特記事項の多い民泊

小境震え

特記事項の多い民泊

■■県内 熊による食害事故現場に居合わせた男性の手記


※A氏(22歳/仮名/2025年 ■■県■■村 食害事故生存者)

※ご本人の記述を校正したものです。一部漢字表記、誤字脱字等を修正しておりますが、内容に変更は加えられていません。



事件は、ニュースで見た人も多いと思います。

八月、■■県の山奥の河川敷で、若い男性の遺体が見つかったというやつです。

“熊による食害”と報道されました。

遺体のすべては見つからず、テントと焚火の跡があって、僕はその場にいたもう一人として、最初に警察に通報した人間です。


警察の人も救急隊の人も、熊にやられたということを誰も疑っていませんでした。

でも、熊なんかじゃありませんでした。

誰に話しても「ショックで見間違えたんだ」と言われます。

そう言われるたびに、自分の記憶のほうが間違っている気がしてきます。

でも、あれが夢や幻だったとは、どうしても思えないんです。


そもそも、僕らテントなんて張っていません。

僕らは、ある宿に泊まってたんです。



高校のときからの友だちでフリーター仲間のB(仮名)と、日本中フラフラと期間を決めない貧乏旅行に出かけました。

ある日、そろそろちょっとゆっくり寝たいね、ということで意見が一致しました。

それでスマホで探してるうちに、異常に安い掘り出し物の“民泊”を見つけました。


ちなみに、その時のサイトやメールや撮っておいたスクショはすべてなくなってしまっていて…。

ただ、その時にあまりにも書いてあることが変なので、スクショだけじゃなくてテキストもコピペしてメモ帳に保存しておいたんですが、それだけは残っています。




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宿泊施設:


■■■■|一泊1000円/自然豊かな静謐の宿


■■県西南部・山間の静かな集落に佇む一軒家。

風にそよぐ木々、川音、野鳥の声に包まれながら、日々の喧騒から離れた時間をお過ごしください。


一泊何名様でも1000円均一

和室8畳4部屋+土間あり

風呂/水洗トイレ/簡易キッチン/冷暖房完備/家具付き

Wifi完備 ※スマホ・携帯 圏外です。電波繋がりません

朝夕の地元食材を活かした手作り二食付き(無料)

チェックイン 15:00〜(非対面)/チェックアウト 10:00まで(非対面)

駐車場2台分あり/近隣に商店なし

■■駅(最寄り駅)より公営バスで約40分、バス停より徒歩15分(送迎なし)


