待っていた

磁石もどき

 

 椅子は硬い。風は冷たく、蛍光灯は目に痛い。ホームの先は影しかない。明かりがチラついているせいか、目が疲れているせいか、影がゆっくり膨らんでいくように見えた。次の電車は23時99分。


 もう少し早く来れば、私も乗ることが出来ただろうか。


 静寂が支配するこの場では、ただの布ずれの音が煩い。


「なにを待っているのですか?」


 突如として、視界に色が加わった。あまりの派手さに目眩がしそうだ。

 この世の全ての色をとか仕込んだような服なのに、在り来りすぎるスーツの形をしている。

 靴先は異常に尖っていて、まるで絵の世界から飛び出したかのよう。

 後ろに手を組んでいて、胸元にはきっちりとネクタイが首元をしめている。


 私は再び視線を膝に落とした。


 嫌な汗が額を流れる。悪寒が走り、微かに身体が震えた。

 呼吸が乱れ、視界の端がじんわりと闇がやってくる。

 足に力は入らず、自分の手を握るのが精一杯だ。


 抑揚のない、正しすぎる笑い声が聞こえてきた。


「貴方は実に、実に! 運の無い御方だ! いやはやこの世の哀れ凝縮させたとて、貴方のいう存在になれないだろう」


 舞台俳優のようなセリフには、大袈裟な感情がこめられていた。


 意味がわからない。


 怖い。


 不安。


 逃げ出さなくてはと分かるのに、体は何一つ言うことを聞かない。

 その人の靴が、私にピタリと近付いた。耳元まで、その人の顔が近づいていることに気がついた。瞼を閉じたいのに、それすら許されない。辛うじて動く目玉を、その人が視界に入らぬように動かす。

 くつくつと喉で笑うその人の声は、歪んでいた。

 気味の悪い声なのに、次の瞬間には何もかもが思い出せない。ただ不安と恐怖だけが心臓に降り積っていった。


「そこまでして、なぜしがみつくのですか? 好事家な貴方。 いや、興味などこれっぽっちもないのですが、なに分業務が失敗の場合は理由を報告せねばなりませんので。というわけで御協力くださいませ」


 ペラペラと意味のわからない言葉を並べる。聞き取りずらいのに、その言葉は頭に染み付いた。


「残業は避けたいのですよ。何かと理由をつけられて残業が残業にならないのです。ほら、善行を積むと思って、ほらほら。お口を開いて、適当になにか申してください。問題ございません。本心であろうとなかろうと、貴方が言葉にしたとなれば、それは事実になり得ますので」


 「っ……」


 声が裏返り、喉の奥で音が鳴った。その人は抑揚のない声で「ありがとうございます」と闇の中へと紛れていった。


 その刹那電車が通り過ぎ、何事も無かったかのように停車した。


 時刻は25時39分。


 私は、慌てて電車に乗り込んだ。

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待っていた 磁石もどき @jisha9m0d0k1

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