第8話

「お客さん、こんな夜更けに何処へお出かけですか? 私、申しませんでしたっけ? 夜の海は出歩かん方がええって……」


 背後に迫る女将の声。その声にキリキリと削り込むようなノイズ音が重なる。

 そして、そこから一刻も早く逃げ出したいのに、まるで操られるかのように、私の身体はその声に振り向いてしまう。

「お客さん……人の言いつけは守らんといけんのではないでしょうか?」

 暗闇の中から歩み寄る女将。ずり落ちそうなほどに着崩された着物から、露わになった肩と足下。それは暗がりの中でも、異様なまでに鈍色に艶めいていた。そしてその中を泳ぐ黒い点は、シャットダウンの時間を過ぎても尚、肌色と鈍色を交互に明滅させる。それはおぞましさというよりも、触れてはいけない毒性の淫靡さと、触れずにはいられない妖艶さを併せ持っていた。そう、まさに花魁のような佇まい。

『この女は別格……』

 私は悟った。他のヒトガタはシャットダウンしているはずなのに、この女だけはこの時間を過ぎても動き回っている。

『私はこの女に殺されるのか……』

そんな恐怖が頭をよぎり、私の身体はより一層硬直する。

 いったい、どうすればいい?


「言うこと聞かん子は御仕置じゃね」

 ロビーを練り歩く女将。そしてその彼女の歩く足下から、一本、また一本と鈍色の触手のようなものがせり出してきた。更には内側から膨れ上がるように膨張する彼女の身体。膨張した肌と触手は黒い点が集まる事で紅潮し、まさに巨大な蛸のような姿へと変貌する。

 私はそれを目にした途端、直感した。

『一巻の終わり……私はここで終わる……』

 と同時に金縛りにあったかのように身体は動かなくなり、視線は蛸の怪物と化す女将の姿に固定される。

徐々に迫りくる女将。脚も触手もない交ぜになり、うねうねと何本もの触手を蠢かせながら、彼女は私の目の前に辿り着いた。

 その刹那,彼女の触手は物凄い速度で、私の左右の首元を掠めた。それは分厚い自動ドアのガラスをひび割れさせるほどの勢い。更にまた次の触手、また更に次の触手が同様に薄皮一枚を隔てて、私の周囲を掠め飛ぶ。その猛攻に私は文字通り動けなくなった。

 そしてその中の一本が、ガラスにへばりついたかと思うと、吸着したままバリバリと音を立てて、ガラスを破砕しながら引き戻された。私は未だ動けないままに、その破片を浴びてしまう。その破片は顔や手を掠り、幾筋もの赤い線を引き、そして滲ませた。

「どこまで耐えられるかしらねえ? 怖いでしょ? 恐ろしいでしょ?」

 女将は私の目の前にその顔を寄せて、にやりと悪戯な笑みを見せた。

 切り傷に眉を顰めながらも、私はその顔に凝視を強いられる。

『え?』

私はその顔にどこか不自然さを覚えた。

禍々しく微笑むその顔に、まるではめ込まれたような漆黒の目。それは不自然なほどに大きく、そして必要以上に潤んでいた。まさに、今にも何かが溢れ出さんばかりだった。


『泣いて……る……?』

 そう察した途端、鈍色と肌色が明滅する肌が、逆に人肌に滲入する鈍色のさざ波に見えた。

「そろそろ観念なさいな……もう、お遊びはここまで……」

 そう言って、ケラケラと笑う女将。だけど、禍々しい笑みに繕われたその表情も、何処か無理があった。口角は上がっているものの、それは笑顔ではない。無理やり作らされた笑顔。

ただただ引きつっているに過ぎない。

『一か八か!』

 私は自分の推測に背中を押され、自力でその場に立ち上がった。そして蛸の怪物と化した女将と対峙する。

「あら、どこにまだそんな余裕が残っていたのかしら?」

 私たちと同じ速度と滑らかさで発せられる声、そしてモブキャラとは思えない程の語彙力。更にはこの時間帯まで動き回れている事、私はそれら全てに納得を得た。


『女将は……人間だ!』

 私はそう信じ、蠢く触手ごと、膨れ上がった身体の彼女に抱き付いた。

 そして抱きしめた瞬間、それは確信に繋がった。

 私が顔を預けた彼女の首元、丁度右耳の下辺りに、不自然な膨らみを発見したのだ。そう、その膨らみ、は私たちに共通して埋め込まれている、あの金属片の証。私はそれに怒りと哀しみを覚えた。

「ね! 怖かったよね……痛かったよね……ごめんなさい……助けてあげられなくて……」

 彼女を強く抱きしめながら、私は過去に通りすがった、私と同じ被害者達の事を思い浮かべた。そして目の前の女性もきっと、無理やりこの世界に連れてこられて、現実を知った途端、奴らに捕まったんだろう。そして殺される代わりに奴らに何かを施され、こんな姿に変えられた……きっとそうだ。私にはそう思えてならなかった。

 触手も含め、数倍にも肥大した女将の身体。私はその触手に絡めとられる事も、肥大した身体に締め付けられる事も承知の上で、怪物の下に隠れる彼女の痛みや悲しみ、そして誰にも打ち明けられなかった孤独と恐怖に、手を伸ばした。誰も私は助けられない。だけど、その気持ちだけは共有と共感ができる。それで攻撃されて出来た傷は、その女性の心の傷に比べればかすり傷。その程度の傷なら敢えて受けよう。

