第20回 牢獄
菜市口。京師内城の西側に位置する宣武門の外側、外城の広安門へ続く大通り上に位置し、文字通り野菜を商う店が密集していることからその名がついた。しかし、この地名をわざわざ口に出して言おうとする京師の住民は、ぼくの知る限りそう多くはない。皆「ちょっと西の市場に野菜を買いに行く」とか、そう言うぼかした言い方をする。
「(それも当たり前だろう。何しろ菜市口は、いや宣武門自体が、不吉で忌み嫌われる一つの代名詞なのだから)」
三階建ての巨大な城楼の下には、『後悔先に立たず』の意を示す一句が刻まれ、車が通り抜けた先に設けられた広場では、大清開闢以来多くの罪人の血が流された─単刀直入に言おう。宣武門外は菜市口、その名は『処刑場』の代名詞である。
ぼくの乗る車は見物人と客でごった返す市場の道路をゆるゆると抜けて、陶然亭を少し越えた辺りに位置する未決囚の監獄へと向かった。敷地には五城兵馬司や歩軍統領衙門が拘束した罪人が罪の軽重を問わず多数ぶち込まれているが、その一角に軍機処が管理する政治犯用の特別な牢獄が用意されているのだ。
「瀏親王殿下、お待ち致しておりました。しかし、殿下の様なお方が、この様な穢れた場所にお立ち入りになるなど……」
「気遣いは無用だ。これもお互い仕事ゆえ、気が進まぬことは早々と終わらせてしまうに限る。前置きはいい、まずは昨日の報告から聞かせてもらおうか」
牢獄の管理人は福々とした恰幅のいい中年の男であり、およそこの陰鬱な場所に相応しくないほどのお愛想を周囲に振り撒いていた。
というより、こんな奴が最低限一人いなければ、他の官庁との連絡が取れないのだろう。何しろ、囚人達の区画からそれなりに離れたこの管理棟にも、時折しなる鞭に皮を裂かれ、痛みに悶え苦しむ生々しい叫びが微かに聞こえてくるのだから。
「昨晩の尋問ですが、事件当夜ということもあり、そう多くのことは聞き出せておりません。精々が人定質問と言ったところでしょうか」
「それで構わない。あの男は結局、どこのなんと言う男なのだ?」
「はい。あの男は姓を陳、名を徳という庶民でございまして、京師の生まれです。歳は数えで四十七歳、前職は王という名の分限の家中で孟明という男の飯炊き係をしていたそうです。息子は二人あって兄が十五、弟が十三。妻は半年前に亡くなり、半身不随の義母のほか身寄りはないそうです」
「あながち無責任な立場というわけでもなさそうだな。前職というのはつまり、」
「はい。今は無職、というより浮浪人同然の暮らしをしていた様です」
どうぞこちらに、と呟いて管理人は懐からじゃらりと鍵束を取り出して、管理棟から渡り廊下で繋がれた地下牢への順路にぼくを案内する。
「ここに運ばれてきた時、彼はどんな状況だった?」
「意識は失っておりましたが、特に見た目には異常はありませんでした。体の傷も僅かでして、手足を縛って獄車に載せられた状態でこちらに」
「体の傷も僅か、ねえ」
いよいよもっておかしいぞ。あれだけの壮絶な袋叩きにあったならば、生きるか死ぬかの重傷を負っていたのは間違いない。それが、大した傷もなく獄舎に囚われたというのであれば、途中で明らかに異様な何かが起こったのだ。
「(傷が治る。これもあの山奥で見た光景だ。ぼくが刃を喰らわせた怪物の傷は、恐ろしい速さで塞がっていった)」
思い当たる節が無いわけではない。だが、やはりまだ結論は下せないのだ。陳徳という男がどんな人間なのかも、まだ分かっていないのに。
「其方の目から見て、陳徳とはどの様な男だ」
「ありふれた男です。到底、大逆の様な大それた罪を犯せるとは思いません」
「ありふれた男か」
「はい」
昔、司馬遷の『史記』の講義を受けたことがある。歴史の話は昔から好きで、珍しく熱心に聞いていたのだが、老師の話が例のくだりに及んだ時ぼくは言った。
「『風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還』というが、秦始皇を害そうと試みた荊軻という男は、そんなに大した男だったのだろうか。ぼくとしては、あの場で恐怖の余り震えてうずくまり、動かなかった秦舞陽こそ、高く評すべきだと思うが」
老師はあんぐりと口を開けて、
「殿下は独創的なお考えをお持ちだ」
と半ば負け惜しみの様に呟いていた。どうも納得のいかぬ反応だと内心気にしていたが、後になって司馬光が『資治通鑑』の中で荊軻を凡百の盗賊と論じたことを知って、密かに胸を張ったものだった。
