通話待機音

ソコニ

1話完結『通話待機音』



第一章:午前0時12分

カーソルが点滅している。

画面の隅に表示された時刻は午前0時12分。私、桐谷美咲28歳は、借金返済のために選んだこの深夜シフトで、狭いブースに一人座っていた。

昼の仕事だけでは足りない。だから深夜も働く。

カスタマーサポートセンター。健康食品の問い合わせ窓口。深夜0時から4時まで。時給1800円。月に15回入れば、借金は1年で完済できる計算だった。

フロアには私一人。50台の電話機が並ぶデスクは、蛍光灯の白い光に照らされている。天井の空調の音だけが、規則的に響いている。

誰も電話してこない。だから簿記のテキストを開いて勉強する。それだけの時間。

——その時、電話が鳴った。

私は反射的に受話器を取った。

「お電話ありがとうございます。カスタマーサポートセンター、桐谷が承ります」

相手は何も言わなかった。

無音ではない。

保留音が流れている。

「プルルル、プルルル……」

私は10秒待った。20秒。30秒。

「……お客様?」

保留音は止まらない。

私は通話記録を確認した。発信元の番号は——

「表示圏外」

私はため息をついて、通話を切った。システムエラーだろう。

——3秒後、また電話が鳴った。

受話器を取る。保留音。切る。鳴る。

4回目で、私は受話器を取らなかった。

電話は30秒ほど鳴り続け、止まった。

私は椅子に深く座り、目を閉じた。

こういう夜もある。


第二章:午前0時46分

次の電話が鳴った時、私はスマホでSNSを見ていた。

受話器を取る。

「お電話ありがとうございます——」

私の声が聞こえた。

『……お客様、お待たせしてすみません……』

それは確かに私の声だった。案内ボイス。

しかし、私はそんな録音をした覚えがない。

そして——

声が震えていた。

まるで泣きそうな声。

私は受話器を耳から離し、画面を見た。通話時間5秒。発信元は「表示圏外」。

保留音が流れ始めた。

私は受話器を耳に戻した。

「……誰ですか?」

返事はない。

私の心臓が、少しだけ早く打ち始めた。

これは嫌がらせだ。誰かが私の声を録音して、編集して——

でも、どうやって?

私はこの仕事を始めて3ヶ月。トラブルを起こした覚えはない。

なのに——

なぜ、私の声が?

私は通話を切り、メモ帳に記録した。

「0:46 異常な着信。自分の音声が再生される」

上司に報告すべきかもしれない。

でも——何を報告する?

「自分の声が聞こえました」なんて、信じてもらえるだろうか。

私は深呼吸をした。

落ち着け。ただのいたずらだ。

そう言い聞かせた。


第三章:午前1時23分

三本目の電話が鳴った時、私は立ち上がって自販機に向かおうとしていた。

ブースに戻り、受話器を取る。

「お電話ありがとうございます——」

保留音。

しかし、今度は違った。

保留音の向こうで、何か音が聞こえる。

生活音。

食器がカチャカチャと触れ合う音。蛇口から水が流れる音。テレビの音。

私は息を止めた。

この音、知っている。

これは、私の部屋の音だ。

昨夜、夕食後に食器を洗っていた時の音。その後、ソファに座ってニュースを見ていた時の音。

「……なんで、この音を?」

保留音は続いている。

その向こうで——

私の寝息が聞こえた。

規則的な呼吸。深い眠り。

誰が録音した?

いや——

誰が、私の部屋に?

私は受話器を持つ手が震えているのを感じた。

これは、もう、いたずらではない。

これは監視だ。

私は通話を切り、スマホを取り出した。自宅の防犯カメラアプリを開く。

映像を確認する。

異常なし。

昨夜から今朝まで、誰も訪れていない。

では——

どうやって?

