午前1時15分、誰かが私の代わりに息をしている

ソコニ

第1話 午前1時15分、誰かが私の代わりに息をしている


1

検査入院は三泊四日の予定だった。睡眠時無呼吸症候群の疑い。妻が言うには、私は夜中に何度も呼吸が止まるらしい。自覚症状はない。昼間の眠気もない。ただ、妻が心配するので、検査を受けることにした。

病室は個室で、ベッドの脇に睡眠ポリグラフの機械が置かれている。技師が来て、私の頭や胸にセンサーを貼り付けた。脳波、眼球運動、筋電図、心電図、胸部と腹部の呼吸運動、酸素飽和度。すべてを記録する。

「リラックスして、普段通りに眠ってください」

技師はそう言って退室した。消灯。私は眠った。

翌朝、担当医の顔色が悪かった。

「少し、お話があります」

診察室に呼ばれた。モニターには昨夜の記録が表示されている。波形のグラフがいくつも並んでいる。

「まず、結論から申し上げますと、無呼吸症候群の症状は見られませんでした」

「それは良かった」

「ただ……」医師は眉間に皺を寄せた。「記録に異常があります」

モニターを指差す。

「ここを見てください。就寝後、午前一時十五分から午前四時五十五分まで、三時間四十分の間、呼吸運動の記録がありません」

「呼吸していないということですか」

「センサーは胸部の動きを検知しています。この時間帯、胸郭が全く動いていない」

「でも、私は生きています」

「ええ。それが不可解なんです」

医師は別のグラフを指した。

「酸素飽和度は正常です。九十八パーセントを維持している。呼吸していないのに、血中の酸素濃度が下がっていない」

私は自分の胸に手を当てた。今も規則正しく上下している。

「機械の故障では」

「その可能性も考えました。ただ、他の数値は全て正常に記録されています。脳波、心電図、眼球運動。呼吸運動のセンサーだけが反応していない」

医師は別のファイルを開いた。

「もう一つ。病室には音声記録用のマイクが設置されています」

音声波形が表示された。

「あなたが呼吸していないとされる時間帯、マイクが別の呼吸音を拾っています」

スピーカーから音が流れた。静かで、規則正しい。私の呼吸音よりも深く、ゆっくりとしている。

「これは……」

「わかりません。ただ、あなたの呼吸音ではない」

医師は私を見た。

「今夜、別の機械でもう一度記録を取らせてください」

2

二日目の夜。センサーの位置を変え、予備の機械も用意された。

消灯。眠った。

翌朝、医師の表情がさらに硬い。

「同じ結果です」

モニターに表示された波形は、前夜と酷似していた。午前一時十五分から午前四時五十五分まで、呼吸運動がない。酸素飽和度は正常。そして、別の呼吸音。

「機械を変えても同じということは……」

「医学的には説明できません」医師は言った。「ですが、記録は記録です」

「誰も病室に入っていないんですか」

「ドアの開閉記録も、監視カメラの映像も、すべて確認しました。誰も入っていない」

医師は私を見つめた。

「何か、心当たりは?」

私は首を横に振った。

だが、その瞬間、古い記憶が浮かんだ。

プール。夏の日。水の中。

三歳の時、私は溺れた。

3

三日目の夜、私は眠れなかった。

センサーを付けられ、消灯された病室で、私は目を開けたままベッドに横たわっていた。

時計の針が午前一時を指す。

十五分。

胸に手を当てる。規則正しく上下している。

だが、突然、違和感があった。

自分の意志で、息を止めてみた。

胸が動いている。

息を止めているのに、胸が上下している。

肺に空気が入ってくる。だが、鼻も口も閉じている。

パニックになりそうになる。だが、苦しくない。酸素が足りないという感覚がない。

呼吸をしていないのに、呼吸している。

暗闇の中で、音が聞こえた。

呼吸音。

私のものではない。

部屋の隅から。いや、もっと近い。枕元。

誰かが、私のすぐそばで呼吸している。

目を凝らす。何も見えない。

だが、確かに存在する。気配。温度。わずかな空気の流れ。

私は声を出そうとした。だが、声が出ない。喉が動かない。

身体が麻痺している。

いや、違う。

身体が、私のものではなくなっている。

胸の上下運動は続いている。心臓も動いている。だが、それは私が動かしているのではない。

呼吸音が近づいてくる。

耳元で、囁くような声。

「ごめんなさい」

女の声。

「私、あなたの代わりに息をしているの」

突然、身体が戻ってきた。喉が動く。

「誰……」

「私は、あなたじゃない。でも、あなたの中にいる」

声が言う。

「昔、あなたが忘れた誰か」

私は記憶を辿った。

プールで溺れた日のこと。水の中で見た光。助けられた時の安堵。

そして、その後の恐怖。

呼吸が止まるかもしれないという恐怖。

「あの時から、私はあなたの中にいる」声が続ける。「あなたを守るために」

暗闇の中で、私は尋ねた。

「あなたは何だ」

「あなたの呼吸」

声が囁く。

「あなたが信じられなくなった、あなたの呼吸」

4

翌朝、医師に報告した。

