第2話 浮かぶ声、沈む声

 ——目を閉じれば、まだ“あの音”が胸の底に沈んでいた。


 車のエンジンの振動が、腹の奥にじわじわ染みてくる。

 助手席のリクライニングは少し倒され、

 僕はシートベルトに体を預けるようにして息を整えていた。


 横から伸びる腕が、僕の肩を支えている。

 その手から伝わる“熱”だけが、僕を現実へ繋ぎとめていた。


 冷たく沈む“あの感覚”とはまるで違う、確かな人の温度。

 その熱が、何度も僕を引き戻す。


 窓の外では、細い雨が降り始めた。

 フロントガラスを叩く雨粒の音が、

 ふと、あの“沈む音”と重なりそうになる。


(……また……)


 胸の奥がひゅう、と狭くなる。


(……呼ぶな……)


 流れる雨の筋の向こう――

 白いシャツの影が立っている気がしてならない。


 怖い。

 怖いのに、その影を探してしまう自分がいる。


「……おい、また息浅くなってんぞ」


 ハンドルを握ったまま、志野さんが片手で僕の肩をぐっと押した。

 その熱で、いつの間にか氷の底に沈みかけていた意識がまた、僅かに浮上する。


「……っ、……す」


 掠れた声だけが漏れる。


「違ぇよ。俺だ。……澪、聞こえてるか?」


 苛立ちと焦りの混じった声。

 だけど、その声が僕を現実に留めてくれる。


「……す、み……」


「おい」


 低く、短く、鋭い声。


「違ぇっつってんだろ。……こっち見ろ」


 肩を支える手が、少しだけ強まる。


 視界の端で、志野さんの短い黒髪が揺れた。

 さっき見た“濡れた黒”とは違う、人の温度を持った黒。


「……し、の……さん……」


「そうだ。それでいい」


 その答えを聞いた瞬間、

 すぅ……っと胸の奥にあった冷たいものが溶けるように引いていった。


「大丈夫だ。ここにいろ」


 運転席の志野さんの手はまだ僕の肩にあって、

 それが滝の冷たさとはまるで別の世界みたいに、確かな熱を持っていた。


 外の雨は静かにフロントガラスを叩いている。

 その音が“沈む音”に重ならないように、

 僕は志野さんの声だけを頼りに呼吸を整えた。


「……今日はもう何も考えんな。着いたらすぐ横になれ」


 志野さんの低い声が、車内の湿った空気を断ち切るように響いた。


 しばらく走ると、雨脚が少し強くなった。

 ワイパーが一定のリズムで窓を払う音が続く。


 同じ“水の音”なのに、

 滝の音とは全然違うはずなのに——胸の奥がざわつく。


「……気持ち悪いなら言えよ。あと少しで着く」


 志野さんが低く言った。


 その声は、怒っているようにも聞こえる。

 でも、僕を引き戻してくれる熱と同じ温度をしていた。


「……ごめんな、さい」


 無意識にそう漏れた。


「謝んな。……お前のせいじゃねーよ」


 その返しは、意外なほど静かだった。

 雨の音に溶けるような声。


(……せい、じゃ……)


 言い返そうとして、言葉にならず喉がひゅ、と鳴る。


「ほら。深呼吸しろ。吸って——吐け」


 僕は言われた通りに呼吸を繰り返した。

 その間、志野さんの手が肩を離さなかったのが妙に印象に残った。


 やがて、車が緩やかに減速し始めた。


***


「……着いたぞ。降りられるか?」


 旅館の入口に屋根がかかっていて、雨はあたらなかった。

 外気は冷たいのに、さっきより息が楽になっている。


 車のドアを開けた途端——


 ザア……ン、と胸の奥で水が揺れたような錯覚がした。


(……また……)


