善悪の秤

長月透子

善悪の秤

 早川家の平日の夕食は、おおよそ21時頃である。子供のいない共働きだが、妻の亜希の帰りの方が一時間ほど早いので、大抵は、その間に食事の準備をしてできるかぎりの家事を片付けてしまう。亜希が有給休暇を取った日も、基本的なスケジュールは同じだ。夕食を摂りながら、夫婦はその時間にちょうど始めるテレビのニュースに耳を傾ける。

 その日も、早川家の夕食時間は、ニュースの始まる時間とほぼ同時だった。


「お、今日は肉じゃがか」


 夫の俊一が、テーブルの上を見て顔を綻ばせる。肉じゃがは夫の好物だ。


『次のニュースです。都内〇〇区のマンション室内で倒れていた女性が……』


 ニュースキャスターの、流暢だが無機質な声が居間に流れている。


「この肉、おいしいな!」


 肉を口に運んだ俊一が、開口一番に褒めた。


「やっぱりお値段は正直ってことかしらね」


 今日使ったのは、いつもよりランクの高い牛肉だ。その甲斐あってか、夫の食べっぷりはいつもより勢いがある。


「スーパーでセールしてたから、奮発したのよ」


 いつも、亜希が会社から帰るころにはセールの高級肉は売り切れてしまう。今日は有給休暇だったので、満足のいく量の肉が買えた。


「多少高くても、俺はいつもこのお肉でいいんだけどな」

「食費がすごいことになっちゃうわよ」


 亜希が呆れ混じりに返す。


「あれ?」


 そこで、夫の俊一がほうれん草の煮びたしを取ろうとしていた箸をとめて、声を上げた。視線は横のテレビに向かっている。亜希も箸を休めて、テレビに視線を向けた。――本日、年配の女性がマンションで倒れているところが見つかった事件の報道だ。胸と腹にいくつもの刺し傷がある。他殺の疑いが濃厚。


「この人、亜希の出身高校の元教師だってよ」


 殺害現場のマンションの映像を映したテレビ画面の端には、老婦人の顔写真が表示されている。

 亜希は、じっとその報道に見入った。


「これ、元担任だわ」

「えっ、まじで!? 知り合いなの?」

「うん。半年前の同窓会にも来てたし」

「じゃあ、ショックだよな?」

「うん、……そうみたい」


 気遣うような夫の声に、亜希は素直に頷いた。箸を持つ手が、少しだけ震えている。平気だと思ったのに、すぐには治まりそうもない。


「テレビ、消したほうがいいか?」

「いや、いいよ。……でも、ちょっと、気分が悪いから、横になってくる」

「ん」


 亜希は、一人で、真っ暗な寝室に移動して、ベッドに身体を投げ出した。

 目を瞑って、元担任の顔を、声を、思い出す。亜希は微笑んだ。

 高校二年生の、担任の女教師。――覚えている限り、すごく嫌な先生だった。すごく。

 この顔を、俊一に見られなくて良かった。


* * *

 

 亜希が高校二年の、昼休みの時間だった。

 教師に呼び出された教室に行ってみれば、教壇の周りには、同じように呼び集められた女子生徒たちが、輪になって立っていた。

 その面々を見て、亜希はほっと息を吐いた。


「今日集まってもらったのは、分かってると思うんだけど」


 はきはきとした声で、担任の女教師が話し出す。


「まだ班に入れていない子たちが四人います。あなたたちの班はまだ満員じゃないから、どこに入れてあげるか話し合ってほしいの」


 亜希は何でもないような顔をして、集められた女子生徒たちの顔を見渡した。どの子も、表情が硬い。中にはあからさまに顔をしかめている女子もいる。

 女子生徒たちは、生徒による修学旅行の班決めで、班長として選ばれた子たちだ。――亜希だって、そこに立っている筈だったのに。不満はあるけれど、ひとまずそれは飲みこむことにした。なかなか班が決まらなくて、亜希としてもこの一週間は不安だったのだ。この際、どこの班でもいい。

