こんにちはおじさんの失踪
妙依
こんにちはおじさんの失踪
昔……八年前、住んでたところの隣のアパートの駐輪場におじさんが立っていたんですよ、毎日。朝昼。夜は見えなかったんですけど。はい、本当に毎日です。雨の日も、台風でも。最寄り駅の方向がちょうどそっちだったので、どうしてもそこを通らなきゃ行けなかったんですね、だから毎日いるって知っていたんです。
高校を卒業して、文学部に進んだんですけど私、大学の。それで生まれて初めて一人暮らしを始めて、ちょっと郊外にある普通の小さいキッチンがついたワンルームに住み始めたんです。
……あ。それで、五十代後半ぐらいかな、そのおじさん。もうおじいさんといっていいかもしれません。知らないおじさんです。で、そのおじさんがですね、人が駐輪場に来ると決まって「こんにちは」ってにこにこしながら声がけしてるんです、でも絶対無視されちゃうんですよ。
最初は管理人さんなのかなって思って、無視されてて可哀想だなって思っていたんですけど、でも掃除とかしてたわけじゃないし、いつもおんなじ白と灰色のストライプ柄のポロシャツ着てて、雨が降っていても傘も差さないし、その場から移動もしないからさすがに気持ち悪くなってきて、ま、うちのアパートとは関係ないし関わらなきゃいいかなって思ってたんですね。
でもある日、私がその時お付き合いしていた人を家へ呼んだ日に、そのアパートの前を通りかかって、私何の気なく、彼にそのおじさんのことを話したんです。夜だったのでおじさんの姿は見えなくて、少し気が緩んでいたんでしょうね。それで話したら、そしたら彼、面白がって駐輪場の方へ行っちゃったんです。それで、おじさんに向かってこんにちはーって挨拶しだして、やめなよって止めたんですけど、しちゃって。
そしたら暗がりから不意に「こんにちは」って声が聞こえて、私だけびっくりして悲鳴を上げてしまったんですね。彼には聞こえなかったんです。いつもの場所に、おじさんが立っていました。
その時、初めておじさんが人間じゃない何かだと気づいたんです。私別に霊感があったわけじゃないので、全然、想像もしていなかったんですよその時までは。でも、おじさんは人間じゃなかった。
段差を意識せず踏み抜いた時みたく足下からぞっとするような感覚がしました。
どうしよう、こっちが視えていることがおじさんにばれちゃった……って、とっさに考えました。
そして、その時から、自分は呪われて取り憑かれてしまうかもしれないと怖れるようになって……。
ほら、あるじゃないですか、怖い話やホラー映画に、幽霊だと気づいた人を襲ってくる、みたいな。そういうことがあるかもしれないと思って。私、いつ襲われるんだろうとびくびくしだして、彼氏にも相談したんですけど笑われちゃって、あ、この人は私のこと真面目に取り合ってくれない人なんだと感じて幻滅してしまい、彼とは数日後にお別れしました。
おじさんはその間も毎日駐輪場で挨拶を繰り返していましたね。でも、心なしか私の方を意識し始めている気もして……私はもうその駐輪場のそばに住んでいることも辛くなり、引っ越しの準備を始めたのですが、親に何て説明したらいいかわからず、近所に変な気持ち悪いおじさんが住んでいるから他の土地に住みたいと言い訳をして――――お化けだとはもちろん告げませんでした――――引っ越し費用を出して貰いました。
こういう時、ホラー映画だったら霊感が強い友人や霊能者なんかがいて助けて貰うのかもしれないですけど、あいにく私にはそんな都合の良い人たちが周囲にいなかったんで、普通にただ引っ越すことぐらいしか対処法がなかったんです。
で、なんとか一週間以内に引っ越すことができました。ただ、相手はお化けなので、もしかしたら意味がないかも、という気もしていました。だって、もし取り憑かれていたら、ついてきてる可能性の方が高いですからね。
でも幸い、それから周辺でおじさんを見かけることはなくなり、私の元にも現れませんでした。
日常が学業やらバイトやらで忙しくなったせいもあってだんだんと記憶も薄れていき、半年ぐらい経った頃にはあの恐怖もすっかり忘れかけていたようでした。けど、一年が終わろうとしていた冬の晴れた日の夕暮れに、引っ越し先の近くでいきなり「こんにちは」って声をかけられたんです。
振り向くと、ポロシャツを着たおじさんが立っていました。
えっ……て、私は頭が真っ白になって、おじさん、あのおじさんによく似た人でした。ただあのおじさんの顔をまじまじと見たこともなかったので、はっきりとは思い出せなくて、目の前のおじさんがあのおじさんと同一人物なのか判断がつかなくて……私は条件反射的に、とっさに無視をしましたが、後から物陰から覗いてみると、そのおじさん、普通にとぼとぼと帰っていったので、別の人物だとわかり少し申し訳なく思いました。
けど、そのことがあって急に私は、あっちのおじさんが今どうなっているか気になり始めて、あの駐輪場を訪ねたんです。どうしても気になってしまって……。
どうだったと思います?
……いなかったんです、おじさん。
あの駐輪場からいなくなってたんですよ。忽然と姿を消してて、思わず私、あたりをしばらく捜索しちゃいました。一時間ぐらい。アパートの周辺を隈なく探してみたんですけど、おじさんは影も形もなくなってました。以来、いつかまたおじさんが現れるんじゃないかって少し怖いんですけど、今のところは平穏無事に暮らしています。
ところで、余談というか……数年経ってふと調べてみたらわかったことなんですが、その駐輪場では過去に自殺があったそうです。首を果物ナイフで切るっていう。でも、亡くなったのは若い男性らしいので、おじさんと関係があるかは今でもわからないんですけど。
こんにちはおじさんの失踪 妙依 @TAEKAZUMI
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