第7話 未来へ

 紗良の代謝検査の結果は、「経過観察」という曖昧なものだった。

 今すぐに治療が必要なわけではないが、定期的なチェックが必要。

 その現実は、不安を完全には消してくれなかったが、同時に、私たちにひとつのリズムを与えた。


 三ヶ月ごとの通院。

 そのたびに、紗良の成長を確認し、数値の変化に一喜一憂する。


 勝は予定通り、育児休暇を延長した。

 職場では、案の定、山下さんが「男がそんなに休んでどうする」とぼやいたらしいが、課長が正面から「制度はそのためにある」と返してくれたという。


 義母との関係も、少しずつ変わり始めた。

 あるとき、オンライン通話の中で、また「私のときはね」と出産の話が始まった。

 私は深呼吸をして、言った。


「お義母さんの経験は、本当にすごいと思います。

 でも、私たちは別のやり方を選びました。紗良のことで不安もあるけど、勝と一緒にやっていきたいと思ってます」


 一瞬、画面の向こうの義母が黙り込んだ。

 そして、少しだけ目を細めて言った。


「……そう。そうね。時代が違うんだものね」


 その言葉の奥には、やっぱり戸惑いと寂しさがあった。

 でも同時に、どこかで私たちの選択を認めようとする柔らかさも感じられた。


 メモ帳は、ページがだいぶ埋まってきた。

 仕事の合間や、夜中の授乳のあとに、私は少しずつ物語を書き足していく。


 ――「痛みのない世界」で、人々は別の痛み方を学ぶ。

 自分で選んだ道の重さを、分かち合いながら背負っていく。


 紗良がいつか大きくなったとき、この世界の仕組みをどう感じるのだろう。

 ガラスのゆりかごを、当たり前のものとして受け入れるのか。

 それとも、どこかで疑問を抱くのか。


 そのとき、私は彼女に何を語れるだろう。


 「楽を選んだ」と言われるかもしれない。

 「痛みから逃げた」と批判されるかもしれない。


 それでも私は、こう言いたい。


 ――私たちは、あなたを迎えるために、この時代に与えられた方法の中で、できるだけまっすぐに選ぼうとした、と。


 勝が、キッチンで洗い物をしながら鼻歌を歌っている。

 リビングでは、紗良が床のプレイマットの上で、まだ不器用な手つきでおもちゃに触れようとしている。


 私は、窓辺の椅子に座り、ペンを握った。


 世界は、完全には優しくならない。

 解放はいつも、不安とセットでやってくる。

 制度は変わっても、人の心が追いつくには時間がかかる。


 それでも、私たちは少しずつ、自分たちの言葉で、それを語り直すことができる。

 「男だから」「女だから」ではなく、「私たちはこうしたい」で選び取る未来を。


 ガラスのゆりかごの時代に生きる私たちの物語は、きっとまだ始まったばかりだ。

 紗良が大人になるころには、また別の「当たり前」が生まれているだろう。


 その未来に、少しでも誇れる今日を残せるように。

 私は、静かな夜の中で、メモ帳にそっと次の一文を書き加えた。


 ――「痛みの記憶がなくても、私たちは愛を覚えていけるのだろうか。」


 ペン先が止まり、私はベビーモニターに視線を向ける。

 画面の中で、紗良の胸が規則正しく上下していた。


 外の世界では、交通ドローンの微かな音が、遠くを流れていく。

 未来は、まだ形を定めていない。


 でも今、この部屋の中だけは、確かに私たちのものだ。


 私は、メモ帳を閉じ、そっと立ち上がった。

 紗良の眠る部屋へ向かう足取りは、少しだけ、昨日よりも軽かった。

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21XX年、母になる痛みを失った世界で 風谷 華 @Neko-ne

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