余命一年の継承者達

座間 暁継

余命一年の継承者達

「善も悪も等しく、輪廻月リンカーネーションの渦に呑まれて転生を果たす」



 不意に、前を歩く女王が口遊んだ。この国に住む人間なら誰でも知っている、古い御伽話の一節だ。


「善と悪——すなわち勇者と魔王。長きにわたり死闘を繰り広げてきた両者は、その命が尽きるたび、一〇年に一度の輪廻月リンカーネーションに新たな命を得る——時に、勇者アルベリクよ」

「ん?」


 鏡の如く磨き抜かれた螺鈿細工の壁面を眺めていた男は、突然の呼びかけに間抜けた声で応じる。


「召集への返事がずいぶんと遅かったようだが、どこにいたのだ?」

「は? なんでそんなこと訊くんだよ」

「そなたはこの国の生まれでありながら、不在にしている時間のほうが長いであろう? 土産話でも聞いておこうかと思ってな」

「そんなもんねぇし、普通に隣の国で仕事してただけだっての。勇者さまってのは忙しいもんでね」


 あんたは俺のなんなんだ、と追撃しようとして、やめた。冗句で問うまでもない。彼女は一国を統べる女王で、赤の他人だ。

 三日前、女王から召集をかけられたアルベリクは、その理由も知らされぬまま王城の廊下を歩いている。なにしろ、謁見の間に通された直後についてこいとだけ言われて、わけもわからぬまま従っているだけなのだ。


 そろそろ訊いとくか、と唇に隙間を生んだその時だった。王女がとある扉の前で立ち止まり、衝突しかけたアルベリクはすんでのところで踏みとどまる。


「ひとつ、そなたに命じる」


 囁くような声色は、けれど凛然と鼓膜を震わせる。


「私がなにを言おうと、絶対に口を挟むな。よいな?」


 なにを急に、と反駁する間も与えられないまま、彼女は眼前のドアをノックした。ひと呼吸ぶんの間が空いて、はい、と返る声。

 女王が両開きのドアを押し開ける。ひとりで使うには充分すぎる広さの部屋で、ひとりの少女が辞儀をしている。


「お帰りなさいませ、お母さま」


 少女がおもてを持ち上げる。

 肩口にかかるしろがね色の髪は女王ははおやと同じだ。精緻なカットを施した宝石じみた菫色ヴァイオレットの瞳が柔く微笑む。歳の頃は十代半ばほどか。


「シンシア。この者が兼ねてから説明していた、お前の魔法学教師です。支度をなさい」

「新しい先生、ですか?」


 すいと視線が流れて、少女がこちらを向く。まばたくたびに頭上のシャンデリアがちりばめる光の粒が瞳に反射して、その目映まばゆさに目を眇めた。

 しかめつらしい顔をしているであろうアルベリクとは対照的に、姫君はドレスの裾を持ち上げて優雅にこうべを垂れる。


「シンシアと申します。若輩者ではございますが、ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」



「……そろそろ説明してくださいませんかねぇ、女王陛下」


 謁見の間へ戻るさなか、無言に耐えかねたアルベリクは開口する。


「なんで、俺をあんたの娘に逢わせた? しかも命令どおり黙って聞いてりゃ好き勝手進めやがって」

「ふむ。そなたの主張はもっともだな」


 一歩ぶん先を歩く女王が正面を向いたまま応じる。頷いた拍子にしゃらりとさやかに鳴る、結い上げた髪の根元に差し込まれた碧玉の髪飾り。


「単刀直入に告げよう。先ほどの娘——第四王女シンシアは、魔王の継承者なのだ。魔王の紋様の発現による体調の異変は大病によるものだと伝えているから、あれは己が魔王であるとは知らぬだろう」

