湯治

@yuke66

かけ湯

湯治を始めて3週目。身体の状態は少なくとも悪くなってはいない。しかし、具体的に良くなっている場所を説明してくれと言われても少し困惑する。これは片道40分ほどかけて私電でほぼ毎日温泉街の外湯に通っている分の疲労が蓄積されているからだろうと分析した。清水にとって電車内は多少ストレスの伴うものであった。窓際に立っていると他人の顔や表情に触れなくていい分、気が楽だが、身体的には疲れる。他方で、座席に座っていると向かいの座席に座る人の視線が気になる。だから清水は帰宅ラッシュが始まる前の比較的空いている16時には最寄りの駅から温泉街へと向かう電車に乗り込んでいたのだった。





そして今日もいつものように電車に乗り込み、空いていたから座席に座るというパターンを選んだ。視線のやり場に困る性格によって、たいていは目を瞑るかスマホを触っているが、この日は目を瞑る選択をした。うつむいてあたかも眠っているふりをする。聞こえてくるのは電車の動くガタンガタンという音と自動で流れる無機質な車内アナウンスぐらいだ。それは清水にとって聞き慣れた音であり、聴覚が困惑することはなかった。しかし、次の瞬間、若い男性の声と女性の声が耳に入ってきた。普段なら男女がしゃべっているだけだと脳内で処理されるはずなのだが、清水の脳内は明らかにバーストしていた。ショートした電源プラグのように。そしてこの瞬間からその女性の声しか聞こえなくなった。脳がその女性の声にフォーカスし始めたのだ。聞いたことがある。それは以前通っていたノンアルバーでお気に入りだったアルバイトの女の子の声だ。それにそっくりだったのだ。彼女の胸元のネームプレートにはひまりと書いてあった。彼女は愛嬌もあり、将来は自分のお店を出したいというようなことを言っていたように思う。ノンアルバーだからシラフだけれど、彼女は別れ際、いつも清水の姿が見えなくなるまでじっとお店の入り口横に立ち、少し口角を上げながらカラーコンタクトの入った切れ長の細めの瞳で見届けてくれた。彼女とはある意味気を遣わずに接することができたから冗談半分で「好きだよ」とか言ったりしていた。そのうち付き合おうという話になって彼女がお店を辞めることになったのだが、やっぱりまだ続けると言い、そんなことをしている内にお店が閉店した。そこから彼女と連絡が取れなくなったのだが、1年ぐらいしてたまたま新しくできたであろうバーを見つけ、中を覗くと彼女にそっくりの娘がいたので半信半疑のままとりあえずお店に入ろうとしたのだが、その入り口の扉を塞ぐように中から筋肉質の店長らしき中年男性が出てきて、両手でバツを作った。そして「まだ準備中です」と男性は言った。清水は「何時に開店ですか?」と尋ねたのだが、険しい表情をして何か言いづらそうにしていた。どうやら彼女から出禁にされているようだった。つまり、会うことができなかったのだ。とても悔しかった。店長に何度も懇願したのだが、返ってきた言葉は「うちの店には入れません」だった。それは融通の利かない役所の窓口での職員からの回答のようにどうにもできない重みを携えていた。お店のバーカウンターの奥のカーテンを隔てた向こう側の待機室に彼女がいるはずなのに。納得できなかった。発狂しそうになった。だが、明確な理由は教えてくれなかった。それから時だけが経過し、少なくとも清水にとっては疎遠になり会うことができなくなった女性の1人として記憶に刻まれていたのだった。だからこそ、すぐに目を見開いて顔を確認したかった。しかし、目を開けることができず、まるで金縛りに遭っているかのように何らかの力によってまぶたが閉じられたまま固定されていたのだ。もしかすると、今、目の前に好きだった女性が知らない男と隣同士で座席に座っているという現実を受け入れたくないという本心がそうさせていただけかもしれない。しかし、声は容赦なく耳の中に入り込み、その声も明らかに似ている。これも清水のその女性への未練がそうさせているかもしれないし、単なる思い込みや、たまたま似ていたとかそういう類のものかもしれない。しかし、どれだけ少なく見積もってもそれだけで簡単に腑に落ちるような声ではなかった。どう考えてもあの時のバーで語り合ったあの声と同じなのだ。少し猫なで声で、ややハスキーなあの声と。清水は軽くショックを受けた。いくら疎遠になったとは言えせめて男は居てほしくなかったからだ。しかし、会話の雰囲気から今から温泉宿に泊まるカップルだと悟らずにはいられなかった。笑い声、落ち着いた相槌、その全てが何度か身体を重ね、やがて安定期に入ったカップルを思わずにはいられなかった。





