時岡家の話
@OZON-SOU
第1話 至とせつなのこれまで
Q県のある町で、僕達は普通に暮らしていた。妻の幾子と中学生の息子の至、そして僕、渉の3人家族。ごく普通の、だからこそ幸せな毎日を送る時岡家だった。
そんな普通だからこそ幸せなある日、僕は妻と共に息子にある報告をした。
「どうしたの?そんなに改まって?」
息子から見た僕達は、少し緊張していたようだ。小学校から柔道をしている息子は、同い年の子に比べたら体格が良く、母親の身長はとっくに抜いている。そんな息子に、気持ちを落ち着かせて報告した。
「至、よく聞いてほしい。実はな…、年内に、至はお兄ちゃんになる。」
「…は?」
「その…、幾子は今、妊娠してる。秋頃出産予定だ。性別は、おそらく女の子だろう、と。」
「今さら妹ができるなんて、ビックリよね?けど、家族が増えるのは楽しみだわ。」
少し恥ずかしがりながら至に報告する僕と違って、幾子はとてもワクワクしているようだった。中2の男の子といえば、反抗期が来ていてもおかしくない時期だが、至は目をキラキラさせていた。
「本当か?!すげえじゃん!おめでとう!俺にできることがあれば手伝うよ。」
とても優しい子である。真っ直ぐ育ってくれた息子と、息子を育ててくれた妻に感謝である。
家族が増えるという報告をして以来、至はより積極的に手伝いをしてくれるようになった。普段から気が付けば積極的に手伝ってくれる子だが、妊婦の幾子がやりづらいところは全てカバーする勢いだった。僕も負けていられない、と心の中で少しだけ至と張り合っていた。
みんなで支え合って、気付けば夏の終わり頃になっていた。幾子の出産が近くなってきた。この日は、歩きづらそうになってきた幾子を病院に連れて行く日だ。
「ごめんね、渉さん。半日休みまで取ってもらって。」
「謝ることはない。当然のことだ。」
「至、今日は部活で遅くなるんだったよね?」
「うん。来週が大会だから。3年生が引退して、俺たちが引っ張っていかないといけないから。」
「さすが、新主将。頼もしいな。」
「その頼もしさで、妹のこともよろしくね。」
「任せてよ。」
新しい家族の、女の子ための服やおもちゃを少しだけ準備し始めた頃だった。至も、夏の大会で3年生が引退し、顧問の先生から主将に任命されて張り切っている。勉強に部活に忙しい中で、よく家のことを手伝ってくれている。
「じゃあ、俺、行ってくるわ。」
「ああ、気をつけるんだぞ。」
「いってらっしゃい。」
至は元気よく学校に向かっていった。僕と幾子も準備を整えて、ある程度家の掃除もして、病院に向かった。
平日の通勤ラッシュを少し過ぎた時間というのは、道路が空いていて進みやすい。だからといってスピードを出しすぎず、安全運転を心掛けて病院に向かっていた。助手席で幾子は穏やかな顔で大きくなったお腹をゆっくりと撫でていた。赤信号で止まり、幾子は穏やかな顔のまま言った。
「渉さん…、私、入院が早まるかも。」
「ん?先生に何か言われたのか?」
「ううん。けど、高齢出産でしょ?生活には気をつけるように言われてたし…。」
「不安なのか?」
「だって、渉さんは仕事が忙しいし、至は学校があるし。誰がご飯準備するの?」
それを聞いた僕は少し反省した。前に幾子から料理を教わったとき、僕には料理のセンスが欠片もないことが分かった。以来、僕は食事後の後片付けのみを担当している。
「心配させてごめん。けど、今はとっても大事な時期だろ?幾子は幾子とお腹の中の子のことを一番に考えてればいい。その時が来たら、僕と至のご飯くらいどうにかするから。」
「…ありがとう。渉さん、本当に優しいね。」
そんな穏やかな時間の中の会話をしている内に、信号が青になった。僕はゆっくりとアクセルを踏んだ。いつも通りのやり方だ。だが、この直後、僕達は物凄い勢いで車ごと電柱にぶつかることになる。
