時の泊まった部屋

月戸 夜

時の泊まった部屋

 柔らかな陽だまりの中、目を覚ました。いつもよりまぶたが軽く、頭の靄も少ない。目が覚めたばかりでも頭が冴える。カーテンを開けると、海が眩しいくらいに輝いている。揺れる木立を眺めながら歯を磨く。 

 本を持って二階に上がる。天気のいい日と月の綺麗な夜は、大抵ベランダに出て本を読んでいる。ベランダに出られる部屋を抜けようとすると、ふと目を奪うものがそこにあった。私が小学生の時、兄の二十歳の誕生日にあげた手紙。


 お兄ちゃんへ


 風に揺れながら書いたような不格好な文字、無駄に濃い筆圧。手紙は薄く陽に焼けていて、触れれば折れそうなほどだった。手紙を読むのを躊躇っていた心に沁み入るように潮風がここまで運ばれてくる。手紙を持ってベランダに出ると浜辺に小さく親子が見える。五歳くらいの女の子が楽しそうに波で遊びながらお父さんを呼んでいるようだった。微笑ましい光景が過去を呼ぶ。

 晴れた日には必ずあの浜辺を兄と歩いた。他愛のない会話をたくさんした。それが幸せでとても愛おしくて、その温もりは今も灯っている。

 兄は本の話ばかりをする人だった。本の話になると、いつもより砕けて少しおしゃべりになる。砂浜に腰を下ろして水平線を眺めながら日が暮れるまで本の話をした。家に帰ると二人でベランダから月を眺めながら本を読む。

 兄は静けさを纏っているような人だった。一見、青く冷たく見えるがその中には確かな温もりがあった。

 雨の日、私の頭の靄は一層濃くなる。何も話せない、何も話したくないとき、兄は隣に座ってただ本を読んでくれていた。話したくはないが、一人は嫌だというわがままをずっと聞いてくれていた。ベランダで本を読んでいた時、兄になんでそんなに優しいのかと無粋にも聞いてしまったときがあった。兄は困ったような顔で笑って「お前のお兄ちゃんだからだよ」と言って私の頭を撫で、部屋に戻っていった。

 その時と同じように、思わず兄を追うように振り返る。

 視線の先には、海の中に差し込んだ一筋の光のように、触れられない気配だけが揺れていた。

 部屋に入り、手紙を戻そうと裏返したとき、そこに兄の字が残されていることに気が付いた。凛とした細い筆跡で、紙の上をそっとなぞるように綴られていた。


 「また会えたら、本の話をしよう。」


 兄は二十歳のとき、ふいに家を出た。そこから十年、私も今日、二十歳になった。兄が何を想って家を出たのか少しわかった気がした。


 陽に照らされたどこまでも青い海を見て目を覚ます。いつもよりまぶたが軽く、頭の靄もない。目が覚めたばかりでも頭が冴える。


 ようやく、明日が来ると思った。




・あとがき

最後まで読んでくださり、本当にありがとうございます。

今回が初投稿です。

数ある作品の中から私を見つけてくださったことに感謝いたします。

私の作品が少しでもあなたの日々を彩れることを願って、これからも執筆して参りたいと思います。

                                 月戸 夜

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時の泊まった部屋 月戸 夜 @Tukito_Yoru

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