【特記事項】

本施設では、宿泊の安全と秩序を保つため、お部屋にございます宿泊案内書の指示を遵守いただける方のみ、滞在をお受けしております。

必ず予約前に以下ご確認ください。


▼基本遵守事項

・「宿泊案内書」に記された全ての指示に従ってください。

・指示を遵守いただけない場合は即時退去いただきます。

・設備利用時も手順通りの操作が必要です。

・十八歳未満の方、女性の方、五十代以上の男性はご宿泊いただけません。

・食事には地元で採れた山菜・肉類を使用しております。お酒、ソフトドリンクのご用意もございます。その他の飲食物のお持ち込みは固くお断りしております。

・朝夕の食事はご用意したものを必ず完食していただきます。

・到着後には必ず沐浴を行い、身を清めてください。

・滞在中は蛇口より出る湯は決して飲まないでください。

・外出は原則自由ですが、日没後の外出はお控えください。

・夜間は非常に静かな環境です。音楽機器の使用、通話等はご遠慮願います。


▼備考

・スマートフォン/携帯電話は圏外です。Wifiを使用可能です。

・ご連絡は備え付けの電話機をご利用ください。

・本施設は古い建物を活用しており、一部に音鳴りや冷気の強い箇所がございます。ご了承ください。

・深夜1時〜3時頃に特に家鳴りや物音がすることがありますが、古い木造家屋の構造上の原因ですのでご安心ください。

・その他、お部屋にございます「宿泊案内書」に当宿利用時の“御作法”詳細が記載されておりますので、必ずお守り下さい。


ルールをきちんとお守りいただける方のご予約を、心よりお待ちしております。


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二人で泊まって、一泊二食付千円。

写真は古びた平屋の古びた民家が一枚だけ。

レビューは★1が3件のみで、どれもコメントなし。

あの特記事項の多さからして尋常ではないことはわかりますし、普通なら避けるべきだと誰でも思うでしょう。

でもその時の僕たちは、「ネタとして最高だろ」くらいの感覚でした。なにより安すぎるというのが最大の魅力でした。


もう本当に、なんて馬鹿だったんだろうと後悔しかありません。

直感には従うべきだとつくづく思い知りました。もう遅いですが…。



その宿は、地図にもろくに載ってませんでした。

バスを降りてから限界集落を抜けて細い林道に入って少し歩き、木々の切れ間を抜けたところに、それはありました。


家の前に、なぜか鳥居みたいな木の門が建ってたんです。

縄と紙垂がかかっていて、まるで神社の入り口みたいでした。

それだけがやけに新しく、家自体は、壁も土間も古びていて、空気がしんと冷たかったです。


玄関出入り口の上には注連縄が下がっていました。

「なんだよこれ」

とか言って写真を撮りました。それも消えてしまったんですけど。

非対面チェックインで、SMSで午前中に届いた番号を玄関横のタブレットに入力すると「カチッ」と音を立てて鍵が開きました。

中は見た目に寄らず掃除が行き届いていて、埃もほとんどなかったです。


そして玄関の土間の横の棚の上には香炉があり、そして黒いA4用ファイルに「ご宿泊の皆さまへ」というラベルシールが貼られた宿泊案内のファイルが置かれていました。



その中身はA4のコピー用紙に必要最低限といった感じで記載されていました。

比較的まともなのは文体だけで、内容がおかしいんです。

予約サイトにあのような特記事項を書く宿主ですから、それはそうなのかもしれませんが。

数えたら40項目以上ありました。

印刷されていたり、手書きによる書き足しがあったり、毛筆で書かれたページがあったりと様々でした。


これも、内容がかなり不気味だったのでスマホで撮影した画像データからテキスト化したものをメモ帳に保存していました。


画像データは削除した記憶もないのにまったく見つからないですが、やはりそのテキストデータだけは残っています。


内容は以下のようなものです。




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【ご宿泊の皆さまへ】


―■■■■管理組合より―


このたびは本施設をご利用いただき誠にありがとうございます。

本施設では、安全で快適にお過ごしいただくため、下記の“御作法”を必ずお守りください。

すべてお読みになり、同意のうえご宿泊くださいますようお願い申し上げます。


【ご案内】

以下は、土地の風習に基づく「御作法」でございます。

少々煩わしく思われるかもしれませんが、これらを守ることで安全で快適に過ごせます。

必ずお守り下さい。


・本施設は旧い木造家屋を再利用した一棟貸切でございます。


・十八歳未満の方、女性の方、五十代以上の男性はご宿泊いただけません。固く禁じられております。


・室内、敷地内は線香以外の火気厳禁、禁煙です。


・本施設は■■山の神域内でございますので、木々や石を動かさぬようお願いいたします。


・施設内では羽虫や鼠を含め一切の殺生は禁じられております。お控えください。