僕は幾子と2人、霊安室で寝かされていた。廊下を歩く警官達の話を聞くに、青信号になって発進した直後、後ろから来た飲酒運転のトラックが猛スピードで僕達の車に追突し、電柱とトラックに挟まれたらしい。即死だった。そうこうしている内に、本来なら給食を食べているであろう至が部屋に連れてこられた。傷みが激しい僕達を見て、体格が良い至でさえも崩れるように床にしゃがみ込んだ。
「間違いありません…。父さんと母さんです…。」
親の僕達でさえも聞いたことのない、細く小さな声で至は言った。今朝までは普通に会話していたのに、平凡で幸せな暮らしは突然終わった。至は大粒の涙を流し、側にいた警官が至に寄り添った。霊安室の外で1、2時間、泣くだけ泣いて、悲しみが全く消えていない至は絞り出すように対応した警官に質問をした。
「飲酒運転のトラックなんですよね?犯人は捕まりましたか?」
「もちろん。今、取り調べてる。」
「罪は重くなりますよね?」
「飲酒運転に死亡事故だからね。重罪だよ。」
「あと…」
至は幾子の遺体を見た時に感じた違和感が何なのか、泣きながら気付いたらしい。目に溜まっていた涙を拭って聞いた。
「母さん、妊娠してたんです。けど、さっき見たら、お腹が元に戻ってて…。どうなったんですか?」
「…ああ、それなんだが…」
その時、警官のスマホが鳴った。ごめんね、と至に言って、少し離れた警官は、電話の向こうの相手から何か報告を受けた。電話を切り、警官は至をジッと見て、ゆっくりと近づいた。
「さっき、俺の仲間から連絡があった。お父さんとお母さんは残念だったが、君のお母さんのお腹の中にいた赤ちゃんは事故後、お腹の中から出された。危険な状態だったが、さっき、きちんと自力で呼吸を始めたそうだ。」
それを聞いた至は、またじんわりと目に涙を浮かべた。霊安室に再び入った至は、僕達の顔にかけてあった布を取った。
「父さん、母さん。赤ちゃん、無事だって。良かったな。けど、…何で顔も見ずに死んじゃうんだよ。」
至はまた泣き出した。
その後はとても慌ただしかった。中学校の終礼後に至の担任の先生が来て、警察から事情を聞いた。担任が独身男性だったこともあり、2日間は担任の家でお世話になった。僕達の遺体が家に戻ったのは、事故から4日後だった。僕も幾子も両親を早くに亡くしたため、至は同じ市内に住む僕の父の弟の家に引き取られることとなった。葬儀を済ませ、至は必要な荷物をまとめて、家族の思い出が詰まった家を出た。至を引き取ってくれたおじさんは夫婦揃って面倒見が良く、至のことを可愛がってくれた。しかし、高齢ということもあり、生まれたばかりの至の妹を引き取ることはできなかった。行政や病院が気を利かせてくれたお陰で、出生届は1か月先まで待ってくれた。
至は葬儀が終わってから再び学校に通い始めた。部活も主将を降りようと顧問の先生に相談したが、無理のない範囲でやればいい、と言われ、続けることとなった。毎日病院にも通った。妹の様子を見るためだ。亡くなった後の母親のお腹から出てきた未熟児とあって、最初はたくさんの機械に囲まれていて見ていられなかった。ある日、至に1人の看護師が話し掛けた。
「至くん、妹ちゃん、まだ名前がないの。至くんが決めたほうが、この子も喜ぶと思う。この子の名前を何にするか、忙しいかもしれないけど、考えてみて。」
病院側の配慮で、命名は至に任された。まだ小さな保育器から出られない妹を、部屋の外から見ていた至は、少し考えて、小さな声で答えた。
「…せつな。」
「え?」
何日かかかると思って言った看護師は、すぐに答えが返ってきて驚いた。至は部屋の外から真っ直ぐ妹を見て言った。
「どんなにちょっとでも、時間は大切にしてほしい。またいつか、なんて信用できないから。だから、せつな。俺の妹は、時岡せつなです。」
後日、至はおじさんと共に市役所に行き、出生届を提出した。せつなは1年間は病院で過ごし、市内の児童養護施設に預けられた。
