんたに関わりさえしなければ、私は幸せだったのに!』
さおりが訴えるのと同時に、藤本は彼女の臀部をひっぱたいて、激しく彼女の中を掻き回した。その侵撃に耐え切れず、さおりは涎を垂らしながら、頭から地面に崩れ落ちた。そして、そのまま覆い被さる藤本。 二人の荒い息遣いが、幼い聡太郎の耳を蹂躙する。
『そう! あなたは誰も助けられない、誰も守れない! 私達もあなたのせいでこのザマよ!』
背後からまた女性の声が聞こえた。慌てふためいて聡太郎は振り返る。するとそこには、またもや全裸にされた幹恵と茉里子、そして二人と腰周りが同化した藤本が、身体を小刻みに揺らしながら立っていた。
『あなたは嘘つき……』
『あなたは弱虫……』
幹恵と茉里子も悲痛の声の中に、艶やかな吐息を混ぜて、聡太郎を責め立てる。
『あなたのせいで私たちはこの男に、ずっとずっと犯され続けるの……』
『あなたさえいなければ……』
『あなたが諸悪の根源……』
女三人は口々に彼を非難し続け、それは罵詈雑言へとエスカレートしていく。
『死ね!』
『消えろ!』
『あんたなんか産まなきゃよかった!』
『死にぞこないが!』
その輪に彼の両親も加わり、ひたすらに彼を否定し続ける。
そして気がつけば、彼女達の背後には顔を潰された女たちが列をなし、声なき声で一緒になって彼を罵倒する。
『ああああああああぁぁぁ!』
聡太郎はそれに耐え切れず、大声で泣き喚きながら、その場に倒れ込んだ。その途端、さおり、幹恵、茉里子、両親、そして顔のない女達が、一斉に彼に飛びついた。
聡太郎は為す術もなく、そのまま彼女達の猛攻に身を任せた。
蹴る、殴る、ひっぱたく、噛み付く、髪の毛をむしり取る、首を絞めあげる、あらゆる暴力と暴言が繰り返され、徐々に聡太郎の意識は何も感じなくなっていった。
『僕なんて産まれなきゃよかったんだ……』
『僕は誰も守れない……』
『僕は誰も助けられない……』
『僕はみんなを不幸にする……』
『僕なんか居なくなればいい……』
繰り返される非難に、聡太郎もそう思い始めた。
目の前では彼を産んだ張本人の母親が、嬉々とした表情で彼の首を絞めあげている。
きっとこれが『正解』なんだ……
僕は忌み嫌われし存在。いや、存在なんかしてはいけない……そう、闇に帰ろう……
周囲の声に抗わず、それを受け入れ、聡太郎は目を瞑った。
『死ね! 死ね! 死ね!……』
皆、口々にその言葉を連呼する。それぞれがそれぞれで口走る為、それは息つく暇もなく、とめどなく繰り返される。
「そ……うたろう……さん……」
「……かないで……」
「た……すけて……」
騒音に紛れて、誰かの微かな声が、彼の耳元に届いた。それは騒音ではなく『声』。
生きし者の切に願う、本当の『心』。
その声が届いた途端、彼の身体は激しい熱を発し、激しい炎に包まれた。そしてそれは業火となり、周囲の邪念に引火する。こと如く燃やし尽くされる無数の邪念たち。それらはこの世に残した怨みと未練を断末魔の叫びとし、瞬く間に消え去っていく。
その他の群がる邪念は皆、聡太郎にしがみついて、彼を深淵に引きずり込もうと躍起になるが、あえなくその炎に掻き消され、消滅していく。
その群がるの邪念の中に、際立って白く、穢れのない誰かの手が見えた。