 視界の端で、白い何かが揺れた気がした。


 心臓が変な音を立てる。


「おい、前だけ見ろ。……こっち来い」


 志野さんの手が、迷いなく僕の手首を掴んだ。

 強い。でも痛くはない。


「……廊下で突っ立ってんな。また倒れんだろが」


 旅館のロビーは、柔らかい照明で暖かかった。

 それだけで少し息がつけた。


「少し座ってろ。荷物は後でいい」


 僕はソファに腰を下ろし、志野さんはその前にしゃがみ込んだ。

 濡れたままのジャケットを乱暴に脱ぎながら、小さく息を吐く。


「……で、まだ“見えて”んのか?」


 真正面から問われ、心臓が跳ねた。


 その問いは、

 “あれ”がこの世界に本当に存在していることを肯定しているみたいで。


「……影、みたいなのが……まだ……」


「そうか。……まぁ、予想はしてたけどな」


 志野さんはそう言って、僅かに眉間を押さえた。


「後で簡単に清める。……今日はそれ以上、何も考えんな」


 その言葉は命令みたいに聞こえるのに、

 なぜか、それで救われた気がした。


 ロビーの柔らかな灯りに包まれているうちに、

 胸のざわつきは少しだけ落ち着きを取り戻した。


 ソファの布の手触りは温かく、

 さっきまで滝の音が張り付いていた肌が、ようやく自分のものに戻っていく。


 けれど、息を整えるたび、

 遠くで微かに“沈む音”が残響みたいに揺れる気がした。


 志野さんは、濡れた髪を乱暴にタオルで拭きながら、

 何度かちらりと僕の顔色を確認していた。


 少しだけ時間が経ち——

 僕がまっすぐ座れるのを見て、ようやく彼は立ち上がった。


「……立てるか。……よし、部屋行くぞ」


 志野さんに腕を支えられながら、

 僕はゆっくりとソファから身体を起こした。


 そうして支えられたまま、

 ふらつく足取りで何とかロビーを抜ける。


 旅館の廊下は古い木の香りがして、

 足音が柔らかく吸い込まれていく。


 さっきまで外に満ちていた湿った冷気とは違い、

 ここは静かで、温かくて——

 それなのに、胸の奥のざわめきだけは消えなかった。


「……大丈夫。あと少しだ」


 志野さんの手が、歩調に合わせて腕を支え直す。

 乱暴な人なのに、こういうところだけは妙に丁寧だ。


 部屋の前に着き、志野さんが鍵を開ける。

 畳の匂いがふわりと広がって、僕は少しだけ息が軽くなった。


「ほら、座れ。……倒れんなよ」


 言われたまま、僕は畳の上に置かれた座布団に腰を下ろす。

 その瞬間、身体の芯がじわりと緩んだ気がした。


 志野さんは荷物の中から、

 小さな塩の袋と折り畳み式の小皿を取り出した。


「簡単に清めるだけだ。……今の状態じゃ、本式は無理だしな」


 低い声が部屋に落ちる。

 雨音が遠く、かすかに聞こえた。


 塩を小皿に盛り、志野さんは僕の前にしゃがむ。


「手、出せ」


 言われて、掌を上に向けて差し出す。

 志野さんは僕の手を片方ずつ包むように持ち、

 塩の気配を確かめるように、そっと触れた。


 その熱に触れた瞬間——

 胸の奥で、また"ザア……ン"と何かが沈む音がした。


(……やだ……)


