宿り神

いちはじめ

宿り神

 辺り一面田んぼばかりの農道を、古びたランドセルを背負った少女が一人とぼとぼと歩いている。

 少女は干からびた灰色のアスファルトの上にある緑色の塊に気がついた。

 遠くからは、まるで灰色のノートに垂らされた緑の蛍光インクのように見えたそれは、一匹のカマキリの死骸だった。

 道路を渡ろうとして車か何かに轢かれたのだろう。上半身と下半身の一部はぺしゃんこで、周りに緑色の内臓と体液をまき散らしていた。


 ――かわいそうに、飛んでいれば轢かれなかったでしょうに。それとも辛いことでもあったのかしら……。


 少女は立ったままじっとそれを見下ろしていた。やがて少女の目は何かがそこに蠢いているのを捉えた。

 それをたしかめようと少女はしゃがみ込み、目を凝らした。

 押しつぶされた体の奥から黒い針金状のものがくねくねと姿を現している。どう見ても針金にしか見えないが、ゆっくりと体をねじり、ひしゃげたカマキリの体から抜け出そうともがいている。

 その異様さに目を奪われた少女は、無意識に手を伸ばそうとした。

 その瞬間、背後でけたたましいクラクションが鳴り響いた。

 少女は道の真ん中でしゃがんでいたのだ。

 軽トラックのおやじに「死にたいのか!」と罵声を浴びせられ、あわてて道端に飛び退いた。

 トラックが通り過ぎると、再び押しつぶされた死骸は路上のシミと化しており、もはや元が生物であったという痕跡すら留めていなかった。そしてあの得体の知れないものの姿は消えていた。

 家に帰る道すがら、少女は下腹部に鈍い痛みを感じていた。


 ――何この感じ。もしかして、あれが私の中に入ったの?


 団地の階段を上がる足が重い。

 帰ると薄暗い家の中に義父が一人でいた。少女を見るなり、彼は息を荒げて奥の部屋に彼女を乱暴に引っ張っていった。


 少女は義父から繰り返し性的虐待を受けていたのであった。それを知っているはずの実母は、少女を義父から守るどころか、夫の関心が娘に向いていることに嫉妬し、少女に暴力をふるっていた。

 抗う気力も失っていた少女は、義父の意のままにされるしかなかった。

 義父の手が止まった。少女の下着に血が滲んでいたのだ。

 少女は思いがけず初潮を迎えていた。

 義父は無表情に横たわる少女をそのままに、不機嫌そうな顔で家を出ていった。 彼の興味は、少女が女になった瞬間に覚めたようだった。

 だがそんな事情を知らない少女は、体に入り込んだあれが自分を守ってくれたのだと信じた。

 後に少女は、あれが「ハリガネムシ」というカマキリに寄生する虫であり、人間には寄生しないということを知った。

 それでもあれが体内に宿っていると信じて疑わない。


 ――これからも守ってくれるのよね。義父から私を救ってくれたみたいに。


 成人してからも、彼女はその思いに囚われ続けた。ふとした偶然による幸運や厄災から逃れたとき、彼女はあれのおかげだと感謝し、いつしか守り神のような存在になっていた。

 ある日、図書館でハリガネムシの交尾写真――オスとメスが絡み合う姿――を見て、彼女は初めて体の奥が熱くなるのを感じた。


 ――ああ、あなたの相手を見つけてあげなきゃ。


 義父から受けた虐待による性的なものに対する強い嫌悪感は、その日を境に霧が晴れるように消えていった。

 彼女は守り神の相手を見つけるという名目のもと、次々と男たちと関係を持った。 母親譲りの豊満な肉体のおかげで彼女は男に事欠くことはなかった。

 だが彼女は一度として満足したことがなく、いつも何かが足りないと感じていた。

 そしてそれは、守り神が求めているもの――交尾相手――に出会えてないからだと信じていた。

 

 ――私が欲望しているのではない。すべてはこの守り神のため。


 だがついにその相手が現れた。

 彼とは目が合った瞬間から、これまでの男たちとは全く違っていた。

 彼の手が、唇が、肌に触れるたびに、これまで感じたことのない歓喜の波が体中を駆け巡った。


 ――ああ、分かるわ。ついに見つかったのね。私もうれしい。


 彼らは、まるであの図書館の写真のように絡み合い、求め合った。

 そして彼女は何度も絶頂に達し、果てた。


 数か月後、彼女の妊娠が明らかになった。

 その奔放さから、彼女を心配していた知人達は堕胎することを勧めたが、彼女は頑として首を縦に振らなかった。


 ――守ってもらったことのお返しをしないとね。


 周りの心配をよそに、日に日におなかは大きくなっていった。

 それは彼女にとって神の子を身籠ったという喜ばしいことになるはずだった。

 だが次第に悪夢にうなされるようになった。


 陣痛が始まり、分娩台でその苦痛に耐える私。

 そしてついにその時を迎える。

 赤子の鳴き声がしない中、のっぺらとした不気味な笑顔を浮かべた助産婦が腕に抱いたそれを私に見せよう近づく。


「よく頑張りましたね。ほら新しい命の誕生ですよ」


 私はその赤子をのぞき込む。その薄い皮膚の下には無数のハリガネムシが蠢いていた。そして閉じられた赤子の瞼の隙間から私に挨拶をするがごとく一匹ハリガネムシがぬうっと姿を現した。


「ギャー」と絶叫するところでいつも目が覚める。


 ――これは正夢? それとも……。


 不安に苛まれ彼女はネットで狂ったように検索したが、人がハリガネムシを産んだなど、都市伝説の類でさえ浮かんでこなかった。

 

 ――私を守ってくれたんだもの、そんなことになるわけがない。でも万が一、この子が人の形をしていなかったら……。


 その焦燥は徐々に彼女を追い詰め、ついに臨月が近づいたある日、彼女は忽然とその姿を消した。


 そして数日後、彼女はあの農道近くのため池で溺死体として発見された。

 事件性はなく事故として処理されたが、不思議なことに妊婦であるはずの彼女の子宮には胎児の痕跡すらなく、周囲にも嬰児の死体は発見されなかったという。


【日本寄生虫要覧】

 ハリガネムシは、水中で交尾をするために宿り主を水中に誘導し、溺死させる。

                                   (了)

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