 私は彼女の背中まで手を回し、早鐘を打つ自分の胸を、怪物ではない彼女に向けて押し当てた。

「辛かった……ですよね? 私も一緒です……」

 抱きしめた彼女の耳元で、私はそう囁いた。

 すると……

「こ、怖かった……」

 女将は自分の声を深淵の淵から絞り出した。

と同時に、蠢き続けていた彼女の触手は、緩やかにその動きを止める。それに伴い、私は回していた手にもっと力を込めて、彼女を抱き寄せた。

「た、助けて……」

 ノイズ音の中にはっきりと聞こえた彼女の本心。

『もしかしたら、私が強く願えば、この女性を助けられるかも知れない!』

 私はそう信じ、彼女が普通の人間に戻った姿を想像し、そしてそれを願った。

するとだらりと垂れ下がっていた触手がするすると縮み出した。

「大丈夫! 一緒に、一緒に現実に戻りましょう!」

 私は間髪入れずに、彼女にそう叫んだ。


 しかし……

「ひ……ひいいいいいい!」

 悲痛な叫びを上げながら、彼女の身体は急に小刻みに震えだし、地団太を踏むように暴れ出した。そして私の手を振りほどき、更に私を力強く突き飛ばした。

「きゃ!」

 その勢いで、私は破砕した自動ドアに叩きつけられた。

「痛っ!」

 激しく打ち付けられた背中に鈍い痛みを覚えながら、私はもう一度彼女を仰ぎ見た。

「え?」

 激しく振戦を繰り返す彼女の肢体。体中に蠢いていた黒い点は、一斉に彼女の頭部に集中し、瞬く間に彼女の顔を占拠する。更に黒い点は、その中で激しく旋回を続ける。やがて彼女の顔は真っ赤になり、真っ黒な目は白濁をし始めた。そしてその濁った眼の中に、うっすらと黒い瞳が浮かび上がり、まっすぐに私を見据えた。

「に、逃げて……」

 私には間違いなく、そう聞こえた。

 と、その瞬間、激しい破裂音と共に彼女の頭が粉砕された。飛び散る血飛沫と肉片。

「きゃあああ!」

 その飛沫は容赦なく私にも降りかかる。更には飛び散った骨や歯の破片が、私に手や頬を鋭く斬り付けた。

 一緒に逃げるという、私の儚い願いは一瞬にして粉砕された。

私は彼女を助けられなかった。人間に戻してもあげられなかった。きっと、奴らが人間に戻ろうとした彼女を『破壊』したんだ……どんな仕掛けか分からないけど、自我を取り戻そうとすると破壊する、そもそもそんなからくりだったんだろう……

 故に、私が彼女を死なせたのかも知れない……

「ご、ごめんなさい……」

 彼女に対して私が絞り出せる言葉は、それしかなかった。

 深い悲しみと謝罪と恐怖もさることながら、私はそれ以上に、奴らヒトガタに激しい憎しみを覚えた。

勝手に連れ去って、好きなだけ実験材料として利用しておきながら、不要となれば情け容赦なく斬り捨てる、その無慈悲で傲慢な思考回路が許せなった。


絶対に逃げる! 絶対に現実に帰るんだ!


私は目の前に倒れる、頭の無い女将の死体にそう誓い、約束した。

そして、破砕した自動ドアのガラスを蹴破って、外へと飛び出した。






私は洲崎湾の海岸に向かって、ひたすらに走った。

そこに辿り着くまでには、音月荘を囲むようにして無数のヒトガタと、黒い車が渋滞していた。しかしそれら全てはシャットダウンしており、固まったまま、私に見向きもしなかった。私はその中の数人を、怒りに任せて殴って蹴って、数台の車も叩いて蹴って傷を入れてやった。

正直、それだけじゃ足りない。でも今はそんなことをしている場合ではない。

私は逆巻く怒りを抑えて、海岸を目指す。


スマートフォンの時計は、もうそろそろ三時を迎えようとしていた。あまりもう時間が無い。私は焦りと汗にまみれながら、目的の浜辺へ足を踏み入れる。

音一つしない砂浜。

 海さえもシャットダウンしたのか、打ち寄せる波の音さえも聞こえてはこない。

 私は波打ち際に立って、足元に溜まる海水に目を落とした。

「え? なんなの? 気持ち悪!」

 私はそう口走った。

目の前の海水は『水』ではなかった。それは女将が持ってきたお酒や、勧めた温泉のような半固形状のゼラチン質で、その中に無数の黒い点が稚魚のように点在していた。私は触れようとした手を戻し、波打ち際から少し離れて、周囲を見渡した。


 海岸とは名ばかりの、ヒトガタたちの成分で模された、偽りとでたらめな砂浜。その全ては時が止まり、物音ひとつしない、まさに次元の隙間、いや、落とし穴のよう。

 まるで絵に描いたような水平線。星一つない真っ暗な空は、まるで有り合わせの板を黒く塗った張りぼてのようだった。こんな世界に歓喜していた自分が馬鹿らしく、腹立たしく思えた。

『やつらの思い通りになんかさせない! 私たちを食い物にする奴らになんか負けない』

 そんな闘志にも似た強い気持ちが、私の中に沸き起こる。

 その時だった。

 不意にフラシュバックする、いつかの記憶。そしてその記憶の断片が、順不同で私の脳裏を掠めていく。その量と深浅、温度差に、私はその場に立っていられなくなった。

「う……」

 砂浜にうずくまり、私は記憶の残像と対峙する。


 その残像の中の私は、転落した車の中に閉じ込められ、身動きが取れない状態にあった。

それはその数分前に真っ黒の車に追突され、数十メートル下のこの海岸線に、私と宗佑が乗った車が叩き落とされた時のもの。シートベルトをはめていたが故に、車外に放り出される事は無かったが、、二人ともしたたかに身体を打ち付けた。更には墜落した衝撃で車体前方は大破。その影響でハンドルとダッシュボードが胸の所まで迫ってきて、私たちはまさに挟まれた状態だった。その中で私は意識朦朧としながらも、幸か不幸か気を失わずにいれた。

そして今の状況を整理しようと、目に映るもが現実か否か、しきりに篩にかけていた。

その最中、激しいノイズ音が耳を貫く。そして、フロントガラスに禍々しい発光が照射される。その光はそのガラスをすり抜けて、私自身に降り注がれた。

私はその眩しさに目を細める。そしてその光に嫌悪感を感じると共に、それに見つかってはいけないという緊張が走る。だけど思うように動かない身体。焦りと鈍い痛みだけが、心と身体を駆け巡った。