 視界の端で、白い何かが揺れた気がした。

 あれは滝で見た——


 ——白いシャツ。

 ——灰色の、目。


 また、呼ばれている。


「……や、……だ……」


 喉が勝手に震える。

 息が細く、浅くなっていく。


 志野さんはすぐに僕の手首を掴んだ。


「おい、戻れ。……澪、聞こえてんな?」


 鋭い声なのに、熱だけはしっかり僕を引き寄せる。


「……す……み……」


「違ぇ! こっち見ろ!!」


 手首を引かれ、顔を上げる。


 そこにあるのは、

 “水の色をした灰色”じゃなくて、

 人の体温を帯びた黒い瞳。


「……志野……さん……」


「ああ。そうだ。……いい、戻ってこい」


 肩を支える手が、また強くなる。

 その熱で、ゆっくり、ゆっくりと沈みかけた世界が浮かび上がってきた。


 胸の奥の冷たさが、少しずつほどけていく。


「……は、ぁ……っ……」


 呼吸が戻ってくると、志野さんは小さく息を吐いた。


「……くそ……間隔が短くなってんな。嫌な予感がしてたんだよ」


 そう言いながら、志野さんは僕の手を離さなかった。


 呼吸が落ち着いてきても、

 胸の奥の不安はまだ完全には消えなかった。


 志野さんは、僕の手を離さずに

 自分の呼吸を整えるように一度ゆっくり息を吐いた。


「……にしても。お前、反応強すぎだろ。想像よりずっと悪ぃ」


 ぼそりと呟いたその言葉に、疑問がじわりと浮かぶ。


(……悪い? 何が?)


 釣られて視線を落とすと、

 僕の膝のすぐ近くに“塩の皿”が置かれていた。

 考えなくても分かる。

 そんな物、普通は旅に持ち歩かない。


 胸に、別のざわつきが広がった。


「……あの、志野さん」


「ん」


「なんで……その……塩とか……持ってるんですか」


 自分でも分かるくらい弱い声だった。


 でも、訊かずにはいられなかった。


 志野さんはすぐには答えなかった。

 代わりに、小皿を指先で軽く回し、塩の粒を確かめるように見つめる。


「……さっき言っただろ。簡単に清めるって」


「“本式は無理”って……さっき……」


「言ったな」


 淡々とした声。

 でも、隠しごとをしている人特有の“言わない圧”があった。


「志野さんって、何者……なんですか」


 聞いた瞬間、

 胸の奥で“ザア……ン。”と水が揺れるように震えた。


 志野さんは顔を上げ、まっすぐ僕を見る。


 黒い瞳が驚くほど近い。


「……あー……」


 ほんの一瞬だけ、迷った表情を見せた。


 それから、短く息を吐く。


「……まあ、この状況で隠し通すのも無理だよな。

 俺は、霊媒師みたいなもんだよ」


「れい……?」


「聞こえ悪いなら、除霊屋でも何でも好きに呼べ。

 要は——お前が“呼ばれてる理由”がわかる職だ」


 その言葉で、背中がひやりと冷える。


(……幽霊に、呼ばれてる……?)


「お前みたいに“強く引かれてるやつ”を放っとくと、

 どっちに行くかわかんねぇんだよ」


「ど……っち……?」


「生きる方か——沈む方か」


 その瞬間、

 部屋の空気がぱちんと弾けたみたいに変わった。


 雨の音が急に遠くなる。


 息が、苦しい。


(……嫌だ、また……)


 視界の端で、

 “白い影”が静かに立っていた。


 滝の底に沈んだような、あの灰色の目で。


 まっすぐ、僕だけを見ている。


「……澪。目ぇ逸らすな。こっちだ」


 志野さんの声が鋭く落ちる。

 その声が、この世界の輪郭を必死で繋ぎ止めていた。


 灰色の目が、

 まるで水の底からこちらを覗くみたいに揺れた。


(……呼んでる……?)


 心臓が、ひゅ、と縮む。


 音がない。

 旅館のロビーには確かに人がいるはずなのに、

 声も足音もまるで膜越しに聞こえる。


(……まただ……)


 滝壺に落ちかけた時と同じ——

 世界が沈む“前兆”。


「……やめ……」


 そう言おうとした瞬間だった。


 ——ザア……ン。


 鼓膜じゃなく、

 胸の奥を直接叩くような重い音。


 視界の端の“白い影”が、

 ゆっくりと手を伸ばしてくる。


 細くて、白くて、

 触れたら消えそうな手。


(……あ……)


 その瞬間、

 無意識に立ち上がろうとしていた。


 足が勝手に、影の方へ。


「澪ッ!」


 腕を、強く引っ張られた。

 世界が一気に色を取り戻す。


 志野さんの手だ。


 痛いほど強く、僕の手首を掴んでいる。


「……っ、何やってんだよ……まだ見えんのか!?」


 怒鳴り声が、耳に焼きつく。


 だけどその声は、

 怒りよりも焦りが勝っていた。


 志野さんは僕の手首を握ったまま、

 反対の手でポケットから何かを掴み出す。


 白い……紙? いや——


(……符……?)


