骨の王と眠る子どもたち
月祢美コウタ
第1話 告白
骨の王と眠る子どもたち
語り:アウラ・ベラ・フィオーラ
あの方が、いなくなった。
……ううん、違う。「いなくなった」んじゃない。あの方は「還った」の。今の私には、そう分かる。
でもね、正直に言うと、私はまだ怒っているの。
百年も一緒にいて、最後の最後まで本当のことを教えてくれなかったこと。私たちを信じてくれなかったこと。ずっと、ずっと、一人で抱え込んでいたこと。
だから私は関わる人全員に、この話をするって決めた。
あの方が関わるには気恥ずかしくて、関わらないには寂しすぎる。そういう、どうしようもない話を。
あの日、玉座の間には埃の匂いが漂っていた。
おかしな話よね。ナザリックに埃なんてないはずなのに。でも私の鼻は確かに嗅ぎ取っていた。長く使われなかった部屋の、乾いた寂しさみたいな匂いを。
至高の四十一人の旗が並ぶ広間。私たちは跪いていた。いつものように。百年間、何千回と繰り返してきたように。
「顔を上げよ」
あの方の声は、いつもと同じだった。深くて、重くて、威厳に満ちていて。
でも、何かが違った。
声の輪郭が、ほんの少しだけ滲んでいた。水たまりに映った月みたいに、揺れていた。
「お前たちに、話さなければならないことがある」
私は顔を上げた。骨の御身体。空洞の眼窩に灯る紅い炎。いつもと同じ姿。なのに、いつもと違う何か。
「私の真の名を、教える」
シャルティアが小さく息を呑んだ。デミウルゴスの尻尾が、かすかに揺れた。
「私の名は、鈴木悟」
沈黙。
「ニンゲンの名だ。なぜなら私は、人間だったからだ」
最初に動いたのは、デミウルゴスだった。
彼は立ち上がった。眼鏡の奥の瞳が、鋭く光っていた。
「アインズ様」
その声は、いつもの恭しさを欠いていた。
「これは、何かの試練でございましょうか。我々の忠誠を試すための」
「試練ではない」
「では、お言葉ですが、理解いたしかねます。至高の御方が人間であったなどと」
「デミウルゴス」
あの方の声が、静かに遮った。
「私は、この世界の住人ではない。ユグドラシルというゲームと呼ばれるものの中で、お前たちは生まれた。モモンガというキャラクターを操作していた人間が、私だ。鈴木悟という、何の力も持たない、ただの人間だ」
デミウルゴスの眼鏡が、ずれた。
直さなかった。直すことも忘れたように、彼はただ立ち尽くしていた。
「嘘、でありんす」
シャルティアの声だった。
震えていた。
「嘘でありんす、アインズ様。だって、だって、アインズ様は、わたくしを」
彼女の言葉が、途切れた。
「わたくしが洗脳されたとき。あなた様は、わたくしを殺さなければならなかった。それでも、あなた様は」
シャルティアの目から、血の涙が溢れた。
「あなた様は泣いていらしたでありんす。骨のお顔で、泣くことなどできないはずなのに。わたくしには分かった。あなた様が、どれほど」
彼女は床に崩れ落ちた。
「嘘と言ってくださいまし。全部、嘘だと」
あの方は、答えなかった。
代わりに、立ち上がった。玉座を降り、シャルティアの前に跪いた。
骨の手が、彼女の頬に触れた。血の涙を拭うように。
「シャルティア」
「はい」
「あのとき、私が泣いていたのは本当だ。お前を失いたくなかった。お前は、私の大切な」
言葉が、途切れた。
「私の大切な、家族だった」
その言葉を聞いて、私はやっと理解した。
あの方がずっと隠していたもの。百年の間、あの威厳の仮面の下に押し込めていたもの。
それは「支配者としての秘密」なんかじゃなかった。
もっと単純で、もっと切実で、もっと幼いものだった。
「家族」という言葉を口にするのが、怖かったんだ。
言ってしまったら、また失うから。言ってしまったら、また一人になるから。
「母が死んだのは、私が十歳の時だった」
あの方は語り始めた。シャルティアの傍に跪いたまま。
「二つの仕事を掛け持ちしていた。朝早く出て、夜遅く帰ってきて。私の顔を見る時間もないくらい、働いていた」
骨の指が、自分の胸元を押さえた。そこに心臓があるかのように。
