下の巻 犯人は人間ですわ!
テラスの外には、白い足跡が続いていた。
けれど、その先は十歩ほどで、ふっと消えている。
まるで空へと溶けていったかのようだった。
その時、下働き風の男が慌てて部屋へ駆け込んできた。
「雪女だ……雪女が、旦那様を連れて行ったんだ!」
桐子夫人は蒼ざめ、祈るように胸の前で手を組む。
やがて息を整え、皆に男を紹介した。
「弥助、落ち着いて。皆さま、こちらは西園寺家で長く奉公している弥助です」
部屋は完全な密室だった。
外は吹雪。扉の鍵は壊れておらず、窓も内側から閉ざされていた。
そのガラスには、指で書かれたような跡があった。
《ヨウコヲカエセ》
「……ヨウコ?」
小田切記者が低くつぶやく。「まさか、亡くなった令嬢の名前では……」
その言葉で、私はあるものに気づいた。
暖炉の上の写真立て。そこに写る幼い少女の笑顔。
雪原で遊ぶその子の写真には、こう書かれていた。
――
胸の奥を冷たいものが走った。
私は桐子夫人の顔を見た。白粉の下の肌が青ざめている。
「……三年前の冬でした」
夫人の声が震えた。
「あの子は、雪の夜に……吹雪の中で姿を消したのです。誰も助けに行けませんでした」
「なぜ?」と、私は問う。
夫人は視線を落とし、細い声で答えた。
「涼馬さんが、初めての商談をしており、『書類が舞い上がるからドアを開けてはならぬ』と命じられていました」
弥助が続ける。
「お嬢様が雪を見たくて扉を開けたんです。その日も旦那様は不在で、涼馬さまが当主としてお客様をお迎えしておられました。
外に出たお嬢様を叱りつけ、入ってくるなとおっしゃった。使用人は誰も逆らえず……商談が終わるのをただ待つしかありませんでした。
やっと扉が開かれたときには、お嬢様の姿は、もうどこにも……」
小田切が言う。
「つまり、今日の雪女はその娘の霊というわけだ」
皆が静かにうなずいた。
――違う。
私は首を振った。
「雪女など、信じてはいません。けれど、誰かが信じさせようとしている……それこそが恐ろしいのです」
私は床にしゃがみ、足跡を調べた。
「この足跡、深さがすべて同じなのです。変だと思いませんか?」
「え?」
「歩けば重さで違いが出るはず。つまり、これは押し型で作られたものです」
小田切が息をのむ。
「では、犯人は――」
わたしは息を吸い込んだ。
そして、自分の考えを述べた。
「桐子夫人です」
夫人は目を閉じ、椅子に崩れるように腰を下ろした。
「違います……私は、ただ……あの子を探したかったのです」
彼女の震える声が、暖炉の火に吸い込まれていった。
「三年前、吹雪の夜、涼馬さんが扉を閉めた。
私は見ていることしかできませんでした。
だからせめて、今夜だけでも……あの子を家に帰してやりたかったのです」
沈黙が落ちる。
誰も言葉を発せなかった。
そのとき、外の風がぴたりと止んだ。
空気が澄み、窓の外――梅の枝に、白い布がひとひら結ばれているのが見えた。
「誰が……」
夫人がつぶやく。
その夜、私たちはご遺体のある部屋で夜を明かした。
桐子夫人のすすり泣きと、弥助の「奥さま、どうかお力を落とされませぬように」という声を聞きながら。
翌朝、警察が到着した。
私は事件の経緯を語り、夫人は静かに連れられていった。
小田切が肩をすくめる。
「探偵のつもりですか、朝霧さん」
私はトンボ眼鏡を押し上げて微笑んだ。
「いいえ。ただの洋裁師ですの。糸口を見つけるのが、少し得意なだけです」
これがわたし・大正ハイカラ娘と新聞記者小田切が関わった初めての事件だった。
エピローグ 雪のあと
春の横浜。
港の風が柔らかく、潮の香りが街を包む。
汽笛がボーッと響く。
あの夜の雪はとうに溶け、坂道には白い花が咲いていた。
私は洋品店の帰り道、ふと足を止めた。
丘の上に見える洋館――今は空き家となっている。
その窓の奥に、ほんの一瞬、灯りが揺れたように思えた。
まさか、ね。
微笑んで歩き出す。
けれど、雪解け水の残る石畳に、小さな足跡が一つ。
生きていれば七歳。
洋子ちゃんは、もしかしたらあの夜、どこかに連れ去られたのかもしれない。もしそうなら、今はどこかで幸せに暮らしているといい。
この広い横浜のどこかに――
自分の名を忘れた少女が、春の光の中で笑っているのかもしれない。
終わり
犯人は雪女ですわ~横浜大正ハイカラ娘の探偵事件簿 さとちゃんペッ! @aikohohoho
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