 修学旅行の班決めが始まって、もう一週間だった。班決めに先だって行われたアンケートでは、学校が班のメンバーを決めるのではなく、生徒が、自由意思で五人から八人の班を組むことに決まっていた。

 亜希も、一緒にご飯を食べていた二人の子たちと、一緒の班になろうとメンバーを探したけれど、うまく見つからなくて、結局バラバラになって他の班に混ざることになってしまった。他の二人はあっさり入れてもらえる班が見つかったのに、亜希だけが、入る班が決まらないでいる。手あたり次第、交流のある子に尋ねてまわったのに、誰も頷いてくれなかった。

 既に班の数は上限に達しているので、まだ入ることが決まっていない四人は、どこかの班に入れてもらうしかない。


「どうかな。入れてくれる班はない?」


 先生が言っても、班長達はじっと黙りこくって、お互いに目配せし合っている。


「もー、そんな重く考えないで入れてくれればいいじゃない」


 亜希が言っても、誰も答えない。集まった視線が痛い。女子生徒の輪の外から、あからさまに好奇の表情を浮かべた子たちがちらちらと見えた。


「浦野さんのところはどうかしら?」


 指名をされたのは、亜希と同じクラスの女子生徒、浦野さやかだ。亜希とはまあまあ友好な関係だった。既に班に入れてもらうことを一度は断られたけれど、先生の口添えがあるのなら。大いに期待を込めて、亜希は浦野をみつめた。彼女は少しだけ考える様子を見せてから、言った。


「どの班も入れるのが嫌なら、公平にくじで決めるしかないのでは?」


 投げつけられた言葉に、目の前が真っ赤になるかと思った。亜希は、一歩進み出て浦野を睨んだ。聞き逃せない言葉だ。どの班も入れるのが嫌だって?


「ケンカ売ってるの?」


 それは侮辱だ。他の子たちは、一緒にお昼ご飯を食べてくれる人もいない、真性のぼっちだが、亜希は違う。それなのに、さやかは答えないで肩を竦める。亜希が同意を求めて輪になっている女子生徒を見回すと、みんなが亜希から目をそらして答えない。

 わっと泣き出す声がした。亜希の横に立っている、ぼっちの一人、吉田が泣き出している。

 先生が気まずそうな顔になった。


「……みんな、自分だけで決められないと思うから、他の班員の子たちとよく話し合ってみてね。これは修学旅行で、学校行事だから。協調性が大事ですよ」


 そう言って、その場はひとまずお開きになった。

 亜希は、唇を歪めた。震えそうな瞼を抑えるのだけで精いっぱいだった。


* * *


 亜希のもとに同窓会の案内葉書が届いたのは、高校を卒業して二十年後のことだ。安っぽい往復はがきには、日付に会場、定型文だけが書かれている。亜希は鼻を鳴らして、ボールペンを手に取った。もちろん、出席だ。はっきりと〇をつける。

 現在の亜希は、仕事も家庭も円満で充実している。収入だって十分だ。当時の同級生たちと比べても、遜色のない自負がある。

 亜希は、当日のために服を新調して、午前中には美容院に行って。入念に支度して同窓会に向かった。

 そこには、当時の担任の教師が何人もやってきていた。そのうちの半分以上は、すでに定年で退職している。

 かつて垢ぬけていた同級生たちの大半が、今の亜希から見れば、くすんで野暮ったい。

 亜希は、席を変えては、そのとき近くに座った旧友たちと笑顔で近況を報告しあった。ふと、高校二年生のときの担任の女教師と、浦野さやか――今は結婚して林さやかというらしい――たちが、横のテーブルで楽しそうに話しているのに気が付いた。まだ彼女たちとは話していない。機会を見て会話にまざろうと、様子をうかがっていると、楽しそうな会話が聞こえてくる。


「修学旅行、楽しかったよね」

「そうそう、吉田が意外と楽しいキャラでさぁ」


 頭から冷や水を浴びせかけられた気がした。楽しい同窓会の舞台が、一気に、二十年前の教室に切り替わる。

 あの班決めの話し合いのあと、吉田――ボッチの子は、浦野たちの班に入れてもらっていた。それで浦野の班は満員になって、話し合いから外れた。そして、亜希はくじで、別のクラス主体の班に入った。