『嫌! 絶対……』

 そう必死に心の中で叫ぶも、まるでそれを聞きつけたかのように、その光はノイズ音と共に私を包み込み、そして飲み込んだ。


 私はその光に抵抗出来ぬまま、車の外へ連れ去られた。本当に連れ去られたのかは定かではないけど、そこは車の中ではなく、一面真白な世界。そこで私は身体を自由に動かせないまま、横たわっていた。

この真白な世界には既視感があった。そう、現実に目覚める前に、悪夢だと思っていた夢の世界だった。これは夢ではなく、記憶だったんだ。今の私はそう認識する。

 そしてキリキリと軋むように脳内に響くノイズ音。更に右耳の下と右足のくるぶしに激痛が走る。その痛みに悶絶しようとするも、私は動けないままそこに横たわる他、何も出来なかった。また、その痛みに紛れるようにして、その二カ所から流れ込む何かの意思。

 それは抵抗する私を抑えつけるように覆い被さり、そして私の心の内の洗いざらいを見渡そうと、私の深淵にまで入り込もうとする。私はそれに必死に抗った。だけど、私の抵抗などこざかしいと言わんばかりに、その意思は私の中に白い靄を振り撒いて、『今までの私』を、その靄の奥底に追いやった。


『全てを捨てて自由になれ……』

『思いの流れるままに……』

『我々と一つになれ……』

 甲高いノイズ音と共に、それははっきりとそう言った。

 今まで聞き取れなかったあの声が、今になってやっと、はっきりと聞き取れた。

 

 そう……この恐怖の瞬間を、過去の記憶として、私は思い出した。それにより、白い靄に亀裂が生じ、より一層の記憶の破片が、槍のように私の胸中に降り注いだ。


 そして私は断片的な記憶を基に、『私』に推測を立てた。


 私は篠田早妃。

 とある日、私は付き合い始めた会社の上司、沖田宗佑との初めてのドライブデートで、洲崎湾を目指した。一通り海辺のデートスポットを堪能したその日の帰り道、私たちは奴らヒトガタに目を付けられ、こちらの世界に連れてこられた。

だけど連れ去られたのは私だけ。奴らは私の体内に金属を埋め込み、過去の記憶を遮断し、この生ぬるく理想的な世界に私を投げ入れた……

それが、今の私……

徐々に繋がっていく記憶の糸。それらが緊密に結び合ってゆくことで、この仮定は確定へとその色を濃くしてゆく。


そしてもう一つ。今の私は本当の『私』から抜け出した、否、奴らに抜き取られた魂だけのような存在。本当の私に戻る為には、『私』に戻らなければならない。その『私』はここにいる。もうそれは目と鼻の先!

その距離は近い。そして『私』が、私を呼んでいる。だからこんなに確信して言えるんだ。

私は迸る記憶の槍に圧倒されながらも、今一度立ち上がった。

そして立ち上がったその視線の先には、海岸沿いにごつごつとした岩肌が続き、洞穴の入口と思しき、隙間が見て取れた。

そこが、本当の『私』が眠る場所。

そう確信して、私は走り出した。





「嘘? 気持ち悪! 最悪……」


 私は洞穴に足を踏み入れた途端、その内部のおぞましさと気色悪さ、そしてヘドロのような臭気に躊躇した。

 その内部は空洞になっており、ひたすら下へと道は進む。流石に光の差し込まない真っ暗な道のりに、私はスマートフォンのライトを点灯させた。そして照らされた洞穴内は、まさに地獄の様相を呈していた。

 地べたも、壁になる岩肌も、あのゼラチン状の液体がびっしりと吹き出し、ぬるぬるてらてらと光り輝いていた。無論、その液体の中にも無数の黒い点が浮遊している。

『時間が止まっている間は大丈夫!』

 敢えてそう声に出して、私は先を急いだ。

 どんどん地下へ降り進むにつれて、狭くなる洞穴内。寝そべらなければもう、前には進めない。四方を濡れる岩肌に囲まれながら、私は不安に襲われる。もしかしたらこの先は行き止まりで、ややもしたら私はここに閉じ込められるのか? そんな恐怖に発狂を起こしそうになる。それに併せて、激しい臭気が鼻腔を破壊に掛かる。その臭気はまさに心療内科で処方されたあの薬と同じヘドロの匂いで、それを更に数十倍に濃縮し発酵させたような、息をする事さえ躊躇する勢い。

『臭くない! 臭くない! 臭くない!』

 これも声に出して、私は至極浅く息をつきながら、その狭い道程を突き進んだ。


 そして……


 最下層まで降りたかと思うと、目の前の視界が急に開き、そこには果てしなく巨大な地下空洞が広がっていた。私は立ち上がって、スマートフォンのライトでその先を照らした。


「なにこれ……」

 私はライトの光に照らされた光景に息を飲んだ。


 そこには、無数のヒトガタたちが天井高くまで、まるで柱のように群がっている山が、数えきれないほどに、この洞穴内に無限に連なっていた。更にそれらのヒトガタは皆、全裸で、男女の区別が付けられない体躯をしており、闇に浮かぶその姿は不気味そのものだった。

 恐る恐る近寄って見ると、下に配置されているヒトガタほど黒い点が少なく、目も鼻も口もその原型さえ留めていなかった。更に上方に目を向ける。そこに群がるヒトガタは、上に行けば行くほど黒い点が密集し、目鼻立ちも人間のそれに近づいていく。彼らのその形相と佇まいは、まるで何かの恩恵を授かろうとしているかのよう。

この無数の山には、その恩恵に対して、切望と懇願を希求するヒトガタたちの強い『意思』のようなものが感じ取れた。そしてその意思の最頂点に目をむけると、遥か上空に『誰か』が、浮かんで見えた。