「(優れた暗殺者というのは、果たして存在するのかね)」
地上から見ると粗末な小屋のようにしか見えないが、階段を降りると様相はがらりと変わる。ずしりと重い石を壁の代わりに積んだ強固な坑道にそって、ほぼ真っ暗闇に等しい独房が幾つも並んでいる。
「そう言えば、文字の獄の折にはここも使われたのか?」
「ええ。前任の管理者から聞いた話ですが、ここに入れられた文人の中には、早くて一週間もしないうちに気が狂ってしまう者も居たとか」
「分かる話だ。常に暗く音も聞こえない。たまに耳に届くものがあると思えば、それは虫や鼠が這い回る音であったり、どこかの推鞫部屋の悲鳴だからな」
実際、人間は五感のうち一つが欠落しただけでも尋常の生活に支障をきたす難儀な生き物だ。ましてや、視覚と聴覚という枢要な感覚を失えば、明瞭な意識や思考を保ち続けるのはそう簡単なことではあるまい。
「殿下、どうかなさいましたか」
「いや、そうだな。この地下牢は文人崩れどもを改悛させるには良い場所かも知れぬが、情報を引き出さねばならぬ相手を入れておくには良いところではないかも知れん。定期的に外に出して、日の光に当ててやるんだ」
「は、はぁ。畏まりました」
陳徳が捕えられているという牢獄は、地下の中でも特に奥まった場所にあり、周囲には不快な湿気と悪臭がむわむわと立ち込めていた。ぼくは半ば本能的に鼻を抑えたが、足元が不案内なせいでどこに何が転がっているかさえよく分からないのだ。
やがておぼつかぬ中で一歩を踏み出したとき、ぐにゃりと靴底に奇妙な柔らかいものが触れ、思わず体勢を崩してすっ転びそうになる。
「おっとと」
「大丈夫ですか、殿下」
「少し床に転がったものを踏んでしまったようだ。済まない」
「お気をつけを。鼠や大きな油虫がおりますから」
それを言ってくれるな、クソッタレ。幸いなことに、靴底に触れたものは暴れることもぎいぎいと嫌な鳴き声を上げることもしなかったので、どっちみち死んでいたのだろう。尤も、靴の裏がどうなっているかを見る勇気は無いのだが。
「陳徳!このろくでなし野郎、早く目を覚ませ!畏れ多くも親王殿下がおいでだぞ!」
管理人は蝋燭の灯りを前に差し出して錆びついた牢屋の鉄格子を照らしながら、懐から取り出した細い鉄の棒でがんがんとそれをぶっ叩いて大きな音を立てた。すると、それに応じて奥の部屋でもぞりと小さく動く気配があり、やがてこちらに粘つく様な視線がじっと向けられる。
「……へい、旦那様」
じゃらじゃらと鎖が揺れて、こちらへと這ってくる音。手足が共に拘束されている為に、そうするより他に無いのだ。やがて心許ない炎の下に、ゆっくりと人の顔が現れ出た。中途半端に結び目が残り、なんとも滑稽な状況でねじくれた弁髪に、一つごとに苦労を刻む様な濃い頬の皺。半分ほど潰れた鼻の頭には泥がこびりついていて、破れた唇の辺りを唯一自由になる舌で何度も舐めているのが痛ましかった。
「陳徳、これよりお前に推鞫を行う。楽にはならんぞ、尤も、貴様がしでかそうとしたことに比べればずっと温和であろうがな。ここに居られる親王殿下が、お直々に話を聞かれるのだ。無礼があればその場で指を落とすぞ」
「……」
「返事はどうした、この穀潰し!」
「へ、へい、よろしくお願いいたします」
正直なところ、牢屋越しに土を這い回るしかないこの哀れな男よりも、上べの温和さを投げ捨てて暴言を吐き散らす管理人の方に、ぼくは強い嫌悪感を抱いた。今すぐにでもこいつを牢屋の中に叩き込んで、排泄物とそれに群がる害虫や鼠の類とよろしくさせてやろうかという身もふたもない考えが浮かんだが、ぼくも仕事なら彼も仕事なのだ。歯を食いしばっても仕方がない。
「ぼくは先に戻る。四半刻後に推鞫を始められる様に、準備をしておけ」
「ははっ」
早くも地上の空気が恋しかった。そのままぼくは足の裏に不穏なものが触れるのにも構わず階段を駆け上がり、視界を真っ白に焼き尽くすくらいの日の光と、冷たい春の朝の空気を百年ぶりの甘露の様に堪能した。
服に薫き染めた伽羅の香りが辛うじて生きていることを確認すると、ぼくはそのまま推鞫用の部屋へと足を運ぶ。見るものが同じなら、明るい方が幾分かマシだ。そんな風に思って。
葬令 〜変人親王の最後の事件〜 津田薪太郎 @str0717
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