「誰かの声が聞こえた」

「どんな声ですか」

「女の声です。私の代わりに呼吸していると」

医師は黙って記録を見た。

「音声記録を確認します」

モニターに昨夜の波形が表示された。午前一時十五分以降、規則正しい呼吸音。だが、会話の記録はない。

「声は記録されていません」

「脳波を見てください」医師は別のグラフを指した。「午前一時十五分以降、あなたは深い睡眠状態にあります。目覚めた記録はありません」

「私は目を開けていました」

「眼球運動の記録もありません」

医師は私を見た。

「夢を見ていた可能性が高い」

だが、私は確信していた。あれは夢ではない。

病室に戻り、ベッドに座る。

窓の外は曇り空。

部屋の空気が、わずかに重い。

誰かの気配が、まだ残っている。

私は枕元を見た。

そこに、髪の毛が一本落ちていた。

長い、黒い髪。

私の髪ではない。

私はそれを拾い上げた。指先で撫でる。

確かに、ここにある。

誰かが、ここにいた証拠。

5

検査は終わった。

医師は、最終日の記録を見せた。

「昨夜は、正常でした」

モニターの波形は、一晩中、規則正しい呼吸運動を示していた。

「前の二日間の記録は、おそらく一時的な睡眠障害が原因でしょう」医師は言った。「ストレスや不安が呼吸パターンに影響を与えることがあります」

私は退院した。

家に帰ると、妻が出迎えた。

「どうだった?」

「異常なし」

「良かった」

その夜、私は普段通りに眠った。

だが、夜中に目が覚めた。

時計を見る。午前一時十五分。

私は自分の呼吸を確認した。

止まっている。

胸が動いていない。

だが、苦しくない。

誰かが、代わりに呼吸している。

暗闇の中で、声が聞こえた。

「ただいま」

女の声。

「あなたは、まだ私を必要としている」

私は何も言えなかった。

「あなたは、呼吸を信じていない」声が続ける。「無意識に、呼吸が止まることを恐れている」

それは事実だった。

溺れた日から、私は呼吸を信じられなくなった。

眠っている間に止まるかもしれない。

その恐怖が、消えたことはなかった。

「だから、私がいる」

声が囁く。

「あなたが眠っている間、私があなたの代わりに息をする」

6

数週間が経った。

私は夜中に目覚めることに慣れた。午前一時十五分。規則正しく。

毎晩、声が聞こえる。

時には会話する。時には黙って聞いている。

声は、私の子供時代の記憶を語る。私が忘れた出来事を。

「あなたは、私に名前を付けないのね」

ある夜、声が言った。

「名前を付けたら、あなたは独立した存在になる」

「もう独立している。あなたが認めていないだけ」

私は考えた。

名前を付けるべきか。

だが、名前を付けることは、彼女を認めることだ。

私の中に、別の存在がいることを。

「名前はいらない」声が言った。「私は、ただあなたの呼吸でいい」

私は尋ねた。

「あなたは、いつまでここにいるんだ」

「あなたが呼吸を信じられるようになるまで」

「それは……」

「おそらく、死ぬまで」

声が笑った。

静かな、諦めたような笑い。

妻が言った。

「最近、夜中に独り言を言っているわよ」

「独り言?」

「ええ。誰かと話しているみたい」

私は何も答えなかった。

妻には、私が独り言を言っているように見える。

だが、私は確かに誰かと話している。

その境界が、どこにあるのか、私にはわからない。

7

ある夜、変化が起きた。

午前一時十五分、いつものように目が覚めた。

だが、声が聞こえない。

呼吸も止まっていない。

私は自分で呼吸している。

「どうしたんだ」

暗闇に問いかける。

返事がない。

私は焦った。

彼女がいない。

私の呼吸を守る存在が、消えた。

私は息を止めてみた。

苦しい。

本当に苦しい。

誰も代わりに呼吸してくれない。

私は自分で呼吸を再開した。

不安が募る。

彼女は、どこに行ったのか。

翌朝、妻が言った。

「昨夜、よく眠れた?」

「ああ」

「良かった。最近、独り言も減ったし」

その夜も、声は聞こえなかった。

そして、その次の夜も。

私は、一人で呼吸している。

彼女は、本当に消えたのか。

それとも、最初から存在しなかったのか。

私は、あの検査入院の記録を思い出した。

三時間四十分、呼吸が止まっていた記録。

あの呼吸音。

それは、本当に誰かの声だったのか。

私は引き出しから、あの髪の毛を取り出した。

ティッシュに包んだまま、大切に保管していた。

長い、黒い髪。

これが証拠だ。

彼女が存在した証拠。

だが、これが私自身の髪だったら。

すべてが私の妄想だったら。

私は髪の毛を、ティッシュごと燃やした。

8

それから数ヶ月が経った。

私は正常な生活を送っている。

夜中に目覚めることもない。

声も聞こえない。

妻は安心している。

「すっかり良くなったわね」

「ああ」

だが、私は時々、思う。

彼女は、本当に存在したのか。

それとも、私が作り出した幻だったのか。