「…………あァ、」


 咀嚼し損ねた言葉を時間をかけて噛み砕いて呑み下しても、驚愕も困惑も湧き上がらなかった。己という異物の前例があったからかもしれない。

 嚥下した真実が内腑を圧迫する。込み上がる嘔吐感を押し殺しながら唇を弧に引き裂いて笑う。


「だから、あんたはここに俺を呼んだのか? 魔王を討伐するのが使命の勇者に、自分の娘を殺させるために?」

「いいや、違う」


 女王が謁見の間の扉を開け、磨き抜かれた白磁の床を踏み進む。


「そなたには今日から、シンシアの魔法学の教師となってもらう。期間は一年間。魔法の異才であるそなたならば、魔法にのめり込んでいる彼女も満足するだろう」

「お褒めいただき恐悦至極にございます。で、なんで一年なんだ?」

「通常、魔力は齢一五を過ぎると飛躍的に成長する。それは魔物であろうと魔王であろうと変わらない」


 渋面を隠しもせず、アルベリクは舌打ちをした。つまりは、あの娘は今日で一四歳になったということだ。

 道中で遠巻きに眺めた生誕祭の盛況が脳裏によぎる。女王の謀略を知るよしもなく、の姫君を讃えながら祝杯を掲げる国民の姿が。


「だから完全に力を手に入れる前に殺そうってか。……あんたの計画は理解した。そのうえで、ひとつ訊いてもいいか?」

「ああ、なんなりと」

「なんで今、俺に殺せと命令しない?」


 頭ふたつぶん高い位置に座す女王をめ上げる。


「あんたが初めからそう俺に命じてりゃ、さっきの部屋に入った時点で俺はあんたの娘を殺せた。それはあんたも知ってただろ」


 貧民窟からアルベリクを連れ出し、魔法の才をいだしたのは他ならぬ彼女だ。


「あんた、本当は自分の娘を殺したくねぇんじゃねぇの?」


 女王のかんばせが、左胸に閃いた苦痛をこらえるように歪んだ。紅を乗せた花唇を引き結んで俯く、その仕草こそが答えだった。

 裏門で待ってるって言っといてくれ、とだけ言い残して、アルベリクはきびすを返した。扉を開こうと腕を持ち上げた矢先、勇者よ、と呼び声に肩を叩かれる。


「やはりそなたも、私が親失格だと思うか」


 それは、問いの形をしていながら答えないでくれと乞うような、糾弾を望んでいるかのような声色だった。

 虚空を掻いた指先をゆっくりと握り込む。彼女が求めている答えに見当はつかないが、世辞を言うのは違うということだけはわかった。


「……さあな。親の顔すら知らねぇ俺に、親の正解なんざわかんねぇよ」


 惜しみない愛情を注いでくれる親というものを、物心ついた時には孤独に貧民窟を彷徨さまよっていたアルベリクは知らない。


「まあでも、その言葉が出てくんなら、いい親なんじゃねぇの」


 王女が口にした言葉の断片は、閉まる扉の軋みに掻き消されて届かなかった。




   ⚝




「……わっ」


 祝賀の渦中にいるべき主役であるはずの少女が、アルベリクの背にぶつかってきた。蹌踉よろめきもせず振り返る。


「す、すみません……その、地面に落ちている花を避けて歩こうと思ったら、勢いがつきすぎてしまって」

「いや、無理だろ普通に。どんだけ落ちてっと思ってんだよ」

「でも、可哀想だと思いませんか? せっかく綺麗に咲いたのに、散ったら踏まれてしまうなんて……」

「可哀想ねぇ……」


 宙を漂う花弁を視線で追いかける少女を見下ろして、アルベリクは呟く。

 生誕祭の祝花の色は、その主役となる者によって異なる。現女王は青、第一王子は黄色など誕生と同時に定められ、今回は紫。——日没後間もない、夕時と夜のあわいの空を切り取ったような、彼女の瞳の色だ。


 踏みしだかれる花に憐憫をいだく繊細さを、生憎あいにくとアルベリクは持ち合わせていない。そんな感性を有しながら育っていたら、空腹に耐えかねて人間の死体で食い繋いだ過去も、きっと存在していない。

