こいのぼりを食べる

相良平一

こいのぼりを食べる

 うっすらと目を開けると、雨に濡れた四角い硝子の向こうに、細長い不動前駅のホームが見えた。

 金曜日の、朝六時前。目黒線の六両目はひどく閑散としていた。中途半端に顔を出した太陽の光が、毛布のように降りかかっている。

 本来ならば学校があるはずの日である。だが、いつもよりも二時間ほど早く家を出ているのは、学校に行くためではなかった。

 エアコンが効いていないのか、車内の空気はじっとりと重かった。二十数度の熱エネルギーが、私にはそう感じられた。

 私は長椅子の一番端で、鈍く冷たい手摺に寄りかかっていた。

 自動ドアの上のランプが、少しオレンジ色が混じった赤色に点灯する。

 運転手が気だるげに予告した通りに、とうとう誰もくぐらないまま扉が閉まった。


 モーターが駆動し、横向きの慣性が生まれる。手の中にあった感触が消え、私は慌てて虚空をまさぐった。数瞬遅れて、ばたん、という音。

 それで完全に目が覚めた。珍しい早起きで、襲い来る睡魔に耐え切れず、ステンレスの冷たさに凭れてうつらうつらしていたのだ。私は、羞恥を誤魔化しながら、上半身を乗り出して、傘を拾った。

 誕生日祝いに親戚から貰った、黒い蝙蝠傘だ。拾い上げる時に、慌てて布の部分を掴んでしまったので、掌は梅雨明け間近の雨に濡れた。

 近くには誰もいないのだから、冷静に考えれば、恥じ入る必要は全く無かった。傘の把手を、膝に載せた鞄の取手に引っ掛けて、私は落ち着いた。一度溜息を吐いてしまうと、下から浸潤する微かな振動が、折角去ってくれた睡魔を、お節介にも再び手招きしてくる。

 不織布の下で大きく欠伸をした瞬間、電光掲示板が点灯した。

 武蔵小山のホームの対岸に、電車の姿はなかった。降りる駅はまだ先だ。今のうちに意識を手放してしまった方が、寧ろ寝過ごす確率の低下に繋がるかも知れない。免罪符とともに、私は睡魔に白旗を上げようとした、その時。

 扉が閉まるギリギリに、私の右隣を人が通り抜けた。電車に乗ってきた少女は、灰色のスカートを揺らして、私の向かいに上品に座った。

 年の頃は、私と同じ位だろうか。だが、見たこともないような端正な顔立ちだ。切れ長の瞳に、形の整った鼻。制服の左肩に、濡羽色のポニーテールがかかっている。

左手には、パステルカラーの傘。荷物はそれだけだ。雰囲気にどことなく、現実味が無い。まるで、少女漫画の中から飛び出したかのようだった。

 こんな時間に、何をしに電車に乗ったのだろう、とは思ったが、ホームが見えなくなった頃には、既に私は彼女への興味を失くしていた。こんな時間に電車に乗っているのは自分も同じだ、と思いながら、私は再び、ぬるま湯のような心地よい微睡の中に戻ろうとする。

「ねえ、君。」

 声が聞こえた。目を開いてみると、少女の端正な顔が少し近付いていた。

「ねえ、君。」

 一言一句変わらぬ声に、私は、この呼びかけが、自分に向けられたものだと気付いた。少し考えれば、一度目で分かる事だったのだ。私と彼女以外に、乗客はいないのだから。

 理解し終えて、私は、まず困惑した。というのも、私は少女に見覚えがない。自慢ではないが、私は物覚えがいい方だ。交流があったのなら、間違いなく名前が分かる。ましてやこのような美少女、一度見たら忘れようもない。だというのに、声まで聞いても、私には、この美少女が誰なのか、まるで分からなかった。

「何でしょうか。」

 だから、私にはこう返すのが精一杯だった。もし、彼女が旧友の一人だったりしたら。そう思うと、名前を尋ねる事など、到底出来なかった。また私の中には、もし知り合いだったなら、今は難しくともすぐに思い出せるという、楽観的な確信があった。