そう、そこに浮かぶのは『人間』、ここに連れてこられた犠牲者の本体。

 私はその光景に、お昼過ぎに見た夢、否、甦った記憶の最期の光景を思い出し、そう確信した。

 奴らは私たち人間から、何かしらの情報や、養分を摂取することで自らの命を永らえているかのよう。遥か上空に浮かぶ私たちの身体からは、絶えずその情報ないし養分が抽出され、下に蠢くヒトガタたちは、それを競い合って享受する……そして私たちは、身体が潰えるまで搾取され続ける……どんなシステムかは分からないけど、そんな憶測が私の脳裏をよぎった。

 だからきっと、この無数のヒトガタの山のどこかの頂点に、私が居るはず……

 

 と悟ると共に、私はハッとした。

 私がこの山の頂点に居ると言う事は、これだけの山の数ほど、私と同じ境遇の人がいる……と言う事になる。だけど、この場所に居るのは私だけ……皆、この現実に気付かないままか、或いは気付いても消されるか、女将のように何かを施されているかのどれか……どうにかして知らせたい……助けたい……見殺しにしてきた女性たちの悲鳴が脳裏に甦る。


 しかし……


 私はスマートフォンの時間を確認した。

 午前三時五分。

 あと、一時間も無い!

 このまま助ける方法を考えていても埒が明かない。それにもしこのまま朝を迎えてしまったら、私はこの無数のヒトガタに囲まれることになる。それにほぼ逃げ場はない。きっと奴らはこの暗闇などものともせず、。きっと人間の『何か』に敏感に反応を示すはず……

 そうなれば、本当に一巻の終わり……


 私は慌てて、自分が浮かぶ山を探し始めた。一つ一つm連なるヒトガタの山の頂点に目を向けたが、それは目視するにはあまりに距離があり過ぎた。スマートフォンのカメラを使っても、ライトとカメラの連動がままならず、目視には至らない。


 私はしきりに昼間見た記憶の欠片を思い浮かべた。

 あれは少しだけ潮の香がした……と言う事は海の近く。そして、目と鼻の先に天井の岩肌が見えた……と言う事は頂点が天井に近い所……


 私は今一度、遥かに続くヒトガタの山々にライトを照らし、その天井との距離を目測で測っていった。


「あれか!」

 直感的にも私はそれだと確信する。それは右側の壁沿い、一番海側に近い位置にあり、それでいて他のヒトガタの山よりも遥かに奴らの数が多く、その分その高さも他の山よりも群を抜いていた。

 私は急いでその山に駆け寄り、いざ、駆け上ろうとした。しかし、緊密に、複雑に絡み合うヒトガタの山。更にその表面は黒い点が泳ぐ、あのゼラチンにまみれている。時間が止まっているとは言え、素手で触るのは些か躊躇を覚えた。

だけど、そんな事言ってられない!

 時間は刻一刻と迫っている。

 私は意を決して、そのヒトガタの山に手を伸ばした。そして、ヒトガタの肩や頭、腕や足を踏み場にしながら、頂点に浮かぶであろう私を目指した。幾度となく滑り、登った数歩を無駄にしながらも、私は一歩一歩、頂点を目指す。

 しかし……

 ヒトガタの山の高さを、目測で二、三十メートルとタカを括っていたが、ほぼ垂直に登るのは容易ではなく、その高さは永遠とさえ思えた。

更にぬかるみ、滑りやすい足場と、掴みどころのない緊密なヒトガタの連なりは、より一層踏破する条件を悪くさせる。

だけど、だけど!

私は帰るんだ! 本当の宗佑が待つ本当の現実へ!


何度もそう自分に言い聞かせ、さらに上を私は目指した。


そして……

「ううううぶああああああ!」

 誰かの呻き声が洞穴内に響き渡った。それに連なるようにして、他の誰かの呻き声が続き、そしてそれはやまびこのように連鎖する。それに連動して蠢き出すヒトガタの山。緩慢ではあったが、緊密に絡み合ったヒトガタたちは歯車のように蠢き出し、時間を取り戻した奴らは、我先、我先にと頂点に浮かぶ人間に辿り着こうと、その人だかりの山をよじ登り始めた。


 朝が来た。

 奴らの時間が動き出した……

私は間に合わなかった……

 そして私は手元に纏わりつくゼラチンに目を凝らした。そこにはまるで孵化したばかりの稚魚ような黒い点が、緩やかに動き始めていた。

『やばい!』

 私は咄嗟に手と足に力を込め、他のヒトガタ同様に頂点の私を目指す。

「誰も気付かない……きっと誰も気付かない……」

 誰にも聞こえないような声で、何度も囁きながらヒトガタの山をよじ登る。時折誰かの真っ黒な目が、私を見据えようとしたが、私はそれを介さずに無心で登り続けた。


 無我夢中で登り続ける事数十分、やっと『私』らしき姿が、視界に入ってきた。

「このまま誰も気付かない! 私は帰る!」

 その声はもはや聞こえていたかもしれない。だけどそれ以上に亡者のように喚く、ヒトガタたちの声がうるさすぎて、私の声はそれにかき消された。


「うぐわあああああああ!」

 どこからか、怒声とも取れる大勢の呻き声が響いてきた。そして遅れる事数秒後に、遥か後方のヒトガタの山が崩壊し、全員が岩盤に叩き落とされる音が洞穴内に轟き渡った。

 きっと皆が我先にと急いだ為、絶妙なバランスで均衡を維持していた、ヒトガタの山が崩れ去ったんだろう。

 私の山もその可能性は否定できない。一人のヒトガタの暴挙で、全てが壊れてしまう恐れもある。『私』に辿り着けぬままそうなってしまうと、一巻の終わり。だけど、最後の最後に私が他のヒトガタを蹴散らして、この山に揺さぶりを掛ければ、邪魔するものが減って助かる可能性も高くなるはず。ヒトガタたちの浅ましさを自分の糧にしながら、私は『私』へと急いだ。

『あと、もう少し!」

『私』の姿が確実に目視できる高さまで、私はやっと登り詰めた。このまま事なきを得たら助かるかも知れない! そう、胸が高鳴った矢先だった。


「早妃……いかぁぬあいで、くうれいよおお」

「篠田すうわぁん……あたらすいい居酒屋、見つけたのお」

「篠田くうん、見積書、まあだかああな」


 聞き覚えのある声が、背後から聞こえてきた。その声につい、反射的に私は振り返ってしまった。

しまった!