 王族のこいつには理解もできねぇんだろうな、とどろりと粘ついた重みが左胸に纏わりつく。


 動き始めた人波に乗って、アルベリクは正面に向き直ると歩を進めた。少女は追いかけてきているようだが、いまだに花びらを踏まずに歩こうとしているらしく歩速が遅い。


「さっそくですが先生、質問よろしいでしょうか?」

「ん? あぁ、どうぞお好きに。つか先生はやめろ、柄じゃねぇんだ」

「ではなんとお呼びすれば?」

「先生以外ならなんでもいい」


 しばしの黙考ののち、ぱちん、と小さく手を叩いた音が聴こえた。


「では、アルベリクさまで」

「……さ、」


 さま付けもやめろ、と言いかけて口を噤んだ。好きにしろと告げた手前、重ねて訂正するのはなんとなく気まずい。

 訂正を諦めてひとつ息を落とし、会話を繋ぐ。


「で、質問ってのはなんだ?」

「はい。あそこにあるお店が気になって……」


 歩みは止めず、少女の指先が示す方向を見やる。そこは道幅に沿って屋台が並んでおり、それぞれ立てられたのぼりには大きく料理名が記されていた。


「あのお店で売っている、モルエスープというのはなんですか?」

「は?」


 予想だにしていなかった問いに、アルベリクは目を剥いて足を止めてしまった。少女と、その背後からさらに通行人がぶつかるたびに体が揺れる。

 さすがに聞き捨てならないと、人波に流されるようにして道端に退避した。もみくちゃにされていた彼女は両膝に手を置いて乱れた呼吸を整えている。


 アルベリクは指差した屋台と彼女との間で忙しなく視線を彷徨うろつかせて、呆然と唇を動かす。


「お前、モルエ知らねぇの?」

「……し、知らない、です。食べ物の名前ですか?」

「食べ物ってのは合ってっけど、この国の特産品だぞ? あの煮るとすげぇ柔らかくなる芋、食ったことねぇの?」

「お芋ですか? ……とても小さい頃に食べた記憶があるような……」


 マジかよ、とこぼれた驚愕は音を成さなかった。


 この国の特産品のひとつであるモルエ芋と根菜を、牛肉と香辛料をベースにしたスープでじっくり煮込んだものが、先ほどの屋台で販売していたモルエスープである。ふるくから郷土料理として親しまれているはずの料理を、仮にも王族たる彼女が知らないはずがない。


「あの、アルベリクさま。もしお許しをいただけるなら……」


 絡んだ菫色ヴァイオレットの視線がほどけて、左右にゆらゆらと揺れる。曖昧に溶けた語尾とともに、なんでもないとはぐらかされそうな気配が微かに漂う。


「あのスープを食べてみたいのですが……」

「別にいいけど。なんでそんな気ぃ遣ってんだよ? あー、あれか? 金の心配か?」

「い、いえ、違います……いや、それもありますが、そうではなくて……」

「んだよ、はっきりしねぇ奴だな。ほら、買うならさっさと行くぞ」

「ま、待ってください、アルベリクさま!」


 再び人波に飛び込んだアルベリクを慌てて追いかけた少女が、踏み入る場所を見誤って逆行しかけている姿が視界の隅に映った。さすがは王族、警笛ひとつで道を作らせるのは容易いくせに、臣民が生み出す荒波を乗りこなすのは下手らしい。


 一〇秒ほど様子を眺め、しろがね色の旋毛つむじが人影に埋もれてしまったあたりでようやく、アルベリクは一度引き返して少女の腕を掴んだ。



 購入したスープを木陰に並んだベンチに腰掛けて平らげ、ふたりは散策を再開する。広場で催されていた旅芸人のショーに足を止めたり、一風変わった工芸品ばかりを陳列した露店を冷やかしたり。

 モルエスープ以降は飲食も衝動買いもせず、ただ街の盛況を眺めていただけの彼女は、なにを思って生誕祭の只中にいるのだろうか。陽光が射し込むたび波打つようにきらめく紫の双眸からは、その心情は読み取れない。