 小さな紙片に、

 黒い線で複雑な模様が描かれている。


「澪、目ぇ閉じろ。今すぐ」


 その声は低く、短く、命令に近かった。


 言われた通り目を閉じると同時に——


 ぱん、と乾いた音がした。

 符が空気を裂くように弾けた音。


 次の瞬間、

 胸の奥を締めつけていた冷たさが、

 一気に抜けていく。


「……は……っ……!」


 大きく息が戻る。

 肩が震える。

 涙が勝手にこぼれた。


 志野さんの手が、僕の後頭部を支えた。


「……ったく……無茶させんなよ……」

 低く、掠れた声。


 息が荒いのは僕だけじゃなかった。


 志野さんの手は熱い——じゃなくて、

 “火傷しそうなほど熱かった”。


(……なんで、こんなに……)


 恐る恐る顔を上げると、

 志野さんの額を汗が伝っていた。


 まるで、僕を引き戻すために

 全身を燃やしたみたいに。


「……志野さん……?」


「平気だよ。……慣れてる」


 そう言った声は確かに強がりだった。

 けれど、その目だけは笑っていなかった。


「ほんとは……あと一歩で持ってかれてた」


 僕の手首を掴んだまま、

 志野さんはかすかに震える息を吐く。


「——二度と、あっち向くな」


 静かな声だった。


 怒ってもない。

 怒鳴ってもない。


 ただ、

 必死に、僕をここに繋いでいる声。


 その静けさが、逆に怖かった。


「……すみ、と……」


 呟くように名前が漏れた。


 その瞬間、

 志野さんの手が“びく”と動いた。


「……澪」


 低く、沈む声。


「そいつの名前、今ここで呼ぶな」


 強い。

 だけど、痛いほどの優しさで満ちていた。


***


 清めの塩はまだ床に盛られたままで、

 部屋の空気はさっきよりずっと軽い。


 普通じゃ、こんなことできない。


「……あの、志野さん」


 自然と声が漏れていた。


 志野さんはタオルで首筋の汗を拭いながら

 「なんだ」と視線だけ向けてきた。


 強い黒い瞳。

 さっきまで僕をこの世界へ押し戻していた眼だ。


「……本当に、何者なんですか」


 訊いた瞬間、

 心臓を冷たい指でつままれたみたいに強く跳ねた。


 部屋の静けさが、かえって怖い。


「さっき……清めとか……本式とか……

 普通……そんなの、しませんよね」


 言葉は震えていた。

 けど、もう引っ込められなかった。


 志野さんは手を止めた。

 少しの沈黙。


「……ったく」


 短く吐き捨てるように言ったあと、

 志野さんは僕の目の前に腰を下ろした。


 近い。

 けれど冷たい怖さじゃない。

 熱のある“人の距離”だ。


「聞きてぇなら教えてやるよ。

 どうせ隠しとく段階はもう過ぎたしな」


 眉間を軽く指で押しながら続ける。


「俺は……まぁさっきも言った通り、霊媒師みたいなもんだ。

 職業として言うなら、そういうやつ」


 一度は聞いたことなのに、それでも背中がぞくりと冷える。


澄人あいつに呼ばれて、

 お前が沈むたびに引き戻すのが、今の俺の仕事だ」


 名前を呼ばれた瞬間、

 胸の奥が小さく跳ねた。


(……澄人……)


