病は記憶から

閒中

病は記憶から

その病院の人気は凄まじく、予約がなんと7年待ちだそうだ。


内科でも皮膚科でもない、其処は世界で唯一の『記憶消去科』を掲げ、独自の方法で世界初の“部分的記憶消去法”を編み出した女医が一人で患者を診察している。


消したい記憶。

それは誰にでもあるだろう。

どうしても忘れられない好きだった人の記憶、いじめられた記憶、上司に怒られた記憶、若い頃の黒歴史…。

記憶を消したい人々が毎日その病院を訪れる。

次に進むために。

前を向くために。

新しい自分になるために。


俺はたまたま、予約待ちせずに今日診察することができた。

所謂、親父のコネだ。

俺が何年も鬱っぽくなっているのを見かねて、知り合いの医者に嫌な記憶でも消してもらって来い、と送り出されたのだ。


俺の消したい記憶はもう三年も頭の中にこびり付いて離れない。

後悔、愉悦、征服感、興奮、背徳感、自己嫌悪。

毎日繰り返される“あの時”の感情と映像。

もううんざりだ。

消せるものなら消して欲しい。


俺は重い足取りで病院の受付に行く。

問診票を書き、順番を待つ。

「一回に消せる記憶は一つだけ、それも数時間のみしか消せませんが、大丈夫ですか?」

受付にいたお姉さんが俺に聞いてくる。

「複数の記憶や丸一日の記憶はダメなんですか?」

俺が聞くと、お姉さんは頷いた。

「それは脳への負担が大きく、最悪脳が損傷してしまう恐れがあるので、できません。」

良くない言い方ですけど廃人になっちゃいますよ、とお姉さんは怖いことを付け加えた。


大丈夫。俺が消したい記憶は一つだけだ。

それ以外の俺の人生は完璧なのだから。

経営者の両親のもとに生まれ、金に困ったことはない。

背も高く容姿も整っている俺の周りには、求めなくても光に群がる蛾のように男も女も絶えず寄って来る。

今は高層マンションで悠々自適に過ごす日々だ。

あの記憶さえ無くなれば、俺に汚点はない。


診察室のドアをノックして入る。

真っ白い部屋にはテレビやネットで何度も見た中年の女医が和かに座っていた。

「お父様からのご紹介ですね。どうぞ。」

促されて椅子に座ると、早速問診が始まった。


「お名前をどうぞ。」

「篠原ユウキです。」

「消したい記憶はいつのものですか?」

「三年前です。」

「何月何日、何時頃か、出来るだけ具体的に教えてください。」

「12月24日の…20時から22時くらいまでの記憶を消して欲しいです。」

「………。」

パソコンに情報を打ち込んでいく女医の手が不意に止まった。

「消せますか?」

不安になった俺が聞くと、女医は「勿論です。」とまた和かに笑った。

「クリスマスイヴの記憶が素敵なものとは限りませんものね。」


「篠原さんの記憶を此処で映像化します。」

小さめのテレビと色々なパソコンが置いてある部屋に連れて行かれた。

精神を安定させるという薬を飲まされ、簡易的なベッドに横になり、目元にタオルが被される。

視覚情報がない方が記憶を引き出しやすいらしい。

頭にペタペタと脳波を探る機械を付けられる。

映像化?