「隣、座ってもいい?」

 そう問うと、彼女は私の答えを待たずに、すたすたとこちらに歩み寄った。やはり、彼女は私の知り合いなのだ。そうでなければ、彼女はとんでもない変人である。

 宣言通り私の隣に座ると、彼女は、大きく膨らんだ、私の鞄に目を向けた。

「どこか、旅行にでも行くの?」

「あ、はい。」

 私は、ポケットのパスケースを押さえた。新幹線のチケットが入ったそれが、何故か急に重く感じた。

「そっかぁ。どこに行くの?」

「ちょっと、神戸の方まで。一週間、母の実家に帰省するんです。」

「へえ、いいなぁ。」

 そう言うと、彼女は窓の外に顔を向けた。横顔をじろじろと眺めるのは失礼だと思ったので、私もそれに倣う。だがそれで見えるのは、トンネルと、一定間隔おきに置かれた灯りだけ。甚だつまらない。

 彼女は私を羨んだが、実はこれは、祖父の葬儀に出席するための旅行なのである。そんな事情は、わざわざ彼女に話すものではないと思い、私はそれを敢えて口にはしなかった。

「私はね、何も決まってないの。この電車をどこで降りるのか。降りた後、別の電車に乗り換えるのか。そもそもどこに向かっているのか。私はまだ、何も決めてない。」

 聞こえてきたのは、先程とは打って変わって、絞り出したような揺らぎ声だった。それが如何にも儚げで、私は声をかけるべきなのかどうか困惑した。


 結局、声はかけない事にした。周りに人はいない。よって六両目は静寂を取り戻した。相変わらず、私と彼女だけを乗せながら、電車は西小山を去った。

「こいのぼり。」

 鼓膜が静寂に耐えかねてきた頃、少女は唐突に呟いた。

「鯉幟?」

「そう。食べた事ある?」

 あるわけないだろう。この女は正気なのか。反射的に駆け巡ったその思考が、この口から漏れ出ていやしないか発作的に不安になった。

 彼女の顔色を窺うが、そこにショックの気配はなかったので、私はひとまず安心した。

「ない、です。」

 本物の鯉なら、一回食べた事がある。そう付け加えると、彼女はその整った唇を微かに歪めた。

「ない、よね。……私はね、あるんだ、一度だけ。まだ、保育園の時にね。とても不味くて、すぐに吐き出しちゃった。」

 賢明な判断だ。そう、言えばいいのだろうか。反応に困り、私は押し黙った。何のために、そんな話をしたのだろう。意図を掴みかねる。彼女も車窓に目を戻した。単調な走行音に、しかしもう睡魔が招かれる事は無かった。

 電車は洗足を過ぎ、再び地下に潜った。


 彼女は、大岡山では降りなかった。大井町線には乗らないようだ。この奇妙な相乗りは、どこまで続くのだろうか。

「ごめんね。」

「ん?」

 少女は、頭を下げなかった。

「君とは初対面なのに、こんな変な話しちゃって。」

「……大丈夫ですよ。」

 初対面だったのか。道理で、見覚えのない訳だ。という事は、彼女は超弩級の変人か。先程まで感じていた申し訳なさは、儚くも灰燼に帰した。

「私さ、今家出中なの。」

 道端に蒲公英を見つけた、とでも言うかのように、彼女は言った。一瞬、何を言っているのか分からなかった。

「……喧嘩?」

 思わず口にして、そうした後、すぐに私は後悔した。こういった内容は、初対面の人間が、ずけずけと踏み入っていい話ではない。

「いや、そういう訳じゃないんだけど。本当に優しい両親で、私のやりたい事は、大体応援してくれた。私の、自慢の親だった。でも、気付いちゃったんだ。あの人達が愛情を注ぐ先は、ずっと私じゃなかった。『自分たちの子供』っていう、肩書に過ぎなかったんだって。」

 幸いにも彼女は、私の非礼に対してそれを咎めたり、気分を害したりといった素振りを見せなかった。だがその言葉は、とても私が容易く茶々を入れられるような重みをしていなかった。

 電車は、田園調布に着いた。向かいのホームには、東横線の茶色の車両がある。

 彼女は、それに一瞥もくれず、私の方へ向き直った。

「でも一度、家からいなくなっちゃったら、あの人達は、ちゃんと『私』を見てくれるかも知れない。それとも……、」

 その先は、何となく分かった。

「まあ、それでもいい。とにかく私は、家出中なんだよね。人生初。あの人達が眠っている間に、こっそり家を抜け出したの。それで、家から出来るだけ遠くまで歩いて、見つからないように、この目黒線に乗った。」

 足がパンパンになっちゃった、と彼女は足を伸ばした。その、新しい漆喰のように白い脹脛が露わになる。私は、見てはならない物を見てしまったような気がして、慌てて目を背けた。