トラック運転手の飲酒運転で、中学生の息子が1人残され、お腹の中の赤ちゃんは無事だった、というマスコミが好きそうな話題が詰め込まれた僕達が巻き込まれた事故は、当然のように大きく報道された。始めのうちは、至に話を聞こうと中学校前にマスコミが集まることもあったが、教職員がそれを防いだ。おじさんの家を突き止めてやってくるマスコミもいたが、おじさんとおばさんが一度強烈な怒り方をしたため、それ以来マスコミは来なくなった。至は感謝の意を表するため、勉強も部活も頑張った。事故直後の試合にはさすがに出られなかったが、それ以降は3年生の引退試合まで全てで決勝まで勝ち進み、優勝や準優勝になった。柔道の推薦入試で高校に入学し、1年生から強豪校の3年生に勝って注目を浴びた。成績も中の上をキープし、柔道の強い他県の大学に推薦で入学した。法学部で学び、柔道に打ち込み、明るい性格で友人も多くできた。忙しい合間を縫って、高校生の頃は月1回、大学生の頃は2か月に1回はせつなに会いに行った。おじさんとおばさんは良い人で、至のことを可愛がってくれるが、至はどこか寂しく思っており、実の妹に自分の事を忘れて欲しくなかった。せつなは至が来るたび、満面の笑みで至に飛びついた。一緒に暮らしていなくても、ちゃんと会いに来てくれる至を兄だと認識している。最初は、お兄ちゃん、と呼んでいたせつなだが、5歳くらいから、兄ぃ、と呼ぶようになった。どっちにしても、至は嬉しかった。
勉強に柔道に友達付き合いと、大学生活を満喫した至は、Q県に戻って、幼い頃からの夢だった警察官になった。事故が起こる前までは、ただ何となく格好良いから、という理由だった。しかし、僕と幾子が亡くなったあの事故後は、色んな悪い事が起きないよう、それで悲しむ人が減るよう、警察官になって抑止力になりたい、そう願っていた。始めのうちは警察学校で忙しく、せつなに会うことができなかったが、交番に配属されてからは、また月1回のペースで会いに行くようになった。大変なことが多く、休みも特別多くないが、それでも夢を叶えた至はやり甲斐を感じていた。そんな兄を、せつなはとても誇らしく思っていた。
至を引き取ってくれたおじさんは、至が警察官になって3年が経った頃に亡くなった。おばさんも後を追うように体調を崩して亡くなった。至にとって、家族と言える存在はせつなだけになった。せつなは至が会いに来てくれる日は、必ず笑顔を見せてくれた。それが至にとって、大きな心の支えだった。
至には大学生の頃から心配していることがあった。せつなの成長が他の子に比べて遅いのだ。どんどん身長が伸びていく周りの子に比べると、せつなは明らかに小さかった。職員にそれを相談したことは何回かあったが、答えはいつも同じだった。
「問題ありませんよ。いるんですよ、たまに。けど、いずれはせつなちゃんも背が伸びますから。病気とかではありません。」
至は職員の言葉を信じた。しかし、小学校を卒業する頃にようやく110cmになったせつなを心配に思わずにはいられなかった。せつなが中学校に入学し、至はそこでようやくせつなが痩せていることに気付いた。身長ばかり気にしていたが、ふと見た時にせつなの腕が細く、少しアザがあることに気が付いた。
「私、食が細いから。あまり食べられないんだよね。運動神経も良くないから、体育で上手くいかないんだよ。」
至がせつなに直接聞いた時、せつなは必ず笑いながらそう言った。至は心配が拭えないながらも、せつなの言葉を信じた。
せつなが中3になり、高校受験に向けて本気で頑張り始めた頃、至は以前から、せつなが高校生になったらせつなを引き取って一緒に暮らそうと考えていた。高校生になれば、自分が夜勤で夜にせつなが家で1人になってもある程度は安心だと思っていたのだ。そんなせつなは、15歳になっても背が低いままで痩せていた。施設の職員に検査を受けさせたいと申し出ても、大丈夫、の一点張りだった。そんな中、秋が深まった頃に雑誌記者だという女性が至に近づいた。