いや、待て。聞いてないぞ。

「あ、あの、その、なんて言うか、お医者さんにも俺の消したい記憶見て欲しくないんですけど。」

目隠しされた俺は冷や汗をかきながら訴える。

ずっと秘密にしてきたんだ。

映像化なんてとんでもない。

「大丈夫ですよ、消したい日が本当に合っているのか確認するだけですから。」

違う記憶を消しちゃったら大変ですからね、と女医は言う。

確かにそうだけど。

ネットで調べたときも、問診をしたときも説明がなかったじゃねぇか。

俺の動揺が伝わったのか、女医は安心させるように続ける。

「映像化は消したい記憶の日の24時間だけです。

日付が合っているか確認できた時点で映像はOFFにし、脳波のデータを分析して篠原さんのご希望の20時から22時迄の記憶の消去を開始します。」

俺は緊張しながら女医の言葉に耳を傾ける。

「最後に映像を見て確実にその時間が消去されていることが確認できたら、終了となります。」

お時間はかかりませんよ、と言われて俺はやっと安心した。


「では、始めます。」

視界が塞がれている俺には音しか聞こえないが、タイピング音や断続的な機械の音がしている。

頭に取り付けられた装置が電気を発しているのかジワジワと変な感覚が頭にあって少し気持ち悪い。

そして不意に、ガヤガヤと人混みの騒がしい音がし始めた。テレビの音だろう。

俺の記憶の映像化が始まったのか。

あの日の朝にいた渋谷かな。

日付が確認できたのなら早く映像を消して欲しい。

早く消してくれ。

映像も、俺の記憶も。


しかし、テレビの音はいくら待っても止まなかった。

「あの、日付確認できたのなら映像止めてくれませんか?」

堪らず俺は懇願する。

しかし女医は返事をすることなく映像を早送りし、時を進める。

「あの、おい、ちょっと。」

イラついた俺が起き上がろうとすると、女医が静かに話し始めた。


「私の娘はね、殺されたの。3年前に。」


俺は硬直した。

「受験勉強を頑張っていてね、クリスマスイヴも夜まで塾に行ってたの。」

俺の心臓が痛いほど大きく脈打つ。

「塾の帰りに、誰かに攫われて、乱暴されて、首を絞められて、殺されたの。」

俺は慌てて起き上がろうとするが、何故か身体が動かない。

動揺で?いや──さっき飲まされた薬か?


目元のタオルが取られる。

急に明るくなった視界に思わず目を細めるが、俺の目に映ったのは椅子に座っている女医と、後ろのテレビ画面に映る──俺があの日、衝動的に殺してしまった女の姿だった。


「もしかしてと思ったけど…あなただったのね。

良かった。まさか其方から来てくれるなんて。」

女医の貼り付けたような笑顔を目で見上げることしか俺には出来なかった。

「目撃者も証拠もなくてずっと困っていたの。」


そうだ。

酒に酔って良い気分だった俺はあの日、あの夜、あの女に声をかけた。

冷たくあしらわれてつい頭に血が上った。

あの女の後を追い、人気のない場所まで来たところで襲った。

完璧な俺を蔑ろにする不愉快な女を苦痛と屈辱で歪ませるために。

しかし思った以上に抵抗されたので俺は混乱し、騒がれないように首を絞め、うっかり殺してしまった。

俺の人生の唯一の汚点。

忘れたくても忘れられない。

事切れる直前に俺を見た女の目。

その視線が今でも俺を監視するように張り付いているような気がする。


「俺をどうするつもりだよ。」

俺は動けなかったが女医を睨みつけ、精一杯の虚勢を張った。

女医は笑顔を崩さなかった。

「お望み通り、記憶は消してあげますよ。

あなたの記憶の中に娘がいるのは耐えられないので。」

ああ、何だ。

俺はホッと胸を撫で下ろした。

結局コイツは俺に何も出来ないんだ。

知り合いの社長の息子だし、俺を殺す訳にもいかない。

ただ娘を殺した犯人の俺を怖がらせることしかできないのだろう、哀れだな。

俺が鼻で笑うと、女医は言った。


「では、これからあなたの“全て”の記憶を消します。」


その瞬間、頭が真っ白になった。

何を、消すって?

受付のお姉さんの言葉が浮かぶ。


『複数の記憶を消すと脳に損傷が』

『廃人になる』


ゾワッと背筋が凍りつく。

「やめろ!父さんに言うぞ!!!

お前を廃業にしてやる!!!知り合いの弁護士に頼んで訴えてやる!!!」

俺はありったけの声で叫んだ。

そんな俺を笑顔で見つめていた女医は、再び俺の目元をタオルで塞ぐと、やけに優しく俺の頭を撫でた。


「それを考えられる脳が残っていれば、ね?」




〈終〉

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