 鼻先を持ち上げて仰いだ先、薄雲のたなびく蒼穹から太陽が傾きだして、青色に淡い橙がにじんでいた。宿屋に向かうなら、街道の人口密度が減少する時間帯を狙いたいところだ。


 脳内で計画を組み立て、アルベリクは数歩先を歩く少女の後ろ姿を見やる。

 が、想定した場所に彼女はいなかった。はぐれたかと首周りが冷えたのも束の間、路肩に立ち並んだ屋台の一角にその姿を見つけた。アルベリクは首裏を掻きむしりつつ歩み寄る。


 背中越しに少女の手元を覗き込む。両手にすっぽりと収まる大きさの透明な筒——花瓶だろうか。査定でもするようにまなじりを細め、洋燈ランプの光に透かしてみたりしている。


「とても綺麗な模様ですね。材質は硝氷魔石ピエリヴェールで、この流線は魔力を注いで形成しているのでしょうか?」

「ええ、ええ。ご名答です」


 店主の老翁が満面の笑みを浮かべる。


「ここでは硝氷魔石ピエリヴェールを使った工芸品作りを体験できましてな。お嬢さんもいかがです?」

「ぜひ! あ、でも……」


 ちらりと、少女がアルベリクを見上げた。子供らしい無邪気な様子から一転、その表情は叱責に怯えているようにこわっている。

 ガキのくせに一丁前に気ぃつかいやがって。


「んだよ、やりたいならそう言えばいいだろ。ほらよ爺さん、ひとりぶんだ」

「はい、はい、確かに受け取りましたとも。ささ、どうぞこちらへ」


 目をみはる少女に、顎をしゃくる仕草で早く行けと促す。一拍置いて老翁のあとを追いかけたその足取りは、どこか弾んでいるように見えた。


 屋台の裏に設置された簡易作業場。作業台を挟んだ対面に座る少女と向き合う。彼女の前に先ほど見ていたものよりもさらに細い、一輪挿しの花瓶が置かれた。

 店主の説明が終わるやいなや、少女は花瓶を温めようとするみたいに両手で挟み込んだ。魔石を加工するには、まず魔力を流し込まなければならない。透明な花瓶があえかに発光していく。


「お前、なんでそんなに魔法を学びたいんだ?」


 魔力の注入が終わるまでの時間潰しに投げかけた質問は、思いがけず少女を動揺させたらしい。魔石が帯びる光が瞬目ばかり明滅した。


「普通のガキなら、それなりの歳になりゃ学校に通わせてもらえんだろ。あのままあそこにいれば学校で好きなだけ勉強できたんじゃねぇの?」

「いえ、それはないですよ」

「なんでだよ」

「だってわたし、学校に通ったことは一度もありませんから」

「は?」


 今度はアルベリクが動じる番に回った。転がり落ちた怪訝を拾って少女が会話を繋ぐ。


「初等学校への入学は六歳からですが、わたしは五歳で病を患ってしまったので。それ以来一度も城の外に出してもらえなかったおかげで、今こうして顔を隠さずに街を出歩けているのだと思うと、なんだか得している気分になりますね」


 くすりと自嘲めいた笑声をこぼして、少女が注入を終えた花瓶の表面に指先を滑らせる。なめらかに曲線をえがいては遠目から見てバランスを考え、仕上げとばかりに小指の先で細やかに描き足していく。


「……どうして魔法を学びたいのか、という質問への回答ですが」


 とん、と。完成した一輪挿しを机上に置く音が、読点を打つように鳴った。ごく薄い青磁色セラドンの魔石に植物の蔓と花を模した、世界にふたつとない一品。


「幼い頃、お兄さまの生誕祭の日に、無断で王城から脱走したことがあって。でもすぐに疲れてしまって広場で休んでいたら、移動サーカスのショーが始まったんです。風を操って飛び回るアクロバット、舞い散る紙吹雪を花びらに変えて踊るダンス、小型の魔獣を従えた歌劇……気がつけば、呼吸を忘れるほど見入っていました」


