第5話 崩壊

12月24日 深夜1時



将軍は決意した。

ここから逃げる。

何日も機会を窺っていた。

見張りのパターンを観察した。

夜、巡回の間隙。

今だ。

廊下を走る。

白い床。

音を立てないように。

非常口の標識。

扉を開ける。

外。

冷たい夜気。

星空。

自由だ。

将軍は走った。

敷地の端。

門が見える。

鉄条網。

でも、乗り越えられる。

あと少し。

その時。

ライトが点いた、真っ白な光。

将軍は目を細める。

装甲車だった、白い装甲車。

門の前に停まっている。

エンジンの音、排気の白い煙。

装甲車から兵士が降りてくる。

白い軍服、白いヘルメット、白い機関銃を構える。

「止まれ」

敵国の言葉。

将軍は立ち止まる。両手を上げる。

「戻れ」

兵士が銃で示す。

将軍は振り返る。

病院。巨大な白い建物。

まるで、巨大な白い墓標だ。

将軍を見ている。

「戻れ」

兵士が繰り返す。

将軍は歩き出す。病院に向かって。

白い建物に、呑み込まれていく。



12月24日 4時


夜の終わりに、空が白んだ。

それは希望ではなく、支配だった。

すべての罪を抱えて、

世界が自らを漂白していく。



12月24日 6時


白い行進を見た。

廊下の奥から、続々と白い人々が歩いて目の前を通り過ぎて行った。

兵隊や看護婦、少年少女、老人に、赤ん坊を抱いた母親。

みな白かった。無音で通り過ぎていく。


12月24日 8時


将軍は壁を塗っていた。


いつもの白い壁。


いつものペンキ。


「逃げられない」


誰にも聞こえない声で呟いた。


「ここから、逃げられない」


ペンキを見る。


中で、何かが笑っている。


12月24日 10時


壁が呼吸している気がした。

膨らみ、しぼむ。

白が動くたびに、

心臓が脈を打つ。

将軍は手を当てた。

自分が呼吸しているのか、壁がしているのか、

もうわからなかった。




12月24日 12時



精神科医が訪ねてきた。


「将軍、顔色が悪いですね」


「ペンキが…」


「ペンキが?」


「ペンキが、おかしい」


「どうおかしいんです?」


「中で、何かが動いている」


「ほう」


精神科医は興味深そうに聞く。


「何が見えるんです?」


「骨……いや、違う。顔だ。顔が浮かんでいる」


「誰の顔です?」


「わからない。いや、わかる」


将軍は震えている。


「参謀だ。参謀の顔だ」


「ああ、あなたの参謀ですか」


精神科医は頷く。


「彼は白淵で戦いましたね」


「ああ…」


「最後まで戦ったそうですよ」


「ああ…」


「彼の骨も、きっとペンキになっているでしょうね」


将軍は精神科医を見る。


精神科医は、優しく微笑んでいる。


「冗談ですよ」


そう言って、歩き出す。


「先生」


将軍が呼び止める。


精神科医は、振り返った。


「この作業を、やめさせてくれないか」


精神科医は首を横に振る。


「それはできません」


「なぜだ」


「効果があるからです」


将軍は懇願する。


「もう限界なんだ」


精神科医は将軍の肩に手を置く。


「だからこそです」


「この作業は効果があります」

「特に、限界だと感じた時に」


「私は信じています」

「効果のある治療は、

時に患者が嫌がっても、

信念を持って、

粘り強く、

続けるべきだと」


「将軍」


「あなたはこの作業を続けるべきです」


「ここが踏ん張りどころです」


「あなたは回復してきています」


「私には分かります」


「あなたはもうすぐ、良くなる」


精神科医は微笑む。


「頑張りましょう。共に」


精神科医は去った。


将軍は、ペンキを見た。


参謀の顔が、笑っていた。


12月24日 12時30分


午後の光のなかで白いペンキが喋る。

「白旗は重い。

 あなたはその重さに耐えられますか?」

将軍は言う。

「無理だ、もう無理だよ」

ペンキは語る。

「私はそうは思わない」

「あなたは強い」

「あなたは壁を塗り続けるべきだ。


 最後まで戦うことこそが誇りだ。


 幾度もそう言って、


 そのたびに部下たちを犠牲にしたあなたこそ、

 