 そう後悔してももはや後の祭り。眼下には崩れた福笑い状態の、こちらの世界の宗佑、芳野さん、そして課長たちが迫っていた。私の反応に、でたらめな位置に浮かぶ彼らの目と鼻と口が、笑っているのが見て取れた。

見つかった……

そして俄然スピードを上げて私に迫ってくる。このままでは彼らに捕まるのは時間の問題!

どうすれば! どうすればいい?

 必死によじ登りながら、私は頭をフル回転させた。この状況下で上手く三人を蹴落とす自信はない。更に言えば私が本物の『私』に辿り着くまでに、三人が私に辿り着くほうが遥かに早い。

 そうこう考えている内に、誰かが私の右足を掴んだ。またもやあたしは咄嗟に振り返ってしまう。

「愛しいてるうよお、早妃ぃい」

 私の脚を掴んだのは宗佑だった。私は蹴り落とそうとしたが、宗佑の腕力の方が強く、逆に引き寄せられそうな勢いだ。


万事休す!



「きゃああああ!」

 私が絶体絶命のピンチの最中、どこからともなくヒトガタではない人間の、女性の叫び声が洞穴内に響き渡った。

 あまりに急な叫び声に、一瞬洞穴内は水を打ったような静けさになった。

「早妃さん! 逃げて!」

 その声は真理さんの声だった。

「え? 真理さん?」

彼女の声に気付いた他のヒトガタの山が倒壊する塔の如く、その声の方向に崩れていった。

それは一本に留まらず、二本、三本と瞬く間に崩れていく。

そして今一度足下に目を向けると、私の右足を掴んでいた宗佑も消えていなくなっていた。きっと真理さんの声に飛びついたのだろう。同様に芳野さんも課長もそれに倣ったのか、二人とも私の視界からは居なくなっていた。

そして、本物の私に群がる山も遥か下方から崩れ始めていた。

皆、真理さんの声に導かれるようにして、欲求の矛先を急遽変更した模様。眼下にはうねるヒトガタの海が見えた。皆、届きそうで届かない遥か上空の誰かよりも、地べたに転がる誰かを選んだようだ。

「真理さん……ごめんなさい……」

 真理さんは私の事を見守ってくれていたのか、それともここを知っていて、私を助けるためにここに駆け付けたのか、その是非は分からない。だけど彼女は自分を犠牲にしてまで私を助けてくれた。その想いと、このチャンスを逃してはならない!

 私は真下に目を向ける。ヒトガタたちは踵を返すように離れていき、もはや数名しかぶら下がっていない有様。このままでは間もなくこの山、否、一本の糸も間もなく切れてなくなってしまう。

「落ちる!」

 そう悟り、私はわずかに残るヒトガタの頭や手を蹴り進んだ。

だけど、もう遅かった。

私は右手を天高く伸ばすもヒトガタの山は崩れ去り、落下を余儀なくされた。

この高さから地面に落ちたら、きっと生きてはいられないはず。

そしてこのまま地面に叩きつけられる、その恐怖にもがいた。更に私の脳裏には、ここでの記憶と思い出した記憶が、走馬灯とノイズのようにフラッシュバックを繰り返す。

まさにそれは『死』へのフラグ……

『嫌! 死にたくない!』

覚悟なんて出来なかった。死にたくない! 私は帰る! 宗佑と幸せになるんだ!

闇に墜ち行く風圧の中、私はしきりに心の中で叫んだ。

絶対に嫌だ! 死にたくない!

もう、それしか出てこなかった。諦めが付かぬままに、私は今一度天高く両手を掲げた。


その瞬間、誰かが私の右手を掴んだ。そして私はその手元を仰ぎ見た。



 私の右手を掴んでいたのは、紛れもない、本物の『私』だった……


 そして私と『私』は、まばゆい白い光に包まれた…… 












『……き! 目を……まして……』

『お願いだから……を開けてくれないか……』

 遠くで誰かの声が弾けた。耳元には甲高いノイズ音が鳴り響いていたかと思ってたけど、それはいつの間にか私から遠ざかり、そして聞こえなくなった。


「早妃……目を覚ましてくれ!」

 その声は、私の耳にはっきり届いた。そしてその声は、あのノイズ音を抑え込んだ声ではなく、それとは別世界の生身の人間の声。得体の知れない何かが擬態した、模倣した声ではなく、正真正銘の人間の声。私はそう実感する。


「早妃? 早妃? 目、覚まし……た?」


 哀願の果てに、驚きのあまりの絶句。

 私が目を開けた先に居た男性は、驚きのあまりに固まっていた。私はまだ目の焦点が合わず、おぼろげにしか見えなかったが、その驚きぶりはまるで手に取るように伝わってきた。


「早妃! 早妃!」

 目の前の男性はそれ以外の言葉を忘れてしまったかのように、何度も、何度も私の名前を呼び続けた。そして私はその声にどこか懐かしさを覚え、心の奥底で安堵する自分を感じた。


「宗佑!」

 未だ目の焦点が合わなかったが、その声が誰なのか、私は無意識に感じ取っていた。そう、その声は私の最愛の人、宗佑だ! おぼつかない両手を上げながら、私も彼の名を呼んだ。


 帰って来れた…… 私は帰ってこれたんだ!