聡太郎はそれに『救い』を感じ取った。
彼は羽交い締めにされながらも、その手を掴もうと必死にもがいて、左手を天高く突き上げる。
その瞬間、彼の周りの業火は全ての邪念を焼き払い、その左手に帰結した。
そして、より一層の炎を巻き上げる。
その炎に誘われるようにして、伸ばされた白き手を、聡太郎は強く、強く握りしめた。
そして深紅に燃える両眼を見開いた。
そしてそこには、優しく微笑むさおりが見えた。
『ぎゃぁぁあ!』
耳をつんざくような絶叫に、聡太郎は目を覚ました。
目を開けると、右往左往する誰かの足と、宙にもがくか細い四本の足が見えた。
聡太郎は眼を見開いて、状況を頭の中で整理した。
後ろを振り返れば、今にも消えてしまいそうなくらいに薄く淡く残る、茉里子の姿があった。
「ごめんね……時間掛かっちゃった……」
彼は茉里子にそう謝ると、彼女に微笑んだ。
茉里子もその微笑みに、安堵した笑みを浮かべて、強く頷いた。
聡太郎は立ち上がると、下半身を顕にじたばたする藤本のこめかみを掴み、その動きを封じた。
彼の脳内にあるのは、独占と執着、傲慢と包囲に溢れ、捻転した『欲愛』。それらはまるで細胞のように分裂と増殖を彼の中で繰り返し、至る所へ生霊を飛ばしているようだった。そう、茉里子の葬儀の際に映りこんだ男の顔も、藤本の生霊のひとつ。
この手の輩は自己愛に溢れ、鋼の精神力を持ち合わせている。人の意見を聞き入れる素養が無い限り、折れる事は無い。
それを悟った聡太郎は、左手を外すとそのまま右手拳を思いっきり、彼の頬に叩き込んだ。不意の攻撃に床に倒れ込む藤本。倒れ込んだとて、まるで彼の精神を具現化したかのように、未だにそびえ勃つ肉棒が聡太郎の目に入った。『それ』さえなければ、この悲劇は生まれなかった。幹恵や茉里子、ひいてはさおりを巻き込む事などなかった筈。
聡太郎は怒りに任せて、その肉棒を思いっきり蹴り上げた。
「はうぐっ!」
我に返るほどの叫び声をあげた後、藤本は股間を押さえ込んで激しく悶絶する。
聡太郎はそれを一瞥すると、宙に釣り上げられていたさおりと幹恵の首元に、それぞれ左手をあてがう。 瞬く間に二人を絞めあげていた無数の手は燃やし尽くされ、跡形もなく消え去った。
急な気道の確保に、さおりと幹恵は互いに激しく咳き込んだ。聡太郎は二人を床に寝かすと、剥ぎ取られていた衣服をかき集め、下半身を隠すようにして重ね置いた。
「茉里子ちゃん、こっちに来て!」
聡太郎は部屋の隅で動けなくなっていた茉里子を呼びつけた。存在を認められた事で、茉里子の霊体としての力がわずかに注がれ、彼女は聡太郎の下に駆け寄る事が出来た。
「お母さんに、ちゃんと気持ち、伝えよう」
聡太郎は茉里子の手を握りしめた。
すると、茉里子の姿はより一層鮮明さを増し、あたかも生きているかのように見えた。
茉里子はその姿のまま、幹恵に触れ、彼女を抱き起こした。
「お母さん……」
明瞭とした、はっきりとした声で、茉里子は幹恵に声を掛ける。
「だ…れ…?」
激しく咳き込みながらも、幹恵は抱き起こしてくれた茉里子に視線を向ける。
「ま……茉里子?」
幹恵は目を丸くして、大声で叫んだ。そして、その手で愛娘の頬を、頭を、肩を掴み、その存在を確かめた。そして強く彼女を抱き締めた。