 この病院で、壁を塗り続ける患者にふさわしい」


将軍はうなだれた。




12月24日 13時


地下をフラフラと歩いていた。


ガチャンと音がした。


扉が、開いていた。


いつも閉まっている扉。


中を覗く。


骨格標本。


大量の骨格標本。


子供から、大人まで。


「これは…医学用か」


近づく。


一体の骨格を見る。


頭蓋骨に、文字が書いてある。


「白淵 学徒兵」


隣の骨格。


「白淵 看護婦」


その隣。


「白淵 僧侶」


全部だ。


全部、白淵からだ。


「ああ…」


ペンキを見る。


バケツの中で、骸骨が浮かんでいる。


笑っている。


缶の中からペンキが溢れてきた。


床に広がる白。


まるで呼吸するように広がっていく。


足元が白いみずたまりのようだった。


ペンキはざらざらしていた。


歯、指、背骨


真っ白な骨が真っ白なペンキから浮かび上がってくる。


そのペンキの波はどんどん広がっていく。


散乱した骨が打ち上げられた魚のように転がる。


ザザーン

ザザーン


白いペンキが押し寄せ、骨を運んでくる。


そして、骨たちは立ち上がろうとしてもがく、


もがきながら笑っていた。


「もうやめてくれ……」


顔を覆って、

白骨の浜辺と化した部屋を後にした。






12月24日 13時30分


「先生はいるか?」


将軍は看護婦に話しかけた。


看護婦は敵国の言葉でなにか言ったが、よくわからなかった。


「先生と話したい。もう限界だと伝えてほしい」


看護婦はほかの職員を呼んでなにか話していた。

しきりにこちらを見ていた。


近くにあった椅子に将軍は腰掛けた。


白い壁が骸骨を孕んでいた。

壁という胎内で骸骨がうごめいていた。ひしめいていた。


瞼を閉じる。瞼の裏も真っ白だった。


限界だ。


もう壁は塗らない。そう言おう。


せめて、少し休ませてほしい。


いや、効果があるから続けろと言うだろう。


どうしたらいい。


踏ん張りどころかもしれない。


いや、もう十分踏ん張った。


どうしたらいい。


足音。


看護婦が笑顔で近づいてきてニコっと笑った。


そして将軍の国の言葉で言った。


「どうぞ!」


手には白いペンキと刷毛があった。


ペンキの中で骸骨が笑っている。


ハハハ


将軍も笑った。


ハ、ハ、ハ、ハ、ハ


将軍は、笑った。


ワッハッハッハッハッハ!


腹を抱えて笑った。


看護婦がキョトンとする。


屈強な男の職員がこちらを見ている。


将軍は急に真顔になって、

看護婦からペンキをひったくった。


将軍はおもむろにペンキの缶に手をつっこむと自分の顔に塗った。


べちゃり。


ぬめり。


看護婦がギョッとした。


構わずに将軍は額に、頬に、顎に、頭に、塗った。


看護婦が何か言って将軍の手をつかんだ。


それを振りほどいて、将軍は大きな声で朗読した。


「白い手 白い顔 白い骨 白い罪」


ラジオの女の声が呼応するように響く。

敵国の言葉で。


「白い口 白い喉 白い舌 白い言葉」


将軍はそれを聞くとペンキで口の中を塗り始めた。


「認める、すべて認める」


「私が命令した」


「私の責任だ」


ぶつぶつと言いながらひたすらペンキを口に運んでいく


看護婦たちが将軍を取り押さえようとする。


でも、将軍は止まらない。


口の中が白くなる。


喉が白くなる。


舌が白くなる。


言葉が白くなる。


バシャッという音がした。

真っ白いフラッシュ。


中佐がカメラを構えていた。

宣伝部隊の隊長。

その横には精神科医もいた。


中佐は言う。

「では宣伝映像に協力してくれますな?」


将軍は答えた。


「なんでもする」


中佐は大きく頷いた。

そして言った。


「見事なもんですな先生。

 あなたに任せて、本当によかった」


精神科医は謙遜する。

「私はただ、彼の想像力を撫でただけですよ」


中佐は言う。

「詩的だ。

 これは一種の芸術です。

 先生はアーティストですよ」


精神科医は笑いながら首を振る。

「いえいえ、

 医者として真面目に仕事しただけです。

 これは治療です」


中佐も笑う

「なるほど治療、ですか

 哲学的ですね」


中佐はぐるりと周囲を見る。

白い壁。

白い床。

白い天井。

白い人々。

そして白くなった将軍。

中佐は思う。

ギャラリーに並ぶ作品群のようだ。


「見事な治療です」


「将軍もきっと良くなります」


精神科医は優しく将軍を見る。

その目は観察もしていた。


将軍は別室に連れて行かれた。


ピアノと電子音の音楽が流れ続けていた。



12月24日 15時


中佐は壁に備え付けの電話機でしばらく話してから、

「分かった、今から行く」

と言って電話を切った。


精神科医はソファに腰掛けて、

コーヒーを飲んでいた。


中佐が手をこすり合わせながら近づく。


「そろそろ撮影の準備が整ったようです、

 ご一緒願えますか?先生」


「ええ、もちろん」

精神科医は、

コーヒーを飲み干し無造作に床に置いた。


白いカップと、

白い皿が、

白い床に、

同化して消えたように、

中佐は思った。


立ち上がった精神科医は一つ、

という感じで人差し指を立てた。

「ただ」


「ただ?」


「今日はクリスマスなので早く帰りたい。

 妻と娘たちが待ってます」


中佐はパッと顔を明るくする。

「そうか、そんな日でしたね!