「それで、」

「ん?」

 私が声をかけると、彼女は意外そうに目を瞬かせる。

「俺に話しかけたのは、何で?」

 彼女は、唇を尖らせて上を向いた。真剣に考え込む事でもないのに、と言おうとしたが、穏当な表現が見つからない。

「そうだね。私、ちょっと不安だったの。初めて家出して、初めて、この電車に乗って、……それで、同じ車両に君がいたの。年も近そうだったし、君だったら、私の事を話しても、トラブルが起こらなそうだった。何より……」

 長考の末、そう言って彼女は窓の外を見た。多摩川の上を、電車は横切っていく。今、私達は東京を抜け出した。そう思うと、何故か奇妙な感慨に襲われた。

「何より、そう。君なら、誰でもない私の話を聞いてくれそうだったから。何となくそう思ったの。」

 言語化を終えた後、彼女は、天井に貼られた路線図を見ようと首を伸ばした。一生懸命に目を眇めていたが、如何やらよく見えなかったものと見えて、彼女は傘を椅子に立て掛けて立ち上がった。


 電車は新丸子を過ぎた。そのホームにも人はおらず、私と彼女だけが共有する奇妙な閉鎖空間は破られなかった。

「ねえ、君。」

 路線図を見終わると、彼女は再び、私の隣へいそいそと戻ってきた。

「私、次で降りる事にした。」

「そう。」

 それきり、彼女も私も、並んで、通り過ぎるビルの群れを眺めた。

 無言でいる彼女の胸中に何が去来しているのか、私には察しようがない。

 だが、私については克明に描写できる。その時私は、思い悩んでいた。

 ここで彼女を下ろしてしまうか、それとも、呼び止めてまだ話を続けるか、である。

 彼女は、本当なら、ただ一瞬だけ、私の傍を通り過ぎるだけの赤の他人だ。だから、ここは何も言わず、無味乾燥に別れるべきなのだ。いや、『別れ』という言葉を使うことすら不適当かも知れない。呼び止めよう、などと考える資格は、私には無いのだ。

 ここで降りるというのは彼女の決めたことだし、呼び止めてしまえば、無駄な時間か電車賃を彼女に消費させてしまうことになる。そもそも、呼び止めようという理由だって、私の当て擦りか妄想に近いものだった。

 呼び止めない理由はいくらでも見つかって、翻って呼び止める正当な理由は存在しなかった。だが。

「これで、父さんも母さんも、私が私だって、分かってくれるかな。」

 そんな、か細い独り言を聞いてしまったら、もう他人として無視する事など、私には出来なかった。もしこの考えが当たっていたら――。そしてそれは、悪いことに当たっているような気がした。

「仲直り、出来るといいね。俺、無責任な、ただの通りすがりだけど。」

 そう言うと、彼女は微かに潤んだ瞳を上げた。そして、唇を動かそうとする。

「次は、武蔵小杉です。」

 彼女の口は半開きで止まった。誰の声かも分からぬその録音を、少し恨めしく思う。そのまま口を閉じて、彼女は傘を片手に、扉の前に直立する。

「ありがとう。話を聞いてくれて。」

「ああ。最後に、俺から一つ忠告、してもいいかな。全くの的外れなら、恥ずかしいんだけど。」

「何?」

 扉が開いた。彼女は、それをちらと確認してから、顔だけを再び、こちらに向けた。

「自殺するつもりなら、止めた方がいい。例え死んだところで、君は君にはなれないよ。」


 それが当たっているかどうかは確証が持てず、その言葉を吐くのに私は、かなりの量の自制心を自ら削ることを求められた。だが、私の仮説は如何やら正しかったらしい。彼女は目を溢れんばかりに見開き、少し後ろによろけた。

「何で……、分かったの……?」

 発車メロディーが鳴り始めた。彼女は、はじかれたように振り返る。降りてしまうのだろう。名前も知らない彼女が、私の人生に再び現れる事は、多分もうない。これが、正常な形なのだろう。

 それでも、気が付くと、私は彼女の手首を掴んでいた。どうやら、私も変人仲間だったらしい、と自嘲する。

 こんなにも細いのか、と驚いているうちに、扉は閉まった。武蔵小杉の駅看板が、ゆっくりと過ぎ去っていく。

「何で、って聞いたよね。それは君が、制服を着ているからだ。」

「制服?」

 彼女は、スカートの裾をつまんだ。その動揺に、気分を害したか、と思い、私は慌てて手首を離した。

「うん。最初から、ちょっとおかしいと思っていたんだ。土曜日の、こんな時間から学校があるものなのか、って。君から事情を聞く前は、部活の朝練なのかな、って思っていた。でも、君の話を聞いて、変だな、と思ったんだ。」