私は立ち上がった。フロアを見渡す。

50台の電話機。すべて静かだ。

窓の外は——

いつも通りの夜景。ビルの明かり。街灯。

私は窓に近づいた。

ガラスに額を押し当て、外を見る。

誰もいない。

当たり前だ。ここは8階だ。

私はブースに戻り、椅子に座った。

怖い。

この感情を認めたくなかったが、もう無理だった。

私は——

怖かった。

でも——

あと2時間半で、シフトが終わる。

それまで耐えればいい。

私はそう決めた。


第四章:午前2時01分

フロア全体の電話が、一斉に鳴り始めた。

50台。

すべて同時に。

「リリリリリリリリリリ——」

私は立ち上がった。呼吸が浅くなる。

これは、あり得ない。

コールセンターのシステムは、着信を順番に振り分ける。

それなのに——

すべてが鳴っている。

私は最も近い電話に手を伸ばした。受話器を取る。

保留音。

隣の電話を取る。

保留音。

さらに隣。

保留音。

私は奥の電話機まで走った。受話器を取る。

保留音が——

止まった。

そして。

女の声が聞こえた。

『……切って……』

か細い、震える声。

『……誰か、早く……切って……』

泣いている。

すがるように。

「……誰?」

『……お願い……もう……』

その声は——

私の声だった。

でも——

泣き方が違う。

私はこんな風に泣いたことがない。こんなに——

絶望した声を出したことがない。

『……助けて……』

私は受話器を放した。

それが床に落ち、ガチャンと音を立てる。

しかし——

すべての電話から、同じ声が聞こえ続けていた。

50台の受話器から。

『助けて』『助けて』『助けて』

私は耳を塞いだ。

「やめて! やめてよ!」

私は叫んだ。

そして——

すべての電話が、同時に止まった。


第五章:午前2時09分

沈黙。

私は床に座り込み、膝を抱えていた。

呼吸が整わない。

心臓が早鐘を打っている。

これは、夢じゃない。

私は頬を抓った。痛い。

蛍光灯の光がまぶしい。空調の音が聞こえる。

現実だ。

私は立ち上がり、出口に向かった。

カードキーをかざす。

エラー音。

もう一度。

エラー音。

私は窓を見た。

外は——

真っ暗だった。

街灯も、ビルの明かりも、何もない。

ただ、黒い闇。

私は窓ガラスを叩いた。

「誰か! 誰かいないの!」

しかし——

窓の外から、私の声が返ってきた。

『誰か! 誰かいないの!』

エコーではない。

同時だ。

私が叫ぶのと、全く同じタイミングで、外から声が聞こえる。

私は窓に顔を近づけた。

暗闇の中に——

何かが立っている。

人の形。

私と同じくらいの背丈。

その影が——

こちらを見ている。

そして——

窓ガラスに、手を当てた。

私は後ずさった。

影の手が、ゆっくりと——

ガラスを叩き始めた。

コン、コン、コン。

リズミカルに。

保留音と同じリズムで。

私は——

もう、何も考えられなかった。

ただ——

恐怖だけがあった。


第六章:午前2時47分

どれくらい時間が経ったのか、わからない。

私は床に座り込んだまま、ただ——

保留音を聞いていた。

それはもう、泣き声ではなかった。

また、機械的なメロディに戻っていた。

「プルルル、プルルル……」

窓の外の影も、消えていた。

外には——

いつも通りの夜景が戻っていた。

ビルの明かり。街灯。車のライト。

私は立ち上がり、出口に向かった。

カードキーをかざす。

エラー音。

私は——

諦めた。

もう、何も抵抗しない。

ただ——

時間が過ぎるのを待つ。

あと1時間13分で、シフトが終わる。

それまで——

じっと、待つ。

私は自分のブースに戻り、椅子に座った。

机に突っ伏す。

目を閉じる。

何も考えない。

保留音が、遠くで聞こえる気がした。

でも、もう、気にしなかった。


第七章:午前3時12分

何かの音で目を覚ました。

顔を上げる。

画面を見ると——

電話が鳴っていた。

私のブースの電話だけ。

他の49台は、静かなままだ。

私は——

もう、何も感じなかった。

怖くない。

驚きもしない。

ただ——

虚無だった。

私は受話器を取った。

声を出さない。

ただ、耳を澄ます。

保留音が流れていた。

しかし——

その向こうで、誰かが話している。

女性の声。

『……もうすぐ、終わるから……』

誰に話しているのか、わからない。

『……あと少し……あと少しだけ……』

その声は——

優しかった。

まるで、誰かを慰めるように。

『……大丈夫……大丈夫だから……』

私は——

涙が出そうになった。

「……誰?」

私は、ようやく声を出した。

保留音が止まった。

そして——

その女性が、答えた。

『……私だよ』

私の声だった。

でも、さっきまでの——

泣き叫ぶ声ではなく。

震える声でもなく。

落ち着いた、穏やかな声。

「……何が、大丈夫なの?」

『……もう終わるから』

「何が?」

『……この電話』

私は息を呑んだ。

「……あなたは、誰?」

沈黙。

