無答抄

秋犬

『今日は朝から雪、次第に強くなるでしょう』

 私は雪の日に死にたい。その方が美しいとかそういう話ではなく、単純に大雪の日に死ねば少しでも私の腐敗が遅れるだろうという消極的な理由からだ。例えば今私がしている雪下ろしだって、とても危険な作業だ。手や足を滑らせたら、私も他の誰かも死ぬ。そんな覚悟で生活をしなければならないなんて、やっぱりおかしい。私は死んだ方がいいのだ。


 ほのかにちらつく雪を気にしてどさりどさりと屋根の雪を下ろしながら、私は考えたくもない将来のことを考える。例えばおばあちゃんのこと。お母さんが死んでからますます認知症が酷くなって、私が誰だがわかっていないようだ。本当はずっとそばにいて何度も同じ話を聞いてあげなくちゃいけないけど、雪下ろしをしなければいけないのでその間はこたつに入って録画しておいた朝ドラを見せ続けている。朝ドラを見ている間は、おばあちゃんは大人しい。どうせもう何を見ているのかもわからないのだろうけど、習性っていうのは恐ろしい。その時間だけおばあちゃんは「朝ドラを見る主婦」の気持ちになっている。


 お母さんは二年前に死んだ。自殺未遂を繰り返した末の、ようやくの完遂だった。あの日も確か雪が降っていた気がする。何時になっても起きてこないお母さんの部屋に行くと、裂いたシーツが長くカーテンレールに垂れ下がっていた。こんな光景は見慣れていたはずだったのに。「ああ、成功することもあるんだ」っていうのが私の第一印象だった。「おばあちゃん、お母さん死んでる」って声をかけたら、おばあちゃんは淡々と救急車と警察を呼んだ。おばあちゃんも疲れていたんだと思う。お母さんが骨になってから、ようやく肩の荷が下りたという顔をしていた。そんなんだから、認知症が悪化したんだろう。


 私のお母さんは、幼い頃から包丁を持って「死んでやる」と叫んだり、おばあちゃんのお金を盗んだり私の裸の写真をネットで売るようなお母さんだった。ご近所に某俳優を中傷するビラを配って歩いて、私とおばあちゃんが頭を下げて一枚ずつ回収していったことは忘れられない。ああ、私も普通のお母さんが良かったなと思う。でも、普通のお母さんがよくわからない。それはそれで、ちょっと怖い。


 どさり、どさり。


 屋根の雪はだいたい地面に落とした。これでうちが潰れる心配は少しなくなった。雪下ろしが済んだら、おばあちゃんのお昼ご飯。今日は寒いからまたうどんにしようか。昨日の残りの鍋つゆにうどんを入れて、ちょっと煮込んで卵を落として。ああ、おいしそうなお昼ご飯。考えただけで、私の冷たい指もあったまるようだ。


 そっと屋根から降りて玄関の前で雪を払っていると、なっちゃんが来た。なっちゃんは私の友達で、幼い頃からずっと一緒にいる遊び仲間だ。雪下ろしご苦労様、となっちゃんが言うので頑張ったよ、と私は答えた。この雪国では雪下ろしはやって当たり前の仕事。それを褒めてくれるなっちゃんは偉い。私もなっちゃんが素敵なことをしたら褒めるようにしている。


 なっちゃんとは、古くからの付き合いだった。私は記憶になかったが、お母さんは東京で私を出産して地元に帰ってきたらしい。お母さんはテレビに映る俳優を指さして、この人があなたのお父さんよと何度も言った。私のお父さんは日によって変わった。どうやら私にはたくさんのお父さんがいるらしい。そんなことをなっちゃんに言ったら、普通はひとりしかお父さんがいないのに、たくさんもいるなんて素晴らしいじゃないという。しかもみんな有名な俳優さんだなんて憧れる、とも言ってくれた。


 そのうち、特にお母さんがお父さんだと言い張る俳優こそ、私のお父さんなんじゃないかって思うようになった。だから私はお父さんに手紙を書いたことがある。私はあなたの娘です。あなたの名誉があると思うので名乗り出ることはしませんが、陰ながら応援しています。できればお母さんに連絡してあげてくださいと綴ってポストに入れた。返事は未だに来ていない。


 私はなっちゃんに今日のお昼は煮込みうどんにするんだ、と言った。なっちゃんはいいね、温かそうでと言う。だから私はなっちゃんも一緒にうどんを食べようと言った。なっちゃんは喜んで私についてきた。私は素直ななっちゃんが好きだ。なっちゃんは家に上がると、おばあちゃんと一緒に朝ドラを見始めた。私は台所へ行き、急いで煮込みうどんを作る。


 冷蔵庫に入れてあった残りものの鍋つゆをコンロに掛けて、その間に私は卵を皿に割り入れる。冷えて固まった野菜と肉が、再びどろどろになっていく。ふんわり漂うつゆの匂いを感じながら、私はうどんと卵をつゆに入れる。蓋をして少し煮込めば、おいしいお昼ご飯の完成だ。