駅に到着し、清水はその男女が降りるのを待って、後から付けるように電車を降りた。女性の背格好に目をやる。身長はこれぐらいだったかなと一人で振り返る。しかし、体形はもう少しふくよかで肉厚だったような気がする。髪は茶色に染め、服装はとても地味な黒のジャージのようなズボンだった。清水が会っていた頃はもっとふわふわ女子の男受けのいいような格好だったから違和感を覚えた。むしろ、わざとそうした服装にしているようにさえ見えた。仕事とプライベートで服装を分けているのだろうか。一方、男性はスーツケースを転がしながらその女性の隣を歩いている。どこにでもいそうな世間をあんまり知らない若い好青年といった印象だ。ここで、清水はおそらく声が似ている別人だろうと判断し、改札口横にあるトイレに入った。そう思いたかった。そして、いつものように用を足し、うつらな瞳が鏡に映し出されるとため息をつき、手を洗った。しかし、トイレを出て、改札を出ようとその向こう側を見るとさっきの女性がこちらを向いて立っているのが瞬時に視界に飛び込んできた。清水は驚きを隠せなかった。ふつう、男女で行動している最中に女性が他の男性を見たりはしないだろう。しかも、その表情があの時の彼女の表情と同じに見えた。やっぱりひまりなのか?音信不通になっていた手前、通常なら嬉しいはずだった。すぐにでも声をかけたいはずだった。しかし、何かに支配されているかのようにひまりには近づけなかった。そしてその場から歪な感情が途端に空っぽになった。なぜかは分からない。感情を誰かに奪われたような気がした。何かを喪失していた。一方、男性はまだ改札を出られず重そうなスーツケースを引っ張りながらあたふたしているようだった。ひまりはそれに目もくれず、あくまで清水の方をじっと見つめているだけだった。その瞳は以前とは違い、二重で真ん丸としていて切れ長で細かったあの頃とは正反対だった。そんなひまりは既に改札を出て、まるでそこで清水と待ち合わせていたかのように瞬時に清水に目を合わせ、一時も逸らさなかった。手招きこそしないが、じっと立ち、清水とひまりは目が合ったまま一時停止されているかのようだった。そして何かを語りかけているような感じに見えた。それは、清水にしか聞こえない声だった。「私を本当に愛しているなら今この場で彼から奪って見せてよ」と。その表情は何ら動揺を見せず、やや口角が上がり、清水を挑発しているかのようですらあった。視線も全くブレない。本当にあの頃のバーで飲んだ別れ際に自分を見る眼差に思えた。清水の方が動揺して外したぐらいだ。顔のパーツだけを見るとまるで別人なのに、放つ表情があの頃と全く同じなのが清水の中で消化しきれなかった。清水は一旦冷静になり考えを巡らせた。顔は変えられるけど表情はなかなか変えられない。つまり、本人なのではないだろうか。そんなことを思いながらひまりの横を一旦通り過ぎると、後から何事もなかったように宿へと歩いていく2人の背中を目で追っていた。





私はあなたに恋をした。好きという感情を植え付けてくれた。でも出会った時と場所がふさわしくなかった。だからあなたを信じられずにいる。そして拒絶もした。でも、あなたが本当に私を愛してくれるなら一緒になりたい。今までいろんなことを試した。でも、いまだにあなたを信じられずにいる。あなたに愛されたいと強く思っているのに。





都心のマンションの一室。木目調の丸い小さなテーブルがリビング中央に置かれ、壁際にはベッドが備えつけられている。そして、窓際に置かれた加湿器から蒸気がモクモクと天井へと伸びている。彼女が手に持つスマートフォンの画面には幸悦した表情でベッドに横たわる上半身裸の男性の姿が映し出されていた。どうやら彼女の待ち受け画面のようである。そこに映る彼の名前は清水と言う。2年前まで彼女が勤めていたノンアルバーのお客さん。そこで彼から熱烈なアタックを受け、付き合う直前までいった。でもまだ彼を信用できずにいる内にお店が閉店になった。今働いている新しいお店には彼を1度も入れていない。なぜなら彼女にとって彼はもはやお客さまではないからだ。「やっぱり今働いているお店をいきなり出禁にすればさすがに嫌われたと思うか」彼女はふとため息を漏らしスマートフォンの画面に映し出されたGoogleマップを親指と人差し指で拡大した。丸い点が清水のいる場所。ゆっくりと都心を北上しているのが見てとれる。鉄道路線の上を。彼女はスターバックスで購入したコーヒーをひとくち口に含み、もうひとつの画面に表示されたメモ機能の左端に日付と鉄道の路線名を記録した。