 だからさっき旅芸人の前で足を止めてたのか、と遅ればせた答え合わせにアルベリクは得心する。何度呼びかけても反応すらしなかったのは、かつての思い出と重ね合わせていたからだ。


「ショーが終わってからも、観客はみんな笑顔のままでした。もちろん、それはショー自体が素晴らしかったからで、けして魔法を使っていたからではありません。それでもわたしは、魔法には特別な力があると確信したんです」


 蕾をかたどった少女の手のひらが、ゆっくりと開かれる。魔力でつくられた蒼いはねの蝶が一羽、彼女のもとを飛び立って夜のとばりを迎えにいく。


「魔法でたくさんの人を笑顔にする——わたしは、その夢を叶えたかったんです」



 どん、どん、と絶え間なく轟く花火の音が腹の底を揺さぶる。夜が訪れ、生誕祭はフィナーレに向かいつつあった。

 アルベリクさま、と肩の高さよりもさらに低い位置から呼びかけられる。


「生誕祭の花火、いつからこんなに豪華になったんでしょう?」

「知らん。そもそも生誕祭ん時に街中ぶらついてんのが初めてだしな」


 え、と驚きの混ざった少女の声と、逡巡するような無言が一拍。


「もしかして、花火を見るのも初めて、ですか?」

「あ? あー……どうだったかな……」


 花開く煙火の目映まばゆさに目を細めつつ記憶を辿る。


「見た気もするし、見てねぇ気もすんな。あんま思い出せねぇけど」

「では今、花火を見てどう思いますか? 綺麗とか、楽しいとか、好きだなとか」

「んだよその質問。まあ、好きか嫌いかで言うなら嫌いだな。うるせぇし眩しいし、つか火薬の塊はこえぇだろ普通に」

「ふふ、確かにそうですね。……わたしは、好きです。ぱっと咲いて、ぱっと散る。夜空に輝けるのはほんの一瞬で、果敢はかなくて、だからこそ美しい」


 まるで人生みたい、と添えられたひと言に、アルベリクは眉をひそめた。


 こいつが言う『人生』は、そんな綺麗なもんだったのか?


 魔王の継承者に死ななきゃなんねぇのが、こいつの正しい『人生』か?


「ねえ、アルベリクさま」


 呼び声がアルベリクの意識を現実に引き戻す。夜空を見上げていた少女がこちらを向く。遥か上空で閃く光炎をね返して揺らめく、宵闇色のぼう

 爆音とともに蕾を開き、精彩な花びらを散らす数多の大輪がふたりの間に漂う沈黙を掻き消していく。


 されど次の瞬間、アルベリクの世界から音が消えた。玲々れいれいと紡がれた少女の声だけが、この世に存在する唯一の音色になってしまったかのように。



「あなたはいつ、わたしを殺してくださるのですか?」





   ⚝




 椅子の上で胡座あぐらをかいて座り、その体勢から左足だけを立てて膝頭に頬杖をつく。幼少期、貧民窟を訪れた変わり者の旅人から譲り受けた魔法書のページをめくる。

 ある頁で手を止め、魔法陣を指先でなぞる。円の中心から一筆書きでえがき終え、紙面から指をそっと離した。


 刹那、指の先に小さな光がともった。その微光を手のひらのなかに閉じ込めるように拳を握り、三度上下に振ってから手を明かす。

 まるで発泡酒の木栓コルクを引き抜いた時のような、ぽん、と間の抜けた音を立てて光が弾けて消滅した。


 沈黙。


 これがアルベリクが初めて会得した魔法だった。金にも食料にも暇潰しにも凶器にもならない、存在意義そのものを疑いたくなる無意味な魔法だ。


 虚しさにひとつ嘆息して、再び魔法書をめくる。ろくに目を通さず、ただぼうっと文字をなぞるだけの瞳の奥で、散ったばかりの火花の残像が記憶を炙り出す。

 打ち上がる花火の轟音を押し退けて玲瓏と響く、少女の声。


——わたし、本当は気づいていたんです。自分が魔王の継承者だと。


——それでも、わたしはなにも知らないふりを続けました。だって、そうでもしないと……無知で純粋な第四王女でいないと、みんな、わたしから離れていってしまうんですから。そばにいてほしくて、一緒に笑っていてほしくて……ずっと、ずっと、わたしを好きでいてほしくて。