 滔々と述べながら、何を得意げに語っているんだ、と、私は苦々しく思った。だが、ここまで話してしまった以上、もう最後までいくしかあるまい。そう考えた瞬間、電車が止まった。


 まだ、駅には着いていない筈だが。そう辺りを見回すと、運転手からのアナウンスが入った。曰く、大雨の影響で、ダイヤに乱れが生じているらしい。新幹線には間に合うだろうか、と不安になる。

「それで、何が変だったの?」

 そうだった。まだ、話は途中だ。

「君は、この電車に乗った理由について、見つからないように、と言ったよね。だったら、制服を着ているのは変だ。今はまだいいけど、学校の始まる時間になったら、制服を着てはいるのに荷物は傘一本で、どこで降りるともなくふらふらとしている君は、間違いなく怪しまれるだろう。だから少なくとも、俺だったら家出するのに制服は着ない。私服なら、何着か持っていけば、服装を目印に探される事も避けられるし、余った服は着回せば、日によって印象をばらけさせる事も出来る。でも、君は鞄すら持っていない。」

 彼女は、握っている傘を見やった。

「君が、制服だけしか持ち出せなかった、というのは考えにくい。君の家出の理由は、虐待ではないそうだからね。つまり、君が制服を着ているのには、他に理由がある筈なんだ。それで、俺が最初に思いついた理由が、見つかった時に、どこの誰なのか一目で分かるようにする為、だった。」

「本当に、全部分かってるんだ。」

 彼女の、琥珀のような目は、伏せられてもう見えなかった。出来の悪いジョークを延々と聞かされているような感情を抱きながら、私は続ける。

「つまり、君は自殺を考えた。君は荷物を持っていないから、手段としては、飛び降りか飛び込みか、まあ、そんな所だろう。何でかは分からないけど、君は自殺の場所に、家の近くは選ばなかった。でも、家から遠く離れた所で死んでしまったら、今度は、自分の身元が中々分からない、なんて事になりかねない。そうなると、君の親にも、君の死が伝わらないかも知れない訳だ。でも、君の死体が制服を着ていたら、警察は君の学校に向かう。そして、君が行方不明になっている事が分かり、死体の身元は確実に確定する。」

 彼女は、私の向かいに座って拍手した。

「凄いね、全部お見通しだ。」

「当てずっぽうみたいなものだけどね。」

 私は、恥ずかしさに耐え切れず、目をそらした。得意げに語ったこの推理に、根拠は何一つ無い。他の可能性を捨てきれた訳でもない。当たったからいいものの、というレベルの話を、しかもこんな不躾な話を、本人に向かって口にしてしまった浅はかさ。穴を掘って埋まりたい気分だ。

「方法まで当てられるなんて。私、飛び降り自殺をしようと思っていたんだ。それが、一番思い切りよく出来そうだったし、電車に飛び込むのは、色んな人に迷惑がかかるしね。家の周りには、高い場所が無かったし、折角だから最後に、ちょっとした冒険をしようと思ったの。」

 夕飯は親子丼よりオムライスがいい、というかのように、彼女は言った。ただ、もう彼女の顔に、笑みは張り付いていなかった。

「生徒証を持って来るのではなく、制服を着ていくという迂遠な方法を採ったのは、地面に叩き付けられた拍子に、体から離れてしまうかも知れない、と思ったから?」

 私がそう聞くと、彼女は道に迷ったように押し黙った。

「電車が発車します。ダイヤが乱れており、大変ご迷惑をおかけしております。」

 彼女と私は、同時に電光掲示板を見、そして目を見合わせた。


 元住吉に着いたのは、予定よりも十分以上後の事だった。雨は大地に等しく、ただ厳然と降り続いていた。人生最後の日には、あまり似つかわしくない天気だ。

「まあ、それも、あるんだけど。」

 彼女は、突然にそう言った。それ、というのが何を指すのか、私は理解に手間取る。その間に、彼女は続けた。

「美登、っていうのが、私の名前なの。戸籍にも、生徒証にもそう書いてある。」

 扉が閉まる。六両目に、今も人は二人だけだ。

「この名前は、今の両親がつけてくれたの。私は、生まれてすぐに養子に出されたらしくて、彼らは私の、本当の両親じゃない。だけど、本物の娘みたいに、愛情を注いでくれている、って思っていたの。小学校の頃は、それでからかわれたりもしたけど。私だから、自分が養子だって事、気にした事は一度もなかった。」