「お母さん!」
「茉里子!」
お互いに涙を流しながら、その温もりを確かめあった。
そして、茉里子から流れ込む映像に、幹恵は嗚咽を漏らしながら、再度彼女を強く抱き締めた。
「ごめんね……ごめんね……寂しかったよね……ごめんね……守ってくれてたんだね……」
聡太郎が見た茉里子の映像が、そのまま幹恵にも流れ込む。言葉を交わさずとも抱き締め合う事で、互いの想いを二人は分かちあった。
聡太郎はそれを見届けると、すぐさまさおりに駆け寄り、彼女を抱き起こした。
「さおりさん、大丈夫ですか? すみません……遅くなって……」
さおりは聡太郎の顔を見るや安堵したのか、彼に抱き着いて来た。聡太郎はそれを受け入れ、彼もさおりを強く抱き締めた。
「ありがとう……聡太郎さん……必ず来てくれるって信じてました……大丈夫! 安心して。私も幹恵さんも、一線は超えなかったから……救出成功です!」
消え入りそうな声で囁きながらも、さおりは気丈にも聡太郎の背中でVサインをしてみせる。
聡太郎はその気遣いに、目頭が熱くなった。そして抱き締める腕に自然と力が入る。それに呼応するように、さおりもまた彼の腕の中にその身を預けた。
「今日で、終わらせます! 少しだけ、待ってて貰えますか?」
さおりは彼の腕の中で、小さく頷いた。
聡太郎は優しく微笑むと、ゆっくりとさおりから身体を外し、『女』の下へ向かった。
『よくも……よくも……おのれ!』
『女は』彼の足元に倒れ込み、しわがれた声で叫び始めた。
『女』は従えていた怨念や邪念を、全て聡太郎に焼き尽くされ、もはや無防備と化していた。怨みつらみに蹂躙されたその顔は、もはや茉里子ではなくなっていた。
『何故! 何故だ? お前の一番の暗部を突いた筈なのに、何故あの闇から這い出る事が出来たのだ?』
『女』は怒りを顕に、聡太郎に噛み付いた。
「あなたは忘れたのかも知れない。誰かに必要とされる事。或いは誰かが自分を思いやってくれる事を」
『何を抜かす!』
「僕は忌み嫌われし存在。だけど、それでも誰かの助けになりたい。あなたが言うように万人を守り、助ける事は出来ない。だけど、僕が居る事で誰か、或いは何かが少しでも『救い』になるのであれば、僕はこの呪われた人生を敢えて受け入れる」
『小賢しい戯言を……』
つい先程まで、艶やかだった『女』の肌はみるみるうちに老化と劣化を引き起こし、もはや妖怪の域に落ちた。そして顔には黄疸が走り、壊疽を引き起こし、至る所が黒ずみ始めた。
そして彼女の姿は徐々に薄れ始め、周囲に漂っていた低俗霊たちが、我先についばもうと群がり始めていた。
しかし『女』はそれらの低俗霊たちを一喝し、永きに渡る悪霊としての誇りを誇示した。
されど目と鼻と口からは血が溢れ出し、しわくちゃになった口元からは、するすると歯が抜け落ちていっく。いよいよ呂律も回らなくなり、目から溢れ出すものは血から涙へと変容する。
聡太郎は『女』の前に跪き、じっと彼女を見据える。
老婆然、否、妖怪と変容したその醜き容姿。
聡太郎はそれを憐れまない。それは全て枷を外した、無防備な迄に真実の彼女の姿である。それ自体を嘲り、蔑む、或いは憐れむ事など、誰にもその権利はない。もし、何かに憂うのであれば、そこまでに至った経緯と、その事実に嘆く事のみ。