「あなた、本当に気付かなかったの?警察官なのに?」
見せられた発売前の仮の記事には、Q県のとある児童養護施設で長年続いていた女児に対するイジメや暴行について書かれていた。至は愕然としてその場に崩れ落ちた。施設の職員は、至にバレないために、せつなに口止めしていた。
「妹さんが何を言おうと、このことは記事にするから。ちゃんと反省しなさい。」
至は何も言えなかった。
後日、せつなが受けたイジメや暴行について書かれた雑誌は全国に発売され、テレビでも大きく報道された。せつなが同じ施設の子からイジメを受け始めたのは、物心が付いてすぐのことだった。母親が亡くなった後に生まれたと聞いた子がせつなのことを「親を食った悪魔」と呼んだのが始まりだった。せつなは仲間に入れてもらえず、悪魔退治と称して石を投げられたり暴力を振るわれたりした。施設の職員はやめさせようとしたが、子ども達はやめようとしなかった。ご飯も横取りされるようになり、幼いせつなは1日のうちで、朝に職員から渡されるおにぎり1個かバナナ1本しか食べることができなかった。小学校に入学すると、クラスメイトからもイジメを受けるようになり、教科書は隠されたり破られたりした。給食も食べさせてもらえず、後でこっそり職員室で校長からパンを1個与えられて隠れて食べた。授業中はまだよかったが、体育は心無い言葉を浴びせられたり必要以上にボールをぶつけられたりしていた。最初は止めようとしていた先生達や児童養護施設の職員達も、イライラが溜まり、せつながいなければこんなことには、と思うようになってせつなに辛く当たるようになった。貰えていたご飯も、全く与えられない日が出るようになった。学年が上がるにつれてイジメはエスカレートし、中学校に入学すると、放課後に水を撒いたトイレで土下座をさせられたり全速力の自転車に突っ込まれたりもしていた。それでも、せつなを助けてくれる大人は周りにいなかった。それどころか、大人達はせつなに、至に言ったらもっと怖いことが起こる、至は警察を辞めなければならなくなる、と脅され、口止めされていた。せつなは小学校高学年の時にそんなことはないと気付いたが、至に心配をかけたくない思いは確かにあったため、ずっと黙っていた。
至は、気付けなかった自分自身を情けないと思うと同時に、記事を書いた記者に対して怒りを覚えた。発売された雑誌を買って読んだ時、前もって見せられた記事とは内容が異なっていた。至を批判する文章が全て削除されていたのだ。最初は他に載せたい内容ができたのだろうとしか思わなかった。ある日、至が退勤しようと当時勤めていた警察署を出ると、その記者が至を待ち伏せていた。
「雑誌、買ってくれた?」
「…ええ。きちんと読みましたよ。」
「そう。良かった。」
その女性記者は満面の笑みだった。至は不快な気分になった。せつなが苦しんでいた、という内容の記事で笑えるわけがない。だが、至はここは気持ちを落ち着かせた。
「1つ、聞いてもいいですか?」
「ん?何?」
「どうして、僕を批判する内容が全て無くなっていたんですか?」
「ああ、…あれのこと?」
女性記者は少し間を開けて、至を見ながらニヤリと笑った。
「あなたの妹に見せたら、『兄ぃはこんな人じゃない!兄ぃはすっごく優しくて、私のヒーローなんだから!』って超怒られた。良かったね、優しい妹で。」
ずっと守ってやれてなかったのに、せつなが自分の事をそんな風に思ってくれていたと知った至は涙が止まらなかった。そんな至を見て、女性記者は恩着せがましい一言を放った。
「まあ、感謝してよね。妹ちゃんのイジメ、色々事例や証拠写真集めるのに10年かかってるんだから。大変だったんだよ?」