 私はそれを確かめるように、宗佑に手を伸ばす。

 宗佑はそれを証明するかのように、私を優しく抱き起すと、そのまま力強く抱きしめてくれた。私はその力強さと温かさ、そしてその臭いに歓喜し、本当の現実に戻ってきた事を実感した。その現実を噛みしめる為に、私はつい今しがたまでの記憶を遡る。


 私の手を掴んだ『私』は、そのまま私を『私』の中に誘った。いや、私が戻ったと言うべきか?

そもそも一つだった心と身体が無理やり引き離され、それが再会を果たした、きっとそんな類の軌跡なんだろうけど、私と『私』はまるで意気投合するかのように、融合を果たした。

そして私を包み込む真白な光。それはヒトガタたちが放つ禍々しい光ではなく、そんな光から私を庇い、護ってくれる優しくも強い光。

そして迫り来る激しいノイズ音。けたたましく鳴り響くも、それは私の耳元、脳内、心の内には届かなかった。執拗に私を追って来るけど、その光にはじき返され、その騒音はもはや蚊帳の外。目には見えないけど、鉄壁の庇護が私を取り囲んでいる、そんな安心感が私を包み込んだ。

そして徐々に遠ざかってゆくノイズ音。あの音はもしかしたら、ヒトガタの幻の世界と現実世界の境界線を意味していたのかもかもしれない。

ヒトガタが擬態した人たちの声は、ノイズ音と混ざりあい、まるでそれと同化していたかのようで、まさにノイズの中の声。それに比べて、電話口に鳴り響いていたノイズ音の先に聞こえた声は、そのノイズと混ざることはなく、それはノイズを隔てたその先にあった。まさに中と外、それらは別の世界のもの。今の私は迷うことなくそう断言できた。

この光は、私を全速力で現実世界に運んでくれているようだ。心地良い浮遊感と疾走感、そしてその力強さに私は自身の安全を確信する。

この光が何なのかは分からない。ややもすると死への恐怖に必死に抗った末の、ヒトガタが見せている幻かもしれない。そんな風にも考えたけど、私はその考えを捨てた。

「私は助かるんだ!」

 光の中でそう叫んだ。敢えて声に出すことで、それは現実になる。私はそう確信する。

やがて、より一層まばゆい閃光が私の周囲に迸り、そして私を包み込んだ。


そして……


途端に耳にこだまし始める、命ある世界の喧騒、そして瞳に映り込む極彩色の色とその息吹。ヒトガタの世界では感じ得なかったそれらは、まるで花を咲かせるかのように、私の目と鼻の先に躍り出た。

「早妃……」

そして優しく耳と心に沁み渡る、最愛の人の声。私は目でそれを確かめようと、その声に焦点が未だ合わない目を泳がせる。

はっきりとは見えなかったが、そこには最愛の人、宗佑が居た。ただ優しいだけの偽物ではない、生きている本物の宗佑がそこに居た。


私が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。体中にあらゆる計器が繋がれ、思った以上に動き辛かったが、か細く痩せた手を目の前の宗佑に伸ばした。それに応えるように宗佑は私を抱きしめた。きっと彼も私が戻ってくるのを待っていてくれていたはず。その願いが、この温もりの中に確かに感じられた。この現実に戻ってこれたのも、彼のその願いがあったからこそ。きっとそうだ。

私はこれまでのおぞましい日々をかなぐり捨てて、今はただひたすらに宗佑の腕の中で、『安心』を噛みしめ続けるのであった。





エピローグ


私と宗佑が海岸へ車ごと転落し、運び込まれたのはここ、壇の内病院。

宗佑は幸い、打ち身と打撲だけで済み、およそ一週間で退院できたとのこと。だけど私だけ意識不明のまま、昏睡状態が続いていたらしい。

私が目を覚ますまでの間およそ一か月。その間、退院した宗佑は私を心配し、毎日のように足繁くお見舞いに通ってくれていたそうだ。

勿論、交通事故に遭い、自分だけ目を覚まし、かたや私は意識不明という由々しき事態に、負い目と責任を感じていたのかもしれない。だけど毎日欠かさず私に会いに来て、目を瞑ったまま物言わぬ私に話しかけてくれて、そして私の生還を待ちわびていてくれた、その事実が私は素直に嬉しかった。

そして彼はこうも言った。

「実はさ……バカみたいな話だけど、何度か早妃のスマホに電話したんだよね。君がここではないどこかに行ってしまってる気がして……それに、早妃のスマホも見つかってないままだったんで、本当にバカだとは思ったけど、つい、電話しちゃった……」

「え……嘘? で、どう、なったの?」

「うん……それがさ、不思議なことに電話は繋がるんだよ。着信音が数秒続いたあと、物凄い金属音がして……多分壊れてるんだと思うけどさ、でも、もしかしたら、もしかしたら僕の声が君に届くかも知れないって、電話口でも君が目を覚ます事を何度も願ったりして……って、あ、引いたでしょ?」

「え? そんなことない! こっちこそありがとう……きっと、宗佑がそう願ってくれたから、私は目を覚ます事が出来たんだと思う……本当にありがとう」


 彼の発言に、私の推測は納得を得た。あのヒトガタの世界で掛かって来ていた不思議な電話は、やはり宗佑からの電話だったんだ。私と彼の絆は、はノイズ音を隔てた別の次元でも切れる事は無かったんだ。

 宗佑が願って、祈ってくれたから、私は今ここに居ることが出来る。そう、私は実感する。


それを機に、私たちは今まで以上にその距離を狭めた。互いにはっきりと気持ちを伝えないままになし崩し的だった関係に、宗佑はその一線を越えて、私に正式に交際を申し込んでくれた。私に断る理由など無い。二つ返事で私はその申し出を受け入れた。

 私たちの物語は今ここから新しく紡がれていく。私はそう、実感した。


 そして……

私は目を覚ましておよそ二週間、たくさんの検査を経て、ようやく退院の運びとなった。

およそ一か月昏睡状態が続いた為、かなり身体は衰弱していたけど、食欲も回復し、リハビリにも積極的に励んだおかげで、徐々に筋力も戻り始めた。そして自宅療養の許可が下りた時点で、晴れて退院へと漕ぎつけた。