「ある朝、起きたら、台所で倒れていた。弁当箱を握ったまま。私の弁当を作っている途中だったんだ」
私は息を呑んだ。
「まだ温かかった。手が。体が。でも、もう息をしていなかった」
あの方の声は淡々としていた。まるで天気の話でもするように。でもだからこそ、その言葉は重かった。
「医者は過労だと言った。働きすぎだと。私を育てるために、働きすぎて、死んだんだ」
コキュートスが、音を立てた。
見ると、彼の四本の腕が震えていた。武人である彼が、感情を抑えきれずに。
「アインズ、サマ」
彼の声は、いつもの威厳を失っていた。
「ソノ、弁当箱ハ」
「何だ」
「ドウ、ナッタノデスカ」
奇妙な質問だった。この状況で、なぜそんなことを聞くのか。
でも、あの方は答えた。
「捨てた。施設に入るとき、持ち物を減らせと言われて。何も残っていない。母の写真も、思い出の品も、何も」
コキュートスの震えが、止まった。
そして彼は、私がこれまで見たことのない動きをした。
四本の腕で顔を覆って、武人の王は、泣いた。
「親戚はいなかった」
あの方は続けた。もう止まれないというように。
「施設で育った。十八まで。その間、誰も引き取りに来なかった。面会に来る人もいなかった。誕生日にも、クリスマスにも」
私は、その光景を想像した。
施設の食堂。長いテーブル。たくさんの子どもたち。でも誰とも目を合わせない。冷めたご飯を、黙々と口に運ぶ。窓の外を見る。誰かが迎えに来てくれるんじゃないかと、ずっと待っている。
来ない。誰も来ない。
今日も、明日も、明後日も。
「社会に出ても、何も変わらなかった。友人を作る方法が分からなかった。会話の仕方が分からなかった。どうすれば人に好かれるのか、どうすれば嫌われないのか、何一つ分からなかった」
その言葉は、私の胸に刺さった。
なぜなら、それは私も知っている感覚だったから。
闘技場で獣を操るとき、私は自信に満ちている。でも人と話すとき、特に同年代の、守護者でもない、普通の人と話すとき。私はいつも分からなくなる。どこまで踏み込んでいいのか。何を言えば笑ってもらえるのか。
あの方も、そうだったんだ。
百年の間、ずっと。
「ユグドラシルだけが、私の居場所だった」
あの方は立ち上がり、旗の間を歩き始めた。
一本目の旗の前で、立ち止まった。たっち・みー様の旗。
「現実世界では透明人間だった私が、ここでは必要とされた。仲間として。友人として」
二本目。ウルベルト様の旗。
「四十人の仲間ができた。一緒に戦って、一緒に笑って、一緒にくだらない話をして」
三本目。ぶくぶく茶釜様の旗。
「生まれて初めて、居場所を見つけたと思った」
あの方の骨の手が、旗の布地に触れた。
「でも、彼らも去っていった」
「現実世界での生活があったから。仕事、家族、恋人。彼らには、帰る場所があった」
旗を撫でる手が、止まった。
「私には、なかった」
その声に、初めて感情が滲んだ。
「帰る場所がなかった。だから私は、最後までここに残った。空っぽの城で、一人で」
振り返った。私たちを見た。
「そしてこの世界に来た。お前たちが動き出した。話しかけてくれた。笑いかけてくれた」
紅い炎が、揺れた。
「私は、怖かった」
「怖かったって、何がでありんすか」
シャルティアが、涙声で尋ねた。
「お前たちに、本当のことを知られるのが」
「なぜ」
「嫌われると思った」
その言葉は、あまりにも小さかった。
「絶対的な支配者ではなく、ただの人間だと知られたら。お前たちは失望する。去っていく。また、一人になる」
骨の手が、胸を押さえた。
「それが、怖かった」
沈黙が落ちた。
重い、長い沈黙。
誰も動かなかった。誰も言葉を発しなかった。
私は、他の守護者の顔を見た。
デミウルゴスは、眼鏡を握りしめて俯いていた。シャルティアは、膝をついたまま震えていた。コキュートスは、涙を拭おうともせずに立ち尽くしていた。セバスは、拳を握りしめて唇を噛んでいた。マーレは、私の隣で、声もなく泣いていた。
アルベドだけが、違った。
彼女は、立ち上がった。