 私は居間のこたつでくつろぐおばあちゃんのところへ行った。おばあちゃんを立たせて、食卓まで連れて行くのが一苦労だ。音量が最大になってるんじゃないかってくらいうるさいテレビの前にいるので、おばあちゃんは私がそばに来たのがわからないらしい。


「おばあちゃん、お昼ご飯出来たよ」


 私はおばあちゃんの耳元で怒鳴った。こうしないと、おばあちゃんには何も伝わらない。普段であればわかってるよ、うるさいわねと言いながらおばあちゃんは答えるけれども、返事がない。


「おばあちゃん、お昼ご飯出来たよ」


 もう一度おばあちゃんを揺さぶって、私はもうおばあちゃんが返事をしないことに気がついた。頭が真っ白になった。おばあちゃんも、雪の日に死んでしまった。


 私はこたつとテレビの電源を切ってから台所に行って、ほかほかのうどんをひとりで直接鍋から平らげた。誰にも邪魔をされずに食べるうどんは美味しかった。


「ごちそうさまでした」


 それから、一応警察と救急に電話をした。おばあちゃんがこたつで動かなくなっているから来てほしいと言った。すぐに向かうと返事があったけれど、あ、でももう死んでるから救急車はゆっくりでもいいですよと私は言った。そしてやかましい車が到着する前に、私は玄関の外に出た。鍵はかけない。それが親切だ。雪はさっきより強く降っていた。


 玄関の外にはなっちゃんがいた。どうしようか、私の生きる意味なくなっちゃったと言うと、なっちゃんはじゃあ生きてなくてもいいんじゃない? と言った。なっちゃんの言うとおりだ。私はざぶりとさっき落とした雪の塊に飛び込んだ。とても冷たくて、いい気持ちだ。


 なっちゃんはドライブしよう、と言った。遠くの景色が見たいね、と言う。私もなっちゃんに賛成して車のキーを持ってきた。今入ってるガソリンが尽きるまで遠くに行こう。出来れば、山の方がいい。山の方が雪が積もっているから。私は雪が見たいんだから。


 エンジンをかけて、私は車を発進させる。助手席にはなっちゃんが乗っている。ああ、嬉しい。私の最初で最後の友達。お母さんは自分を棚に上げて、私を気違いと罵った。何故なら、私はなっちゃんと友達だから。お母さんにはわからないよ。お父さんはたくさんいてもいいと思うけど、私は友達はひとりでよかった。おばあちゃんになっちゃんの話はしなかった。でも、私が遊んでいるとおばあちゃんはお菓子を必ずふたつくれた。だからおばあちゃんはなっちゃんのことをわかってくれていたんだと思う。


 助手席のなっちゃんはカーラジオを聞き始めた。大雪の日は、雪の話しかしない。私のおばあちゃんが死んだことなんて、誰も興味がない。人が一人死んでいるにも関わらず、今夜もたくさん雪が降るので最大級の警戒をしなくちゃいけないとラジオは言う。何の警戒を、誰に対して言っているのかわからない。私は雪の山道をどんどん駆けて行く。チェーンを巻けって看板があった。なっちゃんは余計なお世話! と看板に怒鳴っていた。


 次第に吹雪く道にも構わずいくつも山を越えて、私は閉ざされた観光地へやってきた。春まで誰も来ない、湖のほとり。私は裸足で雪の上に降りた。雪がとってもきれいだ。ああ、やっぱり死ぬときに美しい何かっていうのは大事かもしれない。裂けたシーツを首に巻き付けて死んだお母さん。大音量で朝ドラを見ながらこたつで死んだおばあちゃん。そして娘は、雪の中で春まで綺麗なまま、見つからない。なんて素敵なんだろう!


 私は嬉しくなって、湖の方に駆けていった。私の足跡がざくざくと雪の上に残る。どこまでも真っ白で、愉快な世界。私と、なっちゃんだけの、白くて美しい世界。


 不意に足下から崩れる感覚があった。途端に私は冷たくて、暗い底へ落ちていく。ねえ、なっちゃん、助けてよ。私、雪の中で死にたいの。ねえ、なっちゃん。いくら呼んでも、なっちゃんは答えない。


 ねえ、教えてよ。私はどこに行けばよかったの。私もお母さんやおばあちゃんみたいに、惨めに死ねばよかったの? 真っ暗が私を包んで、急に身体の底がしんしんと冷たくなっていった。とても苦しくて、耐えられない。なっちゃん、ねえなっちゃんはどこ? 私の、たったひとりの友達。私をひとりにしないで、私を置いていかないで。ああ、沈んでいく。春になっても、見つからないかもね。だって、誰も私のことなんか気にしてなかったからね。


 私は最後になっちゃんにそう問いかけた。答えはどこにもなかった。


〈了〉

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