ある雨の夜、私は窓の外を見ていた。

雨が降っている。

ガラスに映る自分の顔。

その胸が、規則正しく上下している。

だが、一瞬、リズムがずれた気がした。

半秒。

いや、もっと短いかもしれない。

だが、確かにずれた。

まるで、誰かが呼吸を引き継いだように。

私は胸に手を当てた。

規則正しく動いている。

自分の呼吸。

本当に、自分の呼吸なのか。

その夜、私は眠った。

そして、夜中、午前一時十五分に目が覚めた。

呼吸が止まっている。

だが、苦しくない。

誰かが、代わりに息をしている。

暗闇の中で、声が囁いた。

「おかえり」

女の声。

「ずっと、ここにいたわ」

私は微笑んだ。

「ただいま」

声が笑う。

「あなたは、私を手放せない」

「それは、あなたも同じだろう」

「ええ」

声が認める。

「私たちは、もう離れられない」

私は尋ねた。

「あなたは、どこにいたんだ」

「ずっと、ここに」

声が答える。

「あなたが気づかなかっただけ」

私は理解した。

彼女は消えていなかった。

ただ、私が彼女の存在を意識しなくなっただけだ。

呼吸と同じように。

意識しなくても、機能している。

「これから、どうなる」

私は尋ねた。

「わからない」

声が答える。

「でも、私はあなたと一緒にいる。あなたが呼吸する限り」

9

翌朝、妻が私を起こした。

「もう朝よ」

私は目を開けた。

胸が、規則正しく上下している。

呼吸している。

「昨夜、また独り言を言っていたわよ」

妻が言う。

「そう」

「でも、楽しそうだった」

妻は微笑んだ。

私は何も答えなかった。

その日、私は仕事に行った。

会議に出て、書類を書いて、同僚と話した。

普通の一日。

だが、時々、呼吸のリズムがずれる。

ほんの一瞬。

誰かが、引き継いでいる。

午後三時。会議室で、ふと気づいた。

呼吸が止まっている。

だが、誰も気づかない。

私も、苦しくない。

三秒。

五秒。

十秒。

誰かが、代わりに呼吸している。

そして、私に戻る。

同僚が言う。

「大丈夫? 顔色が悪いよ」

「いや、大丈夫」

私は答える。

だが、大丈夫ではないかもしれない。

彼女は、昼間も現れるようになった。

10

夜、妻が眠った後、私はリビングに座った。

時計を見る。午前一時十五分。

呼吸が止まる。

「いるんだろう」

私は暗闇に話しかけた。

「ええ」

声が答える。

「なぜ、昼間も現れるようになった」

「あなたが、私を必要としているから」

「昼間は必要ない」

「本当に?」

声が問う。

「あなたは、呼吸のたびに確認している。これは本当に自分の呼吸なのか、と」

それは事実だった。

私は、自分の呼吸を疑うようになっていた。

「あなたは、私なしでは呼吸できない」

声が言う。

「それは違う」

私は反論した。

「私は、自分で呼吸できる」

「試してみる?」

声が囁く。

「今から一時間、私は何もしない。あなた一人で呼吸してみて」

私は頷いた。

「わかった」

声が消えた。

気配が薄れる。

私は、自分で呼吸する。

意識的に。

吸って、吐いて。

吸って、吐いて。

だが、十分後、私は気づいた。

意識的に呼吸し続けることはできない。

いつか、無意識になる。

そして、無意識になった瞬間、呼吸は止まる。

なぜなら、私は呼吸を信じていないから。

三十分後、私は諦めた。

「戻ってきてくれ」

暗闇に懇願する。

「私には、あなたが必要だ」

声が戻ってきた。

「わかっている」

優しい声。

「だから、私はここにいる」

終章

それから、何年が経っただろう。

私は今も、夜中に目覚める。

午前一時十五分。

規則正しく。

声は、毎晩聞こえる。

時には会話する。時には黙っている。

妻は慣れた。

「また、独り言?」

笑いながら言う。

私も笑う。

独り言かもしれない。

だが、私にとっては、確かに誰かがいる。

呼吸を守る、誰かが。

ある夜、声が言った。

「あなたは、私を受け入れたのね」

「ああ」

私は答える。

「あなたは、私の一部だ」

「でも、別の存在」

「そう。でも、一緒にいる」

声が微笑む。

「これが、私たちの呼吸」

私は窓の外を見た。

静かな夜。

星が瞬いている。

私は深く息を吸った。

誰かと一緒に。

誰かの助けを借りて。

それは、弱さかもしれない。

だが、それが私だ。

呼吸を信じられない私。

だから、誰かが代わりに呼吸してくれる。

それは呪いか、祝福か。

わからない。

ただ、確かなことが一つある。

私は、一人ではない。

呼吸のたびに、誰かがそばにいる。

午前一時十五分、私は目覚める。

呼吸が止まる。

そして、誰かが引き継ぐ。

静かに、優しく。

これが、私たちの時間。

呼吸の時差。

永遠に続く、二人の呼吸。

(了)

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