 徐々に声は掠れ、彼女は目を伏せた。

「無理はしなくていい。俺が言うのもなんだけど、言いたくない事なんて、いくらでもある筈だ。」

「ううん、大丈夫。……この前、私は見ちゃったの。家を掃除している時に、父さんの、昔の日記を。父さん、私が生まれたばかり、つまり私が、今の家に引き取られた頃の話、全然してくれなかったから。それで、私が生まれた年の日記を読んでみた。そこには……」

 彼女は言葉を切り、深呼吸をした。しゃくり上げる泣き声の、間に挟まれる息継ぎに似ていた。

「母さんのお腹が、大きくなっていく様子が書かれていたの。でも、そんなのおかしい。だって、父さんと母さんの間に、血のつながった子供はいない筈だから。でも、日記の中の赤ちゃんは、どんどん成長していった。女の子だ、って事も分かって、生まれたらあれがしたい、これがしたい、って、至る所に書いてあったの。でも、出産間近の時に、母さんは事故に遭った。」

 日吉駅を目の前にして、電車は再び止まった。前方の列車との距離を調整する為、という事らしい。駅ビルの影が、遠くに煙っていた。

「そこで日記は途切れていたから、あの人達がどう思ったのかは、私には分からない。でも、探したら、記録は残っていたんだ。母さんの方は大丈夫だったけど、赤ちゃんは、結局死んでしまったんだって。私の名前、美登っていうのはね、本当は、生まれてくる筈だった、あの人達の実の子供の名前だったの。」

 雨よりも、少し比重の大きな水滴が、床に零れ落ちた。

「私、外ではいつも一人きりで、家の中だけが、安心できる場所だった。扉を開けて、『お帰り、美登』って声が聞こえるのが、たまらなく嬉しかった。内気な私を、事あるごとに何処かへ連れ出してくれるの、感謝してた。だけどあの人達にとって、私の家は、想い出は、ただの、私を使った人形遊びに過ぎなかったの。」

 涙声と、震える唇の裏に、自分すらも突き放したような冷たさが見え隠れして、私は絶句した。

「生徒証を持ってこなかったのはね、私が死に装束に、制服を選んだのはね、自分の名前を、見たくなかったからなの。」


 言い切ると、彼女は、肩で息をしながら俯いた。睫毛の上で、雫が照明を取り込んで、はらはらと光を散乱させている。

 綺麗だ、と思った。それ以上に、それが失われるのは、嫌だと思った。

 私は、懸命に言葉を選びながら、恐る恐る口を開いた。

「それだったら、なおのこと君は死ぬべきじゃない。」

「何で?」と聞き返す彼女。

「君が死んだら、確かに君の両親は、今までの事を悔いるかも知れない。でも、それで終わりだ。ご両親が、本当の君と向き合う機会は永遠に失われる。君が望むのは、そんな状態じゃない筈だろう。」

 彼女は、数秒俯いた後、首を緩やかに振った。

「私、鯉幟を口に入れた事がある、って言ったでしょ。義務感で出すだけ出しておいて、あの人達は、鯉幟を揚げた事が一度もないの。多分、あの人達と私、本当の意味で家族だった事は無いのかも知れない。だから私は、家族に期待なんてしていない。」

「そこだよ。」

 私は、彼女の言葉を遮った。吐き出されたそれが、彼女自身の気管を突き刺しているように見えたから。

「ご両親、本当に君の事を、死んだ娘の代わりとしか思っていなかったのかな。」

「どういう事……?」

 声の弾性率を上げながら、彼女は泣き腫らした目で私を睨んだ。

「だって君は、自分が義理の娘だ、って、知っていたじゃないか。本当に、君が身代わりとしてしか育てられていないのなら、この情報は君に伏せられている筈だろう? つまり、君の両親は」