 滝の白。

 長くて濡れたように光る髪。

 あの灰色の、目。


 記憶の奥の水面がわずかに揺れた。


「……あの……人……」

 声が自然に漏れた。

「どうして、僕を——」


「それはまだ言えねぇ。

 今言ったら、お前はまた引かれる」


 志野さんの声が低く落ちた。

 怒りではなく、“止めるための低さ”だった。


「ひとつだけ確かに言えるのはな」


 志野さんは、じっと僕を見た。


「お前が普通じゃなく引かれてるってことだ」


 その言葉で、空気がまた少し変わった。

 澄人の影が、胸の奥で静かに揺れる。


(……普通じゃ、ない……)


 それを聞いたのに、なぜかほんの少しだけ安心した。


 “分からないもの”が名前を得ただけで、

 縫い留められるみたいに恐怖が和らぐ。


 でも、その安心のすぐ下には

 冷たい水の流れが確かにある。


 ——あの音が、また沈んだら。


 ——僕は、どっちへ行く?


 志野さんはしばらく黙っていた。

 僕の手首を掴む手だけが、まだ少し震えている。


 雨の音が遠くなった気がした。

 部屋の空気は温かいのに、背中に冷たい汗が流れる。


(……言っちゃいけなかった……)


 胸の奥がきゅっと縮む。


 やがて、志野さんがゆっくり息を吐いた。

 諦めとも、覚悟ともつかない響き。


「……悪ぃ。澪、お前には隠しようがねぇわ」


 顔を上げると、

 志野さんは足を崩してその場に腰を落とし、

 片手で額を押さえていた。


「澪。いいか」

「“あいつ”の名前は、絶対に呼ぶな」


 低い声だった。

 けれど怒りではなく、恐怖を押し殺したような声。


「……呼んだら、繋がる」


(……繋がる……?)


 意味はわからない。

 でも、その言葉だけで背筋が冷たくなる。


 志野さんは、深く息を吐いて続けた。


「……さっき言ったろ。俺は霊媒師だって」


 僕は小さく頷く。

 その動きに合わせて、志野さんの手がまた肩に置かれた。


「普通、ああいうのは“見えない”し、

 見えても反応はもっと薄い。

 だが……お前は違う。引かれ方が異常だ」


 どくん、と心臓が跳ねた。


「“あいつ”の名前を呼んだ時……

 お前の気が半分あっちに傾いた」


 言葉が喉で止まる。


(……そんな……)


「澪。知らないだろうけど」


 顔を上げるよう促す声だった。

 逃げちゃいけない、ちゃんと聞け……そう言われているみたいで胸が強張る。


「名前ってのは“線”を引くんだ。

 呼べば呼ぶほど……向こうに手を伸ばすことになる」


 まるで “澄人” と呼ぶたびに、

 僕の足が一歩、向こうの水へ沈むような——そんな感覚が背中を撫でた。


 志野さんが、固く結んでいた僕の指を、そっとほどく。

 引き剥がすんじゃなくて、丁寧に、ゆっくり。


「澪、お前は……

 “生きてる側”の気より、“向こう側”の気のほうが馴染みやすい」


 胸がぎゅっと痛くなる。


(……僕は……)


 志野さんは、それ以上は言わず、ただ小さく息を吐いた。


「だから、今日はもう絶対に一人になるな。

 風呂も寝るのも何もかも俺の目の届く範囲でやれ」


「……え?」


「言ったろ。

 お前はもう、一歩間違えたら沈む」


 静かな言葉が胸に刺さる。


「俺から離れたら——終わる」


 怖い。

 でも——その言葉に少しだけ救われている自分もいた。


 志野さんは濡れた髪をかき上げ、

 苦いような安堵のような表情で僕を見る。


「……とりあえず休め。

 寝てる間に呼ばれたら、俺が起こす」


「……起こす? 志野さんは、寝ないんですか?」


「当たり前だ。

 お前がどこにも行かないように、見てる」


 その言葉が、胸をじんわり熱く満たした。


 志野さんはゆっくり立ち上がり、

 布団の方を差した。


「とりあえず横になっとけ。

 ——俺がここにいれば、お前は沈まない」


***


 言われるままに布団へ横になると、

 体が沈み込むように重くなった。

 雨の音が遠くで鳴っている。


 志野さんは、僕が完全に体を倒したのを確認してから、

 そっと肩から手を離した。


 その熱が離れた瞬間——

 胸の奥が、ひやり、と冷える。


(……あ……また……)