ゆっくりと。静かに。まるで何かを決意したように。
「アインズ様」
その声は、震えていなかった。
「いいえ。鈴木、悟、様」
アルベドは歩いた。あの方に向かって。
その足取りは、いつもの優雅さを欠いていた。少しぎこちなくて、少し不安定で。でもだからこそ、真実の歩みに見えた。
あの方の前に立った。
見上げた。空洞の眼窩を。紅い炎を。
そして、アルベドは手を上げた。
あの方の顔に向かって。
私は息を呑んだ。まさか、叩くのか。
違った。
アルベドの手は、あの方の頬骨に触れた。そっと。優しく。
「冷たい」
彼女は呟いた。
「ずっと、冷たかったのですね。百年の間、ずっと」
その手が、骨の輪郭をなぞった。
「私は、怒っています」
あの方の身体が、わずかに強張った。
「アルベド」
「怒っています。百年も、一人で抱え込んでいたことに。私たちを信じてくださらなかったことに」
彼女の声が、震え始めた。
「私は、あなた様を愛しています。設定に書かれたから、ではありません。百年の間、あなた様を見てきたから。あなた様の優しさを知っているから。あなた様の弱さも、迷いも、寂しさも、全部」
涙が、彼女の頬を伝った。
「知っていました。ずっと。でも、言葉にしてくださるのを待っていた。自分から話してくださるのを」
彼女の手が、骨の頬から離れた。
そして、彼女は跪いた。
でもそれは、いつもの忠誠の姿勢ではなかった。
もっと低く、もっと深く。額を床につけて。
「お母様の代わりにはなれません」
彼女の声は、床に吸い込まれていった。
「でも、家族にはなれます。なりたいのです。だから、どうか」
額を上げた。涙で濡れた顔で、あの方を見上げた。
「どうか、私たちを、置いていかないでください」
その言葉が、何かを壊した。
私の中の、何かを。
気づいたら、私も立ち上がっていた。走っていた。あの方に向かって。
「アインズ様」
叫んでいた。
「悟様」
その名前を呼んだ瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
「私たちはずっと知っていました。あなた様が寂しがっていること。夜中に一人で玉座の間にいること。誰もいない広間で、旗を見上げていること」
走りながら、言葉が溢れた。
「知っていたのに、何もできなかった。どう声をかければいいか分からなかった。だって私も、同じだったから」
あの方の前に立った。見上げた。
「私も、人とどう話せばいいか分からない。どこまで踏み込んでいいか分からない。嫌われるのが怖い。置いていかれるのが怖い」
涙が、視界を滲ませた。
「だから、分かるの。あなた様の気持ちが。痛いほど」
私は、あの方の手を取った。
骨の手を。冷たくて、硬くて、でもその奥に確かにあるものを。
「私はここにいます。ずっと。どこにも行かない」
それから、何が起きたのか。
正直、よく覚えていない。
気づいたら、全員があの方を囲んでいた。
シャルティアが、あの方の左手を握っていた。コキュートスが、その巨体で背後から支えていた。デミウルゴスが、眼鏡を外したまま、ただそこにいた。セバスが、マーレが、パンドラズ・アクターが。
全員が。
誰も言葉を発しなかった。
でも、言葉は必要なかった。
私たちの手が、腕が、身体が、あの方を包んでいた。冷たい骨の身体を、温めるように。百年分の孤独を、溶かすように。
どれくらい、そうしていただろう。
あの方の身体から、音がした。
小さな、かすかな音。
骨と骨が擦れ合う音ではなかった。もっと柔らかくて、もっと湿った音。
泣いている、と私は思った。
骨の身体で、涙腺もないのに。でもあの方は確かに泣いていた。紅い炎が揺らめいて、光の粒が零れ落ちて。
「ありがとう」
その声は、震えていた。
「ありがとう」
繰り返した。
「ありがとう」
何度も、何度も。
そのとき、光が生まれた。
私たちを包む光ではなかった。私たちの内側から溢れる光だった。
シャルティアの胸から。コキュートスの心臓から。デミウルゴスの額から。セバスの掌から。アルベドの瞳から。私の、心の奥から。