「……あいつは、」


 宿屋に着いてすぐ別れた少女の部屋には、幾重にも重ね掛けした防衛魔法の結界を張っている。よほどの手練れでなければ突破されまい。

 それでもきっと、死を望む彼女にとっては無用の警戒なのだろうが。


「自分が生き延びるために魔法を使う俺と、誰かのために魔法を使うあいつは、違う」


 自分自身を守るすべを持たなければ、弱肉強食が常態の貧民窟では生き残れなかった。だから、アルベリクは真っ先に攻撃魔法を習得した。殺されかけても返り討ちにできるように。


 少なくとも彼女のように、他者のために魔法を使おうなんてお綺麗な献身など、考えたことすらない。


——でも、もういいんです。もう、疲れちゃったから。


「初めからなにも持ってなかった俺と、ガキの俺が欲しかった物を全部初めから持ってたあいつは、違う」


 勇者の承継者などという大層な宿命を背負っていることを見抜かれたせいで、空虚だった器が一晩にして満たされた。

 悪魔の継承者などという最悪な絶望を抱え込まされていると知られたせいで、満ちていた器が時を経て空虚になった。


 幼いアルベリクが望んでいたものを全て持っていた彼女は、今やその全てを失っている。繋ぎ止めようとしていた少女の懸命を嘲笑うように、呆気なく。


——だから、殺してください。早く死ぬべきだとわかっていたくせに無様に生き延びてしまった、このわたしを。


「あいつには母親がいる。他の家族は知らねぇけど、ひとりでも死んで悲しんでくれる奴がいんなら、俺よりマシだ」


 殺したくない。


 勇者とは、魔を打ち払う者。世界を破滅に陥れる邪悪が存在するかぎり、命を賭して平和を齎すのが使命。

 せめてかつての勇者達と同じように、魔王の正体を知らないままでいられたならよかった。


 殺したく、ない。


 紙のふちをつまんだ指先が力んで、ぐしゃりとしわが寄った。延々と駆け巡る思考は終点を見つけられないまま、頭をひねれば捻るだけ鈍痛を伴って脳内に滞り続ける。


 そもそもが。

 死んでしまいたいと願っている子供を。

 授かりものの称号が唯一の存在意義の自分よりも生きる価値と意味がある子供を。


「生かしてやりたいと思うのは、俺のエゴなのか?」


 されどその問いに答えをくれる者は、どこにもいない。



 翌日早朝。アルベリクと少女が宿屋を発った頃には、すでに街は生誕祭前の様相に戻っていた。掃ききれなかったらしい紫の花びらだけが、煉瓦レンガの隙間に隠れたまままだら模様をえがいている。


 街の入り口へ向かうさなか、三人組の少年が目の前を通過した。両手に握り締めているのは鳴らしそびれた手持祝砲シヨンか。いとけない笑声を響かせて駆けていく彼らの、最後尾を走っていた子供が転んでしまった。あっ、と少女が声をあげる。