「温泉に行っているのか」


心の中でそうつぶやいた。確か、温泉が好きって言っていたな。再度、スマホのメモ機能を表示させ、路線名の隣に日光湯元温泉と記録した。








午後5時過ぎの大浴場には人があまりおらず、彼女は無色透明のなめらかな湯に首元まで浸かりながらあれこれと考えを巡らせていた。バーでの仕事はしんどい。でもまだ続けている。温泉に浸かっている時ぐらいそんなことは考えたくなかった。43度ぐらいの温泉が彼女の身体をじわじわと温めていく。のぼせやすいからすぐに上がった。でもバーはすぐに上がれないんだよな。気づいた時にはのぼせて自分を見失っているのかもしれない。夕食後、「今日は女の子の日だから」と彼からのセックスを断った。頭の中では清水という男が常に付いて回っていた。マイナスの感情もプラスの感情も含めて。それは彼女自身でも消化しきれないものだった。彼女は部屋を出て、2階のフリーラウンジのイスに腰掛けた。聞いたことのない音楽が宿泊客の会話を遮らない程度に流れている。ラウンジは薄暗く、セルフでお茶やコーヒーが飲めるようになっている。彼女はスマートフォンを開き、カメラを起動した。清水が電車の座席に腰掛けてこちらを凝視している映像が映し出された。目こそ合わないが、どうやらスマートフォンを触っているようだ。何を見ているのだろうか。疲れた顔をしている。彼女は清水の真顔をぼんやりと眺めていた。毎日のように温泉に入っているからか、肌にくすみや吹き出物がない。ツルツルとしていて女性から嫉妬されそうなぐらいに綺麗だった。「今日の出来事、どう思ったかな」彼女は清水の嫉妬心をくすぐれたことに一応の満足を得た。








清水はなぜ彼女に出禁にされたのか、そしてあの時、遭遇した彼女らしい女性の正体が何なのか分からぬまま時間だけが経過するレールの上をくたびれた表情で歩いていた。そんな中、彼女が働いているバーの店長から突如、電話がかかってきたのは清水が会計士の資格を取るための予備校で開催予定の講演会のパワーポイント作成の最後の仕上げをしている時だった。「彼女は亡くなりました。骨を引き取ってほしい」と。「亡くなったんですか?」清水はやや動揺したが、それを承諾し、お店で彼女の骨を受け取り、指定された霊園へと車で向かった。清水はお供え物がある祭壇に手を合わせ礼をした。骨を置く場所には立ち入れないらしいから、その薄暗い扉の前で骨を託すと清水はすぐ近くにある墓地へと向かった。「今は薄くてほとんど見えませんが、時が経つほどに黒く深く鮮明になっていくんですよ」と住職さんが墓石に刻まれた「波崎いくの」という薄黒くてまだ浅い文字を見ながら言った。春にはまだ程遠い冷たい風が清水の肌を伝う。波崎いくのとは、言うまでもなくバーで「ひまり」と名乗っていた彼女の本名だ。なお、死因は分かっていない。脇腹の下あたりにリストカットしていたぐらいだからだいたい想像はつく。彼女が死ぬなんてあんまり思ってなかったが、特に驚きもしなかった。でも納骨を自分に託されたのは何か彼女なりの思いがあってのことだったのではと考えを巡らせた。でも明確な答えは見つからなかった。ただ、良くも悪くも自分はただのお客さんではなくなっていたのだと思った。清水は彼女の納骨を終え、久しぶりに温泉へと向かった。誰もいない湯船の中央に肩まで浸かり、じんわり身体が温まっていくのを肌で感じる。視界は湯けむりで真っ白だ。清水は会計士として働き、妻子を持っていた。それなりにストレスがあり、適度にストレスから解放される恵まれた生活だ。妻に納骨のことは言っていない。清水は思った。もしひまりと一緒になっていたらどうなっていただろうと。今の生活はなかったのではないか。これは仮定の話なので何とも言えないが、彼女とは結ばれなかったが故に湯治で癒える傷で済んだ部分もあるのではないかと湯口から湧き出る源泉を見ながら思った。








私はあなたに恋をした。好きという感情を植え付けてくれた。でも出会った時と場所がふさわしくなかった。だからあなたを信じられずにいた。そして拒絶もした。でも、あなたが本当に私を愛してくれるなら一緒になりたかった。今までいろんなことを試した。でも、あなたを信じられずにいた。あなたに愛されたいと強く思っていたのに。

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