その時の私は、まさに希望に満ちていた。職場にも復帰が決まっていたし、本物の芳野さんや課長も、お見舞いにも来てくれたし、何よりも私の復帰を心から喜んでくれた。

私は現実の世界で徐々に『日常』を取り戻し始めた。

そして、その順風満帆とはいかないまでも、順調に前に進み続ける日々に、ヒトガタの世界で過ごした日々は少しずつ風化し始め、あれは『悪夢だった』と、受け流し始めていた。

『悪夢……きっとそうだ』

 自分に言い聞かせるように、私は日々、心の中でそう思い続けた。そしてそれを裏付けるかのように、それまでの記憶は嘘のように薄れていった。それをいいことに、私の心と身体は『悪夢』を肯定し、真実であると信じさせた。

だけどそれ以上に現在(いま)という瞬間が、驚きと発見、そしてささやかながら感動に満ち溢れており、辛い過去に背筋を凍らせる暇や、その必要が私には無かった。


 更に私は思い出した。真理さんが教えてくれた九月十九日、それは私の誕生日。その日を祝う為に宗佑は私を洲崎に連れて行ってくれた。そして怪しい光と黒い車に翻弄されて、車道からはみ出て、海岸方向へ転落。更にそこから私は『悪夢』へ突入し、長きに渡りその世界を彷徨う事となった。

 また、ネットで調べてみたけど、洲崎は白い発行体などの所謂、未確認飛行物体の目撃情報が頻繁になされていた地域だった。よもや宇宙人にさらわれて何かの実験材料にされたのか? などとあり得ない憶測も私の中に沸き起こる。そして何ゆえに私だったのか?

 そんな疑問も浮かんだが、だけどもう、その答えなんて今の私には必要ない。

 九月十九日を経て、私は目を覚ました。ただただ夢を見ていただけ。そして新しい『現在(いま)』がここにある。だからこそ私は『現在(いま)』を生きるんだ! そう自分を鼓舞し、閉じかけた記憶の蓋の上に、更に重石を乗せるのだった。


「うん、ありがとう。明日、夕方の五時ね」

 自宅療養に入って二週間が経過し、私の心と身体は順調に回復へと向かっていった。更に一週間後には職場復帰も待っている。芳野さんから毎日のように届くメッセージは、課長の愚痴とか、最近出来たらしい彼氏の話、そして相変わらずの美味しそうなお店見つけました、等の他愛もないけど、ほっこりするものばかり。そしてそれはいつも、私の事を気遣ってくれる優しい言葉で締めくくられた。

 更に毎日のように仕事帰りに逢いに来てくれる宗佑。彼はなにかと生活必需品を買い込んできてくれる。その一部は使えなかったり、間違えてたりしたけど、それらには、私が自宅で不自由や退屈をしないよう、彼なりに私の事を大切にしてくれている気持ちが詰まっていた。そんな彼の優しさが、今の私にとっては最良の処方箋だった。

 だけど今日に限って宗佑は、残業で遅くなってこっちには寄れないらしい。その代わり明日の夕方、私たちは外食をする約束をした。宗佑はお洒落なレストランでのディナーとかを提案してきたけど、私は何故だかちょっぴりジャンクなものが食べたくなって、彼にラーメンをリクエストした。最初は彼も驚いたけど、私の気持ちを快諾し、『任せとけ!』と豪語してくれた。宗佑がどんなラーメン屋に連れて行ってくれるのか、今から楽しみ……


 そういえば明日の午前中は病院の定期診療の日。もう別段どこも悪くないので、そろそろ薬の服用も止めてみてもいいかもしれない。先生に提案してみよう。


「うっ……」

そう思案した途端、私は急な吐き気に見舞われた。

不意打ちのごとき急襲に、私の心と身体はたじろいだ。それはまるで熱く熱せられた鉄球が、胃と食道を転がりながら炎症を促しているかのよう。その臭気も凄まじく、まるでヘドロを飲まされたかのように、不浄で陰湿な臭気が喉元と口内に充満する。その臭いが更なる吐き気を催し、私は堪らずトイレに駆け込んだ。そして私の食道は逆巻く炎に、文字通り焼けただれた。




翌朝、私は予定通り七時前には目を覚ました。病院の予約は九時。

目を醒ますと共に、私は昨晩の激しい吐き気に、何故か既視感を覚えた。もうその苦しさは峠を越えたものの、その名残は胃や食道、喉、口の中にもまるで傷跡のように残っていた。

そしてそれは違和感として未だ心の片隅にも居座り、わずかばかりの不安を孕んだ。

とは言え、その不安に心当たりなど無い。夢から醒めておよそ一か月。その間も色んな事があって少なからず気を遣ったり、いつの間にか心労を重ねたのかもしれない。

「私は大丈夫!」

 私は敢えて声に出して自分に言い聞かせた。きっと杞憂のはず。そうだ、診察が終わったら、病院に併設しているカフェでケーキでも買って帰ろう。何も問題ない事を前提に、私は自分に甘いご褒美を約束した。