・お連れさまと会話をする際は、敬語をお使いください。失礼な言葉づかいは控えてください。


・お荷物は、必要なもの以外はすべて土間に備え付けのボックス内に収納し、必ず施錠してください。


・到着後は、まず沐浴を行い身体を清めてください。

湯に浸かる前に三度、湯面に息を吹きかけ、「けがれを流します」と唱えてください。


・風呂は■■山の霊水を使用しております。湯温が安定しない場合がありますが、異常ではございません。


・滞在中は蛇口より出る湯は決して飲まないでください。水道水は1分以上流してから使用してください。流す間は何も話さないようお願いいたします。


・髪の毛はすべて乾かしてください。濡れたままですと寄りつきやすくなります。


・ご滞在中、勝手口・裏戸の開閉はお控えください。


・床下点検口を一度だけ開け、何も見ずに静かに閉めてください。中は決して覗かないでください。


・テレビは■HK教育(■テレ)のみ視聴可能です。他のチャンネルには合わせないでください。また22時以降は電源を抜いてください。


・お夕飯は食卓にご用意してありますので、お召し上がりください。


・温めには電子レンジや炊事場設備をお使いください。


・本施設備え付け、及びお持ちの包丁・ナイフ類は、夜までに必ず研ぎ、刃を清めてから炊事場のまな板に並べて置いてください。

※食事に使用しなくとも必ず行ってください


・食事は必ず残さず完食してください。食べ残しは厳禁です。


・食後、食器は流しに置かず、夕飯が配膳してありました食卓の中央に重ねて置いてください。


・冷蔵庫内の食材、山菜、野菜、果物、味噌などご自由にお召し上がりください。ただし、白い包みには触れないでください(※使用不可)。


・御神酒、お茶のご用意もございます。その他の飲食物のお持ち込みはご遠慮ください。特に動物性食品の持ち込みは固くご遠慮願います。


・夜間は野生動物の侵入防止のため、窓を施錠し、灯を落としてお休みください。


・ゴミはお帰りの際、玄関脇の木箱へまとめてください。


・外出は原則自由ですが、日没後の外出はお控えください。なお、外出の際は必ず玄関の香炉に線香を一本立ててください。


・夜間の騒音・大声は迷惑となりますのでお控えください。音楽機器の使用、通話等についてもご遠慮願います。


・お手洗いをご使用後は必ずしっかりと手を清め、「けがれを流します」と唱えてください。


・洗面の際は、鏡に三度お辞儀をしてください。決して覗き込まないようにしてください。


・日暮れ以降、外から名を呼ぶ声がしても、返事はしないでください。“ご挨拶”に来られただけです。※里の者ではありません。


・21時を過ぎたら、建物内のすべての照明を一度落とし、再び点けてください。灯が戻らない部屋には、明朝まで入らないでください。


・22時以降、刃物に触れてはいけません。


・22時半頃、土間から室内を向き、胸の前で手を合わせて以下の文言を声を出して静かに唱えてください。音読されても構いません。

「よはまれびとのくれいとあらわれいでこのにえみぐぶす。

ねがわくばかくりよのかしわでにてどんのうしたまえ。

きょうこうきんげん」


・押入れの奥に紙人形がありますが、移動・撮影・言及は厳禁です。


・寝具を敷く前に、布団の中央に掌を置き、「これにあり」と一度だけ声を出してから整えてください。


・就寝は1部屋にはおひとりづつお願いいたします。1部屋に2名以上での就寝は固くお断りしております。


・23時以降はすべての襖を閉めてください。隣室との仕切りの襖は明朝まで開けてはなりません。


・寝る前に、包丁を研いだときの布を枕元に置いてください。それが“印”となり、貴方が此方の客であると伝わります。


・自慰行為は推奨されております。就寝前までにお済ませ下さい。お済の際、自分の名前を一度だけ口にしてください。


・日付が変わるまでには必ずお休みください。


・布団に入ったら、三度深呼吸し、もういちど次の文言を声を出して静かに唱えてください。

「よはまれびとのくれいとあらわれいでこのにえみぐぶす。

ねがわくばかくりよのかしわでにてどんのうしたまえ。

きょうこうきんげん」


・もしも、その最中に、誰かが布団の端を持ち上げたとしても、布団が戻るまで決して目を開けないでください。


・午前二時から四時の間に、台所で音がしても無視してください。“どんのう”の時刻です。参加の必要はございません。


・以降、音がしても絶対に起き上がらないでください。目も開けてはいけません。隣室との仕切りの襖は明朝まで開けてはなりません。


【追記】

以上の御作法を守られますと、■■山のご加護により、商売繁盛 家内安全 無病息災がもたらされます。

御作法を怠った場合は責任を負いかねますので、必ずお守り下さいませ。


深いご縁の結びを心よりお祈り申し上げます。


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僕らはあまりの特記事項の多さと内容に、読み終えたBは眉をひそめて「ここマジで泊まる⋯?」と真剣なトーンで言ってきました。

