第6話 小さな決断

 帰り道、センターの前の公園で、私たちはベンチに座った。

 夕方の光が、ビルのガラスに反射して、空気そのものが少しきらきらして見える。


「華」


 勝が、ポケットから小さなメモ帳を取り出した。


「これさ、華が最近、散歩のときに書いてたやつだろ?」


「え、なんで持ってるの?」


「さっき家を出る前にテーブルに置きっぱなしだったから。慌てて持ってきた。ほら」


 ページの端には、さきほど私が書いた言葉があった。


 ――「痛みのない世界で、私たちは何を対価に支払ったのだろう。」


「いい言葉だと思う」


 勝は、照れくさそうに笑った。


「俺さ、華がこういうふうに考えてるってこと、もっとちゃんと聞けばよかったなって思った。

 俺は正直、負担が減ってラッキーって部分もあったから。…いや、もちろん華の身体のこと心配してたけどさ」


「うん」


「でも、華にとっては、『痛みがない』ってことが、別の不安を生んでたんだよな。

 それに気づくの、ちょっと遅かった」


 私は首を振った。


「私も、ちゃんと言葉にできてなかったから。

 痛い思いしてないから文句言っちゃいけない、って思ってたし」


 沈黙が落ちる。風が、街路樹の葉を少し揺らした。


「さっき神崎先生が言ってた『選択』ってさ」


 勝が口を開いた。


「俺たち、ちゃんとやってみようか。

 会社や親に合わせるんじゃなくて、自分たちがどうしたいかってところから決めるの」


「……たとえば?」


「紗良の検査のこともあるし、しばらくのあいだ、俺が育児休暇を長めに取る。

 華は、プロジェクトが一段落するまで、仕事を優先していい。

 そのかわり、紗良が大きくなったときに、どこかのタイミングで、今度は華が少し時間を取るとか。長いスパンで見て、プラスマイナスを合わせていく感じで」


 私は驚いて、勝の横顔を見た。


「でも、勝の職場、大丈夫? 山下さんとかいるんでしょ」


「正直、反発はあると思う。でも、制度上は問題ないし。課長もたぶん、俺がちゃんと説明すれば応援してくれる。

 何より……俺自身が、紗良と一緒にいる時間を取りたいんだよ」


 その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなった。


「華が罪悪感抱かなくていいように、っていうのもある。

 『痛みを引き受けてないから』とか、『楽を選んだから』とか、そういう言葉に縛られないでほしい」


 私は、膝の上で手を握りしめた。


「じゃあ……私も、ひとつ、決める」


「うん?」


「次に義母さんに何か言われたら、『私たちはこういうふうに決めました』って、ちゃんと言う。

 『昔と今は違うから』って。

 怖いけど……言ってみる」


 勝の目が、少し潤んだように見えた。


「怖いときは、一緒に言おう。オンライン通話なら、隣に座ってられるし」


「それ、心強いね」


 私たちは顔を見合わせて笑った。


 そのとき、ベビーカーの中から、小さな泣き声が聞こえた。

 紗良が、うっすらと目を開けている。


「あ、ごめん、長く外にいたね」


「俺が抱くよ」


 勝は立ち上がり、器用に紗良を抱き上げた。

 紗良の顔がぐしゃっと歪み、泣き声が少し大きくなる。

 私は、その様子を見ながら、自分の胸の内を探る。


 痛みはない。

 代わりに、じわじわとした不安と、責任と、愛おしさとが、複雑に絡まり合っている。


 それでも――いや、だからこそ。

 私は、この子の母親だ。


 そう、ゆっくりと、少しずつ、言い聞かせるように思った。

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