 呼吸が浅くなるのを自分でも感じた。

 さっき滝の前で感じた“沈む気配”が、

 すぐそこまで戻ってきている。


「……澪」


 呼ばれた声に、びくりと体が跳ねる。


 志野さんが、布団の横に膝をついていた。

 距離はすぐ傍。手を伸ばせば届く距離。


「分かってる。……まだ引かれてるんだろ」


 その声は低いのに、妙に優しかった。


 僕は、かすかに頷いた。


「……さっきより、強い……です」

「だろうな。向こうも必死だ」


(……向こう……)


 その言い方が、急に現実味を帯びて胸を締めつける。


「怖いなら、目開けててもいい。とにかく休め」

「……でも……目を開けてたら……その……見えるかも……」


 白い。

 冷たい。

 あの灰色の目が。


 思い出しただけで、喉がひゅ、と鳴る。


 志野さんは、わずかに眉を寄せた。


「……大丈夫だよ。

 ——お前がどこ向いてても、俺がここにいる」


 その言葉で、冷えていた胸の奥が少しだけ温かくなる。


 けれど、次の瞬間。


 ——ザア……ン。


 胸の底から深いところへ沈むような感覚が押し寄せた。


(また……!)


 視界の端で、

 白い“線”のような影が揺れた。


(来…る……)


 息が苦しくなる。


「澪、こっち見ろ」


 志野さんの手が、迷いなく僕の頬に触れた。

 その熱が、滝の冷たさを一瞬で断ち切る。


「ここにいろ。

 ——今度は、持ってかせねぇ」


 強い言葉なのに、

 触れている手は驚くほど優しかった。


 視界の中で揺れていた白い影が、

 その言葉に押し返されるように、ゆっくりと薄れていく。


(……あ……また……助けられた……)


 胸の奥がきゅ、と痛くなる。


「……志野、さん……」


 名前を呼ぶと、志野さんの指がぴくりと震えた。


「……あぁ。……大丈夫だ、澪。ここは、まだ大丈夫だ」


 その“まだ”に含まれた意味が怖いのに、

 その声を聞いていると、不思議と眠気が落ちてくる。


 深い水底へ沈むんじゃなく、

 安全な方へ沈むような——そんな眠気。


「……眠いなら、そのまま寝ろ。大丈夫だ」


 志野さんは、僕の額に落ちかけた前髪をそっと払った。


「寝てる間は、俺が見てる」


(……見てる……)


 その言葉に、胸がじんと熱を持った。


 まぶたが勝手に落ちていく。


(……志野さんが……ここにいるなら……)


 そのまま、意識がふっと黒に落ちた。


***


 ——水の匂いがした。

 雨とも川とも違う、深いところの匂い。


 目は閉じているはずなのに、

 瞼の裏が、薄い青で満たされていく。


(……ここ……どこ……)


 足元が冷たい。

 立っているのか、沈んでいるのかも分からない。


 ここは——滝壺?


 ふ、と。

 白いものが、揺れた。


 最初はただの光の筋だと思った。

 けれど、ゆっくり形を取り……その“線”は裾になり、

 その“影”は人の輪郭になった。


 ——白いシャツ。

 水に揺らぐはずのそれは、揺れていない。

 あの滝で見たままの姿。


 彼は、何も言わない。

 ただ僕を見ている。

 淡い灰色の目で、まっすぐ。


(……呼んで……ない……?)