それを聞いた至は凍りついた。頭の中がぐちゃぐちゃになり、背中を向けて去ろうとする女性記者に絞り出すように声を出した。
「…待てよ。お前、10年も前から知ってたのか?」
「ん?そうだけど?」
振り返って、当然のように答える女性記者に、至は詰め寄った。
「だったら、どうしてもっと早くにせつなを助けてやらなかった?直接お前が助けなくてもいい。警察に言ってくれればよかった。てか、そんなに取材してたら、俺が兄だってことも分かってたよな?何で俺に言わなかった?」
女性記者は薄っすら笑顔を見せながらも、冷たい言葉を放った。
「警察官なら、自分で気付くべきだったと思うけど?それに、私も記者よ。これで飯を食ってるの。記事が盛り上がるようなネタがあるなら、どんなに相手が苦しんでいようが、放って置くに決まってる。だって、私は苦しくないもの。」
それだけ言うと、女性記者は帰っていった。至は込み上がってくる無限の怒りを必死で抑え込んでいた。
高校受験まであと4カ月ほど、という頃に、せつなは施設を出て、Q市にある警察官の宿舎に住むことになった。せつなはずっとQ市の施設にいたため、近場が良いだろうという大人達の配慮だ。至はその頃、遠方勤務の義務を果たすためにQ県内のQ市から離れた町の警察署で勤務していた。Q市から通うことはできないため、代わりに当時Q市警察署で署長をしていた藤森要次が妻と共にせつなの世話を引き受けた。藤森は至が警察学校に入校した頃から、至とせつなのことを気にしていたらしい。今回のせつなの件は、至のみならずQ県警察内でも見抜けなかったことを悔しがっていた。至はせつなを連れて藤森の家に挨拶に行き、感謝を伝えた。
「困ったことがあったら、遠慮なく頼ってね。」
「1人で抱え込むんじゃないよ。」
「すみません…、何から何まで…。」
藤森夫妻に、至は何度も頭を下げた。せつなは至の横で、少し緊張した顔で立っていた。
「ほら、せつなもお礼を言って。」
「あ…、ありがとうございます…。あの…、なるべくご迷惑をお掛けしないようにしますので、お2人の生活の邪魔はしませんから…。」
せつながそう言うと、藤森夫妻は互いに顔を見合わせて驚いた。
至は心配に思いながらも、せつなをQ市の宿舎に置いて、勤務地へ戻った。そんな至に心配させまいと、せつなは頑張った。全国誌で報じられて以降、せつなを虐める同級生はいなくなった。相変わらず無視はされ、仲間には入れないが、1人で何事もなく過ごせる時間が増えた。それがせつなには良かったらしく、受験勉強が捗った。教科書を隠されたり破られたりしても、成績は良かったせつなは、宿舎から歩いて通える、県内トップ3に入る進学校に受かった。至にも辞令が出て、4月からQ市内の警察署で勤務することになった。高校入学前、せつなの春休み中に制服や教科書を買いに高校に行かなければならなかったが、必ず保護者同伴と連絡が来た。至はまだQ市に戻ることが出来なかったので、藤森の妻がせつなに付き添った。後日、Q市に戻った至はお礼を言いに藤森家を訪問した。
「奥様、色々とご面倒をお掛けしてすみません。助かりました。ありがとうございます。」
「これくらいどうってことないよ。それより、至君はこれからせつなちゃんと一緒に暮らすんでしょ?」
「はい。やっと一緒に暮らせます。とは言っても、僕が夜勤の時はまたお世話になるかと思いますが…。」
「それなんだけど、せつなちゃん、全然私たちを頼ってこないんだよね。初めて挨拶に来てくれた時に言ってた言葉もあるし、ちょっと心配で…。この間の高校の入学前販売も、何回も私に、すみません、って言ってきたし。せつなちゃんの心の傷、私たちが思ってるより深いかも…。」
「そ、そうでしたか…。」
至は、せつなのことをまだあまり理解してやれていないことが悔しく、自身を情けなく思ってしまった。