僕はもう一度笑って「お前、ビビりすぎだろ」とさらに無理矢理、軽い感じで流しました。

実際、もうバスもないし、選択肢は野宿かここに泊まるかの2択だったのです。


もちろんかなり様子がおかしいとは思いましたし、ゾッとした部分もありましたが、自分はその時でも、そんなのひとつも守らなくなっていい、誰かが見ているわけでもない、ひと晩寝られればいいだけ、くらいに思っていました。


が、Bはいつものキャラに似合わず臆病なところもあって、怖さで覚悟を決めたのか、その後は本気でした。

ちゃんと手順をチェックしながら、逐一確認して、荷物を指示通り仕分けて収納して施錠したり、鏡の前でお辞儀したり、風呂でも作法に則って「けがれを流します」と言ってる声が聞こえました。


僕はそれをからかって、そして自分ではほとんどやりませんでした。


結果論かもしれませんが、今思えば、あれはやらなかった自分が正解だったのではないかと、Bは真に受けてやったのが良くなかったんじゃないかという気もしています。



そんなわけで、一応指示に従って荷物のほとんどをガレージボックスに収め、到着早々、早めの風呂に入り、そのあとはすぐに食事を始めました。

この金額で出てくる夕飯、かなり怪しんでいましたが、怪しい料理や食材は見当たらず、込々1000円とはとても信じられない量と新鮮な食材の夕飯が配膳されていました。

よほどこの山奥に若い男に来てほしいのか、明らかに採算度外視。

動物性の食べ物は禁止と書いてあったはずなのに、ふつうに肉や刺し身もあって、やっぱり結構適当じゃないか、などと思ったりもしました。


僕らは久々のしっかりしたご飯にありつけるというので、かなりいい食べっぷりだったと思います。

なので、「必ず完食すること」という決まりはなんとか守れました。さすがに相当に満腹になりましたが、それ相応の量はありました。

高そうな地酒まで冷蔵庫に用意されていたので、それを飲みながらBとこの宿についてああでもないこうでもないと談笑していました。

夜八時ごろだったと思います。

酔って気が大きくなって、僕は一服しちゃおう、と煙草を取り出しました。旅の間は時々紙の煙草を買っていました。

Bはちょっと嫌そうでしたが、だいじょうぶだいじょうぶ、となだめて火を点けようとした瞬間でした。

いきなり固定電話が鳴りました。

電話は「管理人直通」と書かれていて、昔の固定電話なのですが、ボタンやダイヤルはまったくなく、受話器を外すと自動的に繋がるようなタイプです。

僕が恐る恐る受話器を取ると、出るなりドスの効いた太い低い男の声でこう言ったんです。


「⋯おめぇら、ちゃんとやんねーと、ぶっ殺すがら。見でるがらな」


ぞっとしました。

相手は名乗らず、一方的に切れました。

Bが「誰?」と聞きました。

僕は「イタズラだろ」と笑ったけど、内心は全然笑えませんでした。

そして、部屋を見回すと、エアコンの上、壁掛け時計の脇、照明の陰…

他にもあるかもしれませんが、少なくとも五つ、小さな赤い光が点滅していました。

