目標中継地点:月
一野 蕾
逃避行。
夜の街は銀河に続いているんじゃないかと思った。
私の手を引いて走る君の、赤く上気した頬の後ろに広がる夜空。月明かりは明るくて、私たちはこのまま、連なる彗星となって宇宙へ飛び出せるような気がした。
もしも、この逃避行に夜明けが来なければ。
背後に迫り来る死神がいなければ。
ともすると私たちは、銀河の果てまでも逃げられるのかもしれない。
「もっともっと、走れ!」
君が叫ぶ。空気に溶ける寸前、白く染まった息がフラッシュのように光る。
私たちを観測している月明かりを振り切るように、ぐん、とスピードを上げた。
差し伸べられた手を取り、君の言葉に乗った私が、埃と暴力にまみれた家を抜け出したその瞬間から、死神は現れた。月光が地面に映し出した影からぬっと頭を伸ばして、私という逃亡者を捕えんと追ってくる。
私たちは走っていた。どこまでも。どこまでも逃げていくつもりで、見知った街を駆け抜けた。
昼間はいってきますの挨拶が交わされる住宅地。
眠りについた家の合間。
足を取られる街路樹の根っこ。
モグラが顔を出しているみたい。
いつの日か買い食いをしたコンビニ。ブラインドが下りている。営業時間はとっくに過ぎていた。
静かに沈黙する街を、月が見下ろしている。月光が街と空をつないでいる。
夜の街は銀河に続いているんじゃないかと思った。
君が振り向く。赤く上気した頬の後ろに広がる夜空はどこまでも澄んでいて、私たちはこのまま、連なる彗星となって宇宙へ飛び出せるような気がした。
追随してくる死神の手をくぐり抜けて、光の尾を引いて、夜明けすら置き去りにしてしまえるような、そんな妄想をした。
「もっと、もっと、走れ!」
君の背中を追う。
繋がれた手を、強く握りしめた。
空が白んだら、この手を離さなくちゃいけない。私たちは日常へ帰らなくちゃいけない。
この晩がずっと続けばいいのに。
ずっと逃げ続けられたならいいのに。
死神の手が、どうか私の襟ぐりを掴みませんように。
月よ、傾かないで。どうか沈まないで。
まばゆいほどの輝く月に願って、走って、ふと、その輝きの近さに気がついた。
「はっ」
息を飲むと同時に、私と君の手はいとも簡単にほどけてしまった。
それでも私の目は一点に集中していた。
ガラスのウィンドウの中、薄型テレビが並んでいる。営業時間なんてとっくに終えているはずの電気屋で、店頭に並んだテレビだけが煌々と光っていた。
液晶にニュースが映っている。女性アナウンサーがカメラ目線のまま、ワイプに表示された画像について話している。音量が小さいのか消音なのか、声は聴こえない。
トピックスには、『月 地球へ衝突』の文字。
「そうだ。──そうだった……」
嘘みたいにか細い吐息がこぼれて落ちた。
「思い出した?」
横から声がした。君がいるのとは、真反対の位置からだった。
死神はだらんと地面にシーツを垂らして、そこに立っていた。裾が不自然に揺れているから、浮いているのかもしれない。
死神は私を見下ろして、もう一度「思い出した?」と尋ねた。
私は頷いた。
逃避行を始める前の記憶──君が逃避行に連れ出してくれた、その理由を、はっきりと思い出したからだ。
「突然流れた速報を見た。予測できなかった隕石が月の裏側にぶつかって、押し出された月が地球に降ってくるんだ、って。……地球は滅ぶんだって」
この突飛なニュースは嘘をついていない。ガラスの向こうで口をパクパクさせているアナウンサーも、ペテン師なんかじゃない。
月を物理的に欠けさせた天体は、死神の黒衣のように真っ黒だったらしい。存在を観測できたのは衝突する寸前だったとかで、とにかく、水の惑星・地球は、たった一つの衛星・月に押し潰されて砕け散るそうだ。
避けられない運命は唐突にやって来た。
そして君も、突然やって来た。
〝どうせ今夜で全部終わるんだ。なら、行こう!〟
息を切らして、窓の外から手を差し伸べてくれた君に、飛びついて。上着を羽織っただけの私たちは、世界のラストスパートを走り出した。
「……月。すぐに墜ちてくるんだと思ってた」
「墜ちてるよ。今もね」
死神は頭とおぼしき部分を傾けて、頭上を見上げていた。
