第6章:パー子とパーマン

ホテルにて


シャワーを浴び終えて、髪を整えていると

滋昭がデッキから帰って来た。

晶子がもうどこにも行かないと確信したのか、

安心したようにベッドに腰を下ろし、

うとうととまどろみ始めた。


その姿を、晶子は優しく見つめていた。

彼の寝顔を見ているうちに、心の奥にしまっていた

記憶が、静かにほどけていくように蘇ってきた。


——初めて出会った頃、私たちはまだお互いに

距離があった。

でも、アルバム委員の活動を通して、

彼のさりげない優しさに何度も触れた。


のりっぺには「興味をもたない方がいい」と

忠告されたけれど、それでも私は、

彼に惹かれていく自分を止められなかった。


小林さんの存在を知ったときも、彼に好かれようとは

思わなかった。

ただ、私が彼を好きでいること、それだけで十分だった。


一度だけ、彼と二人きりで

「恋人達の帰り道」を歩いて帰ったことがあった。

カップルのための道と高校では言われている道だった。


その日は、胸が高鳴って、夜になっても眠れなかった。

でも、それ以降、彼と話す機会は少しずつ減っていった。

理由はわからなかった。

ただ、私は変わらず彼を想い続けていた。

気づけば、彼の姿を目で追うのが、私の日常になっていた。


以前から両親から、卒業後はアメリカで暮らすことを

言われていた。


彼との距離が離れたとき、私は両親に

「一緒に行く」と伝えた。


卒業式の日。

思いを伝えようと決めていた。

たとえ好かれていなくても、気持ちだけは伝えたかった。


のりっぺから、彼との約束を聞いた時、

アメリカにいくことを後悔した。

だけどもう間に合わなかった。

メモをおきギリギリまで待ったが、

彼に会うことはできなかった。


アメリカに渡ってからのずっと、

私は「パー子」として生きていた。

誰にも言えない想いを、アニメのキャラクターに託して。

アプローチしてくる男性たちを、遠ざけていた。


本当は、彼が好きだったパー子になれば、

彼に近づける気がしていたのかもしれない。


彼に好かれていると錯覚することで、

寂しさを紛らわせていたのかもしれない。


お母さんは全て知っていた。

亡くなる間際に諭された。

「彼に会いに行き、人生を自分らしくやり直す…

新しく始めるように」と。


同窓会で彼に会う事ができた。

彼は私を名前で呼んでくれた。

ずっと夢見ていたこと。

嬉しくて涙を隠せなかった。


だけど、彼と一夜を共にした朝、

私は彼から離れようと思った。


何故って?

20年も彼の人生からいなかった私は

きっと彼の人生の邪魔になる。

彼を不幸にすると思ったからだ。

アメリカに帰ろうとした私に彼が言った。


「彼の人生にずっと私がいた。離れていても」


私と同じ気持ちだった。

空港での彼の歌を腕の中で聞いたとき、

私は心の中で決めた。


——この人と、一生を共にしよう。


そのとき、滋昭が寝言のように

「アッコ、どこ…」とつぶやき、目を覚ました。


晶子はそっと彼の隣に滑り込み、彼の手を握った。

彼はその手のぬくもりに安心したのか、

再び深い眠りに落ちていった。


朝。

カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。


晶子はベッドの端に腰掛け、静かに窓の外を見つめた。

そっと彼の手を外し、起こさないように身支度を始める。


鏡に映る自分の顔。

年齢を重ねたその中に、あの頃の少女がまだ息づいている。

鏡の中の自分に、ようやく“アッコ”と呼びかけられた気がした。

それが、こんなにも嬉しいなんて。


彼が目を覚まし、寝ぼけた目で部屋を見回す。

私の姿を見つけると、ふっと安心したように微笑んだ。

「おはよう、アッコ」


私は少し照れながらも、微笑み返す。

「おはよう、パーマン。ちょっと寝坊じゃない?」


「ウキィー、学校に遅れちゃうよ~」

彼はおどけて言い、二人の間に柔らかな空気が流れた。


彼が顔を洗っている間に、朝食の準備を始めた。

よく考えれば、こうして一緒に食事をするのは初めてだった。

だからこそ、心を込めて丁寧に作った。


「やっぱり、アメリカの生活が長いと、モーニングは美味しく作れるね」


そう言う彼に、晶子は少し拗ねたふりをして返す。

「他の料理も上手なのよ。これからたくさん食べさせちゃうから、

びっくりしないでね」

「それから今日から禁煙ね」


滋昭がつぶやいた。

「『これから』って。ずっと一緒にいてくれるって事?」


「そうだよ。プロポーズに答えてなくてごめんね。

ずっと一緒にいる。だから」


少しだけ真剣な表情で続けた。

「だから…しっちゃんも、昨日みたいに茶化さないで。

“愛している”って、ちゃんと言ってよ」


彼は一瞬黙り、まっすぐに晶子を見つめた。

「アッコ。綺麗で素敵だよ。君を心から愛しているよ」


彼の言葉が、胸の奥に静かに灯をともした。

視線が交わるだけで、心の奥がそっとほどけていった。

しばらくは互いを見つめあい、食事を続けた。


突然、晶子の瞳の表情が変わった。

楽しそうに瞳を輝かせて言った。


「ねぇ、今日は私たちのキューピット『風』を聴きながら、

『パーマン』を全巻読もうよ。

アメリカではできなかった事よ。楽しみ」


滋昭は愛おしそうに、晶子をずっと見つめ続けていた。

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恋人達の帰り道 スピンオフ bataro @bataro

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