『な! 何をしゅる?』
聡太郎は唇を噛み締め、一思いに彼女を抱き締めた。そして、燃える左手をそっと彼女の頭にあてがう。
めくるめる憎悪と執念の色彩が、聡太郎の中に流れ込んでくる。永きに渡り、人の魂を喰らい続けてきた怨念の辿った軌跡は、今までの類いとは遥かに重く、永く、そして痛みを伴うはず。わずかの瞬間に受け入れるには、聡太郎自身の精神が耐え切れるか、一か八かの掛けだった。
『女』は遠い遠い過去、その絢爛たる美しさと類い稀なる技巧を持ち合わせ、とある娼館において女帝として君臨し続けていた。
宵越しの銭では彼女と戯ぶ事などは出来ず、毎日のように、金にものを言わせる男達が、彼女との一晩を巡り、多額の金を積み上げていた。
一度でも彼女と一夜を過ごした者は、皆、彼女の虜となり、それからの人生を彼女との逢瀬に捧げるのだった。また、力ある者は彼女を妻や妾にと、諸国の金銀財宝を手土産に、彼女の下へ馳せ参じたが、誰一人として彼女を手中に収める事は出来なかった。
もはや齢四十を越え、人並みに言う盛りは通り過ぎたものの、彼女の栄華はまさに永遠に続く、誰しもがそう願い、そして彼女自身、それを信じて疑わなかった。
しかし、悲劇は起こった。
ある夏の盛りに、その娼館で戯んだ兵士が、謎の疫病に罹患し、身体中が壊疽を引き起こして死亡した。 その凄惨さたるや、誰もが目と口を覆いたくなるほどのおぞましさ。瞬く間にそれは伝聞され、時同じくして、その娼館のある色街にもその病が襲いかかった。瞬く間に色街は閉鎖され、そこで暮らす女や奉公人達は食い扶持を失った。
そして、容赦なくその疫病は『女』にも襲いかかる。
罹患した者は地下に隔離され、後は『死』を受け入れるまで、永遠に閉じ込められた。
『女』も例外ではなく、その牢獄に叩き込まれた。
つい数日前迄は誰もが近づく事さえ許されなかった彼女。しかし、今となっては黄疸と黒ずんだ肌に覆われ、激しい異臭と膿汁を垂れ流すだけの汚物と化した。
特に彼女は顔の症状が酷かった。真っ黄色に変色を起こし、黒ずんだ点には無数の蛆が湧きだした。どんなに蛆を払い落としても、それは無限に湧き続け、彼女の顔を喰い荒らしていく。
男達は手のひらを返し、『女』を含め、娼館、色街に従事する者達全てを汚物として扱い始めた。
そして色街は焼き払われる事となる。
それは秘密裏に進められていたが、何処かで誰かが漏らし、それを知った女達がこぞって逃げ出そうとした。しかし、色街は兵士達に包囲され、一歩でも外に出ようとする気配を見せたら、容赦なく撃ち殺された。まさに逃げ場所は無かった。
『女』は、暗い牢獄の中で激しい怒りに打ち震えていた。そのあまりもの扱いの非道さに、憤慨する。早い段階での診察等を入れていれば、何かしら手立てがあったかも知れない。が、しかし、そのような気配もなく、皆、好きなだけ人の身体を弄んだ挙句、不要になれば焼き殺す事など厭わないという非情さ。
あの、枕元で何度も聞かされた愛の言葉は、まさに絵空事……
『お前だけを愛している……』
『こんなとこ辞めて、儂と一緒にならんか? いい暮らしさせてやるぞ……』
『貴女に僕の全てを捧げます……』
ありとあらゆる愛路が、一枚の布団の上で繰り返されて来た。
