呼び声は水底から

流 理成(ナガレリ)

第1話 沈む音を聞いた日

 滝を見に来たのは、正直、失敗だったかもしれない。


 観光客の声も、水の落ちる音も、ずっと耳の中でざわざわしていて、何か考えようとしても、すぐに別のことが浮かんでくる。

 浮かんでは沈んで、また別の後悔や、焦りや、どうしようもなく落ち着かない感情が胸の奥で回り続ける。


 落ち着かない。

 でも、逃げるほどの力も残っていない。


 鉄柵の向こうに広がる滝壺を、僕はぼんやりと眺めていた。

 黄色い『立入禁止』の看板が柵に固定されている。

 けれど、その警告の文字は頭に入ってこない。

 目には映っているのに、意味が届かない。


 風に混じる水の粒が、頬に冷たく触れた。

 その感覚だけははっきりしていて、逆に自分の身体がどこにあるのか、わからなくなる。


 不安——では、ない。

 むしろ、そんな風に“ここにいる”感じが薄れる方が、少しだけ楽だと思ってしまった。


(……こんなこと、考えるつもりじゃなかったのに)


 僕は滝を見に来ただけだ。

 何も忘れられなくて、どこにも行けなくて、逃げるように観光地に来ただけだ。


 白い水が落ち続けている。

 ずっと、ずっと。


 その流れを見ていると、胸のざわつきさえ水に混ざって消えていくような気がした。


 ——その瞬間。


 ザア……ン。


 滝の音が、一度だけ深いところへ沈んだ。


 今までのざああ……という広がる音じゃない。

 喉の奥を震わせるような、重く低い音。


(……今の、何?)


 耳鳴りみたいだけど、違う。

 柵を挟んだこちらと向こうで、空気の密度が変わったような感じがした。


 観光客のざわめきが、遠のく。

 風の気配が、薄くなる。

 世界の音量が、一段下がったみたいに。


 その薄暗い静けさの中で、僕は自然と左側へ視線を向けた。


 立ち入り禁止の看板のずっと奥。

 本来なら誰もいないはずの場所——滝壺の縁に。


 “誰か”が立っていた。


 白いシャツ。

 まるで濡れているような、墨色の長い髪。

 滝壺を見下ろす横顔は、生きている人間とは思えないほど静かだった。


(……誰?)


 本当なら「なんであんな場所に」が先に浮かぶはずなのに、僕はただ、その人から目を離せずにいた。


 懐かしいような、胸が締め付けられるような、理由のない感覚だけが残る。


 やがて、その人物がゆっくりとこちらを向いた。


 淡い灰色の瞳が、まっすぐ僕を捉える。


 ザア……ン。


 滝の音が、また沈んだ。


 澄んだ声が、胸の奥に落ちた。


「……おいで」


 その一言が胸の奥に触れた途端、思考のどこかがふっと緩んだ。


 怖いとは思わなかった。

 危ないとも思わなかった。


 やっと、僕を呼んでくれた。

 そう思った。


 足が、自分のものじゃないみたいに軽く動く。


 鉄柵の前に立っていたはずなのに、気づいた時には一歩前へ踏み出していた。


 ザア……ン。


 またあの音が落ちてきた。

 胸の奥のどこかが深く沈むような、水底に引かれるような感覚。


 世界が、更に遠ざかっていく。


 観光客の声も、風の音も、滝の白い飛沫も——全部、薄く溶けて消えていく。


(……行かないと)


 理由なんてなかった。

 ただ、そう思った。


 その人が伸ばした手は、滝の白に溶けかかった線のようで、触れたら消えてしまいそうなくらい儚かった。


 その手を見て、胸の奥がじわりと熱くなった。


 懐かしい。

 そこにいるのは確かに知らない人なのに——どうしてだろう。


(あぁ……やっと、見つけた)


 そんな言葉が、自分の中から勝手に浮かんでしまった。


 僕は、柵を握っていた手を離し、もう一歩、踏み出そうとした。


(あと、一歩……)