監視カメラ。

あれを見つけた瞬間、背中が冷たくなりました。


「出よう」と小声でBが言いました。

僕も同意しました。こんな宿なら抜け出してテント泊でもしたほうがマシです。

酔いも吹っ飛び、笑う余裕はすっかりなくなっていました。


なのですが、テントを含めた荷物を入れたガレージボックスが開かない。

設定した番号にしても鍵が開かず、しかもかなり頑丈な作りでびくともしませんでした。

今思えば、あれは最初から荷物を取り出せなくするための仕掛けだったのではないか、と思います。

でも、その時僕たちは本当に番号を設定ミスでもしたのだと考えていました。


予約サイトにあった通り、スマホの電波はありません。

さっきの男に繋がると思うと備え付け電話で連絡をするという選択肢も選べません。

Wifiはあるにはありましたが信じられないくらい遅く、ほぼないのと同じで、とても使い物になりませんでした。


その夜は、諦めて泊まるしかなくなったんです。



そこからは、僕もBと同様、案内書の内容に沿って行動するようにしました。

ふたりとも、その内容に関する相談など、必要なことだけ小声で会話するだけでした。気まずいとかではなく必死でした。

家は夏にも関わらず、夜が更けるにつれて空調がいらないほど空気が冷たくなり、そしてそれが気にならないほど得体のしれない雰囲気が色濃くなっていました。


重苦しい雰囲気の中、もう暗黙の了解で、今日はもう一刻も早く、指示だけこなして寝てしまおうとしていました。

案内書の意味不明な文言を唱えたり、あの電話以降は、すべて“御作法”通りに手順を進めて、ふたりとも別々の部屋で寝ることにしました。


たぶんBもそうだったと思いますが、明日どうするか、荷物は取り返せるか、人里に戻ったら交番でどう警察に伝えるかと言うようなことを考えながら、それでもいつの間にか寝ていました。



目が覚めました。

スマホを見ると、午前三時少し前。

天井の梁がミシミシと鳴っていました。

そして、それがBが寝ている隣の部屋を中心に家鳴りしていることがなんとなくわかりました。女の人の喘ぎ声が聞こえていたんです。


「ん…あん、あん、あっ」


と同時に、ぱん、ぱん、ぱん…と小さいですが肉と肉がぶつかるような音もしていました。

驚きました。


寝惚けも覚めて、思わず息を殺してBが寝ている部屋の襖に耳をつけてそばだてました。


「いや…あん、んっ 、あん」

ぐちゅぐちゅという水っぽい音と、激しい息遣いも聞こえました。

ぱん、ぺし、ぱん、ぺし…


確かにBはかなり男前で、昔から女には困らず、今でもフリーターにしてはかなりモテました。


いやでも女なんてこんな場所のこんな真夜中に、どこから連れ込んだ?


「あっ、んっ 、あん、ん」

ぱん、ぺし、ぱん、ぺし…

ハァ、ハァ…

ぐちゃぐちゃ…


ていうか、女は宿泊禁止って最初に書いてあったのに、こんな派手にヤって、カメラで見られたらマジで殺されてあの電話の男にそこら辺りに埋められるぞ!?