彼らは皆、『女』の前で永遠の愛を約束する。
そして彼女自身もそれが当たり前で、永遠に続くものだと信じて疑わなかった。
しかし今となっては、それらは全て嘘と化し、過去として流されていった。
『女』はそれらの感傷に浸るのではなく、それが覆された事、そして、それを覆した男達に激しい怒りの炎を燃やした。
『女帝』としての自尊心が、それを水に流す事を許さなかったのだ。
そして、腐れて朽ち果てて行く身体と共に、『女』の心も『怨み』という毒に蝕まれていくのだった。
時は来た。
上の階で泣き叫ぶ女達の声と、何発もの銃声、パチパチと何かが爆ぜる音が、『女』の耳に流れ込んで来た。しかし、彼女には慌てふためく体力など、もう残っていなかった。柱や壁が燃える音と匂いが、徐々に近づいて来るのが分かると、彼女は『怒り』に意識を集中させる。そして自分を身体を重ねてきた男達を、しきりに思い浮かべた。
そして炎は彼女を包み込んだ。
その炎は『女』の情念を飲み込み、そしてその色街に従事した遊女、奉公人達の断末魔の叫びを喰らい尽くし、さらに激しく燃え上がる。その勢いは激しさを増し、色街からはみ出して、街全体に燃え移った。
街の男達は消火に取り組むも、その努力も虚しく、炎は全てを飲み込んでいった。特に色街で戯んでいた男達は執拗に火にまみれ、骨の髄まで焼き尽くされた。
そして炎は一晩かけて、街と全ての人々を焼き尽くした。それぞれの憎しみと恐怖をも食み、炎はその姿を消す。
聡太郎は激しい炎に包まれ、暗闇の中でのたうち回った。その熱さが『女』の怒りの熱量であるかのように、しつこく彼に付き纏った。
そして実際に彼は焼かれ、肌が焼けただれていくのを目の当たりにする。それだけでは無い。鼻や口、身体中の穴という穴にも、炎は回り込み、内側からも彼を燃やしに掛かった。焼け付く気道、五臓六腑も引火し、灼熱の業火が彼を灰塵へと誘う。
「ああああああああぁぁぁ!」
叫んでも、のたうち回っても、炎は彼を燃やし尽くす迄、その勢いを止めなかった。
そして彼は切に願った。
『死にたくない!』
『生きたい!』
と。
そして、それは『女』も一緒だった。
その、『生』への執着が彼女の魂を怨念として、この世に留まらせた。そして死に際までとことん追い詰められ、憎しみと『死』への恐怖を募らせた挙句の、とどめの業火。燃え盛る、逆巻く炎の中で、女はその憎しみと恐怖を魂に焼き付けた。
その結果、多くの生命が同じ恐怖と戸惑いの中、犠牲となった。
しかし『女』も含め、皆、今際の際に叫んだ『生』への渇望は、純粋で唯一無二の心の声。
聡太郎は、『女』とその犠牲者達の最期の想いを、胸に深く、重く焼き付けた。
どれくらい時間が経ったのであろう。
聡太郎は目を開けると、真っ白な天井が彼の視界に映りこんだ。
『どこだ? ここ……』
未だに焼かれる感触の残った身体に、意識を向けると、彼はベッドに寝かされている事に気付いた。そして何かに繋がれた左腕。視界には何かしらの管が透明な袋から垂れ下がり、肘の内側まで続いているのが見て取れた。
『て、点滴?』
聡太郎はその形状からそう判断し、自分は病院のベッドに寝かされている事に気付いた。
「はっ! 聡太郎さん? 目を覚ました? ね!