せつなが高校に入学した。至とせつなが一緒に暮らし始めて1か月で、だいぶ生活のリズムが決まってきた。至はこれまで通りに起き、せつなは自身の弁当を作るために早起きをした。高校で勉強し、終礼後は部活動には入らず、必要ならばスーパーで買い出しをしてから家に帰った。宿題をある程度済ませてから晩ご飯を作り、大体出来上がる頃に至が帰ってくる。一緒にご飯を食べて、至から風呂に入り、せつなは宿題を片付ける。至は筋トレを怠らない。
ある日、至は気になっていたことをせつなに聞いた。
「せつな、どこで料理を覚えたんだ?」
せつなの作る料理は毎日どれも美味しく、警察官で柔道もしている至のために栄養バランスがよく考えられているものばかりだった。施設や学校での扱いを踏まえて考えると、せつなに料理を教えた人がいるとは思えない。至はずっと不思議に思っていた。
「ああ…。運動会とか修学旅行とか、そういうイベントの時は参加させてもらえなかったから、代わりに職場体験として駅前の料理教室で教えてもらってた。言ってなかった?」
「…初耳だぞ、おい。」
翌日、その事実は証明され、さらに後日、至が払っていたせつなの修学旅行の費用を教育委員会が横流ししていたことも発覚した。Q市教育委員会は逃れられないと悟ったのか、ここでようやく記者会見を開いた。修学旅行の費用と給食費の9割が至に返還されたが、全国からの批判の声は収まらなかった。教育委員会は、役員が全員入れ替わることとなった。
せつなは高校でも1人だった。色んな中学校から人が集まってはいるが、せつなのことを知る人も多くいる。同級生達は報道を当然知っており、せつなに声を掛けづらかった。せつなもそれを承知していた。しかし、何も嫌なことをされないというだけで、せつなにとっては天国だった。せつなは相変わらず成績が良く、難関大に余裕で受かるだろう、と教員達が期待していた。そんなせつなはパソコンに強かった。1から組み立てることもできるし、プログラムも簡単に作る。やろうと思えばハッキングも出来るらしい。それは至が全力で止めた。
「どうしてそんなにパソコンに強いんだ?」
何を言われるのか、至は少しドキドキしながら聞いた。辛い話が出てくるかもしれない、そう思って至は身構えた。
「ん?ああ…、壊されることが多かったし、友だちもいなくて暇だったから、チビでも出来そうなことを探した。」
「…それで、パソコン?」
「うん。これからの時代には不可欠な知識だし、チビでも十分できるし、できたらなんか格好良いなぁ、って思って。意地悪されなければ1人だったから、勉強はできたよ。」
「…す、凄いな、せつな。」
笑顔で言うせつなに、至はただ凄いとしか思わなかった。せつなはせつななりに、出来ることを増やしている。可哀想なばかりではない。
せつなは高校2年の2学期末になった頃、珍しく自分から至に相談を持ち掛けた。至は、自分を頼ってくれたことが少し嬉しかった。
「どうした?」
「兄ぃ…、あ、あのね…、進路のことなんだけど…。」
せつなは少し緊張した様子だった。至はすぐに察した。
「せつな、先に俺の昔話をしてもいいか?」
「う、うん…。」
「父さんと母さんが死んだ後、俺が親戚のおじさんの家で過ごしてたのは知ってるな?」
「うん。良い人だったんでしょ?」
「ああ。けど、無意識のうちに毎日、少しずつ遠慮してたみたいでな。おじさんもそんな俺に気付いてた。」
至は高卒で警察官の採用試験を受けようとしていた。そんな至に大学受験を勧めたのはおじさんだった。僕達の遺産や加害者からの賠償金があって余裕があったこともあるが、おじさんは至に親がいないことで色んなことを諦めてほしくなかったようだ。
「おじさんの後押しで、俺は県外の強豪大学に入学したんだ。親がいないことを理由にするな、ってな。だから、せつなも遠慮せず正直に言ってみろ。」
それを聞いたせつなは、顔から緊張感が少し抜けたようだった。一度大きく息を吸い、せつなは至に思いを打ち明けた。