 ——その瞬間。


 ガッ。


 急に誰かに強く腕を掴まれた。

 何が起きたのか理解するより先に、耳元で鋭い声が弾けた。


「危ねぇ!」


 驚くほど近い距離だった。

 そのままの力で引っ張られて、身体が勝手に後ろへ戻される。


 さっきまで視界の端にいたはずの彼が、その手が、滝の白に紛れていくように、ぼやけていく。


 世界の音が、ゆっくりと戻ってくる気配がした。


 ざわめき。

 風。

 滝の音。


 でも、全部、少し遅れて聞こえる。


「……お前、何し——」


 その声の続きは、僕には掴めなかった。

 世界がまた少し揺れて、黒く染まっていく。


 ——そんな感覚の途中で。


「……ぃ、おい、……しっかりしろ!」


 低い声がすぐ近くで響き、肩を支える腕が僕の身体を持ち上げた。


 強い。

 熱い。


 さっきまでそこにあるかどうかもわからなかった自分の身体が、その腕の温度のせで急に現実に引き戻される。


「立てるか——いや無理か」


 乱暴に聞こえるのに、その手つきは落とさないように僕を支えていた。


 背中に回された腕に体重を預けると、地面の感覚も、空気の重さも、全部が急に戻ってくる。


(……あれ……僕……)


 何をしようとしていたのか、思い出そうとしても頭の奥がうまく動かない。


 さっきまで目の前にいた“白いシャツ”の気配を探すけど、滝の白い水煙に紛れて、もうどこにも見えなかった。


「おい、気を抜くな。……おい!」


 耳元で声がする。

 でも、その声が誰のものなのかすぐに判断できない。


 視界の端に、黒いジャケットの肩。

 近い。

 すごく近い。


 僕を支えている腕の力が、少し強くなった。


「……っ、なんでまた倒れんだよ……」


 呟きのような声。

 怒っているようで、どこか焦っている。


 僕はその声に返事をしようとしたけれど、口がうまく動かない。


(……さっき……誰かが……)


 思い出そうとすると、頭の奥でザア……ン、と音が鳴った気がした。


 熱と寒気が同時に走る。


「あ——」


 声にならない声が漏れる。

 喉がヒューヒューと鳴る。


(こわい。こわい。こわい)


 腕の力がさらに強く僕を抱え込んだ。


「おい、大丈夫か。……聞こえるか」


 今度は少しだけ優しい声だった。

 でもその優しさが、逆に胸に刺さった。


(……誰、だっけ……また迷惑、かけて……)


 世界の端が、またぐらりと揺れた。

 黒に沈みかけていた視界の端で、捉える。


(……あれは……)


 滝の向こう。

 白い水煙の中に——細い“線”のような影が立っている。


 人……?

 いや、わからない。

 でも、そこに“誰か”がいる気がした。


 ゆらり、と。

 その影が揺れた。


 そして、その中心に淡い“灰色”があった気がした。


(……目……?)


 視界がぼやけているのに、その灰色だけは、はっきりしていた。


 見ているのか、見られているのか。

 わからない。


 でも——


 ザア……ン。


 頭の内側で、音が沈む。


 胸の奥が、また痛む。


(……あ……)


 意識がそっちへ向かい、身体をそちらへ傾けかけた瞬間。


「おい、どこ見てんだ……!」


 僕を支えていた腕が、強く逆へと揺り戻す。


「……っ、また倒れる気かよ、クソ……」


 近い声。

 しゃがれた呼吸。


 でも僕は、滝の向こうを見てしまった。


 白いシャツの裾が、さらり、と水煙の中で揺れた気がした。


(……さっきの……)


 呼ばれた、あの声の気配だけが残っている。

 滝の音の奥に、微かに。

 今にも消えてしまいそうな。


「……おい、見るな」


 耳元の声が、僕の思考を断ち切るように低く落ちた。

 その声音は重く鼓膜を震わせた。


 それでも僕は、もう一度だけ、滝の方へ視線を向けた。


 そこにはもう、誰もいなかった。

 影もなかった。


 ただ白い水煙だけが、風に揺れていた。


 ぼやけた視界の中で、滝の白がゆっくりと形を取り戻していく。


 耳も、少しずつ現実の音を拾い始めた。


「ねぇ、あれ虹だよ」

「すごーい」

「写真撮って」


 ……普通の声だ。


 さっきまで僕が見ていた“影”なんて、最初からなかったみたいに。


(……誰も、気づいてない……?)