「やめて!」

 突然、大声が響いた。もっと遅い時間帯だったら、確実に何人かのお𠮟りを受けていただろう。乗客がいなかったのは、彼女にとっても救いだった、かも知れない。

「さっきから、全部見透かしたみたいな事言わないでよ! 大体私、君の名前すら知らないのよ。そんな赤の他人に、私の何が分かるの!」

 全くその通りである。常識的に考えて、私には、彼女について、とやかく言う資格はない。だが、今は常識的に振る舞う気分ではなかった。

「ごめん、偉そうに言い過ぎた。君には、俺なんかに引き留められる謂れはないって、ちゃんと分かっている。」

「だったら、何で私の事に、そこまで首を突っ込もうとするの。正義感?」

 彼女の声の調子は、幾分か収まったようだった。心臓にも涙腺にも、おまけに私の精神にも、そちらの方が優しい

「そんな訳ない。自慢じゃないが、俺は気弱で無気力な一般男子高校生だ。」

 張り詰めた沈黙に割り込んで、電車は日吉駅の、まだ眠りの中にいるホームに停車した。

雨の音から隔離されて、声が聞こえやすくなるのがありがたかった。

「君を呼び止めたのは、ただ、君の事が気になったからだ。さっきも言ったけど、僕は君の事を何も知らない。どこに住んでいるのかも、どういう家族なのかも、そもそも、名字だって。だから、知りたいんだ。好きなものとか、嫌いな事とか、性格とか、色々。」

 私が、自らの言葉の恥ずかしさに耐えかねて思わず彼女の目から視線を背けると、美登の唇がわなないたのが見えた。扉の音にかき消され、何が発せられたのかは分からなかった。

「何?」

「……君は、私の事、知りたい、の?」

「ああ、うん。きっと俺だけじゃない。誰の子供でもない君を見ている人、多分、結構いると思うけど。」

「そんな事ない、そんな……。」

 そう否定する彼女の顔には、さっきより、紫がかった憂いの色は薄かった。

 今の、手の届く顔の方が美しく思える、等という告白紛いの台詞が脳裏に浮かび、私はそれを慌てて振り払った。変質者にも程がある。

 彼女は、再び私の隣に座った。少し赤く充血した眼が、鮮明に見て取れた。

 新横浜まで、あと二駅しかない。先程までとは打って変わって、順調に進み始めた電車を憎みながら、私はらしくないなと自嘲した。

 切り出すべき言葉が、何処かに置き忘れられたまま、新綱島の真新しい電光掲示板が車窓を通り過ぎた。

「時間が足りないな。」

 二分近く待って、ようやく紡ぎ出されたそれは、もしかしたら武蔵小杉の辺りから、ずっと思っていた事だった。

「時間?」

「聞きたい事は結構多いし、君だって、いくつか疑問を抱えていると思う。どうして大阪に行くのに、東京駅じゃなくて新横浜なんだ、とか。」

「まずは名前でしょ……。」

 彼女の呆れ声を聞くのは、当然初めての事だった。

「それはそう、だけど。まあそんなことは置いておいて。俺はあと一駅で降りるし、じゃあ神戸について来て、なんて君に迷惑だ。だから、今度また会った時に、色々話して欲しい。せめてそれまで、死ぬのは延期。約束、してもらってもいいかな。」

 肩を震わせながら、二、三度頷く彼女を見て、私は安堵した。話を無視して降りていかない時点で、彼女が私に悪感情を抱いている訳ではないとは分かっていたが、断られたら、多分気絶していた。

 いつの間にか、まだ人に慣れていないホームの姿は、車窓から消えていた。アナウンス音声が、私の旅のチェックポイントを告げる。まだ出立もしていないのに、私はもう寂寥感を感じていた。

 荷物を手早く掴み、私は扉の前に立った。ⅠⅭカードの残高は大丈夫だったか。取り出して見ると、こちらを覗き込む彼女の目線を感じた。

「あの、連絡先、交換しないの?」

 そう問いかける彼女の声は、か細く、その上ビブラートがかかっていた。それは、それなり以上に魅力的な誘いではあったが。

 では、とスマホを取り出す事など、終ぞ出来ないまま、扉は開かれてしまった。

 また会うまでと約束はしたが、再会など有り得ないだろう。私はまだ名前すら名乗っていないのだ。だがそれでいい。私と彼女の間には、関わり合いなどないのが自然なのだ。

 随分と英雄気取りの行動をしてしまったな、と思いながら、「じゃあ、また」と言い残す。一歩足を進めるだけで、簡単に我々の空間は分かたれた。

 彼女は、すぐに吐き出してしまった、と言っていたけれど。

 熟れていない蜜柑のような、口にのぼるこいの味を、私は終生吐き出せないだろう。


 エスカレーターまで歩いて、ふと振り返ると、さっきまで乗っていた青い鉄の箱は、もうどこかへと走り去っていた。

 

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