 私は配車アプリを利用して、自宅の近くにタクシーを呼びつけた。

 待っている間、少し冷たい風が肌を噛んだ。だけど空は澄み渡るような青空。その蒼さは一点の曇りも無く、まさに快晴そのもの。私はその空をすがるような思いで仰ぎ見た。

「痛っ……」

 空を見ていると、一瞬だけ下腹部に鈍い痛みが走った。それは一瞬で消えたものの、私の中に居座る不安に揺さぶりをかけた。

「大丈夫……」

 何を心配しているのか、正直自分でも分からなかったが、私はそう声に出さずにはいられなかった。

 俯いたままタクシーの到着を待っていると、軽快なクラクションが耳元に届いた。我に返って顔を上げると、私は目の前のタクシーの様相に戦慄を覚えた。

 それは何の変哲もない黒いセダンのタクシー。丁寧にそれは止まると、ゆっくりと後部座席のドアが開く。

「お待たせいたしました! どうぞ」

 中からは紳士然とした運転手の笑顔が見え、私はホッと胸を撫で下ろした。何故か少し震える足を持ち上げると、慌てて私はそのタクシーに飛び乗った。






 病院に辿り着き受付を済ませると、待たされることなく診察室に私は呼ばれた。

 先生の説明では何の問題も無く順調に回復しており、予定通り職場復帰も可能との事。但し、一点だけ留意点があるらしく、その病院内の別の科の診察を指示された。その科に私は心当たりはなく、キョトンとした顔をしてしまったが、主治医の先生は私を満面の笑みで見送るのであった。

 私は指示された通りに、別の階にあるその科へと決して軽くない足取りで向かった。

 受付の看護師は優しい笑顔で、丁寧に私に対応してくれる。

 順番が来るまで、私は備え付けのソファーに腰かけ、順番を待った。

 何故、この科を促されたのか……もしかしたら何か別の疾病が確認されたのか? 些かどころではない不安が私を襲う。

『宗佑……助けて……』

 私は心の中でそう叫んだ。

 そして私の順番が来た。心の中に渦巻く不安は何故か恐怖へと肥大していた。その錯乱一歩手前の精神状態のまま、私は目の前の重たいドアを開けるのだった。




 嘘だ……あり得ない……


 私が診察を診察を促されたのは『産婦人科』だった。


 ドアを開けた瞬間、若くて人の好さそうな男の先生が、これまた笑顔で私を出迎えてくれた。

「急にお呼びだてして申し訳ありません。お仕事に復帰されるとのことでしたので、差し出がましいかとは思いましたが、ご報告だけ……当院をご利用されるかはパートナーの方とご相談いただければ……」

「ちょっと、待ってください……何の話かさっぱり分からないんですが……」

 私は少し感情的に先生の話を遮った。すると先生はより一層満面の笑みを浮かべて、

「おめでとうございます! 元気な赤ちゃんがすくすく育っていますよ。エコーの様子から見るともうすぐ二十週目辺りかと……」

 そう私に告げた。


 それは事故の後、私がこの病院に運び込まれた際に、精密検査の一つのエコー検査で発覚していたとのこと。ただし、その時は意識不明の私の状況も踏まえて、告知には至らなかったらしい。だけど、目を覚まし、仕事に復帰する事と、あまりに胎児の成長が順調だった事も鑑みて、今回の報告に至ったそうだ。

 私は待合コーナーに居た若い夫婦や、両親に支えられながら歩く、身重の女性たちの姿を自分と重ねてみた。この人たちとは『違う』と思っていたけど、それは思いも寄らない方向から私を裏切った。いや、それは間違っていない。あの人たち私には決定的な違いがあった。それはその温度差。

 先生たちからすれば、私と宗佑の仲睦まじい様子を見続けていたので、その報告は温かくも喜ばしい吉報だったはず。だけど私にとってのそれは、背筋も凍る程に恐ろしい報告だ……

だって……私は宗佑とは関係を持っていない……


 何かの間違いのはず! そう思って反論しようとした刹那、私の中に居座る不安が、私を引き止めた。その不安は何かを知っている……




診察室を出た後、私は渦巻く不安と対峙した。何故、妊娠した? いつ? どこで? 誰との間に?

あらゆる疑問がのたうち回るも、答えを知っている不安はそれを焦らし、私にその正解を教えなかった。だけど、その不安には白い靄がかかっており、更には小さな小さな黒い点が、ぽつ、ぽつ、と現れ始めた。

私は気もそぞろに会計を済ませると、逃げるようにして病院を跳び出した。その自動ドアを出た瞬間、私の中の不安は白い靄を吹き飛ばし、閉ざされた記憶の蓋を重石諸共こじ開けた。

そして詳らかになるヒトガタの世界での記憶。

更にあちら側の宗佑と過ごした洲崎での一夜の事出来事が、鮮明に私の頭と心にその息を吹き返した。

私は敢えてそれを言葉にはしない……


何故か涙は出なかった。ただ、その代わりかどうかは分からないが、視界の隅に蠢く小さな黒い点に私は気が付いた。それは目で追うと、逃げるようにして視界の隅に隠れてしまうが、少しでも油断すると回遊と増殖の限りを尽くし、私の視界を四隅から埋めていく、そんな錯覚? さえも感じさせるほどに、その黒い点は傲慢で、まさに邪悪そのものだった。



私は夢遊病のように、病院の前のロータリーに止まっていたタクシーに飛び乗った。もう、ケーキなどどうでもよかった。

ただ、ただ、妊娠しているという事実から逃げたかった。このお腹の中にあの化け物が居るという事実から逃げ出したかった。




タクシーは大通りに出ると、三車線の真ん中の車線を走りだした。

私はそのタクシーの中で、声もあげられない程に怯えていた。

そして逃げたかった。

そう思っていた矢先だった。

後方から激しい走行音が、容赦ない威圧感を孕みながら迫ってきた。そしてその爆走音はすぐ後ろまで来ると、左右に分かれてその爆音のままタクシーと並走する。

咄嗟に私は、左右のドアガラスに目を走らせた。

そして私は絶句する。

その左右には真っ黒に塗装されたSUV車が、接触しそうな至近距離で走っている。勿論フロントもリヤもサイドも全てのガラスにはスモークが焚かれ、運転手の顔など見える筈もない。

今の私にはそう見えた。そしてそれに追い打ちを掛けるようにして、視界の四隅から浮上してくる黒い点。さらに下腹部に走る鈍い痛み。


それらの光景と現象は私の背筋を凍らせ、息を詰まらせる……

そして私は悟った……


逃げられない……と……



                                     了

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鈍色の浸蝕者 加持稜成 @Kaji-Ryo

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