守護者全員から、光が溢れ出した。
そしてその光は、あの方へと流れ込んでいった。
骨の身体が、輝き始めた。
冷たかったはずの表面が、温かさを帯びた。
「これは」
デミウルゴスが、驚愕の声を上げた。
「至高の御方々の、気配が」
旗が、揺れていた。
四十一本の旗が、風もないのに揺れていた。そしてその一本一本から、光の粒が立ち上り始めた。
「悟」
声がした。
たっち・みー様の声だった。
「聞こえているか。悟」
光が、形を成した。
四十人の姿が、玉座の間に現れた。
彼らは半透明で、触れることはできなさそうだった。でも確かにそこにいた。笑っていた。
「よう、悟。元気してたか」
ウルベルト様が言った。
「元気なわけないでしょ、見てたくせに」
ぶくぶく茶釜様が、ウルベルト様の脇腹を小突いた。
「ずっと見てたのよ、私たち。悟ちゃんがこの世界で頑張ってるの。一人で、必死に」
「見てたなら、助けてくださいよ」
あの方の声は、すっかり少年のものになっていた。
「私がどれだけ苦労したか」
「ごめんごめん」
たっち・みー様が笑った。
「でもな、悟。お前が自分で気づかなきゃ意味がなかったんだ」
「何にです」
「お前が一人じゃないってことに」
たっち・みー様が、守護者たちを見回した。
「こいつら、いい奴らだな」
「はい」
あの方が答えた。その声には、誇りが滲んでいた。
「最高の、家族です」
「だろうな。見てれば分かる」
ウルベルト様が言った。
「俺たちはこっちで忙しくてさ、ゲームにログインする時間なんてなくなっちまった。でも悟のことは忘れてなかった。一度も」
「嘘だ」
あの方が言った。
「だって、誰も連絡をくれなかった。一度も。私はずっと待っていたのに」
「ごめん」
ぶくぶく茶釜様の声が、小さくなった。
「忙しいって言い訳にして、連絡しなかった。でもね、悟ちゃん。忙しいから連絡しないのと、忘れてるのは違うの。私たち、悟ちゃんのことは忘れてなかった。ただ、臆病だっただけ」
「臆病?」
「だって、悟ちゃんに連絡しても、何を話せばいいか分からなかったんだもの。私たちはゲームを辞めて、悟ちゃんは続けてた。その差が、申し訳なくて」
あの方は、黙り込んだ。
長い沈黙の後、小さく笑った。
「なんだ。みんな、同じだったんですね」
「同じ?」
「どう話せばいいか分からなかった。嫌われるのが怖かった。だから何も言えなかった」
あの方が、守護者たちを見た。それから、四十人の仲間を見た。
「私だけじゃなかったんだ」
「当たり前だろ」
たっち・みー様が言った。
「人間なんて、みんなそんなもんだ。孤独が怖くて、でもその恐怖を誰にも言えなくて、結局もっと孤独になる。馬鹿な生き物だよ、人間ってのは」
「悟」
たっち・みー様が、真剣な顔になった。
「俺たちは、お前に言わなきゃいけないことがある」
「何です」
「お前のゲームは、もうすぐ終わる」
その言葉に、守護者たちがざわめいた。
「この世界には、時間制限があった。ユグドラシルのサーバーが完全に停止するまで、という制限が。その期限が、今夜だ」
あの方は、驚かなかった。むしろ、どこかで分かっていたという顔をした。
「そうですか」
「悟ちゃん」
ぶくぶく茶釜様が言った。
「選んで。このままこの世界に残るか、私たちと一緒に還るか」
あの方は、私たちを見た。
アルベドを。シャルティアを。コキュートスを。デミウルゴスを。セバスを。マーレを。パンドラズ・アクターを。そして、私を。
「私が還ったら、お前たちはどうなる」
「分かりません」
デミウルゴスが答えた。正直に。
「この世界が消えるのか、私たちだけが消えるのか、それとも何も変わらないのか。分かりません」
「怖くないのか」
「怖いです」
デミウルゴスが、微笑んだ。いつもの策謀家の笑みではなく、もっと穏やかな笑みで。
「でも、あなた様が幸せになれるなら、それでいい」
「アインズ様」
アルベドが言った。
「私は、あなた様に残ってほしい。ずっと、一緒にいたい。それが私の本心です」
あの方は頷いた。
