世阿弥の心の内

 前述の通り、富士の麓で徐福じょふくの子孫と始皇帝の生まれ変わりが戦ったという話は、伝説と創作を繋ぎ合わせて史実の上に被せただけの事実無根のフィクションである。


 ただ、このフィクションをいつから作れるかというと、秦河勝はたのかわかつを始皇帝の生まれ変わりとした『風姿花伝ふうしかでん』が書かれた瞬間にはもう、作ろうと思えば作れたのである。


 『風姿花伝』を書いた世阿弥ぜあみは猿楽師である。猿楽は芸能であり、神仏に奉納するものでもあるため、寺や神社で公演されていた。世阿弥が父親の観阿弥かんあみともども足利義満あしかがよしみつの目に留まったのも、京都の今熊野神社いまくまのじんじゃにおける猿楽の公演である。

世阿弥の猿楽一座は日本各地の神社仏閣を巡っていたことになる。


 日本における徐福伝説の地のひとつに、和歌山県の熊野くまの三山さんざんがある。熊野にある3つの神社のことを山に見立てて呼んだ名だ。

 徐福は海の向こうの三仙山さんせんざんへ不老不死の薬を取りに行った。この三仙山が熊野三山だったと仮定してできた伝説である。

 この伝説の歴史は古い。平安時代には既に徐福ノ宮という神社が作られていたという。鎌倉時代には無学祖元むがくそげんという宋人の僧侶が熊野にやってきて徐福についての詞を残している。


 室町時代の世阿弥が猿楽の公演で熊野三山に来た時、徐福の伝説に触れた可能性は十分にある。


 『風姿花伝』では、秦河勝の苗字の「秦」は、秦の始皇帝の生まれ変わりだから、と理由付けされているが、そもそも秦河勝の「秦」は秦氏はたしの一族という意味である。

 秦氏とは弓月君ゆづきのきみという朝鮮半島から渡ってきた人が祖先とする、海外から移住してきた人々のグループだ。更に時代が下ると秦の始皇帝の末裔を自称するようになった。

 つまり、わざわざ始皇帝の生まれ変わりなどという設定を作らなくても、「秦」の苗字を使うことはできる。


 それでも世阿弥は秦河勝を始皇帝の生まれ変わりとした。


 世阿弥が書いたとされる能の演目のひとつに、『花筐はながたみ』というものがある。継体天皇けいたいてんのうを主人公とした物語で、前漢の武帝の側室、李夫人を題材にした舞が取り入れられている。

 また、世阿弥を保護した貴族は二条にじょう良基よしもと。和歌や連歌に通じた当時の文化の第一人者である。世阿弥に頼まれて『日本書紀』や『史記』を貸していてもおかしくはない。


 その過程で秦河勝が大生部多おおふべのおおを倒した話や、徐福が詐欺で海外に逃げた話に触れてもおかしくはない。



 世阿弥はどこまで狙ってやったのだろうか。まったく気づいてなかったかもしれないし、始皇帝の生まれ変わりが徐福の子孫を富士山近くで叩きのめす話を思いついていたかもしれない。

 どうにかして本人に問い質したいところだが、武帝のように反魂香を手に入れて世阿弥の魂を呼び寄せられたとしても、いい笑顔でこう言われるだけだろう。


「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」

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徐福の子孫vs転生始皇帝 劉度 @ryudo

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