「楽しくてよかった。高校最後の旅行だから、みんな好きな子と行きたいだろうと思って、学年主任を説得したのよ。生徒にどう決めたいかアンケートを取りましょうって」


 そのやりとりを前に、にこにこと頷くのは当時の担任の女性教師だ。

 アンケートの選択肢は、教師が班分けを決める、生徒がクラス別に決める、生徒がクラス関係なしに決める、の三つだ。やる前から、生徒が何を選ぶかなんて分かり切った、予定調和のアンケート。ただ、生徒の自主性を重んじた、と言い訳するためだけの。


「え、先生のおかげだったの?ありがとう!最高だった」

「いい思い出になったよね」


 さやかたちは、楽しそうに盛り上がっている。

 亜希も、笑顔を浮かべて、同じテーブルの子たちとの会話に参加する。けれど、頭の中では、ずっと、さやかたちの声が回っている。

 最高。いい思い出。

 ――亜希は、くじで、班に入れてもらった。

 横のテーブルに怒鳴り込んで、全部ひっくり返して。めちゃくちゃにしてやったら、どれだけ気持ちいいだろう。


* * *


 同窓会が終わって、亜希が家に帰ると、俊一はまだ起きていた。


「おかえり。楽しかった?」


 亜希は破願した。十年も暮らしているから、ここがもうすっかり亜希の家だ。


「うん、いっぱい思い出話を話してきたよ」


 亜希は台所に向かった。お酒を飲んで、いっぱい話したせいで、喉が渇いている。コップに水を汲んで飲み干して、ふと、流しの横に視線を留める。

 そこには、料理用の包丁がそろえて置かれている。

 亜希は、じっとその銀の輝きを見つめた。

 ――協調性が大事ですよ。

 二十年前の、担任の女教師の声が、脳裏にこだまする。そして、浦野さやかの、声。

 どの班も、入れるのが嫌。どの班も。


* * *


 つけっ放しにしたテレビから、居間の中にニュースの音声が流れていた。

 林さやか――旧姓浦野さやかは、着替えの手を少しだけ止めて、画面を見た。そこには、半年前に起きた殺人事件に関する続報が映っている。さやかの高校の恩師を襲った犯人は、まだ捕まっていないらしかった。


「全く、警察はちゃんと仕事してよね」


 思わず、ぼやき声がもれる。

 生徒思いのいい先生だったと思う。少なくとも、さやかは嫌いではなかった。一年前の同窓会でも、楽しくお喋りした先生だ。凶報を知った時には、驚いて、かつての同級生に電話したものだ。

 でも、高校の教師なんて職業柄、逆恨みされることは仕方がないのかもしれない。生徒や、あるいはもしかしたら保護者にでも。さやかも、昔は、教師は公平であるべき、と理想像を重ねて苛立つことも多かったけれど、全員に公平に接するのはほとんど不可能なことだと分かるようになった。子供を育てるうちに、理想と現実のギャップに寛容になったのだ。

 一年ほど前にあった同窓会でも、高校当時尖ってた子が、話しやすく穏やかになっていたりして驚いた。二十年ぶりに会ったのだから、印象が変わって当然なのかもしれないが、精神年齢が上がったか、あるいは閉鎖環境のストレスがなくなったからかもしれない。当時は違うグループだったけれど、今なら親しく付き合えそうな子が、何人もいた。

 さやかの着替えが終わった頃に、ちょうど、玄関のチャイムが鳴った。さやかの夫は通販サイトで買い物をするのが好きで、荷物が届くことを伝え忘れることが珍しくない。おまけに、この地区の配達員は、時間指定配達であっても、近所にお届け物があると、ついでに配達を済まそうとしてくることがあるから困ったものだ。お風呂の最中にチャイムが鳴って慌てたことも、一度や二度ではない。


「はーい」


 パタパタと、軽やかなスリッパの音を響かせて、さやかは居間を出ていった。少しあとに、玄関のドアを開く音がして、そして。


(了)

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