「月は公転軌道を失い、まっすぐ地球へと落下を始めた。おかげで色々な
巨大な月が私たちを覗き込んでいる。死神の黒いシーツを、銀色に染め上げるほどの月光が降り注いでいる。
私はふとテレビを見、その画面の左角を見た。デジタル表記の時計が、数字を大きくしては、巻き戻る。四は五に進み、六、七を回って、また四へ。ずっと同じワイプが表示され、アナウンサーはずっとカメラを見ている。
「それって、結局、月は墜ちてこないってことじゃないの?」
「いいや。本当の時間で月が地球に衝突すれば、この次元も圧死して消える」
「そう、なんだ。終わっちゃうんだ」
死神に背を向け、私の足がふらふらと動き出す。
死神はついて来ずに、私の後ろ姿を眺めていた。
「君は喜ぶと思っていた。本当の意味で自由になるんだぞ。全てから逃げおおせる。望んだ通りじゃないか」
「そうだね。全部なくなればいいって、望んでた」
「月が墜ちれば全て消える」
「そうだね……」
私はふらふらと片手を浮かべる。前に差し出した手の指の隙間を風がくぐって、不意に、握る肌の感触がよみがえり、ぐんっと前のめりに引かれる。
引力にまばたきした瞬間、目の前には君の背中があった。
振り返った君の頬が、赤く上気している。その後ろには果てしない空があって、月が浮かんでいた。大きな大きな月を目指して、私たちはまた同じ道を走っていた。
目の奥が唐突に熱くなって、私は足を動かすことをやめた。走らなくなった私に気づいた君が減速する。
「どうしたんだ」
立ち止まって繋ぎ直された手を握り返したいのに、うまく力が入らない。こぼれ出る嗚咽を抑えることもままならない。
ただ言葉にできたのは、「いやだ」だけだった。
「わたし、ずっとこうしていたい……月が勝手に全部をなくしちゃうより、ずっと、君と逃げていたかった」
夜明けを恐れながら、それでも手を繋いで走っていたかった。たとえ明日があるとしても、君と逃げるこの時間を永遠に繰り返していたかった。
それでも私の想いなんて知らずに、月は地球へ落下して全てを無に帰す。全てをかなぐり捨てて走った現在も意味をもたずに消える。
悲しかった。たぶん私は生きていたかったのだ。
「……なぁ、競争しよう」
泣きじゃくる私を、君が抱きしめた。そして離れる。手が遠のく。
「えっ?」
ほどかれた腕が虚空を切って、私は同じ高さの目線を君へ送った。
君は笑って、月を指さした。
「動いてるように見えないけど、月は今もどんどん近づいてるらしい。ずっとずっと走り続けたら、もしかしたら月面着陸とかできちゃうかもしれないよな。どっちが早く月に着けるか勝負しよう」
そう言って、私の横に並んだ。接した肩が、とん、と意図的にぶつかり合う。
「月は地球の六分の一の重力だそうだ。一回のけんけんぱで何メートル移動できるかな。宇宙はラズベリーの匂いがするみたいだから、月の裏側まで確かめに行こう。……ずっとずっと、逃げていこう。遠くまで」
君は笑っている。涙は流れるのをやめて、私の頬にも笑みが宿っていた。
君は生き尽くそうとしている。空想を並べて、私と一緒にどこまでも行こうとしてくれている。私たちに立ち止まる時間なんてなかった。
オイ! ——後ろから乱暴な声。
振り向いた先には、見慣れたずんぐりとした体形の男が立っていて、私たちを睨んでいた。
やべっ、と言って君が走り出す。私の手を取って。
私たちは再び手を握りながら、夜の街を走り始めた。月との距離がじわじわと縮まっていき、月明かりが消える。闇がどんどんと深くなる世界で、街灯の光が星のように灯っていた。
夜空はもう見えなかった。けれども私たちは顔を見合わせ笑っていた。
逃避行の繰り返しの中で、いつかは月に至り、砕けた月の裏側へけんけんぱで行って、宇宙へ飛び出し、その匂いを知るかもしれない。連なる彗星にだって、なれるかもしれない。
死神の真っ黒なシーツのような闇に抱かれ、私と君は逃げる。
そして闇が離れる。
再び戻った月明かりの街を、また、手を繋いで逃げ出した。
『目標中継地点:月』/終
目標中継地点:月 一野 蕾 @ichino__
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