 すぐ隣で、僕が倒れかけているのに。

 ……どういう訳か男に肩を抱かれているのに。


 誰ひとりとして、こちらを見ていなかった。


 滝を背景に楽しそうに写真を撮る家族。

 ベンチに座ってアイスを食べている子供。

 滝を指差して笑う若いカップル。


 全部、いつも通りの光景だった。


 さっきの“沈むような静けさ”は、僕と、この人と——その場所だけに起きていたみたいだった。


「え……あれ……なんで……?」


「……ったく、気づきもしねぇのかよ」


 辺りを見回していると、耳元で小さく吐き捨てるような声がした。

 僕を支えている男のものだ。


 苛立ち、というより。

 諦めとも、慣れとも言えないような、重く濁った響き。


(やっぱり……何か、おかしい……)


 滝壺の向こうにいた“あれ”を思い出す。

 白いシャツ。

 灰色の目。


 誰にも見えていなくて、僕とこの人だけに——?


 また喉から喘鳴が漏れる。


「立てるか? ……まだ無理そうだな」


 腕の力が強まり、身体が支えられたまま引き寄せられる。


 観光客たちは、相変わらず滝を見て笑っていた。


 まるで僕たちの周りだけ、別の空気が流れているかのように。


 また喉から喘鳴が漏れる。

 ひゅ、と空気がうまく入らなくなる。


 その瞬間、僕を支えている腕の力が、ぎゅっと強まった。


「……クソ。ここは駄目だ」


 低く押し殺した声。

 怒鳴るでもなく、ただ切迫した響きだけがあった。


 男は僕の身体を抱え直し、半ば引きずるように、柵から離れた方へ歩き出す。


「立てるかって聞いたけど……まあ無理だよな。とりあえずここから離れるまであっち見んな」


 腕から伝わる体温が、意識をこちら側に引き戻してくれる。


 でも僕の視界はまだ揺れていた。

 世界の輪郭がゆっくりと波打っている。


 ざわめき。

 笑い声。

 カメラのシャッター音。


 全部が、遠い。


(……あれ……僕……)


 足がもつれる。

 地面の位置が定まらない。


「おい、こっち。……ほら手、ここ掴め」


 言われるがまま、男のジャケットの袖を握る。

 布の感触が、確かな手応えとして現実味をくれた。


 男は観光客たちの間を押し分けるように進む。

 けれど誰ひとり、僕らを気に留めていない。


 滝のすぐそばで倒れかけていたはずなのに。

 大の大人が引きずられて歩いているのに。


(……見えてない……?)


 喉の奥がまた、ひゅ、と音を立てる。


「……いいから、何も考えんな」


 男が僕をさらに強く抱え寄せた。


 ——その瞬間。


 ザア……ン。


 滝の音が、もう一度だけ深く沈んだ気がした。


 けれど、さっきほど強くはない。

 遠く、霞んだ残響のような。


(……この、音……)


 怖いという感情が浮かぶより先に、身体のどこかがまた沈み込んでいく。


 視界の端で、白い何かが揺れたような気がした。


(……だれ……)


 思考が、そこで途切れる。


「おい……あー……もう落ちんじゃねぇよ……」


 呆れと焦りが混ざった声が、どこか遠くで揺れている。


 その声に返事をしようとするのに、口が動かない。


 世界の色が薄く溶けていく。


(……また……)


(……おちる……?)


 声にもならない声が胸の奥でほどけて、僕の意識はゆっくりと暗く落ちていった。



次回、澪は志野の手から離れられなくなります。

月曜21時、静かに沈んでいきます。

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