 まったく、仕事一筋のひとりもんはこれだから!

 メリークリスマス!

 さっさと終わらせましょう!」


「ありがたい。期待しますよ?」


「シンプルなもんです」

中佐も人差し指を立てる。


「あなたの命令ですよね?

 ってね」



中佐と精神科医は少しだけ笑って、

そして歩いていく。





12月24日 16時34分



宣伝映像の撮影終了



12月24日 17時25分


車の後部座席で。


「ちなみに」

と中佐が聞く。


「先生の家も真っ白いんですか?」


「まさか、娘たちに怒られますよ」


「なんと」

中佐が苦笑する。


「あと」

中佐が言う。


「あれは誰のアイディアですか?」


「あれとは?」


「人骨ペンキ」


「ああ」


精神科医は窓の外を見る。


雪が静かに降っている。


「あれは私のアイディアではありません」


「と言いますと?」


「包囲戦の後、

 この病院を再建していた時です。」


ペンキが足りなかった。

病院の黒い壁は依然としてほとんどが黒いままでした。

ペンキは嵩張るし食ったり撃ったりするものでも無いので優先順位は低かった。

そこで当時の補給将校が妙なペンキを持ってきました。

これを使ってみてほしい、というのです。

実際に塗ってみるとそれは黄色がかったくすんだ灰色っぽい白で、

甘く焦げた妙な臭いがしました。

粗悪なペンキだと思いましたが、

しばらく使いました。

滞る補給物資のなかでその粗悪なペンキだけは、

次から次へと持ってくるので助かるとは思っていました。

ある日のことです。

部下を使ってなにかを集めている補給将校を見つけました。

手に持っているのは頭蓋骨でした。

彼は人骨を集めていました。

大きな金属のバケツにガラガラと骨を入れていました。

何をしてるんですか。

と聞くと、

補給将校は曖昧に笑いながら言いました。

なに、ペンキの材料を集めてるだけです、と。

続けて、

あれの使い心地はどうですか?先生。とも。


……私は即刻、病院内の人骨ペンキを回収して、空き地の一角に埋めました。

人骨ペンキの真相は他の人には言えませんでした。

補給将校を通さずに、ペンキ屋に直接ペンキを買いに行きました。

ちゃんと何で作られているペンキなのかも確認しました。

そうやって手に入れた、酸化チタンで作られたピカピカの白いペンキで、

黄色くくすんだ白を塗りつぶしました。

白い壁を白く、完璧に塗りつぶしました。

あの甘く焦げた骨の臭いが消えるのに、

一年かかった。

私にとって長い一年でした。

気付くとあの補給将校はどこかに転属していました。

仕事熱心な、ずいぶん頭の良い人物だったので出世したのでしょう。


「今にして思えば」

精神科医は笑います。

「補給将校の話は、

即興の悪趣味な冗談だったかもしれませんね」

中佐も苦笑いする。

「補給将校という人種は歪んだやつが多いです。

笑えないブラックジョークが好きなやつ。

バカなことを本当に実行するやつ。両方います

「ええ。真相は分かりません。

 あれを埋めた場所は既に病院の建物が建っていて、

 掘り返すことはできません。

 とはいえ、私の見た悪夢は本物でした。

 そして、こう思います。

 人の想像力は強い、と。

 将軍には白いペンキは人骨で作れる、

とは言いましたが、

病院のペンキは人骨で作られている、

とは言いませんでした。

しかし、将軍は点と点を想像力でつないだ」

中佐は言った。

「将軍は戻りますか?」

精神科医は言った。

「将軍はまだ初期段階です。これからもっと良くなっていきますよ」

「それは興味深い、ぜひ取材がしたいです」


精神科医は頷く。

「ええ、いつでも」


車はクリスマスの街を進んでいく。


雪が街を白くしていく。


精神科医は鼻歌をそっと歌い始めた。


それは将軍の国の歌だった。




ゆきやこんこ

あられやこんこ






おしまい















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白旗の骨格 理宇 @riuriuriu

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