 少女は素早く子供へ駆け寄り声をかけた。自力で起き上がった少年の、血がみ出ている膝頭に彼女は指先を当てて、とん、と軽く叩く。

 次の時、彼女の指先から伸びた光の帯が幾重にも重なって患部を塞いだ。痛みに引きっていた子供の表情が、みるみるうちに興奮に輝いていく。


「すごい! おねぇちゃん、まほうつかいなの?」

「ええ、そうですよ。まだまだ新米なので、これから修行の旅に出るんです」

「しゅぎょう? じゃあ、つよくなってかえってくるの?」


 少女が躊躇いに言い淀んだのが、背中越しでもわかった。彼女の返答を待たずに、子供は前のめりになって詰め寄る。


「じゃあぼく、おねぇちゃんのことまってるから! かえってきたらまたまほうみせてね! やくそく!」

「…………ええ。約束、です」


 絞り出すように言って、立ち上がった少女が駆け足で戻ってきた。ばいばい、と無邪気に手を振って見送る子供から逃げるように、アルベリクを追い抜いて街の外へ向かっていく。


 街の入口が見えてきた。昨日見上げた時には人でごった返していた正門にひとはなく、へりに止まった小鳥の囀りが聴こえる。


 先を歩く少女が門をくぐり、されどアルベリクは、最後の一歩を踏み出さず横に並べて立ち止まった。


「アルベリクさま? どうし——」

「お前、本当に死にたいって思ってんのか?」


 ぱきん、と。薄くて硬く、脆いなにかが割れる音が聴こえた気がした。


「死にたくないに決まってるじゃないですか!」


 絶叫にも号哭にも近い大音声がアルベリクの鼓膜を揺さぶった。きっまなじりを研ぎ澄ませて、少女はまくし立てる。


「やりたいことも行きたい場所も食べたいものも、まだまだたくさんあるのに! 魔法ももっと学びたかったし、夢だってまだ叶えられてないのに!」


 少女は叫ぶ。


「こんな、中途半端に生きるくらいなら、もっと早くに殺してくれたらよかったのに!」


 魔王の継承者に選ばれてしまっただけの、一四歳の少女はただ叫ぶ。


 あぁそうか、とアルベリクは息をつく。門を跨ぎ、開いていたふたりの距離を埋める。

 うなれて肩で息をする少女のしろがねの頭に手を乗せたのは、ほとんど無意識だった。


「なんだよ。生きてぇんなら最初っからそう言えっての。うだうだ悩んでた俺が馬鹿みてぇじゃねぇか」


 探していた答えは、単純明快だった。

 生き延びたいなら、魔王として勇者を殺し続けりゃいいだけの話だ。


「一年後、俺は必ずお前を殺す。それまではお前の母親からの命令に従ってやるよ」

「……それは、わたしに魔法を教えてくれるということですか?」

「ああ」

「なら、……もしもわたしが、あなたとの旅の途中でやっぱり死にたくないと思うようになってしまったら、その時はどうするんですか?」

「はっ、なにくだんねぇこと言ってんだ」


 手を離し、獰猛に口のを吊り上げる。


「いいか、お前は魔王で、俺は勇者だ。お前の野望をぶち壊すのが俺の役目だ。それはお前がどう心変わりしようが変わんねぇ」


 けどな、と言葉の端を継ぐ。


「死にたくねぇって思えるようになったんなら、そん時ゃ俺を殺して生き延びればいいだけの話だ。魔王お前に剣を向けた一九九九人の勇者どもにやったようにな。——そのための魔法を、お前に教えてやる」


 自分自身を守るためのまほうを。殺されかけても返り討ちにできる殺意まほうを。

 かつてのアルベリクが、そうして生き延びたように。


 数秒ののち、のろのろと少女が顔を上げた。菫色ヴァイオレットの双眸は波打つように潤み、けれど目尻や頬に落涙の跡はない。


「わたしは、あなたを殺したくありませんので。死にたがりのままでいられるよう、精一杯頑張ります」

「おう。言っとくが、俺は家庭教師みてぇに甘くはねぇからな。覚悟しとけよ、シンシア」

「……ええ、望むところです」


 居住まいを整えて、ふたりは故郷から遠ざかっていく。一年という期限付きの死出の旅路を踏み締めて。


 街が木陰に隠れる寸前に。ぱん、と破裂音じみた祝砲のがアルベリクの耳朶じだを掠めた。

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