分かりますか? さおりです! 葛西さおりです!」
急に耳に飛び込んで来たさおりの声。
重ねて視界に飛び込んで来る、さおりの憔悴しきった顔。
「よかったぁ! 三日間目が覚めなかったので、どうしたらいいか分からなくて……」
さおりは、涙目になりながら、声を詰まらせた。
聡太郎はさおりのその声と表情に、口角を上げて見せた。
事件後、幹恵とさおりは協力し合って警察に通報。
藤本は強姦未遂で逮捕され、合わせて茉里子の残した『ひみつにっき』より、彼女の殺害の容疑者として、そして自宅に散らかっていた、殺害してきた女性達の遺物が発見された事により、連続殺人事件の容疑者としても、取り調べを受ける事となった。
その場に居合わせた聡太郎に関しては、二人は口を揃えて
『助けに来てくれた人です!』
と、強く訴えた。
そして気絶していた聡太郎は病院に運び込まれ、過度の栄養失調と過労と診断され、点滴に繋がれていた次第だった。医師の話では生命に別状は無いようで、数時間もすれば目を覚ますだろうとのこと。
しかし、三日三晩目を覚まさない聡太郎に、さおりも病院も手の施しようがなく、途方に暮れていた。
しかし、彼は目を覚ました。
幾度となく誰かの死に際で、その誰かと『死』を追体験をし、何度死んだか分からない。
されど、彼は『死にたくない、生きたい』と願う。
その誰かのその想いも引き継いで。
そして、彼は必ず目を覚ます。
彼には、生きる『権利』と『義務』があるようだ。
一ヶ月後。
幹恵の自宅に仕掛けられていた、盗撮用のカメラと盗聴マイクが発見され、藤本は茉里子殺害の容疑で逮捕された。そして家宅捜査の結果、連続殺人事件の容疑者としても再逮捕という運びになり、前代未聞の連続殺人犯として、世間を賑わせていた。
しかしながら『女』の幇助があってからこそ、成功しえた事件。その矛盾点をテレビやネット、週刊誌等は、面白おかしく脚色して、著しく弄んだ。
さりとて、聡太郎にとってはこれはもう、過去の出来事。 それ以上の情報は彼は追いかけなかった。過去に固執していられるほどの余裕は彼には無かった。
相変わらず、彼の中の『誰か』は『渇き』を欲し、激しい頭痛と高熱で彼を苦しめる。そして獲物にありつけるとなると、彼の左手を業火で燃やし、両目を真紅に染め、いざ、その口を大きく開く。
それは聡太郎が死ぬまで永遠に続くであろう。
幾度となく悩み、逃げ出したい気持ちで発狂しそうになったが、それは彼が『生きる』うえで避けられない運命。毎回、心折れながらも聡太郎はその事実を受け入れていく。そして毎回こう思うのだった。
『渇き』を癒すほどの怨念を作り出さなければいい。
そのチャンスの一旦を僕は担っている。
と。
人は人の中に生まれ、人の中に死んでいく。
人と人が交わらなければ、生きていくことは出来なない。
その最中で起きた摩擦が、怨念や情念、未練を作り出す。
そして その怨念のはけ口となるのも、また人である。
その細部と深淵に手をかざし、それを飲み込む事で怨念の駆逐と、創成を食い止める事が出来るのであれば、それこそが御手洗聡太郎の生きる意義。
とある日、聡太郎は街中で幹恵を見掛けた。
颯爽と歩くその姿は、一ヶ月前の事件を微塵とも感じさせない。そして周囲には仕事の仲間であろう、仕立てのいいスーツに身を包んだ数人の男性が取り巻いている。談笑する声がわずかながら彼の耳にも入る。
幹恵は本来の生活を取り戻した、否、もしくは敢えてその中に身を置いているのかも知れない。どちらにせよ、彼女は歩き出している。その姿に聡太郎は安堵を覚えた。
そして数歩遅れた距離に、茉里子がこちらを見ているのが見えた。彼女は聡太郎と視線が重なると、満面の笑顔で一礼をする。
歩いていた聡太郎もそれに倣い、一度立ち止まって一礼をする。
周囲は急な進路妨害に、非難の目を向けるが、聡太郎はそれを介さなかった。
そして彼が頭をあげた時にはもう、茉里子の姿は無かった。
聡太郎は一度深呼吸をして、再度歩き始めた。
その時だった。
『つぐ……み……』
誰かが彼の耳元で囁き、そして左手の袖を掴んで、彼を引き止めた。
聡太郎は徐に背後を振り向いた。
そこには、いかにも人の良さそうな若い男性が、申し訳なさそうに立っていた。しかし、その姿は今にも消え入りそうで、儚げだった。
聡太郎は咄嗟に、左手で彼の手を握り締める。
そして聡太郎の両眼は、真紅に染まるのであった。
了
憑きし者の渇き 加持稜成 @Kaji-Ryo
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