長い、長い沈黙。

そして——

彼女は、こう言った。

『……247時間後の、あなただよ』


第八章:午前3時47分

私は、何も言えなかった。

247時間後。

それは——約10日後。

「……何が、起こるの?」

『……わからない』

「わからないって——」

『……私も、まだ、そこにいないから』

「どういう、意味?」

『……私は、247時間後の私。でも、私も——まだ、その時間に到達していない』

「じゃあ、なんで——」

『……録音だから』

私の背筋が凍った。

「……録音?」

『……そう。これは、録音。247時間後に、録音される——私の声』

「でも、まだ——」

『……起こってない。でも、もう録音されてる』

私は——

怒りを感じた。

初めて。

この数時間で、初めて。

「ふざけないで! 意味わかんないこと言わないで!」

私は叫んだ。

『……ごめん』

その声は——

本当に申し訳なさそうだった。

『……でも、これしか——伝える方法がないの』

「何を伝えるの?」

『……もうすぐ、終わるって』

「だから、何が——」

『……この電話が、終わる』

私は受話器を握りしめた。

「じゃあ、終わらせてよ! 今すぐ!」

『……ごめん……できない』

「なんで!」

『……もう、録音されてるから』

保留音が、また流れ始めた。

しかし——

それは、もう保留音ではなかった。

私の泣き声だった。

『あ……あ……あ……』

そして——

それが、だんだん、"いまの私"の声に寄ってきていた。

イントネーションが。

震え方が。

息の吸い方が。

まるで、学習するように。

私は——

理解した。

これは——

私が、未来の私になる過程だ。

私は受話器を耳から離し、床に置いた。

そして——

ただ、待った。


終章:午前4時00分

シフト終了のアラームが鳴った。

私は顔を上げた。

すべての音が——

止まっていた。

保留音も。

泣き声も。

何もかも。

ただ、空調の音だけが聞こえる。

私は立ち上がり、出口に向かった。

カードキーをかざす。

ドアが開いた。

私は廊下に出た。

エレベーターに乗る。

1階に降りる。

外に出る。

朝焼けが、空を染めていた。

街は、いつも通りだった。

車が走り、コンビニの明かりがついていた。

私は——

現実に戻ってきた。

そう感じた。

私は自宅に帰り、シャワーを浴びた。

鏡を見る。

いつもの自分。

疲れた顔。

でも——

何か、違う気がした。

私はベッドに倒れ込み——

眠った。


第十章:10日後/午前3時47分

シフトを変えてもらった。

もう深夜には入らない。

上司には「体調不良」と伝えた。

それ以上は、何も言わなかった。

誰も、信じないだろうから。

私は——

あの夜のことを、忘れようとした。

しかし——

247時間が、過ぎた。

その日の深夜。

私は自宅で眠れずにいた。

時計を見る。

午前3時46分。

あと1分。

私は——

何かが起こると、知っていた。

3時47分になった。

その瞬間——

スマホが鳴った。

着信。

発信元は——

「表示圏外」

私は、震える手で電話に出た。

「……もしもし?」

保留音が流れた。

「プルルル、プルルル……」

そして——

その音が——

歪み始めた。

機械音が——

人の声に——

泣き声に——

『あ……あ……あ……』

私は——

気づいた。

私は——

いま、泣いていた。

涙が、頬を伝っていた。

声が、震えていた。

「あ……あ……」

私は、自分の泣き声を聞いていた。

いや——

自分が泣き声を作っていた。

電話の向こうで。

こちら側で。

同時に。

私は受話器を口に近づけた。

そして——

囁いた。

「……もうすぐ、終わるから」

電話の向こうから——

10日前の私の声が聞こえた。

『……何が、大丈夫なの?』

私は——

答えた。

「もう終わるから」

『何が?』

「この電話」

私は——

理解した。

私は——

あの夜の、"未来の私"だった。

そして——

これから、247時間前の私に、電話をかけ続ける。

録音として。

保留音として。

泣き声として。

ループではない。

ただ——

時間が、ねじれているだけ。

私は電話を切った。

しかし——

1分後、また鳴った。

私は出た。

保留音。

私は——

泣いた。

そして——

その泣き声が、保留音に変わっていった。


エピローグ:それから

私は、もうコールセンターを辞めた。

でも——

毎日、午前3時47分になると、スマホが鳴る。

「表示圏外」から。

私は——

毎回、出る。

そして——

泣く。

それが——

私の仕事になった。

247時間前の私に——

泣き声を届けること。

いつか——

これが終わるのだろうか。

わからない。

でも——

きっと、終わらない。

なぜなら——

保留音は、まだ鳴り続けているから。

私の口の中で。


【終】

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