 声はないのに、

 胸がざわざわと沈んでいく。


 足元がほどけるように緩んで、

 身体が水に引かれる感覚がまた呼び起こされる。


(……行ったら、ダメだ……)


 そう思うのに、

 指先は、何故か少しだけ彼の方へ伸びていた。


(……お願い、僕を呼んで……もう、消えないで……)


 触れたら消える——

 でも触れずにいたら、もっと消えてしまう気がして。


 その刹那。


 ——ザア……ン。


 水底の重い音が、夢の中に落ちた。


 意識がまた深く沈みかけた、その瞬間——


「……ぉ、澪!戻れ!」


 どこか遠くから、志野さんの声がした。

 低く、荒れて、必死で。


 その声だけが、

 沈みかけた体をぎりぎりのところで掴み上げた。


 同時に、底から見つめる彼の灰色の目が、ふっと揺れた。

 ——呼ばれている。そんな気がした。


 それでも。


(……し、の……さん……)


 その熱を求めて、名前を呼ぶ。


 その瞬間、

 意識はふっと浮上し、

 夢は暗く断ち切られた。


 はっと息を吸った瞬間、視界が揺れた。

 旅館の天井。湿った木の匂い。

 夢の、あの水の冷たさがまだ指先に残っている。


「……戻ってきたな」


 低い声が、近い。

 志野さんの声は、さっきの必死さより少しだけ低くて、

 でもまだ震えた余韻がある。


 志野さんが枕元にしゃがんで、僕の手首を握っていた。

 その手のひらの温度で、現実がようやく形を取り戻す。


「大丈夫か。呼吸、まだ浅ぇぞ」


「ご、ごめんなさい……また……」


「謝らなくていい。お前は悪くない」


 言うと、志野さんは短く舌打ちをした。

 怒ってるというより、自分に苛立っているような音だった。


「灯り、落とすぞ」


 立ち上がる足音がきしんで、

 部屋の明かりがゆっくり弱まっていく。


 暗くなる程、雨音が近くなる。

 窓の外ではなく、もっと深い……沈んでいく方の音。


(……また、呼ばれる……)


「澪」


 名前を呼ばれて、びくりと肩が動いた。


「ここは陸だ。沈まねぇ」


 そう言って、志野さんは僕の肩を軽く押して布団に横たえた。

 その手のひらが少し熱い。

 ——さっきから、ずっと。


 薄闇がじわりと滲んでくる。

 その中で、僕の鼓動だけがやけに耳に響いた。


「しの、さん……」


「寝ろ。話は、明日でいい」

 布団の端を直してくれる手つきが、思いがけず優しい。

 その仕草だけで、胸がじんわり緩んでいく。


 目を閉じかけた時——


 ザア……ン。


 遠くで、また“沈む音”がした。

 夢の続きではなく、もっと浅いところから滲んでくるような。


(……嫌だ……また、落ちる……)


 瞼の裏が水色に揺れそうになった瞬間、


「澪」


 志野さんが、小さく名前を呼んだ。

 呼吸と同じくらい自然な声で。


 その音が、沈みかけた思考を縫い止めてくれる。


「……はい……」


「戻れ。ここにいろ」


 命令でも、慰めでもない。

 ただ“線”をこちら側に繋ぎとめるための声。


 それに返事をした途端、全身がふっと緩み、

 夢と現実の境目が溶けていく。


(……沈むんじゃない……眠るだけ……)


 自分にそう言い聞かせる間に、意識はゆっくり暗く落ちていった。


 身体の力が抜けていく。


 志野さんの低い息の音が、すぐ傍で言った気がした。


「……もう少し……持ってくれよ……」


 その言葉が夢なのか、

 現実だったのか分からないまま——


 最後に聞こえたのは、雨音とも、水音ともつかない、あの音だった。


 ——ザア……ン。


 まるで水底から、呼ぶように。



次回、志野視点。

澪の眠る部屋で、彼はひとつの“兆し”に気づく。

更新は来週中を予定しています。

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呼び声は水底から 流 理成(ナガレリ) @nagareri

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