「鉄道断章」第2話「遊戯に非ず、職にして覚悟」(旧「余白の声」第7話「鉄路断章」)
秋定弦司
「鉄路に献じた老兵の遺言」
皆様、鉄路に携わるとは、すなわち人の命と都市の呼吸を預かることに他なりませぬ。
「列車見張員」という職務は、外から見れば旗を振り、無線で声を飛ばすだけの単純作業に映りましょう。
しかし、実際にその場に立てば、そこが遊戯ではなく、死と生とが交錯する境界線であることを否応なく思い知らされます。
列車は容赦なく迫ります。速度は時に百キロを超え、質量は小山をも凌ぐ。人間の筋肉も、叫び声も、立ちはだかるにはあまりに脆弱――ゆえに、我らは己が全身を警鐘として捧げねばならぬのです。
一瞬の油断は、作業員を轢殺し、数百人の乗客を混乱に陥れ、さらには全国の鉄路を狂わせます。
列車見張員の務めを軽んじる者は、えてして「簡単なお仕事」と口にいたします。ええ、確かに手順だけを並べれば単純に見えることでしょう。
列車が来れば合図し、去ればまた合図する。
ただそれだけ――しかし、その「ただそれだけ」を寸分の狂いなく繰り返すために、酷暑、極寒、尿意、睡魔……それらをすべて飲み込み続ける覚悟が要るのです。
ご存じでしょうか。旗をひと振り誤れば、列車は急停車し、数千人が足止めを食うことを。わずかに無線が遅れれば、作業員が二度と地上に戻らぬことを。
その重みを胸に抱きつつ、「簡単」と笑うのは、まことに世を知らぬ戯言でございましょう。
かく申す私も、かつて現場に立ち、幾度となく列車の影を肌で感じて参りました。炎天下で汗は眼に沁み、凍える夜には手が旗を掴めぬほど痺れ、それでも一線を守る責務は微塵も揺るぎませんでした。
なぜなら、その一線こそ、作業員の家族、通勤者の日常、そして都市の秩序そのものを支えていたからです。
鉄路に魅せられる心は尊い。しかし、その心を以て現場に立つならば、「好きだから」という軽き動機は即刻捨て去らねばなりませぬ。
旗のひと振り、声のひと言、その全てが血と汗で裏打ちされた重責である以上、趣味心を混ぜる余地などございません。
……私の経験を語るお時間をいただければ幸いです。
かつて、私も列車見張員として鉄路に立ち、その時先ほど申しました「趣味心」で鉄路に入った者が同じ現場におりました。
私はその者の現場での行動に憤り、怒声とともに「次に同じことをすれば容赦なく列車を止める」と言葉の脅しだけではなく、赤色旗を構え、「本気で列車を止める意思」を身で示しました。
気が付けばその者は鉄路から去っておりました。
……私の戯れ事をお聞きいただきありがとうございました。
さて皆様、もし本当に鉄路を愛するのなら、どうぞ安全な場所で心ゆくまで愛でてくださいませ。
ただし、一歩でも線路に足を踏み入れるのであれば、その瞬間から己は「守人」とならねばならぬ。遊び心は剥ぎ落とし、覚悟と責任だけを携えてください。
――命を繋ぐ一線に立つとは、まことそのようなことでございます。
そして、これからこの一線に立つことを志す方々へ「一老兵」として次の言葉を送らせていただきます。
(一) 安全の確保は、輸送の生命である。
(二) 規程の遵守は、安全の基礎である。
(三) 執務の厳正は、安全の要件である。
どうぞこの3つをゆめゆめお忘れなきように……。
「鉄道断章」第2話「遊戯に非ず、職にして覚悟」(旧「余白の声」第7話「鉄路断章」) 秋定弦司 @RASCHACKROUGHNEX
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