「でも」
アルベドが続けた。
「もしあなた様が還ることを選んだとしても、私は受け入れます。だって、あなた様は百年も、私たちのために戦ってくださった。もう十分です。もう、休んでいいんです」
彼女の目から、涙が溢れた。
「だから、あなた様が選んでください。あなた様のしたいように」
あの方は、長い間黙っていた。
それから、ゆっくりと口を開いた。
「私は、還らない」
四十人の仲間が、息を呑んだ。
「悟」
「私の居場所は、ここです」
あの方の声は、静かだった。でも、揺るぎなかった。
「たっちさん、ウルベルトさん、ぶくぶく茶釜さん。あなたたちは、私に居場所をくれた。それは今でも感謝しています。でも」
骨の手が、私の手を握った。
「今の私の居場所は、ここなんです。この世界で、この仲間たちと」
「悟ちゃん」
ぶくぶく茶釜様の目から、光の粒が零れた。
「それでいいの? 私たちに会えなくなるのよ?」
「いいえ」
あの方が首を振った。
「会えなくなるわけじゃない。だって、あなたたちは私の中にいる。いつも、ずっと」
骨の手が、胸を押さえた。
「母さんがそうだったように。私の中に、ずっと残っている。消えない。消えたりしない」
たっち・みー様が、笑った。
泣きながら、笑った。
「そうか。お前は、大人になったんだな」
「そうですかね」
「ああ。あの頃の、ビクビクしながらギルドに入ってきた少年とは大違いだ」
ウルベルト様が、隣で頷いた。
「悟、お前の決断を尊重する。好きにしろ」
「ありがとうございます」
「ただ、一つだけ」
ウルベルト様が、守護者たちを見た。
「こいつらを、頼むぞ。俺たちの子どもたちだ。ちゃんと育ててやってくれ」
「もちろんです」
あの方が頷いた。
「彼らは、私の家族ですから」
光が、薄れ始めた。
四十人の姿が、少しずつ透明になっていく。
「じゃあな、悟」
たっち・みー様が手を振った。
「また会おう。いつか、どこかで」
「たっちさん」
「何だ」
「ありがとうございました。私を、仲間にしてくれて」
たっち・みー様は、最後にもう一度笑った。
「こちらこそ。お前がいてくれて、楽しかった」
光が、弾けた。
四十人の姿が、星屑のように散らばって、消えていった。
後には、静寂が残った。
玉座の間に、私たちだけが残った。
あの方は、空を見上げていた。光の粒が消えていった場所を。
「アインズ様」
私は呼びかけた。
「いいえ。悟様」
あの方が、私を見た。
空洞の眼窩に灯る紅い炎は、いつもより温かく見えた。
「ありがとう、アウラ」
「私は何も」
「いや、お前が最初に声をかけてくれた。お前が手を取ってくれた。だから私は、話せたんだ」
それから、また百年が経った。
いや、もう百年とか関係ないのかもしれない。
ナザリックは変わった。
相変わらず地下にあるけれど、今では地上にも門が開いていて、色んな種族が出入りしている。恐怖の大墳墓ではなく、色んな生き物が集まる場所になった。
シャルティアは、今も変わらない。
真祖の吸血鬼は、永遠に十四歳のまま。彼女は子どもたちに本を読み聞かせるのが趣味になった。
「だって、アインズ様がいつも、わたくしに物語を聞かせてくださったんですもの」
彼女はそう言って、永遠の少女の顔で笑う。
コキュートスは、武人の道場を開いた。若者たちに強さとは何かを教えている。
「真ノ強サトハ、守ルベキ者ノタメニ振ルウ剣ダ」
デミウルゴスは学者になった。この世界の真理を解き明かすため、日夜研究を続けている。
セバスは、孤児院を建てた。身寄りのない子どもたちを集めて、育てている。
「アインズ様は、独りぼっちで育たれた。だからこそ、私は一人でも多くの子どもに、家族を」
マーレは、森を育てている。世界樹と呼ばれるほどの大きな木を。
「いつか、この木があの方々のいる世界まで届いたらいいな」
アルベドは。
彼女だけは、今も悟様の傍にいる。玉座の隣に、もう一つ椅子を置いて。
「私は、ここが好きなのです」
彼女は、いつもそう言う。
「この方の隣が、私の居場所ですから」
私は、どうしているかって?