「私、大学に行きたい。大学でちゃんと勉強して、兄ぃに心配掛けないようにちゃんと働いて暮らしていける大人になりたい。」
せつなの言葉を聞いた至は、少し驚いた。大学に行きたいというのは想定内だが、その後が想定外だった。
「ま、待て。もちろん、大学には行かせてやる。その後の、何だ?俺に心配掛けないようにって?」
「だって、兄ぃ、いつまで経っても彼女できないじゃん。私がいるから遠慮してるんでしょ?」
「は、はぁ!?」
「だって、兄ぃ、もう31歳だよ?結婚適齢期じゃん。きっと、女性から見ても、いつまでも私を養ってたら引くんだと思う。」
至は呆気に取られたが、しばらくして腹を抱えて笑い出した。
「せつな、お前、そんな心配してたのかよ?!」
「ちょっと!何笑ってるの?!」
「悪い悪い。せつな、俺の事は心配するな。モテないだけだし、俺自身そんなに興味がない。せつなはせつなのやりたいようにやれ。」
「…うん。ありがとう。」
「あと、藤森署長のところでも、少しは本音で話してあげてな。せつなが遠慮しまくってるって、寂しがってたぞ。」
「…うん。…分かった。」
次の日、至は夜勤で、せつなは学校帰りに藤森家に寄った。要次はたまたま非番の日で、夫婦揃って対応した。せつなは思っていたことを正直に話した。頼っていいと言われて嬉しかったこと。大人にどう甘えたらいいのか分からなかったこと。家事や人に対する態度がちゃんとできているか相談したかったこと。色んなことを正直に伝えた。藤森夫妻はせつなの言葉を全て受け止め、優しく抱き締めた。やっと心が通じ合えたことが、3人とも嬉しかった。
せつなは無事に第一志望校に合格した。至と暮らしている宿舎から歩いてでも通える、情報系としては国内最難関の国立中央情報大学だ。至は志望校を聞いた時は驚いたが、せつなの考えを尊重した。晴れて大学生となったせつなは、あらゆる知識を吸収していった。駅前のビルにあるコールセンターでシステム管理のアルバイトもやり始めた。大学に求人が来ていたらしく、それに応募してのことだった。相変わらず友人はおらず、しかしせつなはそれを問題とは思っていなかった。至から見ると、これまでで一番、せつなは日々を楽しく過ごしているように見えた。
せつなが大学2年になった春、至はQ県警察本部に異動となった。そこで仲の良い同期と久しぶりに同じ職場になり、至も嬉しかった。その年の柔道日本選手権で、至は5位入賞を果たした。
「ねえ、兄ぃはオリンピックとか興味ないの?」
せつなは子どもの頃から不思議に思っていた。至は柔道が強いのに、世界大会を目指すことはなかった。
「俺はそういうの、興味ないなぁ。」
「じゃあ、何で上を目指してるの?」
「俺は大会で勝つために強くなりたいんじゃないんだ。困ってる誰かをすぐに助けたり守ったりできるように、そのために強くなりたい。」
せつなはそれを聞いて、笑顔で至の正面から抱きついた。至は驚いたが、それでも笑顔だった。
「こら、せつな。何してるんだ?もう20歳だろ?」
「いいじゃん、別に。兄妹なんだし。」
「はぁ?…まあ、いいか。」
少しずつ本音を言えるようになったせつなは、大学生になってようやく至に甘えられるようになった。子どもらしく甘えられる年齢は過ぎてしまったが、至は少し安心した。
そして翌年の春、せつなは大学3年になった。これまでの成績が優秀で、早々に研究室を選んでより専門的に学ぶこととなった。至は県警本部の刑事課に配属となり、せつなが通う国立中央情報大学に仕事でちょくちょく行くようになった。至は今年35歳、せつなは21歳になる。そんな2人の日常がどんなものになるのか、2人がどう成長していくのか、僕も幾子も楽しみにしている。
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