と、ほんの数瞬の思考の結果、最後は少し怒りに似た感情に辿り着き、


「うぅ」


というBの声が聞こえた瞬間、気づいたら、襖を開けていました。 “朝まで襖を開けるな”と書いてあったのを忘れて。

「おいB、おまえなにやってんだよ!」




暗い部屋の中。

土と鉄が腐ったような臭いが充満していました。

…布団に、Bが仰向けに横たわっていました。

その上に、跨るように、何かが覆いかぶさっていました。

長いボサボサの髪。骨ばった身体。薄汚れた着物。異様に高い背丈。

顔は見えなかったけど、これは人間じゃない、この世のものではないってことだけは、見た瞬間に直感的にわかりました。


そいつは…Bにまるで騎乗位のように跨り、身体を揺らし、ミシミシと部屋を揺らしながら、キスでもするように…Bの首元を貪っていました。


ぐちゅぐちゅぐちゃぐちゃという水っぽい音はその咀嚼音でした。


そして、右手に、あれはおそらく僕らが寝る前に研いでおいた刃物を持って、それでBの顔を叩いていたんです。


ぱん、ぺし、ぱん、ぺし…


暗くてBの表情もわかりません。

でも、Bはもう抵抗する力がないようでした。

何かを言おうとしているのでしょうか、「ゔぅ」とか、ごぽごぽと声にならない声のようなものを時折、発するだけでした。

布団を中心に、暗い中でも赤黒い染みが広がっているのがわかりました。


そのボサボサの髪の何者かは、その間も脈絡もなくずっと咀嚼音の合間に、ハァ、ハァいいながら、喘ぎ声のような声を出していたんです。


「あっ、あん、んっ 、あん、いや…あん」


絶え間なくそう呟きながら、“それ”は、ほとんど動かなくなったBの血みどろの首元からゆっくり顔を離し、こちらを向きました。

暗い部屋の中、ボサボサ髪の間から、異様に大きい口が開かれたのがわかりました。

そいつは笑ったのかもしれません。

ただただ怖ろしかったです。あんなものは見たことがありませんでした。

茶色く汚ならしい歯が、その口元が、赤黒い鮮血で染まり、血が滴り落ちる様がなぜかはっきりと見え、その口が動きました。


「……みたな」


濁った、異様に不快な声で、そう言いました。

その間、僕はまったく身動きが取れなくなっていました。

理解がまったく追いつかなかったんです。

「え」

という声が出たのが精いっぱいだったと思います。

襖を開けたポーズのまま、心も身体もフリーズしてしまっていました。

股間が温かかったので、失禁していたかもしれません。わかりません。

ボサボサの髪の何者かが、こちらに来ようとしている意思が伝わってきて、もうお終いだと思いました。


その時です。

天井裏から動物が走る足音がしたかと思うと、天井板が外れ、大きな狸が三匹、飛び降りてきました。

毛は逆立ち、目が赤く光っていました。

でも、怖くはなかったです。

そのとき僕は、彼らが「逃げろ」と言っているように感じたんです。

狸たちは裏口から裏山の方へ駆け出し、それを切っ掛けに金縛りが解けたように感じて、僕も無我夢中でそれを追いました。

裏山の坂道を転がるように下り、何度も転び、枝で顔を切りました。裏口にあった古い長靴をちゃんと持っていった自分のへんな冷静さに助けられました。あれがなかったら足がズタボロだったでしょう。

必死に走りながら、わけもわからず涙が溢れました。

途中から記憶が飛んでいます。

気づいたとき、朝でした。

それから丸一日、山中をただただまっすぐに進みました。こういう時はとにかくまっすぐ進むようにというのを、登山中にBに聞いたことがあった気がしたからです。

そして、あまりにも衝撃的な場面がフラッシュバックして、恐くて恐くてそのたびに何度も吐きました。


後ろから何かに追われているようで、ふたたび迎えた夜は気が気ではありませんでした。

岩陰に隠れて、疲れ切っていたはずなのに、怖くて怖くて殆ど一睡もできませんでした。Bはどうなったんだろう。

あれはなにか悪夢のようなもので、もしかしたらBは今頃僕を探してくれているかもしれない。ウトウトしながら、そんな夢想もしました。


翌日。 舗装路に出て、1日ぶりの人工物に安心してしばらく倒れてしまいました。

喉が焼けるように痛く、全身泥まみれでした。

それからどうにか人里までたどり着き、交番に助けを求めたのは宿を飛び出した夜の翌々日の昼過ぎでした。



警察が行ったとき、僕が逃げた宿では何も見つからなかったそうです。

というか、ボロボロになったただの廃屋の一軒家があっただけだと言われました。

そして、少し離れた河原で、喰い荒らされた凄惨なBの遺体が発見されました。

僕とBのテントが2つ並べて張られ、荷物があり、焚き火の跡があり、“熊による食害の可能性が高い”とされました。


でも、僕らテントなんて張っていません。

僕らは、宿に泊まってたんです。

なのに、報道では「二人は河原で野営していた」とされました。

ニュースを見るたびに、混乱しました。


何度も警察に「宿に泊まっていた」と言いました。

でも、「そのような施設は存在しない」と言われました。

宿泊予約サイトも消えていて、ログもメールもスクショもSMSもなにも残っていないので、そう思われても仕方がありませんが…。


ここに掲載したテキストの宿泊案内なども含めて、僕の話は全部、混乱した被害者の妄言として処理されました。

「ショックによる記憶の歪み、改変」「PTSDによる錯覚」

そう説明されて、精神科を紹介されました。



これを読んでも、誰も信じないと思います。

自分が聞かされても信じないでしょう、こんな話。


でももし信じてくれた人がいたら。

どこかでその宿を見つけても、絶対に泊まらないでください。

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