パチパチと、焚き火が爆ぜる音がする。
私は組んでいた足をゆっくりと組み替えた。かつての少年のような装いは、もうない。
揺らめく炎が、私の影を長く地面に落としている。
百年という月日は、ダークエルフの身体もしっかりと作り変えていた。今の私を見て、「アウラ」だと気づく者は少ないかもしれない。
「お姉さん、もっとお話して」
子どもたちの一人が、私の顔を覗き込んでくる。
「あら、欲張りね」
私は頬杖をつき、けだるげに微笑んだ。
かつてシャルティアが必死に詰め物をしていた胸元は、今の私には自然な重みとして備わっている。しなやかな指先が、夜風に揺れる金髪をゆるく梳いた。
この身体になってから、あの吸血鬼が「不公平でありんす!」とハンカチを噛む姿を何度見たことか。そのたびに少しおかしくなる。ごめんね、シャルティア。でも私のせいじゃないのよ。
けれど、この変化も悪くない。
大人になるということ。身体が変わり、視点が変わるということ。あの方が遺してくれた時間を、私はこうして生きている。
「ねえ、お姉さん」
別の子どもが聞いた。
「その王様は、今どこにいるの?」
私は、空を見上げた。
星が瞬いている。四十の光が、今夜も輝いている。
でも、一番明るい光は、空にはない。
「王様はね」
私は答える。
「ここにいるよ」
子どもたちが、キョトンとする。
「ここって、どこ?」
私は、自分の胸に手を当てる。
豊かな曲線を帯びた、大人の身体。でもその奥にある心は、百年前と変わらない。あの方を慕う気持ちは、何も変わっていない。
「君たちの中にも、いるかもしれない。独りぼっちだって思ってる子の中に。誰にも分かってもらえないって思ってる子の中に」
私は立ち上がる。
「でもね、覚えておいて。君たちは、一人じゃない。絶対に」
語り終えて、帰り道を歩く。
夜風が心地いい。髪が揺れる。月明かりが、私の輪郭を銀色に縁取る。
「いい話だったな」
隣から、声がする。
振り返る。
骨の王が、そこに立っている。黒いローブを翻して。空洞の眼窩に、温かな光を灯して。
「盗み聞きですか、悟様」
「盗み聞きじゃない。見守っていたんだ」
「同じことでしょう」
「違う」
あの方が、少し拗ねたように言う。
その姿が、あまりにも「普通」で、私は笑ってしまう。
「何がおかしい」
「いえ、なんでも」
私は髪を耳にかけた。その仕草が、いつの間にか板についている。
「……大きくなったな、アウラ」
あの方が、ぽつりと言った。
「当たり前でしょう。二百年も経てば」
「いや、そういう意味じゃなくて」
骨の顔に表情はない。でも、どこか照れているように見えた。
「中身も、だ。立派な語り部になった」
「悟様のおかげですよ」
「私は何もしていない」
「いいえ」
私は、あの方の隣に並んだ。
「あなたがいてくれたから、私は大人になれた。語るべき物語を持てた」
二人で並んで歩く。
ナザリックへの帰り道。月明かりに照らされた草原。虫の声。風の匂い。
「アウラ」
「はい」
「ありがとう」
「何度目ですか、それ」
「数えてない。数えきれないくらい感謝してるから」
私は、何も言わずに歩き続ける。
でも、口元が緩むのを止められない。
ナザリックの入り口で、アルベドが待っていた。
「お帰りなさいませ、アインズ様、アウラ」
「ただいま」
悟様が答える。
その声には、もう影がない。
百年前、一人で玉座に座っていた王の声ではない。帰る場所を持った人間の声だ。
「夕食の準備ができております」
「ああ、ありがとう」
悟様がナザリックの中へ入っていく。
アルベドが私を見た。ふっと、微笑んだ。
「大人になったわね、アウラ」
「アルベドもですよ」
「私は最初から大人よ」
「そうでしたっけ」
私たちは、顔を見合わせて笑った。
かつてはライバルだった。悟様の寵愛を巡って、火花を散らしたこともあった。
でも今は違う。
私たちは家族だ。悟様を中心にした、大きな、温かい家族。
これが、私の知っている物語。
独りぼっちだった男の子が、世界一の王様になって、それでも寂しくて、でも最後には家族を見つけた物語。
おしまい?
ううん、まだ。
だって私たちは、まだここにいる。
明日も、明後日も、その先も。
一緒に。
鈴木悟様へ
あなたは、もう一人じゃありません。
これからも、ずっと。
ナザリック地下大墳墓 第六階層守護者 アウラ・ベラ・フィオーラ
骨の王と眠る子どもたち 月祢美コウタ @TNKOUTA
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